答えは現場にあり!技術屋日記

還暦過ぎの土木技術者のオジさんが、悪戦苦闘七転八倒で生きる日々の泣き笑いをつづるブログ。

許せない自分を許す

2017年10月31日 | ちょっと考えたこと

朝めし前に、グループウェアにアップされた現場報告や資料、予定に目を通すのが、毎朝のディテールだ。ところが、これには功罪があって、ときとして、どうしようもなく不機嫌な自分を引きずって出勤してしまうという場合がなきにしもあらず。残念なことに、きのうも今日もそうだった。本来、仕事と家庭とは倒立(両立ではないですよ倒立。つまり逆立ち)しているのがまっとうなオジさんの在りようだ(受け売りです、平川克美さんの。しかもちょっとアレンジしている)、と力説していたのはとうの昔。いやはやまったくナニヲカイワンヤ、「あのねおっさんわしゃかなわんよ」だ。そうなると、カーステレオから流れてくるクレージーキャッツの呑気な歌声も、朝のテンションアップという目的を果たすことなどできもせず、どこか虚ろに響いてしまうからちょっと哀しい。

 

移行期的乱世の思考 「誰も経験したことがない時代」をどう生きるか
平川克美
PHP研究所

 

 

そんな不出来なオジさんがデスクに座りPCを開くと、その目に飛び込んできたのが3年前の今日、書いたテクスト。題して『木を見て森を見ず』だ。じつは、本文よりも、そのあとのコメント欄のやり取りがおもしろい。相手をしてくれたのは大阪の深美先生。

これ、今の気分にちょうどいいじゃないか。再掲しよう。

と、思いたち、「もしや?」とブログ内検索をしてみると、2016年11月1日に、コメント欄ごと再掲していた。どうやら同じことを考えていたようだ。いやはや何年たっても堂々めぐりで変わり映えのしないオヤジだ。そんな自分とつき合っていくのにもいいかげん辟易としてきた。とはいえ、それもこれも含めて考えると、そのコメント欄が、当事者ながらおもしろい。いや、当事者としておもしろい。

ということで、再再掲する。

 

・・・・・・・・・・

 

「木を見て森を見ず」。

ディテールにこだわりすぎて全体をとらえられないことの喩えである。いい意味では使われない。

だが、そうでもないと私は思う。

世の中は役割分担だ。

いつも「木を見る」ことで、美しい木や丈夫な木を育てていく役目の人の存在も認めなければならない。特に私たちのような「技術」分野の仕事では、ディテールへのこだわりがなければ良いモノはつくれないからである。

だから理想は「木も見る森も見る」なのだ。

現場監督という仕事の面白くてかつやっかいなところは、その任務が、マネジャーであると同時にエンジニアだということである。広い視野を持って現場をデザイニングし、マネジメントをしていきつつ、細部への配慮を、ゆめ忘れてはならない。

だから理想は「木も見る森も見る」なのだ。

そんな難しい?

そう難しい。

だから面白い。

楽しい、という感情はなかなか生まれないが、やりがいがあり張り合いがあり、達成感がある。

とはいえ、どちらかに重心を置かなければどっちつかずになってしまうのが現実である。

となるとやはり、「森を見る人」たらんと行動してほしい。

「森」のためには、放ったらかしにしていい「木」もあり、伐り倒さなければならない「木」もある。そしてその優先順位や判断は、不変ではなく、その時その場で応変していくべきものである。必要なのは備わった天性ではなく、常日ごろの意識づけと、視点や思考を鍛えること。それもまた、土木屋にとっては、鍛えることによって身につけることができる技術なのだ。

以上、『俯瞰する人』の続稿である。


以下、コメント欄より。


【共感いたします】 (深美です)

