報道に作為を感じる。アベ・サプライズの演出と報道機関の意図は
最近のニュース番組の構成に疑念を持つ。とりわけNHKに対するものが強い。一例を上げる。それは韓国の旅客船沈没の報道である。事故以来40余日が経った。もちろん当初の事故発生、救出困難、多数の修学旅行生徒の犠牲、そして船長の責務違反などニュース素材は沢山あった。しかし、今もってそれがニュースのトップにすえられることに異常なものを感じる。しかも、テレビ番組の午後7時、あるいは9時のニュースは「ゴールデンタイム」である。
この間、国会も開催されていた。TPPの経過は、社会保証制度の改定は、教育委員会制度の改定は、そして原発事故現場の実態は、もちろん憲法解釈などなど、国民が注目しなければならない情報源が、スポイルされる、あるいは取り上げても付けたしの取扱いに「どうしてだろう」という疑念を持ったのは私だけであろうか。
マスコミが社会的公器と言われて久しい。そのことは課題の先取りと意識の喚起、場合によっては警鐘をならす「社会的責任」という性格をを持つことであった。その意味で、情報源の順位はあっておかしくはない。集中されてよい。だが、その順位を取り違っているのではないかと指摘したい。
マスコミの報道が異常だと述べた。しかし、そのマスコミに期待し、あるいは関心を持つのが、韓国船であり、「あすか」の覚すい剤であり、AKBへの傷害、そして女性の死体遺棄であったとする。映画番組の「番記者物語」にしても、記事を面白く、そしてショッキングな面をいかに強調するかの場面がある。作者、演出家は、その番組に聴衆の関心を集中させるかに苦心する。ましてや民報はスポンサーがつく。狙いは視聴率のアップである。とするなら、紙面にあるいは画面が、大衆の関心を集中させる企画となるのは当然となる。企画の軸足はそこにおかれる。スタッフは大衆の関心に迎合する。大衆はそれを求める。しかし、それでよいのかと私は煩悶する。
今般、北朝鮮の拉致問題に明るさをもたらすニュースが飛び込んだ。最終的には被害者全員の帰還の実現であり、不幸にして日本の土を踏めなかった方がいれば、その方の正しい情報がもたらされることである。安倍首相が述べる「その実現を見ない限り、私たちの使命は終わらない」。その通りである。
しかし、ここにも一つの訝りを感じる。期を同じくして伊原局長の帰国報告があった。詳細は官房長官が触れるとして会見は終わっている。だが、その伊原報告からは、その後に行われた安倍首相の記者会見のかけらさえも感じ取ることができなかった。当日は参議院の外交防衛委員会、その前日は衆議院予算委員会があり「集団的自衛権の行使」をめぐる激しい応酬があった。しかし、その報道はスポイルされ、簡略化された。そして安倍首相の記者会見の場面が、何回も何回も繰り返えされたところに異常を感じたのは私だけであろうか。
もちろん、政治的公表のタイミングはある。慎重な表現の必要からの熟慮もあったろう。しかし、かつての東京ドーム国民栄誉式典と始球式に見られた「安倍サプライズ演出」と同質なものを受け止めてしまった。もちろん、かく私も、拉致問題の重要性ついては他者に劣らない認識を持っている。そうであるがゆえに、国会審議の内容が薄められたことに意図したものを感じた。集団的自衛権の行使の問題は、北朝鮮、そして拉致問題の解決と無関係ではない。そのことは拉致被害者の家族も認識しておられると思う。
さて、このような提起はいかがだろうか。