メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

カルメン (メトロポリタン・オペラ)

2011-03-25 22:02:41 | 音楽一般

ビゼー: 歌劇「カルメン」
指揮:ヤニック・ネゼ・セガン、演出:リチャード・エア、振付:クリストファー・ウィールドン
エリーナ・ガランチャ(カルメン)、ロベルト・アラーニャ(ホセ)、バルバラ・フリットリ(ミカエラ)、テディ・タフ・ローズ(エスカミーリオ)
2010年1月16日、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場
2011年2月21日、NHK BShiの録画
 
前にも書いたようにこの数年はオペラの映像を見てないし、新しい録音にも接していないから、エリーナ・ガランチャは初めて聞く名前である。今回メットを三つ録画した中でもそれほど期待してなかったのだが、うれしい誤算どころではない。
 
見始めてしばらくするともう、ひょっとしてエリーナの前にも後にもこれほどのカルメンはない、と予感がしはじめ、見終わってそれは確信となってしまった。
 
そにかくあの少しねばりのあるよくとおる声、激しいが乱れない歌唱、そして表情と演技とダンスのセクシーなこと、すべてがこのタイトルをメットの豪華な舞台で味わうのに、最高である。ホセでなくても、この人になら食われてしまいたいと思ってしまう。
エリーナ・ガランチャは1976年ラドヴィア生まれ、身長はかなりありそう。
 
ホセは人気テノールのロベルト・アラーニャ、声も歌もいいけれども、気が弱く人がよさそうな顔である。エリーナと並ぶとなおさらだ。ただこのドラマでホセはあまり強くはない男であり、カルメン、エスカミーリオからあれだけ挑発されてもうじうじしている男である。その愛をカルメンに認めてもらうにはカルメンを殺すしかないというようにドラマは一気にクライマックスにいくわけで、その意味ではこれでいいのかもしれない。
 
その殺されるときに、変に苦しい表情を見せず、一瞬で息絶え、よく決心したわねという表情だけ静止して残すエリーナも見事。
 
実は、アラーニャとおしどり夫婦として有名なアンジェラ・ギェオルギューがこのカルメンをやるはずだったのが、前年に二人は離婚、それで共演するわけにもいかず急遽エリーナになったらしい。何が幸いするかわからないものである。

ミカエラは可憐さばかりでなく強さも持っている(バルバラ・フリットリ本人がインタビューで語っているとおり)という役作りで説得力があるし、ローズのエスカミーリオもピンチヒッターらしいが、あまりあくが強くなく、それはそれでカルメンの性格まかせという結果になるのは見ている方にとっても自然である。
 
指揮のヤニック・ネゼ・セガンは初めて聞く名前、カナダ生まれらしい若手で、歯切れがいい指揮をしていた。
 
演出は特にダンスの入れ方が効果的で、振付も大胆かつ音楽の意味にぴったり、観た甲斐があった。
 
幕間のインタビューと解説は今回もルネ・フレミング、自身もエリーナやバルバラと似た経験があるようで、これもききもの。


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シモン・ボッカネグラ (メトロポリタン・オペラ)

2011-03-23 10:09:31 | 音楽一般

ヴェルディ: 歌劇「シモン・ボッカネグラ」
2010年2月6日、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場
2011年2月22日、NHK BSハイビジョン放送の録画
指揮:ジェームズ・レヴァイン、演出:ジャンカルロ・デル・モナコ
プラシド・ドミンゴ(シモン)、アドリエンヌ・ピエチョンカ(マリア)、マルチェロ・ジョルダーニ(ガブリエーレ)、ジェームズ・モリス(フィエスコ)、スティーヴン・ガートナー(パオロ)
 
シモンを聴くのはずいぶん久しぶりである。「ばらの騎士」同様、高性能機材を使ったカメラワーク、おそらく声がのびのびときこえるように録音媒体と再生環境を考えたダイナミック・レンジ設定によって、快適に楽しむことが出来る。
 
このジェノヴァ総督をめぐる政治抗争、父と娘の秘密、間違いの悲劇、これはヴェルディのオペラで珍しくはない。これらに対する登場人物、その役割を、将棋の駒のように一つ一つ進めながら終幕に至るわけだが、部分部分でかなり無理があって、あまり真面目に見ていると気になってしまうから、それは途中から投げ出した方がいい。
 
一方、音楽は記憶にのこるメロディーは少しだし、ドラマチックでないわけではないけれどむしろ気持ちよく流れる。ヴェルディも気分よくかけたのではないか。なにしろ、舞台はパリでもエジプトでもスペインでもなく、イタリアだから。