「俯瞰」という言葉はわたしも使いますので、なんとなく、共通するイメージをお持ちかなと感じましたが、本日のブログを読ませていただくと、全く共感です。
わたしは、40歳台から現場のミドルリーダーという位置におり、それで終わったのですけど、「現場監督だったんだなぁ」と気づかせていただいたわけです。「木を見て森もみる」という感じだったでしょうか。森に興味関心をもちだすと、すーっと霧が晴れたように森が見えてくるのですね。すると、どうなるかというと、森を見てない管理職とぶつかってしまうのです。森を見せてしまった現場は、その方向に進もうとする、しかし、その新しい方向にトップは「怖れ」をいだく、すると、わたしが矢面に立つ、という感じですね。そこで、必要になったスキルは「許す」ということでした。不思議と、「許す」と一歩進むのです。

 

【う~ん】 (ひの)

「許す」
じつは、近ごろ私の頭のなかを駆け巡っているキーワードがそれなのです。
まず「自分の無能を認めて許せ」(橋本治)から始まり・・・
ですが、他人にも自分にも、なにごとにつけ「許せない」自分を、自分自身で乗り越えることができない・・・
今度呑むときははぜひ、「許す」をテーマに。

 

【なるほど・・】 (深美です)

なるほど・・「無能=力の無さ、及ばぬところ」、「認め」「許す」ってところがキーワードなのですね。何でしょう? 「許せない自分を許す」という境地かもしれないですね。わたし自身、スキルとしては使ってますが、あり様まで高まっているかどうか・・・。何しろ「許す」は、高いレベルのことなのでしょうね。じゃ、次の話題は、「許す」でお願いいたします。

 

【ふむふむ】 (ひの)

そうです。「認めて許す」でセットですね。「認め」ることができたら「許す」のハードルはぐっと低くなります。
しかし、「許せない自分を許す」には気がつきませんでした。言われてみればそういうことなのですね。納得。

 

【ワンセッション完成ですね】 (深美です)

他人が見れば、禅問答か言葉遊びか、と受けとられるかもしれませんが、ワンセッション完成ですね。

 

【たしかに】 (ひの)

経験をふりかえり、そこから得た気づきを言語化して他人さまに伝えるという行為をしない、あるいはその行為をうっとうしがる人にとっては、深美さんと私の問答なぞは「言葉遊び」に過ぎないかもしれませんね。
理屈と屁理屈は、いつもいつでも紙一重です。

 

【その行為をうっとうしがる人】 (深美です)

わたくしの研修の場合、ふりかえりがブログにかえってくるアベレージは6割です。(研修の最後に5分間のふりかえりの時間を保証できた場合) つまりざっくり判断すると、学校の先生の4割は「その行為をうっとうしがる人」なのですね。この率は由々しき事態ではないかと思うのです。学校というものは、必ず子どもたちに自己開示を求めます。しかし、4割の先生方が、それを受けとめず、フィードバックもかえせないとしたら、教育の営みとはいったい何なのだ、ということになりますね。
「その行為をうっとうしがる人」とは、自らの成長の自己放棄をしているのでしょう。でも、その人たちも含めて、組織としての前進を考えるのであれば、それを「許して」フィードバックをかえしつづけなければならないですね。「入れ続けて、少しだけ返済してもらう」という感覚でしょうか。

 

【ヒント】 (ひの)

「入れ続けて、少しだけ返済してもらう」

その「少しだけ」に気づいて、「少しだけ」を「認めて許す」。
ひょっとしたらそれは、自分が行っていることが無為なんではなかろうかと途方に暮れたとき、そこから自分自身を救う方策かもしれません。

 

【それは極意ですね】 (深美です)

「すこしだけ」を評価し、価値を持たせることができるのはポジティブシンキングの極意ですね。ポジティブシンキングとあらわすと、何となく安っぽく感じてしまいますが、重要なことだと感じます。組織や、他との関係性がアサーティブネスに発展して熟成すれば、「なんでも自分が・・」という必要性が薄れてくるので、ツボさえ押さえておけば、自分が手を下さなくても、よい流れになることがあります。どうしようもなかった固定観念の強い人間が、数年後に「受け容れることができる人」に成長したことを思い出しました。

 

【かくありたい】 (ひの)

>どうしようもなかった固定観念の強い人間が、数年後に「受け容れることができる人」に成長した

 

【またまた】 (深美です)

またまたご冗談を・・ひのさんは「なる人」じゃなくて「導く人」でしょ。

 

【そうでしたね】 (ひの)

ときどき「導く人」たる自分を失念してしまうのですよ、いやホント ^^;


・・・・・・・・・・


おもろうて、やがて哀しきオヤジ哉。

お粗末!



