報道に作為を感じる。アベ・サプライズの演出と報道機関の意図は

2014-05-31 09:27:04 | 日記

    報道に作為を感じる。アベ・サプライズの演出と報道機関の意図は

最近のニュース番組の構成に疑念を持つ。とりわけNHKに対するものが強い。一例を上げる。それは韓国の旅客船沈没の報道である。事故以来40余日が経った。もちろん当初の事故発生、救出困難、多数の修学旅行生徒の犠牲、そして船長の責務違反などニュース素材は沢山あった。しかし、今もってそれがニュースのトップにすえられることに異常なものを感じる。しかも、テレビ番組の午後7時、あるいは9時のニュースは「ゴールデンタイム」である。

この間、国会も開催されていた。TPPの経過は、社会保証制度の改定は、教育委員会制度の改定は、そして原発事故現場の実態は、もちろん憲法解釈などなど、国民が注目しなければならない情報源が、スポイルされる、あるいは取り上げても付けたしの取扱いに「どうしてだろう」という疑念を持ったのは私だけであろうか。

マスコミが社会的公器と言われて久しい。そのことは課題の先取りと意識の喚起、場合によっては警鐘をならす「社会的責任」という性格をを持つことであった。その意味で、情報源の順位はあっておかしくはない。集中されてよい。だが、その順位を取り違っているのではないかと指摘したい。

マスコミの報道が異常だと述べた。しかし、そのマスコミに期待し、あるいは関心を持つのが、韓国船であり、「あすか」の覚すい剤であり、AKBへの傷害、そして女性の死体遺棄であったとする。映画番組の「番記者物語」にしても、記事を面白く、そしてショッキングな面をいかに強調するかの場面がある。作者、演出家は、その番組に聴衆の関心を集中させるかに苦心する。ましてや民報はスポンサーがつく。狙いは視聴率のアップである。とするなら、紙面にあるいは画面が、大衆の関心を集中させる企画となるのは当然となる。企画の軸足はそこにおかれる。スタッフは大衆の関心に迎合する。大衆はそれを求める。しかし、それでよいのかと私は煩悶する。

今般、北朝鮮の拉致問題に明るさをもたらすニュースが飛び込んだ。最終的には被害者全員の帰還の実現であり、不幸にして日本の土を踏めなかった方がいれば、その方の正しい情報がもたらされることである。安倍首相が述べる「その実現を見ない限り、私たちの使命は終わらない」。その通りである。

しかし、ここにも一つの訝りを感じる。期を同じくして伊原局長の帰国報告があった。詳細は官房長官が触れるとして会見は終わっている。だが、その伊原報告からは、その後に行われた安倍首相の記者会見のかけらさえも感じ取ることができなかった。当日は参議院の外交防衛委員会、その前日は衆議院予算委員会があり「集団的自衛権の行使」をめぐる激しい応酬があった。しかし、その報道はスポイルされ、簡略化された。そして安倍首相の記者会見の場面が、何回も何回も繰り返えされたところに異常を感じたのは私だけであろうか。

もちろん、政治的公表のタイミングはある。慎重な表現の必要からの熟慮もあったろう。しかし、かつての東京ドーム国民栄誉式典と始球式に見られた「安倍サプライズ演出」と同質なものを受け止めてしまった。もちろん、かく私も、拉致問題の重要性ついては他者に劣らない認識を持っている。そうであるがゆえに、国会審議の内容が薄められたことに意図したものを感じた。集団的自衛権の行使の問題は、北朝鮮、そして拉致問題の解決と無関係ではない。そのことは拉致被害者の家族も認識しておられると思う。

さて、このような提起はいかがだろうか。


 介護に疲れた高齢者・加害者もまた被害者・まだまだつづく受難の日

2014-05-30 16:18:34 | 日記

   介護に疲れた高齢者・加害者もまた被害者・まだまだつづく受難の日

 

「福岡県の88歳の夫が、79歳の妻の首をしめて殺す」。そのニュースを見て、またも切ない事件と受け止めたのは私だけではないだろう。あえて、詳細を知る必要はないと思いつつも、「その配偶者は2年前に足を骨折、施設に入所。夫はしばしば施設を訪れては手を添えて歩いていたという。周囲は仲の良い夫婦だこと」とうらやみ、「金銭よりは、離れて暮らすのが寂しかったのであろう」と退所の理由を述べている。

