美辞・麗句を持っての東京五輪大会の開催をあらためて反対する

2021-06-04 09:51:00 | 日記
   6月3日に開催をされた参院厚労委で、東京五輪開催について答弁をした政府分科会の尾身茂会長の発言は各紙が大きく報じている。
 すでに衆目されていることでありその内容を述べる必要もないが、その尾身会長の発言に対し、「ちょっと言葉が過ぎる。(尾身氏は)それ(開催)を決める立場にない」とし、「(首相は五輪を)やると言っている。それ以上でも以下でもない」と不快感をにじませたという表現の記事がある。その言葉の背景には、自民党の方針と、そして党を構成する議員団の方針が東京五輪の開催の是非は「自民党総裁である、菅祖総理大臣が持つ」ということを明らかにしたことが明白になったことを、私たち国民はしっかりと記憶をする必要がある。このことは重大である。
 そこであらためて尾身会長の発言を取り上げてみたい。
 「パンデミックの所でやるのは普通ではない」と発言、しかも前日2日の国会でも「普通は(五輪開催は)ない。このパンデミック(世界的大流行)で」と指摘。「そもそも五輪をこういう状況のなかで何のためにやるのか」と二度にわたり発言をしている。

 そして1998年長野オリンピックの医療救護責任者を務めた奥寺敬・富山大客員教授の、新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言下での東京オリンピック開催に反対する記事がある。     (5月30日・毎日新聞)
 「決断に必要なのは具体的な数字に基づく明確な線引きだ」と。つまりどんな国際大会などを開く時でも「通常医療(その国の)に負担をかけないのが鉄則」ということだ。今の感染状況では大会で事故や災害など非常事態があった時に、何十人も受け入れられる病院があるとはとても思えない」という点にある。既に、救急など新型コロナ対応に当たる医療現場には大きな負担がかかる状態が続いている。入院を待つ新型コロナ患者が多くおり、救急車の搬送先が見つからない事例もある中で、大会用の病床を確保するのは無理だろう」と。
  
 奥寺教授は「今の感染状況で大会での事故や災害などの非常事態」という限定的な表現をしているが、何も非常事態はいつ、どこで発生をするかはわからない。ましてや交通戦争の国内、とりわけ都市部の事情がある。地震、火災も否定できない。このように大きな災害がいつ起きるかわからない実情の中で私たちは生活をしている。その時に対応できる救助、医療体制の確保は国の最低の必須条件であろう。
 現に今般のコロナ禍は、大阪をはじめ、全国のあらゆる医療機関において、救急患者の受け入れや手術対応の医療の引き延ばしがされていることは既成の事実として報じられている。奥寺教授の指摘はまさにシンプルである。
 
 さらに次の報告もある。
 オリ・パラ双方とも外国観客は受け入れないとの方針であるが、それでも選手、審判、報道関係者などの来日者の数は7万8000人という。しかも、それら関係者については毎日検査をするという。ではその体制をつくることができるのか。その間、国内の検査体制に影響はないのか。
 仮に無観客といえ、東京をはじめとする開催地には、国内からの人の流れは急増をする。当然にして感染の条件は拡大をする。そして「日本が勝ったも、負けても『祝杯・残念騒ぎ』は町中に表現されるだろう。道路に座りこみ、空き缶・空き瓶などのゴミの山ができる」これらの光景は、残念であるがすでに報じられているところである。

 そして、大会運営委員会が10万人運営ボランティアを募集している。その皆さんへの感染対策は「その都度、渡される2枚のマスク」と携帯用のアルコール消毒液と体調管理のための記録ノートである。「その皆さんは、新たな災害ボランティアのように見える」と感染被害の拡大を警告している。
                        (5月22日・毎日新聞)
 「五輪の美辞麗句」を持っての開催の強行にあらためて反対をしたい。

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