子どもと先生がともに育つ人間力向上の授業
深美隆司
図書文化社


 

いじめ・不登校を防止する人間関係プログラム―アクティブラーニングで学校が劇的に変わる!

島根県松江市立第一中学校「こころほっとタイム」研究会

深美隆司

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利き手で呑む

2017年10月30日 | 食う(もしくは)呑む

『吉田類の酒場放浪記』、今はかつてほど観なくはなったが、たまに思いつくと観ている。

そのなかでずっと気になっていることがひとつだけある。吉田類さんの酒の呑み方だ。右手で箸を使い酒肴を食いながら、左の手で盃(もしくはグラス)を持ち酒を呑むという流儀だ。あれは感心しない。

わたしの作法はといえば、右手で肴を食ったあと箸を置き、右手で酒杯を持って呑む。もちろん、意識的にそうしている。一度箸を置くことで、肴と酒のあいだにひと呼吸が入る。

では、右手(利き手)で肴をつまんだあとで箸を置けば、左手(利き手以外)で酒杯を持ってもよいのかというと、それはちがう。箸も盃も利き手で扱う。もちろん独酌をするのも利き手たる右手だ。そうするほうが、落ち着いて酒が呑めるし、振る舞いが汚くない。

ときおり、左手を使ってものを食うことがある。太鼓の稽古の一環として始めたことだ。そんなときはどうするか。箸を置いたあと、やはり同じ左手で酒を呑む。箸を左手で持った以上、暫定的ではあるが利き手は左になっているという解釈だ。

いやいや、ことさら自慢をするほどの作法ではない。というより、どちらかといえば常識の範疇だろう。ではなぜ、ことさらに書いているかというと、ごくごく若いころ、アレと同じことをわたしもしていたことがあるからだ。あるとき、ある本で、「酒は利き手で呑むべし」というのを読んで以降、意識して直した。丸まっていた背中が、シュッと伸びたような気になったのを覚えている。

だから、もしアレと同じことをしている人がいたとしたら、悪いことはいわないからやめたほうがいい。

(ひょっとしたら類さんは確信犯かもしれないし)


以上、「ふと思いつき、余計なお世話だろうが書きとめてみた



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『豆腐の如く』(斎藤茂太)を読む

2017年10月29日 | 読む・聴く・観る

 

豆腐の如く (だいわ文庫)
斎藤茂太
大和書房

 

豆腐ほど好く出来た漢(おとこ)はあるまい。彼は一見、仏頂面をしているけれども、決してカンカン頭の木念人ではなく、軟かさの点では申し分がない。

 

こんな文章から始まる荻原井泉水の随筆『豆腐』を読みながら、斎藤茂太さんが、「生き方としての柔軟性」や「自分らしさと個性」、「人間関係」について考察した本。

 

井泉水いわく、

又、豆腐ほど相手を嫌わぬ者はない。チリの鍋に入っては鯛と同座して恥じない。スキの鍋に入っては鶏と相交じって相和する。ノッペイ汁としては大根や芋と好き友人であり、更におでんに於いては蒟蒻や竹輪と強調を保つ。

 

対して、茂太さんいわく、


チリ鍋の中で鯛とケンカしたこともあるはずだ。スキの鍋で肉の脂っぽさに辟易することもあっただろう。ダイコンやイモ、コンニャクや竹輪に対し、その猥雑さや軽薄さ、俗物根性をバカにした言辞を吐かなかったと断言できるのか。

精神科医としての私は、そういう未熟な”漢”が、いかにして”好く出来た漢”になっていったかを知りたいと思う。(P.204)


結論として、茂太さんいわく、


結局、人生は演技であると言っていいかもしれない。

家庭なら家庭における自分の役割をきちんと理解し、ときには自分にウソをついてでも、その役割を上手に演じていくことが肝心なのだ。(P.208)

