メドレー日記 Ⅱ

by 笠羽晴夫 映画、音楽、美術、本などの個人メドレーです

リアルのゆくえ 展

2017-05-30 17:17:24 | 美術
リアルのゆくえ 高橋由一、岸田劉生、そして現代につなぐもの平塚市美術館 4月15日(土)- 6月11日(日)
 
日本の近代絵画、それも洋画で写実に注力したものを集め、かつその流れを概観しようというもの。黒田清輝の外光派そして印象派という流れとは別に、副題にもあるように高橋由一、岸田劉生のように対象にせまる写実があり、注意してみればその後現代まで続く興味深い画家たちと作品が生まれてきた。
 
今回の展覧会は、かなり多くの画家を集めていて、初めて知る名前も多い。その反面、一人あたりの作品は二三点というところで、画家のリアルへの迫り方をこちらが受け取るにはちょっと足りないうらみはある。
高橋由一、岸田劉生、河野通勢、靉光、高島野十郎、木下晋、礒江毅などは個人展を見ているから、この展覧会での位置を多少想像で補って見ることはできたが。
 
また、特に明治、大正あたりの作品は、はたして今回の文脈でリアルの追求といえるだろうか、とも感じる。もう少し何か思いというかテーマが先にきてというものがかなりあるように見える。
 
そうはいっても久しぶりに見ることができたものもあり、それはそれでよかった。そういう中で、たとえば岩橋教章「榎本武揚母堂像」、重松鶴之助「閑々亭肖像」、伊丹万作「祖母の像」、靉光「鳥」、長谷川潾二郎「猫」などは、現在宮城県美術館に収められている洲之内徹コレクションの一部であって、洲之内の好みというよりその眼力に感心する。
 
リアルという意味では、今回の収穫はむしろ現代という区分で出ているもので、特に犬塚勉(1949-1988)の「林の方へ」、「梅雨の晴れ間」、水野暁(1974)の「The Volcano-大地と距離について/浅間山-」は圧巻である。いずれも瞬間の写実のように見えて、実は時間をかけて見、描いたもので、ここには時間があるわけだが、どう考えたらいいのか、私としてはまだこれからである。
 
なお先日、犬塚の作品は「美の巨人たち」(テレビ東京)で取り上げられ、水野は「日曜美術館」(NHK Eテレ)に本人自らこの作品について述べた。
 
この美術館には6年前に初めて行って以来だが、なかなか興味深い企画をやる。

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四月物語

2017-05-18 15:08:11 | 映画
四月物語 (1998年、日本、67分)
監督・脚本:岩井俊二、撮影:篠田昇
松たか子、田辺誠一
 
北海道旭川から東京郊外(武蔵野、国立あたり)の大學に入学する主人公(松たか子)が、郷里の駅を出発、借りたアパートに引越し荷物が届き、入学式、クラスでの自己紹介、サークルの勧誘、フライ・フィッシングのサークル、隣部屋との微妙なやりとり、などなど、彼女の視点を想像してこの時空に入っていけるように、うまく作られている。岩井作品でおなじみ篠田昇のカメラをここでもじっくり味わうことができる。
 
こういう世界だから約1時間というのは無理のない長さであり、このくらいならこの調子を味わっていけるな、と思ったら、最後のそう10分くらいだろうか、意外な事実が明かされる。彼女が転居してすぐに特定の本屋を探したのは、意味がないことではなかった。それは彼女のイメージからすると、見る者にとって意外ではあるのだが、終わってみれば、そうだったか、この人も、と感心し、むしろいい後味で終わる。
 
終盤のにわか雨、彼女が傘を借りる場面のどたばた、これはNHK ETV の岩井を中心に若者製作をする若者たちと語り合う番組で、岩井自身が作った場面の例として紹介されていたのを記憶している。そこではそのシーンに限った説明だったが、こうしてみるとなかなかいいアクセントがある締め方であった。
 
