ユダヤ系アメリカ人の友人に,お盆の風習を話したことがある。お盆にはなくなった家族がお墓に帰ってくる。帰ってきた故人をろうそくに火を灯して家に迎え入れ,家族で思いで話を語るのだと。ユダヤ人にはそうした風習はなく,とてもいいな話だな,と聞き入っていた。
3.11の大震災から,後2ヶ月で1年となる。
現地は未だ傷痕が残る。多くの方も亡くなられた。
「空」とかいて「うつ」といい,「現」と書いて「うつつ」という。
その中間の状態がうつろい(移ろい)だという。移ろいは面影に通じる。
面影は「歴史の面影」や「故人の面影」などと使う。
面影とは,そこに存在はしていないが,存在しているようであり,現実と非現実の中間のようなものである。
もともと日本人は,移ろいを大切にしてきた。亡くなったからといって天国に行くのではない。面影が残っているのである。
日本は,火山国であり地震などの天災が多い。自然の前には太刀打ち出来ない。そうゆう歴史を積み重ねてきた。このことが,面影を大事にするようになったのではないか。無くなったから,ゼロではないのである。
時代や考え方が新しくなっても,面影を大切にしてきたのである。
後藤新平の台湾での政策を思い出す。彼は,「生物学の原則」として徹底した現地の調査を行った上でインフラを整備したという。「ヒラメの目をタイの目に変えることはできない」という名言がある。
オーシャンリテラシーも日本の海に対する意識,食文化に合わせて水圏環境リテラシーとしたことも面影を大切にしていることに通じるのであろう。