聴いていると、いくつかの場面で「椿姫」に似たメロディーが、プロヴァンスの空と土地、ヴィオレッタ臨終、、、 「シモン」は1857年、「椿姫」は1853年、不思議ではない。
 
さて、今回の目玉はこのバリトン主役にいどむドミンゴである。テノールとしてはパヴァロッティとは違ってある程度の暗さもある声だし、「オテロ」などドラマチックなものも得意としているから、やってみればなるほどといえる。本人によると、プロローグの後第一幕は25年後だから彼の実年齢に近いそうである。
 
ただ、それでも終盤の父と娘、そしてフィエスコとの再会の場面では、風貌ともどももう少し老いがあり、その上での必死なところがあってもよかったのではないか。これからさらによくなることは期待できるけれど。
 
それはフィエスコのモリスにも言えて、ほんとに立派な歌唱だけれど、風貌ともどもこわさがもう少しあれば。
 
マリアのピエチョンカは見事な歌唱、個人的な好みからするともう少し可憐でもよかったか。
 
「シモン」を初めて聴いたのは、1977年のアバド指揮ミラノ・スカラ座のレコード。ほぼこのセットで1981年スカラ座初来日時の公演を聴くことが出来たのは、今から考えると実に幸せなことであった。そしてこのときもう一つ聴いたのがカルロス・クライバー指揮「ラ・ボエーム」。
 
シモンはピエロ・カップチルリ、マリアはミレルラ・フレーニ、フィエスコはニコライ・ギャウロフという、このキャストはこの人たちのためにある、特にカップチルリは当時ヴェルディのオペラに登場する性格俳優的な役では第一人者だった。
 
演出のモナコはあのマリオ・デル・モナコの息子である。これは「ばらの騎士」と同様、メトロポリタン流というか、音楽と人間のドラマを味わうことに集中している感じで、前記スカラ公演の鬼才ジョルジォ・ストレーレルのように、視覚的にもあっといわせるしかけを伴うもう少し前に出てくる演出ではない。
 
そうしてみると、あのストレーレル演出では、舞台奥の大きな帆が記憶に残る。確かにジェノヴァ総督だから「海」があるわけで、モナコ演出では「海」は感じない。「海」が必須なのかどうかは、今わからない。
 
レヴァインはもうメット40年だそうで、やはり向いているのだろう。芳醇、滑らか、ドラマチック、この人がいればリピーターになってしょっちゅう楽しみたいというのはわかる。
 
今回は「ばらの騎士」とは反対で、幕間のインタビュ-ではルネ・フレミングが大活躍。この人、頭もよく、インタビュー、解説とも本当にうまい。それにあの美貌だから。


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マーラー「復活」(メータ)

2011-03-20 22:00:08 | 音楽一般

昨日ようやく「ばらの騎士」を見てここに書いたけれども、3月11日(金)の東日本大震災以来、観たり聴いたりという気がおきず、もっぱらTVで震災のニュースを見て、そろそろ寄付でもしないと、と思うだけで、外出も少なかった。
当時は都心にいて、いろいろあって3時間ほど歩き、動き出した私鉄を乗り継いで深夜といってもそれほど遅くない深夜に帰りついたという多少の帰宅難民を味わっただけなのだが。
 
そういう中、今朝の日本経済新聞に指揮者ズービン・メータの談話が載っている。メータはフィフィレンツェ歌劇場を率いて来日していて地震を体験し、できればこういう時だからこそなんとか公演を続けたかったが本部からも離日の命令があり、自分だけでもどこかのオーケストラに客演してチャリティーをやるという試みも結局実現しなかった。
 
それでもこういう時の音楽の力は信じていて、豪奢なオペラはともかくバッハのカンタータ、ベートーベンの「英雄」、モーツアルトの40番などの力、悲劇的状況下の人々に放つメッセージの強さを過小評価してはならないと、メータは説く。
 
1991年の湾岸戦争時、ニューヨーク・フィルをキャンセルしてイスラエル・フィルと連続演奏をしたとき、最後がマーラーの「復活」だったそうだ。

それもあって「復活」を聴いてみた。そうまさにメータの指揮、ウイーンフィルの演奏である(1976年)。
演奏の素晴らしさは記憶どおりだが、歌詞の部分をよく読むと、これは復活を願うというより「復活するぞ」であって、こういう機会にふさわしい。一見あまりにもはまりすぎていてこういう時にはどうかという曲もあるなかで、この曲は違うような気がする。
天国にいこうと道をたどっていると、天使がひとりあらわれ私を追いはらおうとした、私は引きさがりなどしなかった、神から出たものはふたたび神にもどるのだ
生きるために死ぬのだ、よみがえる そうよみがえるのだ
 