松たか子、その姿と本当に考えていたこととのギャップが、わかってみると納得する配役と演技。そういえば後の「告白」も、、、
田辺誠一は配役からするとちょっと年長に見えるが。
 
冒頭、主人公の位置からカメラがとらえた見送りの家族、この四人は、松たか子の両親、兄、姉、そうあの歌舞伎の一家である。
そして、最後の傘の場面、途中で立ち寄った大学で、帰ろうとしていた教授は亡き加藤和彦、傘をさして出ていく長身の後ろ姿が、今となっては悲しい。

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P.D.ジェイムズ 「わが職業は死」

2017-05-15 20:58:49 | 本と雑誌
わが職業は死 (Death of an Expert Witness)
P.D.ジェイムズ 青木久惠 訳 ハヤカワ・ミステリ文庫
 
昨年、「女には向かない職業」を読んで、この作者のものをほかにも読んでみようと思ってきた。ただ翻訳物は絶版になるのが早く、同じ早川書房でも文庫は長く在庫になることが少ないし、昔ながらのハヤカワ・ミステリそうあの新書版を少し大きくしたような二段組みはある程度入手可能なのだが、文字が小さく、この年齢では敬遠することになる。
 
さて本作は、上記に登場した若い女探偵コーデリアは出てこないが、彼女と浅からぬ因縁がある名警視長ダルグリッシュは出てきていて、捜査側では主人公である。
 
イングランドの田舎町、ここにある警察の鑑識というか科学捜査の研究所、そしてここに関係ある所員の家族をはじめとする人々、これらが登場人物である。ある部門の長で生物捜査の権威が研究室で死体で発見される。この人は優秀だが偏屈でもあり、あまり好かれていない。新任の所長、そのほかの研究員、秘書、受付、警備員など、狭い世界で舞台劇のように、複雑にからまった関係、人間模様が次第に明らかになってくる。そしてこの人たち、どの人にも癖があり、読んでいて好感が持てるとは言い難い人たちである。
 
ダルグリッシュはそういう人たちに対し我慢強く聴き取りを続け、事件を解きほぐしていく、というかこの町の人間関係全体を解きほぐしていく。例によって丁寧に叙述されているのだが、これ誰だっけという疑問を、訳書冒頭の登場人物一覧を何度も見つつ、解きほぐしながら読み進むことになった。
 
前にも書いたが、それでも個々の人間の叙述は見事で、それは、乱暴な言い方だが、イギリスにおける300年(?)の女性小説家の伝統何だろうか。
ただ作者の思い入れが強い捜査側の人間はダルグリッシュだけで、この人は抑制的な性格が強いから、彼が活躍する面白さは、少なくとも本作では、控えめである。
 
ダルグリッシュとコーデリアの共演はもう一作あるようだから、楽しみにしている。

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ファッションとアート 麗しき東西交流展

2017-05-06 10:47:27 | 美術
ファッションとアート 麗しき東西交流展
2017年4月15日(土)- 6月25日(日) 横浜美術館(みなとみらい)
 
1859年の開港以来、西洋から入ってきた服飾を中心とする作品、そして逆にジャポニスムのブームにも乗って日本から西欧に渡ったもの、それを素材として西欧で創られたものが、見やすい形で展示されている。
日本に来たものは、鹿鳴館時代など、かなり無理もして取り入れ消化していったものだろうが、それはそれとして本格的なものに触れたことは大きいだろう。そして日本から渡ったものの見事なこと、特にテキスタイルはかの地の製作者の意欲をかきたてたことが、今回の展示から想像される。
それにしてもあらためて思うのは、江戸時代の文化、文明の高度なこと、職人技術の洗練である。
この展示は京都服飾文化研究財団(KCI)との共催で、大半はここの所蔵品だが、KCIが研究開発した往時の体型にフィットしたマネキンが今回の展示に大きな貢献をしていることがわかる。我が国も西欧も、当時の体格は想像するよりかなり小さく、そのままでは効果的な展示は不可能である。
時代的に後半の展示品のなかで、ランヴァン、シャネル、ラリックが目立ち、このころから意味のある活躍をしていたことがわかる。