20日の東京新聞によれば、過去10年間に、高齢者が家族や親族による殺人や介護放置、心中などで死に至った件数は400件ありと報じている。さらに、事件は増加傾向にあり。2000年に32件であったのが、2006年以降は年間50件以上も発生しているという。そして加害者の75%近くが、被害者の夫や息子などの男性。一方、被害者の70%が女性となっている。

死に至らしめた400件のうち、殺人が59%、心中が24%、傷害致死11%、介護放置4%と報告されている。

2025年には、戦後のベビーブームにあやかった方が一斉に75歳を迎える。これが2025年問題と言われているものであるが、70歳から75歳の高齢者世帯が、あるいは独居世帯がピークに達するだろう。

周囲の皆さんからは「いつまでも若くていいね」と声をかけられるのは60代まで。残念ながら70に突入したとたんに体調を壊し、あれやこれやの病名がつくことになるのも一つの流れである。

次のような知人(男性)の報告がある。父は亡くなり母が90歳。施設介護までの状態ではないが一人にしてはおけないし、重度からして待機の状態が続く。長男は遠方居住。結局、母は同じ市内の妹宅に。知人は、日中週4日間妹宅へ行く。すべてに気を遣う。よく「老人虐待」などの話を聞く。そしてその言葉が自分に向けられているような気持ちなると述べていた。

自分を生み、育ててくれた母親である。憎いはずはない。だが妹の家族や、妻への気遣い。そして遠く離れたままの兄への不満の中で、「手を上げないまでも、はげしく罵る、邪険に扱う自分の精神状態」に気づくことがあるという。

また、高齢化が進む中での世帯状況がある。これもブログで報告しているが、2012年の調査(65歳以上・厚労省)によると、単身が23.3%・夫婦のみが30.3%・親と未婚者が19.6%となっている。前記二つのケースもさることながら、未婚者が親と同居している19.6%はある意味で重たいものを感じる。未婚の是非を述べるものではないが、親と同居が仮に親の収入を見込んだものとなれば事は深刻である。年収200万円以下の低賃金、あるいは不安定な非正規、パート。そして無年金(雇用主が年金に加入していない)の職場などなど。あるいは無職。このような実態が19.6%に内在しているとすれば大変である。今後、拡大の危険性さえある。そして、そこにあってはならないことを想起させる。

これもまた、2025年問題の一つになるだろう。高齢者にとってまだまだ受難の日々は続く。

 


 最後良ければすべて良し・お墓を考える第二弾

2014-05-29 11:17:02 | 日記

   最後良ければすべて良し・お墓を考える第二弾

 

昨年の8月15日のブログに「最後良ければ、全てよし。お骨の処し方を考える」として「合葬式墓地」についての文章を載せた。そこでも述べているが、この私も、当時の流行りもあってのことだが、「死んだら、骨は粉末にして海に撒いてくれ」ということを口にしていた。しかし、65歳のある夜夢を見た。「母と一緒に、夜の田舎道を歩いている」。ただそれだけである。それは戦後の食糧不足の中で、母の実家に芋や米などの無心に出かけた。なぜかそこにはいつも私がいた。実家とは言え、代が変わり敷居が高かったであろうことは、子ども心にも家を出るときの母の表情から読み取れたことを記憶している。

しかし、子ども3人の腹を満たすためには、なりふりをかまってはいられなかったのであろう。夢から覚めた私の脳裏にそのことの記憶がよみがえった。朝食を終えた私は直ちに車のエンジンを始動させていた。墓参りのためである。見た夢もさることながら、65歳という年齢もそうさせたのであろう。

いずれ、我が子も60を超え私の年齢になる。夢から覚めた私と同じような気持ちになった時、「親父の骨は、どこかわからないが海に撒いた」ということはどうなのか。足を向ける先がないということが子どもにとってどうなのだろうかと考えた。それが「合葬式墓地」の実現を求めるという意識へと転化させた。以来、既存の墓地見学をはじめ、ネット検索を通した知識をもって行政に対する建設要望の行動を開始した。そして8年目昨年、ようやく建設に向けた市の調査費計上が実現した。そして平成27年供用開始にむけて準備が進められている。

