ホセア書 10:1-4
イスラエルは実を結ぶ茂ったぶどうの木である。その実を多く結ぶにしたがって、祭壇を増し、その地の豊かなるにしたがって、柱の像を麗しくした。 彼らの心は偽りである。今、彼らはその罪を負わなければならない。主はその祭壇をこわし、その柱の像を砕かれる。 今、彼らは言う、「われわれは主を恐れないので、われわれには王がない。王はわれわれのために何をなしえようか」と。 彼らはむなしき言葉をいだし、偽りの誓いをもって契約を結ぶ。それゆえ、さばきは畑のうねの毒草のように現れる。
ホセアの時代、北イスラエル王国は空前の経済的発展を遂げました。しかし彼らは、それはバアルがもたらした豊かさ、自分たちの力で勝ち取った成果だと勘違いし、祝福をもたらすまことの神を否定し、むしろ自分たちの願望を叶えてくれる(と期待する)偶像を建てては金銀で飾りたてました。また本来、王は人を導くリーダーとして神様が立てた権威でしたが、彼らは自分たちが好き勝手に選んだ王を立ててはクーデターの連続で、ヤラベアム2世の後の政権は長続きしませんでした。それでも彼らは、自分たちには王は不必要だと開き直り、王を介して神の権威の下に服従することを拒みました。絶好調の時には有頂天になり、風向きが変わるとき自ら反省することなく、何でも自分の思い通りにならないと周囲のせいにして逆ギレする構図は、今も昔も変わらない人の罪によるものです。まことの神を畏れ真理を追い求める私たちは、決してそのような愚かな真似をしてはなりません。
http://bible.com/81/hos.10.1-4.ja1955
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ホセア書 10:5-8
サマリヤの住民は、ベテアベンの子牛のためにおののき、その民はこれがために嘆き、その偶像に仕える祭司たちは、その栄光のうせたるがために泣き悲しむ。 その子牛はアッスリヤに携えられ、礼物として大王にささげられ、エフライムは恥をうけ、イスラエルはおのれの偶像を恥じる。 サマリヤの王は、水のおもての木切れのように滅ぼされる。 イスラエルの罪であるアベンの高き所も滅び、いばらとあざみがその祭壇の上にはえ茂る。その時彼らは山に向かって、「われわれをおおえ」と言い、丘に向かって「われわれの上に倒れよ」と言う。
ベテアベンとは、元は「神の家」という意味を持つベテルを指し、かつてイスラエル12部族の父祖ヤコブが、まことの神と出会った場所を記念した聖なる地でした。にもかかわらず北イスラエル王国初代の王ヤラベアム1世は、その場所とダンに金の子牛を置き、偶像礼拝を推奨しました。そのためベテルは「アベン」すなわち偶像の家となり、人々に祝福ではなく災いをもたらす場となりました。人の手によって造られた金の子牛はアッシリヤに持ち去られ、繁栄した国は没落して滅ぼされ、いつかは消え去る過去の栄光を思い出しては嘆き悲しむようになりました。己が力に頼み、まことの神を畏れない者の最期は、虚しい結末が待ち受けています。
http://bible.com/81/hos.10.5-8.ja1955
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ホセア書 10:9-11
イスラエルよ、あなたはギベアの日からこのかた罪を犯した。彼らはその所に立っていた。戦いはギベアにおる彼らに及ばないであろうか。 わたしは来てよこしまな民を攻め、これを懲らしめる。彼らがその二つの罪のために懲らしめられるとき、もろもろの民は集まって彼らを攻める。 エフライムはならされた若い雌牛であって、穀物を踏むことを好む。わたしはその麗しい首を惜しんだ。しかし、わたしはエフライムにくびきをかける。ユダは耕し、ヤコブは自分のために、まぐわをひかねばならない。
ギベアの日とは、罪を犯したベニヤミン族が仲間をかばうために、罪を取り除こうとする他のイスラエル11部族と戦った日のことを指します。自らの罪を認めず、その罪を取り除いてきよめられることを拒み、むしろ罪に同調して神の義と真っ向から対立する姿は、人の罪の末恐ろしさを物語っています。神様は、再三罪を指摘されても悔い改めて主に立ち帰ることを拒み続けた北イスラエル王国を「よこしまな民」として攻め、懲らしめると断罪されました。それでも神様は、イスラエルを滅ぼし尽くすことはなさらず「その麗しい首を惜しんだ」と、ユダの統治によって生き延びさせようとしました。それはやがてダビデの子として生まれたキリストの「わたしのくびきは負いやすく」という御言葉につながるのです。人の罪はいかに深くとも、悔い改めて主に立ち帰る者は、キリストのくびきを負うことにより永遠のいのちを受けることができますから感謝いたします。