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ドニゼッティ「ラ・ファヴォリータ」

2017-05-01 17:33:05 | 音楽一般
ドニゼッティ:歌劇「ラ・ファヴォリータ」
指揮:カレル・マーク・チチョン、演出:アメリ・ニアマイア
エリーナ・ガランチャ(レオノーラ)、マシュー・ポレンザーニ(フェルナンド)、マリューシュ・クヴィエチェン(アルフォンソ11世ウ)、ミカ・カレス(修道院長バルダッサーレ)、エルザ・ブノワ(侍女イネス)
バイエルン国立歌劇場管弦楽団・合唱団 2016年11月3日・6日 2017年2月 NHk BS-Pre
 
タイトルだけはきいたことがあるが、見るのも聴くのもはじめてである。ファヴォリータは寵姫、愛妾、現代風に言えば愛人。王の愛人(レオノーラ)を見初めた修道僧フェルナンドが、還俗して兵士となり、たちまち軍功をあげて王に認められ、何がほしいときいて、まだ名前もしらない彼女をあげ、愛人問題を法王庁から責められている王はそれを認める。ここには王と修道院長による、たくらみがあって、レオノーラとフェルナンドは苦しめられ、特に自分の過去を恥じ続ける彼女は追いつめられる。
 
こう書くと、感情表現とその起伏が豊富なように予想するのだが、ドラマとしての細部はかなりいいかげんで、すぐに次の段階にうつってしまい、筋に感情移入するのは難しい。したがって現代のセレブ社会を想定した衣装、装置は、むしろ気にならない。
 
それでもこの作品の真価はその音楽にあって、個々のアリアも充実しているが、それをバックアップするオーケストラの表現が素晴らしい。序幕から、はてドニゼッティ(1797-1848)の音楽ってこんなに立派だったっけ、と思う。1840年の作だから晩年といえばそうで、コメディの「ドン・パスクァーレ」(1842)と並ぶものだろう。特に王とレオノーラ、そしてフェルナンドの間のやり取りは、やはり王が主人公の恋人をねらう「イル・トロヴァトーレ」(ヴェルディ)に先行するような気さえした。そういえば椿姫にはヒロインが過去を悔いるところもあるし、「ラ・ボエーム」(プッチーニ)にもそれはある。ドラマの筋立てからすると、あとに行くしたがってより具体的な表現になり、それはヴェリスモへの移行が反映しているといえるかもしれない。そのさきがけといえばドニゼッティも報われるだろうか。偶然だがトロヴァトーレのヒロインもレオノーラだし。
 
さてこれを見たかったのはまずヒロインがエリーナ・ガランチャだからで、メトロポリタンのカルメン、そしてラ・チェネレントラで、これほどの美貌と演技、そして粘り強さのある歌唱は、こういう役には、と感心したということがある。その後あまり見る機会がなかったが、今回、前半はそれほど歌の見せ場がなかったけれど、特に第4幕からは、この悲劇の結末に持っていく強さというか業というか、そういうものを見せていた。
 
ポレンザーニとクヴィエチェンは他の作品でも、主にメトロポリタンの映像で、見ているけれど、今回の方が作品に寄り添って(バイエルンだからか?)、うまさも感じられた。
 
指揮のチチェンは今期待の若手で、ガランチャの夫、これだけで判断はできないが、このオーケストラで深みを出していたのは、その技量によるものかもしれない。
 
一つ疑問は、レオノーラの衣装で、淡いブルーと赤の色に深みがなく、安っぽい感じがした。それはアルフォンソのブルーのスーツにもいえることで、日本人とはちがう感覚なのか、セレブ社会の浅さを反映させたかったのか。
 
なお、今回はオリジナルのフランス語上演である。


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