リアルな夢だった。
そして、なんとも気分のわるい夢だった。
その夢を見たのは昨夜。登場したのは仏頂面をしたわが叔父だった。夢のなかにまで追いかけてきて、いったい何を言うのかなと思ったら、おもむろに口を開いて出た言葉がこうだ。
「オマエは人を不愉快にさせるような物言いをする」
思い当たるところがないではない。いや、そう言うと過少申告なので訂正する。おおいに思い当たるところがある。
だからといって、突然そのように切り出されたら面白いはずがない。不愉快にさせているのはどっちだ、と思いながら質問してみた。
「いつからそう感じてた?」
「生まれたときからよ」
いくらなんでも生まれたばかりの赤ん坊がそうであるはずもないだろうがと、さらに機嫌をわるくしたぼくに、彼が追い打ちをかける。
「まわりのもんは皆そう言いゆうぞ」
これ以上つづける意味はない。
そう思ったぼくは、自らの意思でその夢を断ち切り、暗闇のなかで目を覚ました。
なんてことだ。憤懣はやるかたがない。
フロイトは言うにおよばず。どのような夢を見るかについては、その人の深層心理や潜在意識、置かれている状況などが深くかかわっていると考え研究してきた人は、古今東西に数多いる。学術的な研究とまではいかずとも、それが吉であるか凶であるかにかかわらず、夢に何らかの兆しを感じ取り、意味をもたせる人となるともっと多い。
しかしぼくは、そういう受け取り方をほとんどすることがない。いわゆる夢枕と呼ばれるような夢が、これまでにまったくなかったかと言えば、そうでもなかったような気もするが、それでさえ、夢を見ている当の本人がそうと感じ取ることがなければ、ただ、亡くなった人が夢のなかにあらわれたという事実があるだけだ。ただでさえ、すぐに忘れてしまうのだもの、いかに大事な人が登場したとしても、そのまま放置しておけば、丸一日も経てば、ぼんやりとした記憶しかなくなり、数日すれば見たことさえ記憶の彼方へと過ぎ去ってしまう。
夢はただ夢でしかない。
もちろん、見ている自分の他にどのような人物や生き物が登場しようと、そのなかで意識があるのは当の本人だけである以上、そこでどのような会話がなされようと、それらはすべて自分自身が生み出したものでしかないことは間違いないことから鑑みると、そこに本人の心理や意識が影響していないという理屈は成立しにくい。
それを承知でぼくは、夢はただ夢であるとしか捉えず、それ以上の意味をもたせない。
そんなぼくが、昨夜見たリアルな夢のことがアタマから離れない。
こうして書いていたらなおさらのこと、アタマの隅っこにこびりついてしまった。
あれにはどういう意味が・・・
考えはじめてすぐカブリをふった。
夢はただ夢でしかない。