役割というオブラートで自分のエゴを包むことが、人として生きるうえでいかに大切なことであるかがわかるだろう。

おそらく豆腐も、このようにして”好く出来た漢”になったのではあるまいか。

タンパク質供給という、いわば大豆族の本能を、”豆腐”という衣装にくるみ、料理という晴れ舞台に立つ。たとえば、「寄せ鍋」という劇の中で、鯛の切り身やダイコンなどと一緒に煮られているうちに、しだいに自分に課せられた役割、使命を理解するようになっていったのだろう。(P.209)

自分の役割を巧みに演じ、演じきることを楽しめる人が、結局は”豆腐の如く”いい人生を送ることができる。(P.210)

 

書中、久保田万太郎が豆腐について詠んだ句が三つ。

そのなかのひとつが 、

 

もち古りし夫婦の箸や冷奴(久保田万太郎)

 

さてと、今宵は冷奴でもつつきながら古女房殿と一杯やるとするか。



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ちいさい秋みつけた

2017年10月28日 | ちょっと考えたこと

「声がせんようになったな、と思って外へ探しに出てみたらね・・・」

 

朝から孫Aを連れて帰ってきている娘が、夕餉の途中でそう切り出した。

ニコニコと、である。

以下、娘いわく、

 

・・・・・・

 

爺さんBと婆さんCとが(夫婦です)、フキの皮をむきよったがよ。

(ちなみに、都会の皆さんは知らないかもしれないが、春を告げる代表格でもある「フキ」は、じつは秋にもとれる)

それがネ、うちのおばあちゃん(孫にとってはひいばあさん)と3人で葬式とか仏壇とかの話をしてるなかで、

まわりの会話がわかっちゅうかわかってないかわからんけんど、そこにまざってあの子はひとりで黙々と。

むき終わったあと、

「手伝ってくれたほうびや、これもっていけ」

と婆さんCが柿をいっぱいくれたがよ。

わたしがその皮をむいて、「おじいちゃんとおばあちゃんに持っていこ」ってゆうて二人でいったら、

「そりゃ硬とうてオラぁかめれん」

と言うなり爺さんBが、

入れ歯をパコッと外して一同爆笑。

入れ歯を外したシワクチャ顔のまま、ウチの子と笑い合うお爺を見て、みんなでまた大爆笑。

 

むかし、あの人によう怒られたやんか。

ふとその顔がよみがえってね、

なんかしみじみしてしもうたがよ。

 

・・・・・・

 

娘がおもしろ可笑しく語る、田舎のちいさい秋の光景を思い浮かべ、

「うんうんそうそうすべからく、歳々年々人同じからずなのだよ」

と独りごち、

お酒がお酒がススムくんのオジイなのだった。

 

 

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「いいね!」

2017年10月27日 | ちょっと考えたこと

ブログ記事の下にフェイスブックの「いいね!」ボタンがある。

ときたまそれを、誰かが押してくれている。

わたし自身がフェイスブックに投稿をシェアした場合をのぞいて、ほとんどの場合、その「いいね!」はひとつだけであるところから推測するに、ある特定の人がクリックしてくれているのだろう(たぶん)。

こう見えて気が弱く小心者で人の評価を気にするタイプのわたしは、投稿の翌日、必ずといっていいほどその「いいね!」がついてるかどうかを確認する。

彼女(と決めつけている、根拠はない、妄想だ)がどういう基準や好みで「いいね!」を押してくれてるかはわからない。

花森安治は、その「実用文十訓」のなかで、

 

一人のために書く

 

と記しているが、顔も名前も好みもわからないことには、「彼女」ひとりのために書くことなどできはしない。ということは、「いいね!」狙いの投稿をすることはできないということだ(狙って書けるかどうか、また書いたものがウケるかどうかは、はなはだ疑問だが)。

 

こんなことを白状すると、いかにも気弱なオヤジを晒すことになり少々恥ずかしいのだが、読者からの反応がほとんどない一方通行の発信をつづけていると、やはり何らかのリアクションがほしいものだ(と言いつつ、面と向かって生身の読者にホメられるとなんとも恥ずかしくて、その場から消えてしまいたくなるのだが)。

