メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

カズオ・イシグロ「忘れられた巨人」

2015-08-26 20:52:21 | 本と雑誌
「忘れられた巨人」(The Buried Giant) カズオ・イシグロ著 土屋政雄訳
 2015年 早川書房
 
著者久しぶりの長編である。かなり意表をつく筋立で、舞台はローマ時代末期と思われるブリトン、辺鄙な集落で疎外されている様子の老夫婦が、あるとき決心していなくなった(と思っている)息子を探す旅にでる。その道程で現れるのはブリトンと対抗しているサクソン人の戦士、謎の怪物?から傷を負った少年、アーサー王の親族をいう老騎士などで、皆の記憶を消したと思われている竜の退治に向かう。
そういう物語の割にはそれほどダイナミックな動き、特に闘いは少なく、人間同士の謎の会話が続く。これはちょっとじれったい感もある。
 
本作の前の「わたしを離さないで」のもう一つ前に書かれた「充たされざる者」は、カフカの「城」を思わせもっと長くわかりにくいもので、途中で投げ出そうとまで思ったが、今回は語りかけはこなれていて、面白いと言うほどではないが、読み進めるのに苦労はしなかった。そのあたりはイシグロでも熟練の度合いが進んだのだろうか。
 
アーサー王の物語そのものをまとめて読んだことはないのだが、それとつながりがある「パルシファル」(ワーグナー)には親しんでいるから、読んでいてところどころで登場人物への連想が湧いてきた。1対1の対応でないし、人間関係もそのままこちらに投影は出来ないが。そして同じワーグナーの「ジークフリート」、これは大蛇だけれど本作の竜と重ねてみると面白い。
 
イシグロはほとんどの作品で「記憶」というものへの問いを続けている。これは自身でも語っていることである。本作でははじめからほとんどすべての記憶が不確かで、そのため近しい人との関係もあやふやなところがあり、出会った人ともなかなか関係を結びにくい。その原因が怪物にあるという思いもあったが、怪物を退治してもそれで霧がすべて晴れるわけでもない。それでも人はその一生の中で、小さいことを一つずつ進め、相手との関係を作っていく。それが生きるということ、とまで言い切ってはいないが、読み終わって思い浮かべると、じんわり受け取れるところがある。
 
さて映画化もされた「わたしを離さないで」はやはり印象が強いのか、「忘れられた巨人」を読み進むうちにこの作品を思い浮かべることが何度かあった。この不確かな世界で、記憶を探り、他人への理解と結びつきを探るこの物語は、「わたしを離さないで」のあの子たちにとって救いにならないだろうか。


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ベッリーニ「カプレーティ家とモンテッキ家」

2015-08-14 21:17:19 | 音楽一般
ベッリーニ:歌劇「カプレーティ家とモンテッキ家」
指揮:ファビオ・ルイージ、演出:クリストフ・ロイ
ジョイス・ディドナート(ロメオ)、オルガ・クルチェンスカ(ジュリエッタ)、バンジャマン・ベルネーム(デバルド ジュリエッタの婚約者)、アレクセイ・ボトナルチューク(カペッリオ ジュリエッタの父)、ロベルト・ロレンツィ(ロレンツォ 医師・カッペリオの親友)、ゲオルギー・プチャルスキ(同伴者)
2015年6月21日 チューリッヒ歌劇場  2015年7月 NHK BS
 
このオペラの存在は知っていたが、見るのも聴くのも初めてである。ようやくだが聴けてよかった。
いわゆるロメオとジュリエット(イタリア語だからここではジュリエット)の話、イタリアに古くから伝えられた話で、この台本はシェークスピアの有名な劇とは違っている。
 
ドラマに影響があるところでは、二人は最初から恋仲であり、舞踏会もバルコニーの場面もない。もっとも劇や映画やバレーなら目に見えるところの影響が大きいからそれも有効だろうが、オペラだと音楽よりそっちに目が行ってしまうかもしれないから、無いほうがいいという考え方もあるだろう。そして両家の対立がより表に出ているから、群集劇の要素も強い。
 
そのほか、薬を飲ませる神父がここでは医者だったり、乳母がおらず、というよりか女性は背景の大勢の中を別にすればジュリエッタだけである。それがロメオをメゾ・ソプラノに歌わせることが多い、ということにつながるのかもしれない。
 
