日本の進路を考える

戦後70年が過ぎてもいまだに自立できない日本を考える。

自宅療養中、面会謝絶、宅急便受け取り拒否。

2014年11月25日 | Weblog

殆どベッドで痛みをこらえております。ピンポンが鳴るとやはり何事かと、無理しておきます。疲れます。マイペースの運転で買い物はできますがマイペースでない対応には疲れを覚えて、食事ができなくなります。お見舞いのお気持ちには心から感謝いたしておりますが今しばらくメール程度にとどめていただくことをお願いいたします。電話も大変です。話をするのに腹筋を使うので痛みます。退院したとはいえ、まだ手術跡の激痛が残り、それを我慢する日々です。痛み止めを飲むと治まりますがまともな生活はできておりません。子供たちは合鍵を持っていますので勝手に入ります。どうか皆様よろしくお願いいたします。

これは母方の祖母の絵です。熊本の高森中央小学校に飾られていると言うことで、従弟から送ってきました。彼が卒業した年の絵だとか、50年前のことです。そういえば我母校の来民小学校には母の水彩画が飾ってあったのだが、今は無いようです。捨てられたらしい?残念。画才のあった母娘の遺したもの。どちらも残っていたらよかったのにと。

 


PPKからの生還の記

2014年11月22日 | Weblog

昼間の窓からの景色。見えているのは横浜の高台、外人墓地あたりか。右の方に元町中華街があり、運河の行く先は山下公園方面。次は夜の景色で、駅とは反対側からのランドマークタワーとその手前に目立たないマリンタワー。

この景色が見えるところは、横浜市立みなと赤十字病院。10月末から二週間の入院であった。

10月26,7日あたりから胃の具合が悪いと気分がすぐれず、近所のクリニックに行ったが、内視鏡はウチではやらないので能見台にはいくらでもあると初診料を取られて追い出され、休診日になたるので空いている富岡駅そばの外科に行くとここでもやらないといわれ、更にあくる日西富岡のここはやっていると言う外科に行くも、うちはいっぱいでできない、関沢クリニックに行きなさいと言われて痛むおなかを抱えて数十人の待ちの後で、問診、これは明日来なさいと言うことになる。この間ずっとバスと徒歩で高熱と高血圧でふらふら状態。31日朝内視鏡で胃を調べてもらうが、綺麗なもの。石でもできてるかと音響検診を色々な臓器にやってもらうも何もなし。とうとうMRIを取ろうと言うことになる。撮ったらもう、担当のT医師が大声で、これは救急車を呼ぶので直ちに入院してください、ときた。訳の分からぬうちに診療費などを支払い、昨年秋の骨折以来人生二回目の自分の救急車騒ぎとなる。救急車のベッドで担ぎ込まれ、病院のベッドに移ったところで記憶は消えた。

気が付くと一人ICUのベッドにたくさんのひも付きで寝転がって居た。大腸の一部に穴が開き、そこから漏れ出して腹膜炎を起こしていたということ。救急車に乗ったときはPPKで終わるのかもしれぬと、なんとなく思っていたが満70歳まで半年を切り、ちょっともったいないとも思っていた。病院側の受け入れ体勢はT先生も週一来ているとかで、S外科部長、執刀していただいたM医師他のチームワークでうまく行った様子であった。

息子が来て、切り取ったものを見せてもらったらしく、結構な大きさだったと。

10年位前にできた新しい病院で広い。ベッドも一室4名と広々している。水が飲みたいが、ガスが出るまではだめと口の渇きがつらい。3日を過ぎてやっとおならも出て、食事も食べるようになった。治療の過程で血圧が高めなことに大きな注射三本を数時間かけてゆっくりやる仕掛けなど色々体験し、その後血圧が正常値に落ち着いたのが不思議。退院して一週間以上過ぎたが今も血圧は健全。この病気のせいでたかかったのかなと、あるお医者さん仲間にネットで書いたら、禁酒効果でしょうと一言返ってきた(笑)

右奥が自分のベッド。向こうには窓があり、景色も良い。担ぎ込まれた状態を知っている看護師のお姉さまたちは余程衰弱しているとみていたらしく、リハビリに歩いてくださいと言う。立てますか?と二人掛かりで両側についてくれたがおなかの切り傷の痛みを我慢したら立つのはどうということは無い。で、あらお元気と逆に驚かれた。若い頃はフルマラソンをやってたから、この位の息遣いでもゴール寸前ではダッシュするんだからと(笑)その後リハビリのことは言われなくなった。

手術はおへその上下10センチを縦に切り裂き、腸を取り出して患部を切り取り、繋ぐと言うものだったと。更に腹膜の中を生食で洗いましたと言われた。生食??? 生理的食塩水。この液体には傷を洗うたびにお世話になった。開腹手術の跡、しばらく消毒しながら20センチの傷をくっつけず内側から徐々に治してゆき、最後に縫う。その縫うまでのお腹は縦に真っ赤なお腹の皮膚が上向きに並んでいる。これは写真もあるがなかなか公開には向かない代物。3年生の孫娘は見たいと言うので見せたら、青くなり頭をこつんと床にぶつけて失神した。1年生と幼稚園の二人は平気で笑っていた。このやり方をしないと殆どが化膿してしまうという説明があった。

退院も一人でタクシーで帰宅した。荷物などはその前日に息子に持ち帰ってもらい、バッグ一個を抱えて、運転手80歳現役、お客さん、ひと月は動いちゃだめだよと。友達の若い運転手が退院してすぐに運転していたが、霊園に呼ばれちゃったよと。

12日(水)午後の退院で、神奈川ド独居老人生活の再開。幸い食糧類を買い出しに車を運転するくらいは何とかなるのでまあ何とかである。一週間後の再診には車で出かけ、きつめの所を少し抜糸してもらって、痛みの箇所が少なくなったがまだまだ。

それにしても例年参加する東京男声合唱フェスティバルに国立四工大OB会として70名の大合唱で、念願の月光とピエロを歌うこともできず、二回目の幹事長として5回出場の記念の酒を戴く役目や懇親会の盛り上げができず残念至極。更に故人の関わっていた男女の合唱団の交流演奏会にも、北九州で大学現役の定演への参加もできず、一年間の練習の成果を個人的には発揮できなかったのは悔しい。

また、ゴルフではいくつもの約束をキャンセルしてご迷惑をおかけしたなと思いつつ、今日も仲間が晴天の小春日和の下で雪化粧の富士を眺めながらプレーしているのがうらやましいなと。身から出た錆び、しばし養生に努めてお酒もゴルフも歌も復帰できる日を待つしかなさそうである。今年いっぱいはなかなか無理かも知れぬ。

ちなみに、PPKとは年寄りの理想ピンピンコロリのこと。