思えば、日本フィルハーモニーが解散するとき、最後に小澤征爾が振ったのはこの「復活」で、目の前で聴き、今も放送を録音したオープンリールテープを廃棄するときにダビングしたカセットテープがまだ残っている。
 
ところでこのメータの「復活」、持っているのはCDではなく、35年経ったLPレコードである。少しパチパチ音はでるけれども、それは想定内なので気にならないし、10年前に最後の贅沢としてカートリッジをシュアーV15にして以来、安定したトレースで隅々まで音を拾って再生しているような気がして気持ちがいい。
それに、これはその後ユニバーサルに吸収されてしまった英デッカの録音である。当時のここの録音は特にLPレコードで聴くとほかのものより数段上で、このところの「断捨離」である程度処分したときも、英デッカの録音というだけで残したものが多い。マーラーではこれとショルティ指揮の第7と第8、いずれもCDと比べても遜色ないどころか、味わいは深い。

メータの話にもどると、この人がまだ駆け出しのころ、その名前を中学校のころだったか自分で作った真空管ラジオでFENのクラシック番組を聴いていた時にはじめて耳にした。だからもう彼のキャリアも長い。この談話も当然しっかりした人のものである。


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ばらの騎士 (メトロポリタン・オペラ)

2011-03-20 15:37:40 | 音楽一般

リヒャルト・シュトラウス:歌劇「ばらの騎士」
2010年1月9日ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場、2011年2月20日(日)NHK BShi 放送
指揮:エド・デ・ワールト、演出:ナサニエル・メリル
ルネ・フレミング(マルシャリン)、スーザン・グレイアム(オクタヴィアン)、クリスティーネ・シェーファー(ゾフィー)、クリスティン・シグムンドソン(オックス)、トマス・アレン(ファーニナル)
 
このところオペラは実演はもちろんビデオでもあまり見ていないのだが、2月下旬にメトロポリタンの演目がいくつか放送され、そのうちいくつか録画しておいた。年末に地デジ対策と同時にHDDブルーレイ・レコーダーを買ったので、こういう長尺ものを録画してみるのは楽である。
 
いまさらいうのも変だけれども、この間のオペラ録画の進歩は著しいようで、演奏よりなにより、音がダイナミックレンジ、バランスとも格段に良く、また精細度が高く奥行のある画面が音楽に見事にあったカメラワーク・編集とともに、疲れないで、しかも味わいやすいようになっている。
もっともこれは媒体およびこちら利用者側の機材の進歩と無関係ではないようで、80年代後半、カラヤン晩年のものなども最近DVDで見ると、以前よりレベルが高くなったように受け取れる。この人の将来を見通す眼はやはり並ではなかったということだろう。
 
そういう条件のなかで、ルネ・フレミングのマルシャリン、これは現在評判ということは知っていたがおそらく史上もっともすばらしいマルシャリンではないだろうか。声がきれい、姿もきれい、品もあり、このはしゃいだ開幕からしだいに忍び寄る歳の、時の流れの影に対する不安、諦めと決心、、、これらも見事。
 
スーザン・グレイアムのオクタヴィアンも歌唱、演技はいい。がこの17歳という設定のズボン役としてはちょっと体格が良すぎる(特に身長が)。もっともオックスのシグムンドソンが巨人だからこの人との対照からは変ではないのだけれど。 
 
ゾフィー役は可愛く、純朴であればいいのでシェーファーは可もなく不可もないというところ、ただ表情が神経質に見えるのがちょっと難。
 
衣装、装置はヨーロッパであれば違う色調になったと思う。例えば紫、モスグリーン中心とか。やはりアメリカという感じ。
 
指揮のエド・デ・ワールト、風貌を見ると、このオペラのように「時の流れ」が主役という感はがする。若くしてデビューしたこのオランダ人、最初のレコードは確か小さいオケを指揮したモーツアルトで、そのころの写真は白いTシャツのいかにも今風の若者といった感じだった。彼の指揮でスムーズに流れるオーケストラの華やかな音は、こういうカウチでの鑑賞にはぴったりだ(皮肉ではなく)。
 
「ばらの騎士」を舞台で見たのは、最初が1977年パリ・オペラ座でシルヴィオ・ヴァルヴィーソの指揮、1984年に来日したバイエルン国立歌劇場でカルロス・クライバーの指揮、この2回だけで、あとはクライバーがこのあとウイーンで振ったビデオだろうか。カラヤンの2つはLDで出たときともかく買っておいて持っているけれどもまだ見ていない(いずれ見よう)。
 
