因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

芸劇eyes番外編・第2弾『God save the Queen』

2013-09-13 | 舞台

*公式サイトはこちら 東京芸術劇場シアターイースト 16日まで
 注目度上昇中の若手女性劇作家5人が、20分の新作短編をショーケース形式で上演する。
 演劇ジャーナリストの徳永京子氏の企画・コーディネートによるもので、当日リーフレットに掲載の挨拶文には、「どうしても多くの人に紹介したい才能に、奇跡のようにほとんど同時期に出合ったからです。しかもそれが全員女性でした」とある。徳永氏一押しの女性たちはつぎの5人である。

うさぎストライプ/大池容子
タカハ劇団/高羽彩
鳥公演/西尾佳織
ワワフラミンゴ/鳥山フキ
Q/市原佐都子

  徳永氏によれば、「文体も、身体の扱いも、テーマへの興味も、そうした旧型の鎖から完全に自由なところにいる」、 「劣等感も優越感も出発点になく、叙情に溺れずヒステリックにもならない」とのこと。そして「彼女達の作品がどこから来てどこへ行こうとしているのか。それをぜひこのイベントで感じ、考えていただければ、今後もこの5劇団を観続けていただければ幸い」と結ばれている(「そうした旧型の鎖」というのには説明が必要なのだが、うまく書けない)。
 公演企画の意図が非常に明確だ。俳優や劇作家へのインタヴュー、公演の紹介記事や 公演批評など、「みて書く」立場の人が、はっきりした目的をもって公演を企画し、演劇の土壌を豊かにしようとする試みである。演劇のつくり手と受けとる側りょうほうへのバランス感覚が必要で、まさに「橋渡し」の役割であろう。たくさんの演劇人と接した人脈だけでなく、信頼関係がなければできないことである。徳永氏の演劇ジャーナリストとしての力量にくわえ、人望、人徳である。                                                          
 ほとんど初見の劇団だ。かろうじて数年前タカハ劇団の公演をみたが、ブログ記事を書いていないという(苦笑)。さまざまなものが凝縮された舞台をいちどきに味わえる今回の試みは大変ありがたい経験であった。

 女性が小説や詩歌や演劇などをつくったとき、「女性ならではの視点」「女性らしい描写」「女性でなければできない作品」という評価を得ることは珍しくない。これらの評価は、発言者が意識するしないはべつとして、肯定的な評価、褒めことばとして発せられる。反対に「男性ならではの」「男性らしい」「男性でなければ」といったことばを聞いた記憶はなく、とすると女性であることで何らかの付加価値があるということは、何かを書く、つくることが基本的に男性のものであり、そこにたまたま女性が入ってきたもの珍しさが言わせているのかしらん。

 裏返せば、「女のくせに生意気だ」、「女らしくない」こと、それも往々にして男性側の都合でつくられた価値観に対する批判につながる・・・などと考えるのは、可愛げのない、ひねくれて理屈っぽい女だということになるのだろうか。

 みた舞台の話をすると、じつは「文体も、身体の扱いも、テーマへの興味も、そうした旧型の鎖から完全に自由なところにいる」、 「劣等感も優越感も出発点になく、叙情に溺れずヒステリックにもならない」ということが、ぴんとこなかった。これを単に自分の好みではなかったというのはあまりに残念なので、こうしてあれこれと考えている。
 徳永氏が今夜の5人に注目するのは、これまで幾人もの「旧型の鎖に縛られて、劣等感や優越感が出発点で、叙情に溺れ、ヒステリックになる女性劇作家や演出家」をみてきたからであり、書評家の豊﨑由美をゲストに招いたアフタートークでは、「その女性たちとはいったい誰か」を聞きだそうとする豊崎氏と、立場上ぜったいに言えない徳永氏とのやりとりをたいへん興味深く聞いた。どなたのことなのだろう。

 人それぞれに大切な宝物をしまっておく箱がある。自分の「演劇宝箱」に入っている女性劇作家は、スタジオソルトの椎名泉水、ミナモザの瀬戸山美咲、パラドックス定数の野木萌葱、モナカ興業のフジノサツコをはじめとして、最近ではシンクロ少女の名嘉友美、ロ字ックの山田佳奈・・・ああっ、風琴工房の詩森ろばを忘れてはならなかった。

 いずれも今夜の5人とは大きくかけ離れた作風ばかりである。一筋縄ではいかず、面倒くさくてやりきれなかったり、疲労困憊したり、さんざん笑ったあとでホロリとさせられたりもする。
 自分の心を深いところから揺り動かして、舞台をみる前には想像のできなかったところへ連れてゆく。そんな魅力をもった劇作家たちなのだ。

 今夜の舞台は楽しかった。それは確かである。次回公演をぜひにと思う劇団もある。しかし同じ20分を、因幡屋の演劇宝箱の女性たちならどう活かすかを想像するときの高揚感は、残念ながら比較にはならない。そもそもかんたんに比較するものではないのだろう。

 新しく出会った舞台についての具体的なことを何も書かなかった。いや書けなかった。彼女たちの「このつぎ」に出会うとき、今夜の印象をどのように活かすか、逆に活かさないかがひとつの切り口になるだろう。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 日韓演劇週間<生きる>こと... | トップ | 風琴工房code.33『hedge』 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

舞台」カテゴリの最新記事