愛と狂瀾のメリークリスマス なぜ異教徒の祭典が日本化したのか (講談社現代新書) | |
堀井憲一郎 | |
講談社 |
年々大きくなる一方のあのハロウィンとやらのバカ騒ぎを横目に見て、「子どもはまだしも、大の大人がどうしたもんかネ」と、あいも変わらずものごとを斜に構えて見てしまう性根はそのままのわたしだ。
そんなわたしとて人並みに、クリスマス・イブを楽しみに待っていた少年期はあった。
毎年毎年、「なんでキリストの誕生日を祝わないかんがな。おらぁ仏教じゃが」という、ふだんは見事なほどに神や仏を言わぬし「無宗教」と広言してはばからないくせに、クリスマスが来るときまってそういうわが親父の「くだ」とともにある年中行事として。
それが今では、ハロウィンの狂騒を亡父と同じような想いで見ている(たぶん)わたしがいる。
まこと血というものは争えないものだと苦笑いしながら。
そんなわたしだもの、『愛と狂瀾のメリークリスマス』というタイトルを目にして心が動かないはずがない。
即刻購入した。
キリスト教は、信じないものにとっては、ずっと暴力であった。そういう厄介なものはどう取り扱えばいいのか。それは日本のクリスマスに答えがある。
「日本のクリスマス騒ぎ」は、力で押してくるキリスト教文化の侵入を、相手を怒らせずにどうやって防ぎ、どのように押し返していくか、という日本人ならではの知恵だったのではないか。だからこそ「恋人たちのクリスマス」という逸脱にたどりついたのである。
そういう日本のクリスマスの歴史を見ていきたい。
(『序 火あぶりにされたサンタクロース』より)
ということでただ今は、『3章 隠れた人と流された人の江戸クリスマス』。
期待にたがわぬ展開に、わたしの海馬が喜ぶよろこぶ。
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