何故「合葬式墓地」なのかである。少子化、そして子どもの分散化の時代にあって、今まで墓地管理が困難になってきている。さらには自分の宗教観にもとづく「既存の墓意識」の変化もある。そこに、自然葬、樹木葬などが生まれてきている理由がある。

前記の墓地建設にともなう運動の中で、多くの皆さんとの語らいを持った。例えば「お墓の管理ができなくなっていくだろう」の提起には男性の多くが次のように述べる。「子どもや孫は、俺の墓を管理するのは当然だ。それだけのことをしてやった」と。傍らの奥さんは「お父さん、お墓の管理は私たちの代で終わりですよ。子ども、ましてや孫に求めることはできませんよ」。このような会話も決して少なくない。まだまだ「男社会」が生きているということを知った一面でもあった。

今般の原発事故による避難者の実情に「自分の死後の処し方」がある。地元にお墓はあるが荒れ放題。お寺も避難して無い。現に遺骨を安置する場所も無い。中間貯蔵施設の建設にあたりそのことが地元住民から出されている。30年間帰れないのであれば墓地をつくって欲しいと、当然のことである。政府は共同墓地の建設を約束したようであるが、それであれば「双葉郡共同公園墓地」をつくってはどうかと提案したい。宗派を問わず、誰でも埋葬できる共同墓地である。各々が管理する一般墓地の区画も良し、共同管理の合葬式も良し。この際思い切った「墓地文化」を双葉郡から発信してみてはどうかと提案したい。

そして、その実現の暁には、桜の月にはお花見会。夏は花火大会や盆踊り大会。秋には芋煮会など、かつての地元民が集まり、思いのたけの時を過ごす場にすることは意義のあることではないだろうか。


カタクリの花とギフチョウの生と死・自然界の営み

2014-05-26 10:19:23 | 日記

   カタクリの花とギフチョウの生と死・自然界の営み

「丸ごと知りたい・里山ワンダーランド」(BSプレミアム5月25日放映)を見る。

大きな一軒屋の前に広がる10反の稲田、そこからは10人が食べる1年間の米がとれる。左右は雑木林。燃料の薪を切り出す、またはキノコの種を植え付ける。山菜も芽を出す。その大きな家には10人の家族が住んでいたという。里山に囲まれた自給自足の生活、そのような画面から始まった番組にはまり、最後まで見終えた。

過日、近くの温泉街の食堂へ行った。この時期恒例の、一日50食限定の「10割そば」を食べるためであった。注文したのが天ぷらそば。素材はカタクリの花・タラの芽・フキノトウなどの山菜。揚げたてたカタクリの花の紫とフキノトウなどの緑が微妙に冴えていた。

「セシュームがどうとか、出ているの、出ていないの」とか、産地は何処などの意識は全くなく、そばの香りと山菜の甘さが、至福のひとときを与えてくれた。

さて、このカタクリの花である。4月下旬から5月にかけて咲く。テレビの画面は、山形県鶴岡市の山林に咲くカタクリの花畠を写し出していた。カタクリの寿命はおおよそ10日。時を同じくして姿を現すのが春の女王と言われている「ギフチョウ」である。春先の僅か2週間、このギフチョウはカタクリの花の蜜を吸い、そして子孫を残し死んでいく。カタクリも、蝶に花粉を広げてもらい子孫を次の春に残す。

そこに、自然の営みの不思議さと偉大さを見出す。そして共存共栄によるしか種の継承のないことを知る。

そんな想いの中で「蜂の2・6・2の原則」を思い出す。

巣箱から飛び出しせっせと蜜を集める「働き蜂」がいる。しかし、すべての蜂がそうかと言えば、それは全体の2割であり、4割は普通の働き、後の2割は全く働かないという世界がそこにあるとの説である。そこで働き蜂の2割を巣箱から取り除く実験をした。普通の蜂とさぼりの蜂だけになるかと言えばそうではない。そこから新たな2割の働き蜂が誕生し、その2・6・2の比率は変わらないという。さらに、取り除いた働き蜂の中からも「さぼる蜂」が生まれる。

