メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

沖縄・プリズム 1872-2008

2008-11-28 21:44:40 | 美術
沖縄・プリズム 1872-2008」(東京国立近代美術館、10月31日~12月21日)
 
沖縄に関する文化財、美術を東京でまとめてみる機会、と期待したが、肩透かしだったようだ。
 
明治から終戦、そして本土復帰にいたる道のりについて、ビデオで流される珍しい記録映像、多くの写真、沖縄の問題が扱われた雑誌などで展示があり、それは一通りそろっていて、この問題を確認することは出来る。
 
しかしながら、展示されている多様な絵画、それらは沖縄出身、在住、本土からの訪問者などによるものであるのだが、前記のテーマ説明とまとめてみても、受け取る側としては何か中途半端で視点を定めにくいし、バランスも悪い。
 
やはり、沖縄に関係した作家のものから、これはというものを集めて見せて、実は沖縄にゆかりのものだった、という形で示して欲しかった。
新しい県立美術館は見ていないが、どうなのだろうか。
 
それにしても、そういう中で、名だたる有名写真家の作品の中で、燦然と輝くのは岡本太郎の写真だ。

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オンディーヌ

2008-11-25 10:59:41 | 本と雑誌
「オンディーヌ」(Ondine) (ジャン・ジロドゥ 二木麻里 訳)(光文社古典新訳文庫)
 
中世、騎士、水の精の世界で、男と女の間の永遠の真理(?)、永遠の不可能、それがおそらく多くの背景を持つ暗喩(?)を携え、巧みな台詞でフィナーレになだれ込んでいく。
 
ただ、この多分神が宿っている細部、劇中劇もあるような重層的構造がよくわからないから、本当は劇場で上演したものを見たほうがいいのだろう。
 
これは、騎士ハンスの、世間の男の女性観、男女の交わらない平行線を示しているようでいて、それも何かもどかしいものが残る。結末もどうなのか、劇を見れば違うのか。
 
こちらが納得するためには、やはり、ワーグナーが扱ったごとくエロティシズムの要素がないと、死との結びつきが出てこないように思うのだが、ジロドゥにテクストにそういうところはない。
 
途中から、多くはこちらに起因するわかりにくさはさておいて、もう少し抽象的な視点で読んでいった。
オンディーヌは、作者の、騎士ハンスの、そして私の自意識、私の中にあるふたつの自分、その一方であったり他方であったり、それはあるとき突然あらわれ、何かを言い、解決はつかない、どちらかが死に絶えるまでは、現実には両方が死に絶えるまでは。劇ではどちらかが死ぬことが可能だ。
 
「オンディーヌ」というタイトルを見るとまず頭にうかぶのは「加賀まりこ」、調べたら1965年劇団四季公演での抜擢で、当時大きな話題になったのを覚えている。週刊誌などで写真も見ているが、公演そのものは見ていない。こちらの年齢もあるのだろうが、見ても若い時では何も理解できなかっただろう。四季の芝居を見たのはおそらく1967年のジャン・アヌイ「アンチゴーヌ」(市原悦子、平幹二朗)あたりが最初。こっちは「政治」の観点からの理解も可能であった。
 
米国ではオードリー・ヘプバーンが演じたそうだ。1965年四季公演のハンスは北大路欣也。
 
新訳は、といっても旧訳を知らないが、こういう物語の背景、複雑な要素を持つドラマの台詞でありながら、舞台で演じられている調子、空気があって、読み進むのに自然である。
当時の四季などの劇で、コメディでなくても役者の台詞の細部で観客が笑うことがよくあり、これはアドリブかと思っていたが、それはこちらのもの知らずで、オリジナルにその要素があったようだ。ここで笑うだろうという箇所は訳文でよくわかる。

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岡村桂三郎展

2008-11-23 21:47:28 | 美術
岡村桂三郎展」(神奈川県立近代美術館 鎌倉、9月13日~11月24日)
岡村桂三郎(1958-)の作品を見るのは初めて。終了期日ぎりぎりで、紅葉めあてか、また小春日和のいい天気だからか、初詣みたいな鎌倉だった。
 
ずべてが人の背より高い屏風みたいな木の板を焼いて黒くし、それを削ったり岩彩を塗り、魚の鱗状にしたものがベースで、それを削ったり、その上に描いたりして、作品となっている。大きな家なら、一つ飾っておきたくもなるだろう。魔除けになりそうな気もする(これは冗談)。
 
描くもものは、鳥、ガルーダ、泉、象、龍、兎など。それもリアルではなく、何か人間に親しい生命でない、なんと言ったらいいか恐竜時代の感情移入しがたい、それでも生き物、、、
 
