島原半島博物日誌

島原にある某施設のスタッフが綴る非公認・非公式の個人ブログです。

赤松坂

2019-02-27 09:49:38 | 歴史・史跡
GPSの地図を見ていると「久山の磨崖仏三十三観音」の近くにもう一つ史跡があるようだ。
歩いて行けそうな距離なので行ってみた。(表紙写真)
旧長崎街道の史跡のようだ。
解説板には「赤松坂」と書いてある。

「この坂を登り詰めたところに赤松の巨木があったことからこの名がついたという。」

「坂道の保護のためぐり石(※)が敷き詰められていて緑陰の中にあって一面に苔が生えていたので『苔の道』とも呼ばれている。」
※くり石(栗石)の事と思われます。栗石;クリの実ぐらいの大きさの丸い石
「また、この松には太閤手植えの伝説があり、久山・貝津の境界を示すものとして『峠松』の名もあった。」
異名が多いな。w
「坂道の中腹に街道登りの荷車の離合場所として広巾になっている。」

坂道を登り上がると車道に行き当たった。
GPSの地図を頼りに左折、もう一度左折して坂道を下って行くと、

最初の道標の場所に戻ってきた。

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久山の磨崖仏三十三観音

2019-02-26 11:28:49 | 歴史・史跡
昨日はお堂の写真で終わっているが、目的の物はその後ろにあります。(表紙写真)
一見ただの岩壁に見えますが、これが諫早市指定の有形民俗文化財「久山の磨崖仏三十三観音」です。(昭和五十九年七月二十六日指定)
よく見ると岩壁に小さな仏様が彫られているのが分かりますか?
もうちょっと寄って撮影したのが、下の写真です。

「南面する第三紀砂岩に彫刻されています。崖面を光背型(仏・菩薩の背後にある光明を示す型)にえぐりこんだ中に、観音像を陽刻しています。(在銘は多く認められますが、ここでは割愛させて頂きます。)
 本例で注目されるのは、巡礼の世話方が施主として記銘されていることです。村内十数名の巡礼の折は、その世話方も決めて行う風習を表しているものと考えられ、観音信仰が広く行き渡ったことを示唆します。
 また、巡礼が一つのレジャー的な要素をも加味していたことは、その人数をして知らしめていると言えます。」
三十三観音信仰とか、解説文を理解する為にはもう少し勉強が必要な部分があります。
が、今はさっとなぞる程度でこの位理解できれば良いでしょう。

ネット上では間違って上の写真を「磨崖仏」としているものもありますし・・・。
磨崖仏とは、天然の岩壁に彫刻してある仏像のことです。
上の仏像様はあくまで諌江八十八カ所の八十五番札所を現しているだけです。
本当に三十三あるのかは、面倒くさくて数えませんでした。
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「久山の磨崖仏三十三観音」への道

2019-02-25 11:11:50 | 雑談・その他
「〜への道」シリーズです。
手持ちのネタが少ないので、引っ張らせて下さい。w
昨日「史跡や歴史的な物を調べられない」と書きましたが、『諫早市の文化財』は持っているので、文化財については調べる事が出来ます。
さて、昨日の話の続きから。
一旦、年神社を参ってから(※年神社については後日調べがついてから報告します。)、アクロスプラザ側に戻ってきた。
ここから国道57号線を外れ、地元の人しか通らないような小道に入って行く。
今回もケータイのGPSが頼りだ。
暫く歩いていると道標を見つけた。

橋を渡って川沿いに歩いて行けば良さそうだ。
ちなみに川の名前は久山川というらしく、上流側にむかって歩く。

見落としそうになったが、住宅地の合間に印が建っていた。
おお、こんな狭い道を進むのか。
洗濯物なんか干してあって、生活感ただような〜。w

狭い道を突き当たりまで進むと、おそらくここが目的地だ。(続く)
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今時珍しい地下歩道

2019-02-24 12:34:24 | 雑談・その他
多良見町の海側(大草や伊木力)辺りの文化財はまだいくつか調べがついていない物もあるが、大概紹介できたと思う。
山側(内陸部)の文化財にはほとんど手をつけていないが、多良見町の内陸部は商業地としてかなり栄えている。
落下傘的に下りられる駐車場が見つからない。
仕方ないので、多良見町と境を接している諫早市の久山町近辺を歩いてきた。
国道57号線沿いのアクロスプラザや久山台団地がある辺りなので、知っている方も多いと思う。(表紙写真)
道を渡りたいのだが、片側2車線の車の通りが多い国道57号線だ。
近くに横断歩道は無い。
少し多良見町側に戻れば歩道橋もあるのだが戻るのは面倒だなと思っていると、地下道を見つけた。

こんな所に地下横断歩道があるなんて知らなかった〜。
普段、車で通り過ぎるだけなので新しい発見だ。

ものは試しに渡ってみる。
暗かったり、落書きがあったりして犯罪に繋がるイメージのある地下歩道は減りつつあると思っていたが、今時珍しいなあ〜。

渡りきった反対側から撮影。

さて話を現在に戻すと、雲仙に帰って来る際に南串山の図書館に寄って来た。
諫早市の郷土誌を借りるためだったのだが、なかった。
合併前の森山町や飯盛町などの周辺町村の郷土誌はあったのだが、元々の諫早市の郷土誌は雲仙市の図書館には(ネットで蔵書検索してみた結果)無いようだ。
県立図書館は引っ越し中だし、諫早市図書館では図書カードを作る事を拒否られた。
さあ、どうやって諫早市の史跡や歴史的なものを調べるか、困ったぞ。
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十六善神社

