メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

プッチーニ「蝶々夫人」

2017-12-28 09:21:43 | 音楽一般
プッチーニ:歌劇「蝶々夫人」
指揮:カレル・マーク・シション、演出:アンソニー・ミンゲラ
クリスティーヌ・オポライス(蝶々夫人)、ロベルト・アラーニャ(ピンカートン)、マリア・ジフチャック(スズキ)、ドゥウェイン・クロフト(領事シャープレス)
2016年4月2日 ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場 2017年5月 WOWOW
 
プッチーニの作品のなかでも、音楽的として極めて優れた作品、1904年の初演だから近代のもの、しかし特に日本人としては何かオリエンタリズムが素直に受け取れず、とりわけ衣装、装置、しぐさなどリアリズムでやられるとたまらないところがあったこの「蝶々夫人」、このミンゲラ演出はそれらを一切振り切り、一人の女性が一つの完全な世界を完成する様を見事に表出し、感動させる。
 
それぞれの幕で、オーケストラが始まる前に主人公と相手との関係を静的に示す像と光を配置し、装置・背景はふすま・障子、後方の段くらい、それらと照明を効果的に使い、ふすまの動きで登場人物の各場での関係を制御している。
 
また、蝶々夫人とピンカートンの間に生まれた子供はなんと文楽の流れをくむ人形(操るのは米国の人たち)で、最初はアップになると違和感もあったが、見事な動きは天才子役も及ばないし、主人公の歌と演技に完璧に合わせられていて、それが大きな意味を持っていることが理解されてきた。
 
そういう中で蝶々夫人を演じるオポライスは、この演出と音楽をよく理解し、その美貌、スタイルも駆使した歌唱と演技。日本に来た米国士官にもてあそばれた女性の悲劇という単純なものではなく、途中、終盤には、自らが考える完璧な愛の世界を完成させるとでもいう流れに持っていく。したがってその最後も絶望で自害というよりは、世界を完成させるための最後の一閃とでもいうように思わせる。まるであのイゾルデの死のように。
 
衣装も特に主人公については、着物ではあるが、かなりモダーンにデザインされ、その演出される動きを想定したもので、これも魅力的。
 
ジフチャックのスズキは、長年いろんな演出でやってきたらしいが、この役の意味を、つまり主人公の世界を完成させるためのサポートとしての部分を、うまく表現していた。
ピンカートンのアラーニャ、この人こういう役は合っている。ちょっといい加減な二枚目役というか。
シャープレスのクロフトも、説得力があった。
シションの指揮は、曲のよさをうまく引き出していたと言えるだろう。

それにしてもこのオポライスといい、カルメン、シンデレラなどで見てきたエリーナ・ガランチャ(今回の指揮者シションは夫君)といい、ラトヴィアからはいい歌手が出てくる。それに二人とも美人。
 
ミンゲラ(1954-2008)は、映画監督として、それも「イングリッシュ・ペイシェント」のそれとしてしか知らなかったが、他にもいくつもの印象的な映画の製作にかかわっていたようだ。54歳で逝ってしまったとは惜しい。

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ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」

2017-12-16 15:27:44 | 音楽一般
ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」
指揮:ダニエル・バレンボイム、演出:パトリス・シェロー
イアン・ストーリー(トリスタン)、ワルトラウト・マイア(イゾルデ)、マッティ・サルミネン(マルケ)、ゲルト・グロホウスキ(クルヴェナール)、ミシェル・デ・ヤング(ブランゲーネ)
2007年12月 ミラノ・スカラ座  2013年12月 NHK BS
 
いずれ見るつもりでいたのだが、ワーグナーについては待ちになっている作品(その中にはトリスタンも)がいくつもあって、ここまで延びてしまった。時間はたってしまったが、とにかくよかった。
 
バレンボイムとミラノ・スカラ座によるワーグナーは「指輪」で感嘆していたから、期待は大きかったのだが、それを上回る。
彼が振るこのオーケストラ、歌手たち(特にイゾルデのマイア)、シェローの演出があいまって、とにかく表現が説得力あるものとなっている。
この話はシンプルだから、全体をシンプルに、神秘的(たとえば象徴的)にしたようなものがこれまで多かったと思う。これは全く反対である。
 