そんななかで、アクセス数の推移はモティベーションのエンジンとして大きい。幸いにしてこの一ヶ月ほどは、大まかにいえば一日平均700IPぐらいのアクセスがあって、一日平均500ほどで推移してきたここ数年に比べれば大幅アップで、率直にいって気分がいい。しかしそれとて、いくつかの検索ワードにひっかかって根強くアクセスされている複数の稿が要因である可能性も大きいわけで(詳細を分析すればわかるのだろうが、そこまではしない)、その他にも、10年近くもやっていると、検索サイトからやって来る人というのはそこそこ増えてくるもので、いわば、長いあいだつづけていることの証左のようなものにしか過ぎないのかも知れず、ま、平たく言ってしまえば、よくわからない。

そんなことなどを気にしながら「ブロガーという日々」を過ごすわたしだもの、

たった一人の「いいね!」が、どれだけうれしいか。

 

 

ブログ記事の右下隅に、ひっそりとそれはある。

いやいやけっして、ボタンを押してくれというお願いではない。

いやいやだから、クリックしてくれといってるのではないのだよ ^^;



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『「物事をわかりやすく、わかりやすく」という姿勢でずっとやってきましたが、それだけでいいのかなと。』(池上彰)

2017年10月26日 | 読む・聴く・観る

言葉については、私もちょっと悩んでいることがあるんです。「物事をわかりやすく、わかりやすく」という姿勢でずっとやってきましたが、それだけでいいのかなと。

もちろんわかりやすく伝えるのは大事なんですけど、みんながわかりやすさばかりを重視していると、難解な言葉の言い回しや、それを読解する力、あえて苦労して理解しようとする力が失われていくんじゃないか。だとしたら、よくないなあと思うんですね。

 

『95歳まで生きるのは幸せですか?』(瀬戸内寂聴×池上彰、PHP新書)でこう言っているのは池上彰さんだ。

 

95歳まで生きるのは幸せですか? (PHP新書)
瀬戸内寂聴×池上彰
PHP研究所

 

う~ん、これについてはわたしも、ちょっとばかり悩んでいる。もちろん、「わかりやすく伝えるプロ」たる天下の池上彰と、わかりやすくしようとすればするほど回りくどい言いまわしになって、かえって相手を悩ませてしまう羽目になることが多々ある辺境の土木屋とでは月とスッポン泥と亀、比較の対象にもならないのだろうが、それでもだ。このことについてはわたしなりに同様の思いがあり、池上さんに全面同意だ。

一方、こんな人もいる。

 

ちなみに僕は新聞や雑誌に寄稿したときに「難しいから書き直せ」と言われた場合には「じゃあ、いいです」と言ってそれきり書かないということにしております。15年前にメディアに書き出したからずっとそうです。
それはメディアの人たちが「難しい」というのがいったい何を基準にしているのか、僕にはよくわからなかったからのです。
もしそれが読者の中で「最低のリテラシーのもの」でもすらすら分かるように書くというのだったら、新聞も雑誌もひたすらレベルを下げるしかありません。それも一つの「サービス」だと言えるかも知れませんが、リテラシーがいくら低くても情報収集に支障がないという情報環境を作り上げることで社会の知的活動が一層活発になるという見通しに僕はまったく同意することができません。 

『内田樹の研究室』2017.01.15「『難しさ』とは何か?」より)


内田樹さんだ。

わたしは、「同意することができません」という彼に同意する。

このテクストの結び、内田先生はこうも書いている。

 

僕たちは母語を習得するときに、自分が知らない語が、自分が知らない文法規則に基ついて、自分が再生できない音韻で語られるのを聞いて育ちます。人間というのは「そういうこと」ができる生き物です。知らない言葉を浴びるように聞いているうちに、知らない言葉の意味がわかってくる。


得てして、「わかりやすく」伝えようとするのは、「知らない言葉を浴びるように聞く」という環境に自ら進んで身を置き「知らない言葉の意味」をわかろうと努め「知らない言葉の意味」を会得する、というサイクルのなかに生きる人である。だからこそ、自らのそういった行為は棚に上げ「わかりやすく」伝えようと努力する。