そしてなんといっても今回のロメオはディドナートである。いわゆるズボンもやるメゾとしてはトップだし、皆がききたい人である。そしてジュリエッタのクルチェンスカ(ウクライナ出身)は知らなかった人だが、とっても澄んだ声に力強さを兼ねそなえて、情感の表出にもたっぷり入っていける。この二人の長いデュオ、よくハモッってうっとりする時間が多かった。
こういう歌にオーケストラの見事な効果は、イタリア・ベルカントの魅力そのものという感じで、今回聴くと、ヴェルディでも「椿姫」あたりまではその流れといっていい。
 
ファビオ・ルイージの指揮は手堅い。
さてクリストフ・ロイの演出はかなり凝ったもので、全体を回り舞台に、そしてそれを壁で3~4分割にし、時に回転させて今の場景の前後を暗示したりする。たとえばジュリエッタについてはその幼時、老後など。ついでだが、これからするとジュリエッタはロメオのあとを追わなかったということか。
  
そしてロメオとジュリエッタにしか見えないと思われる同伴者というキャラクターを設定していて、黒い衣装で長身の中性的な風貌、小道具を動かす黒子相当、主人公が見る自身や相手の幻影、ドラマの動きの引導、といった役割をさせている。
 
これを見ていて思い出したのが2006年ザルツブルク「フィガロの結婚」のグート演出で、ケルビーノに添えてケルビムという天使を設定、これをつかって大胆な解釈をしていた。
ロイの頭にはこれがあったかもしれない。たまにはこういことも、そしてうまくいけば、いいだろう。

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鍵 (監督:市川崑)

2015-08-11 12:24:46 | 映画
鍵(1959年、大映、107分)原作:谷崎潤一郎、監督:市川崑、音楽:芥川也寸志
中村鴈治郎(夫)、京マチ子(妻)、仲代達矢(娘の婚約者)、叶順子(娘)、北林谷栄(家政婦)
 
この映画が上映された時は新聞などでずいぶん取り上げられたから、少年時代の私もどんなものか想像したし、学校でもおもしろおかしく話題にされた。ただし谷崎潤一郎の原作(1956)を読んだのは数年前、何度も映画化されたようだが、見たのは今回のこれが初めてである。
 
原作で大学教授だった夫が古美術の専門家、娘の婚約者は大学病院の主治医の後輩となっている。ただしそれはあまり気にすることではない。大きな違いは、夫と妻がそれぞれ夫婦の性について日記をつけ、見せてはいないものの、おそらく相手も読んでいるだろうと考え書き進めている、というフランス心理小説的な部分、見方が皆無であることである。
 
56歳の夫が45歳の妻に若い男を意識的に近づけ、妻の性欲を刺激し、それを見て自分の衝動の高まりを期待する、というところは同じで、映像的にはそれなりにうまくできていて市川崑の才を感じるが、一方でそういうことに監督が舌なめずりをしているだけ、というのが映画を見終わっての感想である。また家政婦がかかわるラストも、安っぽい推理ドラマではあるまいし、と思わせてしまう。
 
配役は原作のイメージにかなり沿っているといえる。中村鴈治郎は今の56歳としてはちょっと老けているが、当時はこんなものだっただろう。ただ、もう少しインテリのいやらしさがあってもよかった。京マチ子は逆に原作を読む前からこの人のイメージが目に焼きついていたほどで、役がこの人のためにあったという感じ。
 
仲代達矢は、こんなにちゃらっとした嫌味もある若い男を演じたこともあったのか、と感心した。もっと「剛」というイメージだったから。娘の叶順子は、同年(1959)の「細雪」(監督:島耕二)でも、四女役で印象深かった(二女役の京マチ子とともに)。ちょっと派手な顔立ちだが、心情は当時の言葉でいえば清純に通じるところもある、という女優としてなかなか得難い人だったのだろうが、照明で眼をやられたとかで30前に引退してしまったらしい。
 
この二人の女優にはフランス映画に通じるセンスがあり、おそらく谷崎ごのみだったのではないか。
 
ところで、この映画も含め1960年代あたりまでの日本映画では、作品と女優の評価が高いものでも、台詞が口さきだけのように聞こえるのはどうしてなのだろう、ということが頭にあった。彼女たちがその後テレビに出ていた時はそうでもなかった。ひょっとしたら、音声はおそらくアフレコだから、その環境、ノウハウ、機材など、さまざまな事情で結果的にああいうスタイルになったのではないか、と想像している。