この法則は、生物界の食物連鎖とも関連するだろう。例えば、オオカミと鹿が生息している地方で、鹿を保護するためにオオカミを除去したとする。すると鹿は異常に繁殖し、山を荒らすことになる。

このことで思い出す記述がある。旧陸軍が大陸侵攻にあたって、兵隊の防寒のためにオオカミの毛皮を大量に調達した。多くの猟師が競ってオオカミを射殺した。それがオオカミの絶滅説である。そして、鹿をはじめとして、オオカミの存在によってバランスの取れていた生息の分布が変わっていった。すべての生物は、本来、絶妙なバランスの下で存在し続けている。自然の均衡を保っていると考えられる。

それをぶち壊したのが、そして、ぶち壊し続けているのが人間であるとするなら、人間はやがてそのしっぺ返しを受けるだろう。そのようなことを考えさせられながら見たテレビの放映であった。

 

 


認知症の女性、行方不明7年間の生活費1000万円はどうする

2014-05-25 16:10:20 | 日記

    認知症の女性、行方不明7年間の生活費1000万円はどうする

テレビの放映によって身元が判明し、家族のもとに戻れた67歳の女性の保護先での生活費を請求できるか。このことが問題になっている。報道によると、保護をした館林市が支出した金額は1000万円を超えるという。市は県や国と相談して対処するとしているが、どのような結果になるにせよ、その結論については賛否両論の意見が出るだろう。

大阪市の路上で保護された認知高齢者、仮の名を「太郎さん」と呼び、介護施設で生活をしていた。太郎さんの写真入りで報じた毎日新聞の記事により家族が判明した。その間2年間である。解説によれば、このような不明者の保護に当たっては、その自治体の長が、成年後見人を選び対処することになるとのことだが、後見人の努力によっても、太郎さんの入所先はなかなか見つからなかったという。

館林の女性にしても、大阪の太郎さんにしても特異なケースとは考えられない。

認知症やその疑いで、徘徊などによる行方不明者は年間1万人いると言われている。そして4月17日に放映されたNHKの番組は、行方不明となり、死亡した家族などを取材した結果、一人暮らしの高齢者が全体の3割を上回ると報じている。中には、一人暮らしは困難と判断しつつも、入所先が見つからずそのまま自宅で暮らしている間に、行方不明となったという実例も紹介していた。このように考えると、本人、あるいは家族の自己責任として片づけることができるのだろうかとなる。

一方、生活不能な要介護者にも家族(同居、別居の別はあっても)がいるだろう。それなりの介護スタッフの世話もあったろう。二三日はわからないことがあっても、長期間、行方が分からなくなったとなれば大騒ぎになって当然である。しかし、さして大騒ぎにならないケースも少なくないという。

「実父母、そして義理の父母4人を看取った嫁」。こんな話もないではない。しかし、そうはならないケースに、高齢者を抱える家族の中の、複雑ないがみ合いや「親の介護から逃げる」姿を想像する。むしろ、その実態が多いのではなかろうか。そのことを「人間性を失った姿」と切って捨てることができるだろうかと私は煩悶する。そして、悩ましい、悲しい事件を目にすることがしばしばであることの事実を見る。

また、身体年齢より精神年齢の老化がすすむというケースが多くなったということもある。医学的根拠を示せないが、私たちが子どものころの老人は、身体機能と精神機能の劣化が同時に進行したように思う。だから年齢に応じてこの二つの機能が衰え、病気を境に、さして長期にわたることなく死を迎えていったような気がする。

しかし、今の時代は「精神的老化」が進む中で、身体は「元気」という姿がある。そこに思いがけない行動が生まれる。それが徘徊の結果の交通事故や、「長い放浪の旅」の結果県外で保護されるケースも生まれる。

二つの機能の劣化が同時に進行をすることが望ましいと思うが、これとて選択するわけにはいかない。また、同時進行が「良し」とは言えない実態もある。

いずれ迎えるだろう2025年。戦後のベビーブーム誕生者が75歳を迎える。ますます矛盾は拡大するだろう。

今後は、孤独死や徘徊死も、受容しなければならない時代になるのかと意識する自分をそこに見出す。