注意をそらさずに見ていられるからか、気付いたのは、第一幕で物語はほぼ語りつくされていて、この話の由来、それについてイゾルデがどう思っているかが語られる。それはこの後の進行、結末もほぼ予想させるものであって、第二幕のトリスタンとイゾルデの長く圧倒的なラブシーンも第一幕をなぞってされに高みに行くものとなっている。
 
第三幕の悲劇としての動きとフィナーレも、前の二つをこっちが受け止めたあと、さらにそれを高めていく。
ワルトラウト。・マイアはトリスタン、マルケ、そして特に侍女ブランゲーネと比べ小柄だから、ワーグナー歌手として定評はあったが、それもフリッカとかの印象で、ブリュンヒルデをやるような人ではないから、最初ちょっとなじまなかったが、それはすぐにもう、この人の「世界」をつくり進んでいく歌唱と演技に引き込まれてしまった。
 
くりかえすけれど、歌唱、オーケストラ、そしてトリスタンとしては具体的な装置と動きをもったシェローの演出が、見事にぐいぐいと進み、私を引き込んでいって、常に「死」がそばにあるこの作品であっても、表現として投げかけてくるのは「愛の歓び」である。
 
そして、最後のいわゆる「イゾルデの愛の死」では、照明がイゾルデのみにあたり、カメラは一つだけでイゾルデをとらえ続ける。これは効果的だ。中ほどから、イゾルデの髪と額の境あたりから血が一筋流れだし止まらないのも衝撃的で、これは西欧の感覚なんだろうが、次第に説得されてくる。
 
この部分の最後、オーケストラが大きな波、潮で押し寄せ、引き、また襲いかかりというあの箇所、随分昔聴いたあのクナッパーツブッシュ/ウィーンフィルの演奏(オケのみ)が圧倒的で、その印象がつきまとってきた。今回それにまさるともおとらないバレンボイム/スカラだが、これにぴたりと見事に呼応してマイアの声が乗ってくる。もうこれはその場、ライブのいい意味でのハプニングなのだろう。
 
パトリス・シェロー(1944-2013)はおそらくこれが最晩年に近い。カーテンコールでマイアが舞台袖から連れ出したが、満足そうだった。あのブーレーズとバイロイトでやった「指輪」で衝撃を与えてから随分経って、衝撃と説得性を兼ね備えたともいえよう。



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草原の輝き

2017-12-14 09:21:40 | 映画
草原の輝き (SPLENDOR IN THE GRASS、1961米、124分)
監督:エリア・カザン、原作・脚本:ウィリアム・インジ
ウォーレン・ベイティ、ナタリー・ウッド
 
公開されたときの情報では、若い娘(ナタリー・ウッド)が高校の同級生(ウォーレン・ベイティ)とつきあっていて、彼の性的欲求にためらっているうちうまくいかなくなり、彼は別の娘と、、、という話だった。
 
今回見てみてそれは確かにそうだが、彼女のためらいは個人的な潔癖さというよりは、親の宗教的、道徳的なもの、また彼の家は裕福だから簡単に与えて遊び相手で終わるより最後に結婚まで持っていけというこれまた親の思惑など、という設定で、二人の周囲の家族などなどの、時代に翻弄される人生を扱っている。
 
時代は1925年ころから1930年あたり、禁酒法、大恐慌をはさんだ頃で、それでももう高校生が車に乗り、フットボール、パーティと、親世代の禁欲的なモラルと経済成長を反映した風俗が混在している。高校生の様がしばらく前のTVドラマシリーズ「GLEE」とほとんど同じなのには驚いた。
 
最後まで見れば、これは様々な人生の変遷を含んだ話になっていて、しかもインジの脚本はじっくり見せ、破綻なく進んでいく。この映画で唯一オスカー(脚本賞)を取ったのも不思議ではない。
 