2019-02-23 14:24:37 | 寺社・仏閣
神額にも「十六善神社」って書いてある。
ああ、ここで間違いなかった〜。
一の鳥居と二の鳥居が市の有形文化財に指定されている「十六善神社」です。
「この神社はもとは元釜名字浮津にあって、浮津大明神といわれていました。
 一の鳥居は安永五年(1776年)の建立で、高井良□□、その他数行の氏名が刻んであります。二の鳥居右柱には『當村領主、三村□□□門』と刻まれています。諌早一揆の中心人物であった諌早家老 三村惣左衛門の寄進と思われます。」

隣にも鳥居が建っています。
扁額には「忠魂」と書かれています。
忠霊塔のようですね。

「延宝三年(1675年)に痘瘡(天然痘)が流行した時、神のお告げにより神社を現在の位置に遷して祀ったところ、痘瘡の流行が止んだといわれます。専務神官をおいたのは寛文十六年(1661年)といいますから、浮津宮時代からの神官ということになります。以来十二代に亘って高井良氏が奉仕されたが、現在は神官不在です。(※昭和40年頃の話で、現在は地元住民が維持管理しているそうです。)
 ともあれ、十六善神社は疱瘡の神様としてひろく崇敬され、遠来の参詣者もありました。諌早家においても毎年代参を遣わし、米十二俵が供進されたのであった。
 天保十四年、藩主鍋島家の若君 勇太郎が疱瘡にかかった時は、喜々津村の村役も十六善神社(惣百姓は氏神社)に参籠するようお達しがあっている。
 神社には宝物の神劍一振りが蔵されていたが、昭和二十年占領軍(米軍)による武器押収のため持ち去られた。」
新しい方の多良見町の郷土誌にはもう少し色々と書いてあるのだが、量が多いし、今のところ重要度もそれ程高くないので割愛する。
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探索再挑戦

2019-02-23 12:43:00 | 雑談・その他
時津に帰る途中、多良見町を通ります。
はい、大草に立ち寄りました。(表紙写真)
伊木力に大草に、ほんと良い所ばかりだな〜多良見町。
1月27日記事「探索失敗」の再挑戦です!
今回はちゃんと下調べしてきたぞ。w
前回と同じ、運動公園の駐車場に車を置かせてもらいました。
間違って大草小学校辺りをウロウロとしていましたが、本来ならもう少し諌早よりを探さなければいけなかった。

少し歩くと、このような場所に着くのだが、ここから右のカーブミラーの道へ曲がらなければならない。
細い登り坂で、本当に地元の方でもなければ入って行かない道だ。
登り始めるとすぐに探していた場所をついに見つけた!(続く)
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ミサゴ19

2019-02-22 13:19:23 | 野鳥
3度目の登場ですが、ここまではっきりと撮影出来たのは今回が初めてです。
ぶっとい足の指してますね〜。
全国で繁殖する留鳥で、魚食を専門とするタカの仲間「ミサゴ」です。
時津に帰る途中、諫早市の多良見町伊木力で撮影しました。
伏せていましたが、人生初のフクロウを撮影したのも多良見町でした。
自然が残る良い所ですね〜、多良見町。
白いお腹の猛禽類が畑の上を飛翔しているのを見つけて、急いで車を停めて撮影してきました。
※勿論、交通安全第一です。w
「ミサゴ」の語源は、水中に足から突っ込み魚を捕らえる事から『水さぐる』と言われています。
日本版レッドデータブックにも記載される準絶滅危惧種です。
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明日、明後日お休みします。

2019-02-19 15:51:42 | Weblog
ネタはまだ2、3あるのですが、調べがついていません。
今日は朝からひどい雨と霧でした。
気温も10度と2月とは思えない、2桁気温を記録しました。
霧に関しては、今現在も晴れていません。
明日、明後日と連休を頂いているので、時津の実家に帰ります。
ブログの更新はお休みしますので、あしからず。
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島原城下を歩く-番外1(島原城田町門跡)

2019-02-18 13:23:53 | 歴史・史跡
覚えている方はいないと思いますが、5年前の2014年に「島原城下を歩く」という名称で観察会を実施しました。
島原城下に残る史跡などを巡り、歴史について学びました。
その時に訪れた「東虎口門跡」が印象的に残っており(2014年4月29日記事)、今回島原城下を散策している時に見つけた「田町門跡」にもピンときました。
過去の記事にも書きましたが、やはりお城は軍事要塞だったのですね。
こちらの門も入ってすぐに折れ曲がった道になっています。
軍勢に攻められた際に大勢の人間がいっぺんに通れないようになっているのです。
う〜ん、これだから町歩きはやめられない。w
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ミサオノキ(諫早市)

2019-02-17 12:38:50 | 植物
時間を巻き戻します。
諫早市のオガタマノキや諌早駅を見に行った時です。
諌早公園(高城址)を散策している時に見つけました。
「本州の紀伊半島・四国・沖縄及び中国大陸南部から熱帯アジア、オーストラリアに分布するアカネ科の常緑低木『ミサオノキ』です。」
前回、諌早公園を訪れた時は見落としていたのか、それとも興味がなかったか。w
「5月頃、黄色い小さな花がたくさん咲きます。果実は7mmくらいで、秋には赤褐色、熟すと黒くなり、晩春まで枝についています。」
そして、今回ひっかかったポイントは「植物学者の牧野富太郎が名付けた」という事です。
事務所に牧野富太郎の植物図鑑があったので、引っ張り出してきました。
「操の木の意で、この木が岩の間に生えても、常に青々として色が変わらないので操の堅固なことにたとえ、かつて筆者(この場合、牧野富太郎氏)が命名したものである。」
おお〜本当だったんだ〜。
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