最後の全員が去った舞台に、マルシャリンのお小姓モハメド(子役)が出てきて何かを探し回りマルシャリンのハンカチを見つけて去っていく、この場面がある。これなんだろうとずっと考えてきたが、自分の時代が終わり、次の世代の時代になることを受け入れて去るけれども、なにか忘れ物風に残していきたい、大切なものを、とい象徴なのだろう。
 
幕間でかのプラシド・ドミンゴが女声にインタビュー、女性のだれだかが男声(オックス)にインタビューしていて、これも楽しめるし役に立つ。たとえばこのオペラ、最初は「オックス男爵」というタイトルだったそうで、それをシュトラウス夫人がそれでは売れないと「バラの騎士」に変えるよう進言したという。それはもっともで、オックスの歌、演技、風采が立派でないとこのオペラは成り立たない。この人の退場とマルシャリンの退場の、共通する意味がありながら違う味わいを醸し出すのもそうだし、若い二人に追い出されても、必ずしも二人だけが受け入れられるというわけでないという余地を残すためにも。
 
そういう意味では、この演出はヨーロッパ流のそこはかとないペーソスには不足したが、最後のオックスを追い出そうという騒ぎの中、若い二人とマルシャリンをほとんど静止させていたのは、単なる追い出し劇ではないということをしっかり出していた。


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マクベス(無名塾)

2011-03-08 21:50:30 | 舞台

シェイクスピア 「マクベス」 
上演:無名塾、上演台本:隆巴、演出:林清人、音楽:池辺晋一郎
仲代達矢(マクベス)、若村麻由美(マクベス夫人)
2009年10月 能登音楽堂
2009年11月 NHKで放送されたものの録画
 
ちょうどこの年の11月、能登の和倉温泉、そして金沢に旅行したとき、県の知人がこの上演を見たことを聴き、放送されないかなと思っていたもの。あまり軽い作品ではないからか、録画をみるまでにかなり時間が経ってしまった。
 
番組の最初に仲代が語っているとおり、この演出と演技では、欲望にかられた凄みのある人間というよりは、普通のものが、魔女の予言というか、周囲の声、空気にその気になっていってしまう、そういう弱さを表出するという形になっている。どうしてもいつもの仲代のちょっと無理なユーモアがある口ぶりがでてしまうけれど、それもこの設定では範囲内といえるだろう。若村麻由美は外見にもっとやり手の雰囲気があることを予想したけれど、ちょっときれいすぎた。しかし、この女にかかればその気になってしまう、ということは確かである。
 
それとこの主役の二人の台詞は聞き取りやすく、それはさすがである。
 
そして池辺晋一郎の音楽、特にほとんど全編でてくるチェロの独奏、これは舞台の右側で奏者が奏でているのだが、人間の声となじみやすいこの楽器が、台詞を邪魔せずに、しかもその空気を補強して、見事。
 
ところでこのホールは、能登半島の先、東側を穴水から和倉温泉まで走る第三セクター能登鉄道、和倉温泉の少し手前「のとなかじま」近くにある。舞台奥がさっと開くと、そこは野原から森に通じるようになっていて、この借景は演出に使えるものになっている。
 
今回のマクベスでは冒頭で主役たちが馬に乗って登場するところ、そして終盤、まさかのバーナムの森が動いてくる場面、この二か所で使われる。効果的なんだろうが、ビデオでは衝撃がそれほどでもなかったのは残念で、これはやはり実際にに見るしかない。
 
マクベスという作品は、実はあまり見たい、読みたいものではなく、この愚かにも破滅に突き進むというタイプの劇は、「オセロー」も同様、好きではない。シェイクスピアの作品では、実は「夏の夜の夢」とか「あらし」とか、コメディの方が好きである。
 
この台本、魔女そのほか狂言回しのような人物たちが登場するときの台詞は歌舞伎のような七五調になっている。わかりやすいといえばそうだが、もう今の舞台、主役たちがこの今の言葉で自然に聞こえるようになってみれば、どうなんだろうか。
 
と、翻訳はとみれば、当然と言えば当然だがこれは小田島雄志。なつかしい。
小田島先生には大学教養課程で英語を習った。テキストはアイリス・マードック「切られた首」、作者も作品も当時としてはずいぶん進んだもの、と知っってからまだ10年経っていない。そういうものだろう。


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