とはいえ、「簡単」とか「わかりやすい」ことを錦旗とし、難解であることを難解であることだけを理由に遠ざけてしまうような風潮は、「バカを増産させているだけ」だとも言える。いや、たぶんそうなんだろう。

それでも、自らは(自らにとって)難解なものの習得に勤しみ、他人に対してはそれを平易な語彙や「わかりやすい」言い回しでもって「わかりやすく」説く。自分自身の基本的スタンスはここに置くべきだろうと思いつつ、


もちろんわかりやすく伝えるのは大事なんですけど、みんながわかりやすさばかりを重視していると、難解な言葉の言い回しや、それを読解する力、あえて苦労して理解しようとする力が失われていくんじゃないか。だとしたら、よくないなあと思うんですね。


という池上彰さんの言葉に、わたしの思索は戻っていってしまう。

ああ、堂々めぐりの秋の朝。


 

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釈迦とデヴィッド・ボームをセットにしてみる

2017年10月25日 | ちょっと考えたこと

「釈迦の”第二の矢”」については何度か書いた。

 

第一の矢とは、身体で感じるということである。

第二の矢とは、執着する心である。

正しい教えを聞きそれを学ぶ事がない為に、 喜びを感じればそれに執着する心が生まれ、また、苦しさを感じれば怒りの心が生まれ、結果、煩悩に囚われてしまう。

だが、正しい教えを聞きそれを学ぶ人は、第一の矢を受けるが、第二の矢を受けることがないのである。

喜びを感じても、それに執着する心が生まれることがない。

また、苦しさを感じても、怒りの心が生まれないので、結果、煩悩に囚われ ることがないのである。

(『禅のこころ』文化放送、曹洞宗関東管区教化センター、より)


あい変わらずパワフルキーワードとして活用させてもらっている。

実際に脳や身体や心が感じる「第一の矢」という現実に執着して、怒りやイライラを引きずるのは、それに「執着する心」としての「第二の矢」のせいだと、「第二の矢、第二の矢、第二の矢」と心のなかで三度唱えればあ~ら不思議。「執着する心」はどこかに消え失せ、煩悩にとらわれることなく心穏やかに過ごせる。

な~んてふうに上手くいくほど、渡る世間は甘いもんではなく、そもそもわたしがそれほどデキた人間ではないが、少なくとも執着しようとする自分を見つめることで感情的にならずに済む(かもしれない)。という心の動きを期待して、「第二の矢、第二の矢、第二の矢」と心のなかで三度唱えてみる。

ほんのこの前、その目論見が見事に失敗したことがあった。「怒り」という感情に流され興奮してしまった自分を、くだんの呪文を唱えることでは上手くコントロールすることができなかったのである。

翌日、さてあのとき唱えるのは「第二の矢」でよかったのかと自問してみた。

そこで出てきたのが「想定を保留する」という、久しく忘れていたキーワードだった。


自分を怒らせるような想定を誰かから聞いた場合、あなたの自然な反応は、腹を立てるか興奮するか、またはもっと違った反撃をすることだろう。しかし、そうした行動を保留状態にすると考えてみよう。あなたは自分でも知らなかった想定に気づくかもしれない。逆に想定を示されたからこそ、自分にそうしたものがあったとわかったのだ。他にも想定があれば、明らかにしてもかまわない。だが、どれも保留しておいてじっくりと観察し、どんな意味があるかを考えよう。(『ダイアローグ』デヴィッド・ボーム、P.69~70)

 

ダイアローグ 対立から共生へ、議論から対話へ

デヴィッド・ボーム著

金井真弓訳

英治出版

 

これについても何度か書いたし、渡る世間の「よすが」としようとしたこともあったが、気がついてみるとこの言葉自体をすっかり失念していた。「ああ、ナンテコッタイ」である。

となれば、 

これからは、「第二の矢」と三回唱えたあとで「想定を保留せよ」と三回唱える。釈迦とデヴィッド・ボームのセットでいってみようと思っている。


第二の矢

第二の矢

第二の矢

想定を保留せよ

想定を保留せよ

想定を保留せよ

 