解説によると、北斎や若冲を意識しているというが、そういう意識的な力の張り方はあるようだ。
 
焼いて、削って、描いて、といように体を動かしている中で、何かを追求しているようでその先なにが出てくるか。

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人間の絆(モーム)

2008-11-15 17:20:29 | 本と雑誌

「人間の絆」(Of Human Bondage) (上中下 行方昭夫訳、岩波文庫)
サマセット・モーム(1874-1965)が習作ともいうべきものを経て1915年に出版した、自伝的をもいわれる小説で、他の作品よりきわめて長く、文庫本で3冊である。
 
読者の興味をそらさない文章は他のものと共通だから、退屈するということはないけれど、こんなに長く書く必要があっただろうか。
特に、主人公が大人になりひとまず落ち着くまでに現れる何人かの女性について、うまくいかなくて別れたほうが、あきらめたほうがいいと読者は思うようにかかれているのだけれど、これでもかこれでもかと、主人公の迷いと執心が続いていく。
 
そしてその対象となる女性たちがそんなに魅力的ではない。これは描写の問題というよりは、イメージできるかどうかの問題である。
 
ファム・ファタル(運命の女)というものは、こういうビルドゥングス・ロマン(教養小説)で、ドイツのものでももっと違ったタイプではないだろうか。
もっとも、イギリス人は現実的なのか、そういう夢見るようなことは現実的には起こりえないという前提があるのかもしれない。
 
それにしても男女の事情を描いて、イギリスの男性作家は、ディケンズにしても、このモームにしても(「お菓子とビール」など)、特に男性にとって幻滅するような効果をもたらすのは、何かあるのだろう。
 
それはモームも認識していたのだろうか。彼の有名な「世界の十大小説」は読んでないが、その中で彼はジェイン・オースティンの「高慢と偏見」を高く評価しているようだ。もちろんオースティンも夢見る恋愛物語でなく、最後は現実も見据えた賢明さを重視している。それでも彼女の書く物語は、なぜか読んでいて随所に微笑みが出てくるのは、単に女性だからというわけではないだろう。


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アンドリュー・ワイエス展

2008-11-14 22:09:45 | 美術
アンドリュー・ワイエス 創造への道程(みち) 」(Bunkamura ザ・ミュージアム、11月8日~12月23日)
 
アンドリュー・ワイエス(Andrew Wyeth  1917- ) の作品150点を集めた、おそらくかなり大規模な展覧会である。一つの題材に素描、習作など数点あるものが多いが、むしろそういうものでは、鉛筆、水彩、テンペラ、そしてこれがワイエスの特徴とされているドライブラッシュの違いがよく出ている。評判どおり、この水彩絵具がついた細めの筆から指で水分と絵具を搾り出し、最後にわずかに残った絵具で描くというドライブラッシュという手法の威力はよくわかる。実に写実感がある。
 
この画家は幼時から体に問題があって学校に行かずに、画の手ほどきを受け、生まれたペンシルヴァニアの周辺、そして近しい人と家のみを題材にしたようだ。
 
このアメリカ東部の、主に秋、冬の人気が少ないところは、何か厳しい自然から開拓していった跡を思わせ、質実剛健というか、アメリカの一面を雄弁に物語っているようである。いくつかの映画の場面とも共通するところがあるようだ。
 
ただ気になるのは、ワイエスはあまり人物を描かない上に、その人物は正面を向いていないことが多く、向いている自画像などでも視線は逸れている。
そういえば先日見たハンマースホイでも人物は少なく、描かれていてもほとんど後ろ向きであった。しかし絵全体として、それは全くことなる。
ハンマースホイの絵も具象で緻密であるけれど、対象に執拗にせまった写実ではなく、描いている人間の中の空白が自然に出てしまっているように感じて、それは何なのかという問いがいつまでも残る。
一方ワイエスでは、厳しさ、寂しさはあっても、それを描く人、見る人は、快適な住まいの中からこの世界に接しているとはいえないだろうか。
別にそれが悪いのではない。が、しかし画家がついに得た幸福感というものが、そこにはあるのだろう。
 
それも、晩年(まだ存命だが)の1980年あたりになると、洗練され、柔軟にもなっているけれど、しゃれすぎていないだろうか。
「747」など、7時47分に空をB‐747が飛んでいったというタイトルだが、いくつかの習作を経た最後のテンペラは垢抜けすぎていて、顔はこちらに見えないけれども気分はどこかノーマン・ロックウェルである。
 
観客はよく入っていて、おそらく自ら水彩画など描いている人が多いように見受けられた。そういう人だったら、こんなように描けたらと思うのは納得できる。

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