予想したラストとは違っていたが、後味は悪くない。見終わってみれば、いい予定調和だろうか。これもある意味で「シェルブールの雨傘」に通じる。
 
あまりにもルックスがよすぎる主演の二人、さてと途中までは思ったが、最後まで見ると、演技も含めほぼ納得。
ナタリー・ウッドは何しろ「理由なき反抗」(1955)の後、これと同じ年に「ウェストサイド物語」もあって、一番売れていたころ。一方のウォーレン・ベイティはこれがデビューのようで、美男ぶりとシャーリー・マクレーンの弟というのが効いたのかもしれないが、その後の映画界にとっては幸いだったかもしれない。「ボニーとクライド/俺たちに明日はない」(1967)あたりから製作にも多くかかわった。

ベイティで印象的なのは、エリア・カザンがアカデミーの名誉賞をい受けた時、彼が赤狩りに協力していたとして会場が非難の嵐になったとき、彼が立ち上がってそれをなだめていたことである。なにしろ「レッズ」を製作したベイティである。いくら本作の監督の縁といっても、と思ったのだが、なにかもっと大きな考えがあったのだろう。
ベイティの映画で一番好きなのは「天国からきたチャンピオン」(1978)。



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熊谷守一 展

2017-12-12 21:28:57 | 美術
没後40年 熊谷守一 生きるよろこび
2017年12月1日(金)- 2018年3月21日(水)
東京国立近代美術館
 
熊谷守一(1880-1977)の代表的な作品はいくつかの機会に見ているが、こうしてまとめて見るのははじめてである。この人の特徴としてあげられる太い輪郭線と塗りつぶしたような、色彩の組み合わせ方としては貼り絵のような構成、それは70歳を過ぎるあたりからのもので、若いころからそこまでのもの、そして自宅にこもりきった晩年の傑作群を、存分に見ることができる。
 
こうしてみると、子供を亡くしたときの「ヤキバノカエリ」(1956)も、以前見た時より輪郭線、色彩の選択、三人の身体など、より考え抜かれ工夫された絵として受け取ることができた。
  。
昼間長い時間をそれも場合によっては何年もかけて熊谷流に観察し、実際に描くのは夜で、彼流の色彩理論で描いたそうで、それはなるほどここまで煮詰めた、これ以上変えようがないという色の美しさとバランスに結晶している。
 
またいくつか経過する時間が反映されているものもあって(たとえば「稚魚」)、これも楽しい。もう一つ極め付きのようなものをあげれば「雨滴」(1961)!
 
97歳の生涯、それは東京美術学校では青木繁と同期、そしてここに長谷川利行(1891-1940)が描いた「熊谷守一像」(よく描けている)が展示されていることなど、美術の世界を長く存分に生きたともいえる。
 
なお、これらの作品、童心の世界ではなく、子供に見せるといいという絵でもない。




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君の名は。

2017-12-11 21:07:13 | 映画
君の名は。(Your Name、2016日本、107分)
監督:新海誠 
声:神木隆之介、上白石萌音、長澤まさみ、市原悦子
 
たがいに全く知らない高校生の男の子と女の子が、夢の中で交錯し、目が覚めたら体はもとのまま、内面が入れ替わっている。そのままではなく、戻ることもあれば、LINE(?)などで連絡することもある。それぞれ戸惑い、そのうち会ってみたいと思い、女の子の住んでいる山村への彗星最接近というサスペンスがからまる。
 
しかし、この2時間弱、長く、最後までしっかり見続けようとしたら疲れた。この不思議な世界、ストーリーとしては関心を持ち続けること、それが主人公達にとってどれだけのものか感じることは、出来なかった。
 
私がこのSF的な世界に、というよりはSNSの世界が現実と代替しうる世界に、親しんでいないからなんだろうか。そう決めつけるのは性急か。
 
またこの彗星の話、なくてはならなかったか。これ抜きで、二人の間の話に集中し、もう少し短くまとめ、より実験的な、確信犯的なものとしてもよかったのではないか。
 
それでも絵として優れているとは思う。建物、乗り物などを主とした外景、日常の道具などは、きわめてリアルに表出される一方、主人公たちを中心とする主たる人物たちは典型的に優れたフラット(スーパーフラット?)で、これは「約束」なんだろうが、それはどうでも技法としてきわめて洗練されている。また頻出する画面中心線の「引き戸」のクローズは、場面転換のトリガーとして効果的だ。
 
肩すかしにあったようなのだが、このおそらく何億人かにうけた作品、私とちがう世代にはなにか強いインパクトがあるのだろう。

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