http://bible.com/81/hos.10.9-11.ja1955
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ホセア書 10:12-15
あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である。主は来て救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる。 あなたがたは悪を耕し、不義を刈りおさめ、偽りの実を食べた。これはあなたがたが自分の戦車を頼み、勇士の多いことを頼んだためである。 それゆえ、あなたがたの民の中にいくさの騒ぎが起り、シャルマンが戦いの日にベテ・アルベルを打ち破ったように、あなたがたの城はことごとく打ち破られる。母らはその子らと共に打ち砕かれた。 イスラエルの家よ、あなたがたの大いなる悪のゆえに、このように、あなたがたにも行われ、イスラエルの王は、あらしの中に全く滅ぼされる。
人は自ら蒔いた種をやがて刈り取らなければなりません。不義を蒔けば裁きを、義を蒔けば豊かな平安の実を刈り取るようになります。今は主を求めるとき、頑なな心を耕して神様の恵みの雨を十分に吸収するときです。この今というときに義の種を蒔かないと、たちまちの内に種まきの季節は過ぎ、雑草が生えてきて心を覆い尽くし、良い実ではなく偽りの実を収穫するときが望みます。自らの軍事力と偶像に寄り頼み、悔い改めの機会を逃した北イスラエル王国は、アッシリヤによって城はことごとく撃ち破られ、母親が子どもと共に八つ裂きにされて殺されるという、実に惨たらしい結末を迎えることになりました。罪のもたらす結果は死であるという戒めを、私たちは軽く受け止めてはなりません。
http://bible.com/81/hos.10.12-15.ja1955
イスラエルは実を結ぶ茂ったぶどうの木である。その実を多く結ぶにしたがって、祭壇を増し、その地の豊かなるにしたがって、柱の像を麗しくした。 彼らの心は偽りである。今、彼らはその罪を負わなければならない。主はその祭壇をこわし、その柱の像を砕かれる。 今、彼らは言う、「われわれは主を恐れないので、われわれには王がない。王はわれわれのために何をなしえようか」と。 彼らはむなしき言葉をいだし、偽りの誓いをもって契約を結ぶ。それゆえ、さばきは畑のうねの毒草のように現れる。
ホセアの時代、北イスラエル王国は空前の経済的発展を遂げました。しかし彼らは、それはバアルがもたらした豊かさ、自分たちの力で勝ち取った成果だと勘違いし、祝福をもたらすまことの神を否定し、むしろ自分たちの願望を叶えてくれる(と期待する)偶像を建てては金銀で飾りたてました。また本来、王は人を導くリーダーとして神様が立てた権威でしたが、彼らは自分たちが好き勝手に選んだ王を立ててはクーデターの連続で、ヤラベアム2世の後の政権は長続きしませんでした。それでも彼らは、自分たちには王は不必要だと開き直り、王を介して神の権威の下に服従することを拒みました。絶好調の時には有頂天になり、風向きが変わるとき自ら反省することなく、何でも自分の思い通りにならないと周囲のせいにして逆ギレする構図は、今も昔も変わらない人の罪によるものです。まことの神を畏れ真理を追い求める私たちは、決してそのような愚かな真似をしてはなりません。
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ホセア書 10:5-8
サマリヤの住民は、ベテアベンの子牛のためにおののき、その民はこれがために嘆き、その偶像に仕える祭司たちは、その栄光のうせたるがために泣き悲しむ。 その子牛はアッスリヤに携えられ、礼物として大王にささげられ、エフライムは恥をうけ、イスラエルはおのれの偶像を恥じる。 サマリヤの王は、水のおもての木切れのように滅ぼされる。 イスラエルの罪であるアベンの高き所も滅び、いばらとあざみがその祭壇の上にはえ茂る。その時彼らは山に向かって、「われわれをおおえ」と言い、丘に向かって「われわれの上に倒れよ」と言う。