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死ななかったドン・ジョヴァンニ

2015-08-05 13:16:37 | 音楽一般
昨日アップしたザルツブルグでの「ドン・ジョヴァンニ」で書きもらしたが、フィナーレで死んだはずのドン・ジョヴァンニが音楽が終わる前にむっくり起き上がり、観客に向かってにやりとし、相手の女たちなどにちょっと触って挨拶し、最後は宴の小間使いにちょっかいを出して階段の上に消えていく。
 
この種の演出は見たことがない。普通は騎士長と握手して、その手の冷たさにおののき、「悔い改めろ」と言われてもきかず、地獄に堕ちていく(舞台の奈落に消えていく)。そして、勧善懲悪のセオリーどおり、登場人物みなが唱和して終わる。
 
今回のように、このオペラでの三人の女性、それにレポレルロとドン・ジョヴァンニとの関係を考えてみると、そう単純ではなく、地獄に堕ちたのを喜ぶだけではないだろうと理解できる。それを追認する演出なのだろうか。
 
もっとも、何回か見ればそういう解釈に近いものは見る者にうまれてくるだろうから、ここまであからさまにしなくてもよい、という人もいるだろう。どちらがよいと決めることもできない。
 
もっとも、小さい劇場で、これはしょせんお芝居ですよ、いわば劇中劇ですよとドン・ジョヴァンニに言わせて印象づける演出は、一度経験してみるのもいいだろう。男にとって女は、深層心理では運命的、悲劇的なものだが、女道楽(失礼!)という言葉どおりの面もある、とモーツアルトが考えていてもおかしくない。その方が、こっちも考え込んでしまう。
 
騎士長の亡霊から言われて、それに応じてやろうと握手するのも、その前に宴を計画して招いてしまうのも、真面目なのか、おどけなのか、最後までわからないようにしたいのではないだろうか。宴の楽士たちに、観客の皆が知っている「フィガロの結婚」の一節を演奏させるのも、作曲家によるそういうおどけの伏線か。「もう飛ぶないぞ、この蝶々」、ドン・ジョヴァンニが蝶々だとしても、ケルビーノは飛ぶのをやめなかった。

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モーツァルト「ドン・ジョヴァンニ」(ザルツブルク音楽祭2014)

2015-08-04 16:27:14 | 音楽
モーツァルト:歌劇「ドン・ジョヴァンニ」台本:ダ・ポンテ
指揮:クリストフ・エッシェンバッハ、演出:スヴェン・エリック・ベヒドルフ、装置:ロルフ・グリッテンベルク、衣装:マリアンネ・グリッテンベルク
イルデブランド・ダルカンジェロ(ドン・ジョヴァンニ)、ルーカ・ピサローニ(レポレルロ)、トマシュ・コニェチュニ(騎士長)、レネケ・ルイテン(ドンナ・アンナ)、アンドルー・ステープルズ (ドン・オッターヴィオ)、アネット・フリッチュ(ドンナ・エルヴィーラ)、ヴァレンティナ・ナフォルニツァ(ツェルリーナ)、アレッシオ・アルドゥイーニ(マゼット)
2014年8月ザルツブルク・モーツァルト劇場  2015年6月NHK BS
 
このところドン・ジョヴァンニのいい上演が続いている。2011年のスカラ座に続いてこのザルツブルクを見ることができたのはよかった。
スカラ座のものについてアップしたものを読み直してみると、このオペラのとらえ方として二つはほぼ同じといえる。ただ、スカラ座と違うのはあれほどのスター歌手ぞろいではないものの、舞台での動き、カメラのアップなどを総合すれば今回の方がバランスがとれている。
 
舞台、衣装の設定はやはり現代、ただ舞台装置はシンプルで初めから終わりまでそれほど変わらないものを照明などでうまく見せて変化をつけている。そして衣装はスカラほどの露出度ではないが、効果としては十分セクシーである。常に中央にある白い方形の床は、男女が登場すればベッドのシーツと考えてよい。
 