(考えてみれば、何度も何度も同じようなことを、何年にもわたって繰り返し書いております。われながら、まったくもって成長のないオヤジだと哀しく情けなくもなりますが、今後とも懲りずにごひいきを ^^;)




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無知におぼれている者はあやめもわかぬ闇を行く

2017年10月24日 | ちょっと考えたこと

無知におぼれている者は

あやめもわかぬ闇を行く

明知に自足する者は

いっそう深い闇を行く

 

ウパニシャッドのなかにある言葉だというが、浅学なわたしはウパニシャッド自体がわからない。

さっそくブリタニカ国際大百科事典を紐解いてみる(といっても、そんな大仰なものが手元にあるわけではもちろんない。『コトバンク』さんだ)。

 

ベーダ聖典の一部を構成する哲学的文献。ウパニシャッドという語は近座を意味するが,転じて秘教というような意味になり,秘教を述べた一群の文献の名称となった。すなわち,宇宙万有の一元を教える哲学書であるが,思想を述べるにしても体系的理論的に説くのでなく,比喩的表現によって説き,しばしば対話形式をとっている。その中心思想は,ブラフマン (梵) とアートマン (我) との合一 (梵我一如) 説であると後世の哲学者たちによって説かれている。


なんだかさっぱりよくわからないが、とにかくそういうもんらしい。

それにしても・・・


無知におぼれている者は

あやめもわかぬ闇を行く

明知に自足する者は

いっそう深い闇を行く

 

気になってしようがない。

何度も読み返す。

自分なりの解釈はできた。

どこかに解がないかと検索してみる。

なかなか見つからなかったが、ひとつ、『仏教の思想的土壌  ウパニシャッド---哲人たちの思索』というサイトがあった。そこでの訳はこうだ。

 

無知を瞑想する人々は盲目の暗闇の中に入る。そして知識を楽しむ人々は、何らかの方法で、それよりも大きな暗闇の中に入る。


ふむふむ、ほぼわたしの解釈どおりである。

すると、ある本の一節が思い浮かんだ。

橋本治だ。

 

「わからない」という方法 (集英社新書)
橋本治
集英社

 

 「わかる」をスタート地点にしようとする人は、一度「わかった」のゴールへたどり着いて、そしてそのまま、新たなるレースへはでようとはしない人なのである。「自分は一度”わかった”のゴールにたどり着いた。そんな自分にはいまさら”わからない”のスタート地点に立って、めんどくさいレースを始める理由などない」と思っているから、「わからない」という前提に立たない。

 「わからない」は、思索のスタート地点である。そこから始めればこそ、「わからない」は思索の「方法」となる。「わからないからやーめた」であきらめれば、そこは挫折のゴールである。「わからない」が「方法」になるかどうかは、それを「方法」として採用するかどうかの、決断にかかっているのである。

(P.13)

 

すべては移り変わり、つながりのなかで変化する。「わかった」と思えば、すぐ「わからない」が始まり、その「わからない」が解決した刹那、また次の「わからない」がやってくる。どこかで降りないかぎり、その無限ループはつづく。しかし、たとえ降りたとしても、そのじつは「わかったからもういい(=わからないからやーめた)」と思いこんでいるだけで、「わからない」ことに変わりはない。どちらにしても「わからない」のなら、「わからない」からスタートして「わかった」のゴールへたどり着いたらまた「わからない」が始まっていたほうの「わからない」を選びたい。どうせ「闇を行く」のが人生なら「無知におぼれてあやめもわかぬ闇を行く」よりは「明知に自足していっそう深い闇を行く」ほうを選びたい。

 

無知におぼれている者は

あやめもわかぬ闇を行く

明知に自足する者は

いっそう深い闇を行く


 

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♪ お前が20才(はたち)になったら ♪

2017年10月23日 | ちょっと考えたこと

♪ お前が20才(はたち)になったら

  酒場でふたりで飲みたいものだ ♪

 

