無知におぼれている者は
あやめもわかぬ闇を行く
明知に自足する者は
いっそう深い闇を行く
ウパニシャッドのなかにある言葉だというが、浅学なわたしはウパニシャッド自体がわからない。
さっそくブリタニカ国際大百科事典を紐解いてみる(といっても、そんな大仰なものが手元にあるわけではもちろんない。『コトバンク』さんだ)。
ベーダ聖典の一部を構成する哲学的文献。ウパニシャッドという語は近座を意味するが,転じて秘教というような意味になり,秘教を述べた一群の文献の名称となった。すなわち,宇宙万有の一元を教える哲学書であるが,思想を述べるにしても体系的理論的に説くのでなく,比喩的表現によって説き,しばしば対話形式をとっている。その中心思想は,ブラフマン (梵) とアートマン (我) との合一 (梵我一如) 説であると後世の哲学者たちによって説かれている。
なんだかさっぱりよくわからないが、とにかくそういうもんらしい。
それにしても・・・
無知におぼれている者は
あやめもわかぬ闇を行く
明知に自足する者は
いっそう深い闇を行く
気になってしようがない。
何度も読み返す。
自分なりの解釈はできた。
どこかに解がないかと検索してみる。
なかなか見つからなかったが、ひとつ、『仏教の思想的土壌 ウパニシャッド---哲人たちの思索』というサイトがあった。そこでの訳はこうだ。
無知を瞑想する人々は盲目の暗闇の中に入る。そして知識を楽しむ人々は、何らかの方法で、それよりも大きな暗闇の中に入る。
ふむふむ、ほぼわたしの解釈どおりである。
すると、ある本の一節が思い浮かんだ。
橋本治だ。
「わからない」という方法 (集英社新書) | |
橋本治 | |
集英社 |
「わかる」をスタート地点にしようとする人は、一度「わかった」のゴールへたどり着いて、そしてそのまま、新たなるレースへはでようとはしない人なのである。「自分は一度”わかった”のゴールにたどり着いた。そんな自分にはいまさら”わからない”のスタート地点に立って、めんどくさいレースを始める理由などない」と思っているから、「わからない」という前提に立たない。
「わからない」は、思索のスタート地点である。そこから始めればこそ、「わからない」は思索の「方法」となる。「わからないからやーめた」であきらめれば、そこは挫折のゴールである。「わからない」が「方法」になるかどうかは、それを「方法」として採用するかどうかの、決断にかかっているのである。
(P.13)
すべては移り変わり、つながりのなかで変化する。「わかった」と思えば、すぐ「わからない」が始まり、その「わからない」が解決した刹那、また次の「わからない」がやってくる。どこかで降りないかぎり、その無限ループはつづく。しかし、たとえ降りたとしても、そのじつは「わかったからもういい(=わからないからやーめた)」と思いこんでいるだけで、「わからない」ことに変わりはない。どちらにしても「わからない」のなら、「わからない」からスタートして「わかった」のゴールへたどり着いたらまた「わからない」が始まっていたほうの「わからない」を選びたい。どうせ「闇を行く」のが人生なら「無知におぼれてあやめもわかぬ闇を行く」よりは「明知に自足していっそう深い闇を行く」ほうを選びたい。
無知におぼれている者は
あやめもわかぬ闇を行く
明知に自足する者は
いっそう深い闇を行く
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