ダルカンジェロのドン・ジョヴァンニは容貌も男前でかつ相手を翻弄するユーモアがうまく出ており、これでは三人の女もレポレルロもまいってしまうのが納得できる。ピサロ-ニはダルカンジェロより少し背が高いが、顔つきも似ており、少し離れてみたり、眼鏡や衣装を交換したりすると、確かにうまく入れ替わることができる。舞台が南欧だからこれはいい。
 
さて三人の女性、フリッチュのエルヴィーラはこの男に対する愛憎が最初からはっきりしているが、色気もあり納得できる演技、ナフォルニツアのツェルリーナはドン・ジョヴァンニに一度声をかけられるともう地元のマゼットでは我慢ができない娘に見事変貌する。
 
そしてルイテンのドンナ・アンナ、この人の演技と役の解釈が一番面白かった。ドンナ・アンナはクールで身持ちの硬い美人、ドン・ジョヴァンニに部屋に侵入されて襲われ、それを追って殺されてしまう父の騎士長の復讐を追求していくという以上には、いくつかの録音、上演映像などでは印象が薄かった。スカラ座のネトレプコで少しイメージが変わったが、ルイテンはこのオペラでドン・ジョヴァンニによる「男」の本質に対する「女」の本質は明らかにドンナ・アンナが表象しているということを、この演出の乗って見事にわからせてくれる。
 
冒頭の場面、ジョヴァンニに襲われてもがくのだが、これが嫌悪だけだったのかと思わせる。そして思い切った演出は、騎士長に対してジョヴァンニは短刀を取り出し、ドンナ・アンナを盾のようにして彼女の手も短刀にからませ二人一緒に父の騎士長にぶつかっていく。これは「父殺し」か?
 
これが演じられるのは上記の白い方形の床、つまりベッドのシーツの上、ドンナ・アンナの衣装は赤である。実は何があったかの暗示は明らかだろう。嫌いな男ではあるが、深層心理では受け入れてしまった後の父殺し、最後の場面で騎士長の石像の首を取り上げ抱いてなぜ回す、つまりドンナ・アンナにとって男はすなわち父とドン・ジョヴァン二だけなのである。
 
ドン・ジョヴァンニが地獄へ落ちたのち、婚約者オッターヴィオからこれから一緒にと言われるが、自分は癒されることが必要だから1年待ってほしいと返す。女性からこう言われるということは、1年後はないということであろう。
 
こうしてみるとたいへんなオペラで、私にとっては、「ドン・ジョヴァンニ」があるからモーツァルトは偉大なオペラ作曲家なのである。
 
そして指揮のエッシェンバッハ、この1940年生まれのピアニストが指揮主体になってから随分経つ。ポジションからいけばここで指揮するのも不思議でないが、これほどとはうれしい驚きであった。とにかくドラマチックな起伏が少しも流れを途切れさせることなく、こんなに流麗に、ジェット・コースター・ドラマという形容は下品だが、レシタティーヴォさえもこんなにうまく流れていったかな、と思った。
 
ところでエッシェンバッハのピアノ演奏、デビューしてしばらくよく聴いたのはモーツァルト、ベートーヴェンそれもハンマー・クラヴィア、そしてシューベルトの長大なソナタ、シューマンの諸作品、これらはピアノの音やテクニックよりは、個性的な解釈で評価されたし、それゆえ好き嫌いがあったようだ。あまり一人の作曲家のあるジャンルを集中して多数録音そるということはなかったように思う。印象的なのは、シューマンの歌曲でフィッシャー・ディースカウの伴奏をした録音がいくつかあり、これは本当にすばらしいものだったこと。ショパンは少ないが「24の前奏曲集」は通しで聴くにふさわしい強い表現で、吉田秀和はこの演奏を「黒の詩集」と評した。
 
古いノートを繰ってみたら、1972年3月18日(土)東京文化会館でシューベルトのソナタ変ロ短調D.960、ベートーヴェンの「ハンマークラヴィア、1974年10月16日(水)日比谷公会堂でシューベルトの即興曲集、さすらい人幻想曲、ソナタイ長調遺作D.959、1977年3月21日(月)東京文化会館でベートーヴェンのソナタ「悲愴」、「熱情」、「ワルトシュタイン」、第32番(OP.111)、を聴いていた。いずれもいいプログラムである。こういう記録、いまのようにPCに入れていれば検索するのは簡単だが、ノートを繰るのはかなり大変である。それでも紙媒体のほうが無くなりにくいとは思う。





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