33年来(つまり女房殿といっしょになってから)の持ち歌だ。

じじつ、男の子が生まれたら「酒場でふたりで飲みたいものだ」と思ってた。そして8年後、女の子ふたりにつづいて待望の男の子が末子として生まれた。しかし、今までなぜか二人っきりという機会を持つことができず、気がついてみたら彼は20才(はたち)を5年も超え、わたしはあと2ヶ月で60になる。そんなある日、お城下でのとある呑み会が終わったあと、ふと思い立ち、二次会へは行かず市内で一人暮らしをしている息子を呼び出しふたりで呑んだ。

 

♪ いいか男は生意気ぐらいが丁度いい

  いいか男は大きな夢を持て ♪

 

これもまた『野風増』の一節だ。

『野風増』という歌は好きだが、わたしは彼に「大きな夢を持て」とは一度たりとも言ったことがない。

「大きな夢」なぞ、皆が皆、持たなくていい。どうも昨今の教育は、「夢を持て」の押しつけが過ぎるとわたしは思ってる。持てる人は持てばいいし、持ちたくない人は持たなくていい。人それぞれだ。

「大きな夢」を持ち、その夢がかなえられたとしたらそれは素晴らしいことだ。しかし、世の中はそういった類の人種ばかりではない。「大きな夢」を見ることなく「地道にコツコツ」やる人のほうが数としては多いはずだ。そして、そういう人たちの存在が世の中を支えている。そのことについて、今という時代のこの国は、あまりにも理解がないような気がしてならない。

大切なのは、はたらくこと。時として過剰なぐらいにはたらくこと。つまり、オーバーアチーブメントにはたらくこと。この「働き方改革」のご時世に何を言ってるのかとお叱りを受けようと、わたしは断じてそこは曲げない。融通無碍変幻自在優柔不断のわたしだが、たぶんその点だけは死ぬまで変わらない。

 

人間には「好きにやっていいよ」と言われると「果てしなく手を抜く」アンダーアチーブタイプと、「やりたいことを寝食を忘れてやる」オーバーアチーブタイプに二分される。
このどちらかだけを作り出すということはできない。
そして、ブリリアントな成功を収めた組織というのは、例外なく「『好きにやっていいよ』と言われたので、つい寝食を忘れて働いてしまった人たち」のもたらした利益が、「手を抜いた」人たちのもたらした損失を超えた組織である。
(『内田樹の研究室』2012.10.24『人々が「立ち去る」職場について』)

 

 

息子と、そんな話をしていたわけではない。

しかし、他愛もない話で盛り上がるなか、なんとはなしにそんなことなども考えつつ、33年越しの宿願の実現を楽しんでいたお城下の夜。




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土佐くろしお鉄道ごめんなはり線に揺られながら『クルマを捨ててこそ地方は蘇る』(藤井聡)を読む。

2017年10月22日 | 読む・聴く・観る

今回のお城下行は、行きも帰りも土佐くろしお鉄道ごめんなはり線。

鉄路のお供は『クルマを捨ててこそ地方は蘇る』(藤井聡、PHP新書)だ。

 

 しかも、やっかいなことに、クルマを使えば使うほどに人々はさらにクルマなしではやっていけなくなってしまう。便利だからといって頼り切ってしまえば身を持ち崩すーそんなジャンクフードのような側面を、クルマは持ち合わせているのだ。

 だとしたら地方を豊かにしたい、地方を創生したいと考えるなら、クルマに頼り切る態度からは脱却する他ない。(P.6)

 

クルマを捨ててこそ地方は甦る (PHP新書)
藤井聡
PHP研究所

 

いつもなら海が見えるように山側の席に座るのだが、今日はなぜか海側の席を選んだわたし。ときおり顔を上げて振り向き、台風21号接近中の土佐湾を見つつ、『クルマを捨ててこそ地方は蘇る』を読むわたしは、「クルマがなければ生きてはいけない(に等しい)」という否定しようがない田舎の現実のなかで、身も心もすっかりモータリゼーションに毒されてしまっている。だからこそ、「クルマに頼り切る態度」が「ジャンクフードのような側面」を持っているという藤井さんの言説が身に沁みてわかりもする。

「そんなことはあれへんやろ」と言わず、よかったらアナタも読んでみてほしい。

 

 

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