ベテアベンとは、元は「神の家」という意味を持つベテルを指し、かつてイスラエル12部族の父祖ヤコブが、まことの神と出会った場所を記念した聖なる地でした。にもかかわらず北イスラエル王国初代の王ヤラベアム1世は、その場所とダンに金の子牛を置き、偶像礼拝を推奨しました。そのためベテルは「アベン」すなわち偶像の家となり、人々に祝福ではなく災いをもたらす場となりました。人の手によって造られた金の子牛はアッシリヤに持ち去られ、繁栄した国は没落して滅ぼされ、いつかは消え去る過去の栄光を思い出しては嘆き悲しむようになりました。己が力に頼み、まことの神を畏れない者の最期は、虚しい結末が待ち受けています。
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ホセア書 10:9-11
イスラエルよ、あなたはギベアの日からこのかた罪を犯した。彼らはその所に立っていた。戦いはギベアにおる彼らに及ばないであろうか。 わたしは来てよこしまな民を攻め、これを懲らしめる。彼らがその二つの罪のために懲らしめられるとき、もろもろの民は集まって彼らを攻める。 エフライムはならされた若い雌牛であって、穀物を踏むことを好む。わたしはその麗しい首を惜しんだ。しかし、わたしはエフライムにくびきをかける。ユダは耕し、ヤコブは自分のために、まぐわをひかねばならない。
ギベアの日とは、罪を犯したベニヤミン族が仲間をかばうために、罪を取り除こうとする他のイスラエル11部族と戦った日のことを指します。自らの罪を認めず、その罪を取り除いてきよめられることを拒み、むしろ罪に同調して神の義と真っ向から対立する姿は、人の罪の末恐ろしさを物語っています。神様は、再三罪を指摘されても悔い改めて主に立ち帰ることを拒み続けた北イスラエル王国を「よこしまな民」として攻め、懲らしめると断罪されました。それでも神様は、イスラエルを滅ぼし尽くすことはなさらず「その麗しい首を惜しんだ」と、ユダの統治によって生き延びさせようとしました。それはやがてダビデの子として生まれたキリストの「わたしのくびきは負いやすく」という御言葉につながるのです。人の罪はいかに深くとも、悔い改めて主に立ち帰る者は、キリストのくびきを負うことにより永遠のいのちを受けることができますから感謝いたします。
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ホセア書 10:12-15
あなたがたは自分のために正義をまき、いつくしみの実を刈り取り、あなたがたの新田を耕せ。今は主を求むべき時である。主は来て救いを雨のように、あなたがたに降りそそがれる。 あなたがたは悪を耕し、不義を刈りおさめ、偽りの実を食べた。これはあなたがたが自分の戦車を頼み、勇士の多いことを頼んだためである。 それゆえ、あなたがたの民の中にいくさの騒ぎが起り、シャルマンが戦いの日にベテ・アルベルを打ち破ったように、あなたがたの城はことごとく打ち破られる。母らはその子らと共に打ち砕かれた。 イスラエルの家よ、あなたがたの大いなる悪のゆえに、このように、あなたがたにも行われ、イスラエルの王は、あらしの中に全く滅ぼされる。
人は自ら蒔いた種をやがて刈り取らなければなりません。不義を蒔けば裁きを、義を蒔けば豊かな平安の実を刈り取るようになります。今は主を求めるとき、頑なな心を耕して神様の恵みの雨を十分に吸収するときです。この今というときに義の種を蒔かないと、たちまちの内に種まきの季節は過ぎ、雑草が生えてきて心を覆い尽くし、良い実ではなく偽りの実を収穫するときが望みます。自らの軍事力と偶像に寄り頼み、悔い改めの機会を逃した北イスラエル王国は、アッシリヤによって城はことごとく撃ち破られ、母親が子どもと共に八つ裂きにされて殺されるという、実に惨たらしい結末を迎えることになりました。罪のもたらす結果は死であるという戒めを、私たちは軽く受け止めてはなりません。
http://bible.com/81/hos.10.12-15.ja1955