ちいさなちいさな いのりのことば

 * にしだひろみ *

満ち足りる

2018年03月30日 | Weblog
あたたかい夜。

『はっぴーママ』への絵本の選書原稿を、ようやく仕上げました。



今回ご紹介するのは、はまだひろすけさんの『ひとつのねがい』という絵本。

この本からわたしが受け取ったメッセージは、“満ち足りること”です。



それは、お金や物ではなく、完全に精神的なもの。

もしかしたら、それ以上の、魂の分野。



例えば、わたしにとって、満ち足りるとは、こういうことです。


自分に生まれたことを、自分を生きてきたことを、嬉しいと思うこと。


これまで体験してきた悲しみ、傷み、困難、苦難、絶望も、大事だったと思うこと。


全てのことが、自分の志であったと、実感としてわかること。


「娘」を生きてこられたこと、
「妻」を生きてこられたこと、
「母」を生きてこられたことを、
毎日、嬉しいと思うこと。


「親」でいてくれる人に、
「夫」でいてくれる人に、
「息子」でいてくれる人に、
毎日、ありがとうと思うこと。


「友だち」でいてくれる人に、
「ご近所さん」でいてくれる人に、
ご縁あった全ての人に、
その都度、ありがとうと思うこと。

そういうことです。



いま、わたしは、満ち足りているかな。


・・たぶん、なかなか、満ち足りているみたい。


失敗したり、うっかりしたり、反省したり、謝ったり、

オッチョコチョイの自分をゆるしながら、(まわりのみんなにゆるしてもらいながら)、

嬉しい気持ちで、ありがとうの気持ちで、今日も、生きることができたから。

電車の旅

2018年03月29日 | Weblog
姪っ子は、きちんと座りました。


小さな、電車の旅に連れ出したのです。

慣れない電車で、何もかもが珍しく、どこを見たらいいのかわからないようでした。


素晴らしい晴天なのに、窓の外に目を向けることも思いつかず、

座席にきちんと、一心にきちんと、座っています。


その姿に、わたしは、胸を打たれてしまいました。

とても美しい、清らかなものを感じたのです。



“外がきれいよ。森の中。”

そう伝えたくて、窓を指差したら、

姪っ子は、はじめて窓に気づいたように、ハッとして、目をやると、

わあっ、と歓声をあげました。


嬉しかったのでしょう、目を見開いてわたしに笑いかけました。


少し、緊張感が和らいだようで、

今度は自由に、外を見たり、まわりの席をそうっと見たり、わたしを見てニコニコしたり。


その目は、輝いています。



片道30分に満たない各駅停車。

ほんとうに小さな旅です。



帰りの電車では、買い求めたサンドイッチを頬張りながら、ニコニコ。


駅に停車するたびに、こう言います。

「おばちゃん、まだ降りないよね?」


まだ降りないよと、こたえると、

「よかったあー」

と言って、足をぶらぶら。

喜びが、足を踊らせています。



“うれしい、とてもうれしい”

その姿の全部が、歓声をあげている。



一緒に見た森も、

一緒に見た川も、

はじめてのように新鮮で、

それはきっと、森や川の、本当の色や姿だったのです。


子どもは、まわりの世界を「真実」に戻してしまうに違いありません。



折り紙も、ノートも、

リュックサックに大切そうに持ってきたものを使うゆとりはなかったけど、

可愛いその心には、きっと、楽しい思いが満ちているでしょう。



わたしの心にも、喜びと感謝と、

それから、きちんと座っていた姪っ子の姿が、

いつまでも残るような気がします。

かくれんぼ

2018年03月27日 | Weblog
“テン”が、わたしを見ていました。


公園の中にある、小さな動物園を訪ねた時のこと。



体は鮮やかな黄色、そして白い顔。

なんてきれい。



“テン”は、息子が大好きな動物です。

そうでなければ、ここへは来なかったでしょう。


「かっこいいし、可愛いんだ。」

家では、図鑑を見ながら、夢中で魅力を語るのです。




目が合ったのは、息子がそこを離れ、わたし一人になった時でした。

テンは、全く動かず、わたしをまっすぐに見ています。

まっすぐに。



その時の気持ちを、どう表したらいいでしょう。


世界に、テンとわたししかいないような、静けさ。


わたしは、テンの美しさに圧倒されていました。

テンは、テンであることに真っ直ぐです。

そのことが、胸を打ちます。


そして、わたしとテンは、こんなに近くにいるのに、決して越えられない境界に、遠く隔てられていました。


テンは、たぶん、わたしを観察していたのです。


じっと見つめる目。

何一つ、嘘のない、濁りのない目に見つめられ、

わたしは、恥ずかしかった。




あれから何日も過ぎましたが、わたしはまだ、テンの瞳に捉えられ、

繰り返し、問うていました。


あの時の気持ちを、どう表したらいいだろう、と。



こたえは、昨夜、もたらされました。

本を読んでいた時、ふと、わかったのです。



わたしは、テンに対して、罪悪感を感じていました。

かくれんぼをしていて、わたしだけ、やめてしまったような罪悪感。

テンはまだ、ずっと、続けているのです。

「野生」という名の、かくれんぼ。



でも、いつの間にか、人間は、そこから抜けてしまった。

そのことが、わたしは苦しかったのでした。



動物園の檻の中にいても、テンには野生の美しさがありました。

もしも野に放されれば、食べたい動物を狙い、自らもまた、食べられるものとして狙われます。

それが野生です。

テンはやはり野生です。



わたしは、かくれんぼに戻れたら・・という、密やかな憧れを持っています。

でも、戻ることはできないと、わかっている。



だからなおさら、テンが美しかった。

檻の中にいても、美しかった。


そのことが、切なかった。

小さな花道

2018年03月25日 | Weblog
みんなの卒業式が終わった、静かな午後でした。



案内していただいた校長室には、シクラメンの鉢植えの、小さな花道が作られていました。

息子ひとりのために、先生方が作ってくださった、花道でした。



息子とわたし、

担任の先生、生活指導の先生、

そして、校長先生。


いちばん小さな卒業式が始まりました。



担任の先生が言いました。


「卒業生、西田ゆうと。」

先生の声は、嬉しそうでした。

そして、少し、震えていました。



「はい!」

息子は、驚くほど元気のいい声で返事をし、立ちました。

ゆっくりと、校長先生のところへ歩いて行きます。



「卒業証書・・」

校長先生が、読み上げます。




息子が最後に学校に来てから、4年が過ぎていました。

母であるわたしにとって、その四年間は、迷いと葛藤の日々でした。


息子にとっては、きっと、もっと難しいものであったはずで、

苦しい思い、さみしい思いをしたことも、数知れずあったことでしょう。



息子にとって、いい四年間であった、とは、言えません。

息子もわたしも精一杯であったけれど、今はまだ、わからないのです。



たぶん、ずっと先、

息子が一人で船出をする時に、初めて、わかるのだと思います。



五年、六年でお世話になった担任の先生は、静かに息子を見守って下さる方でした。

忙しい中、時間を見付けては、会いに来て、

学校の様子を話したり、息子の話に耳を傾けておられました。



担任として、言わなければならないこと、言ってはならないことが、あったと思います。

難しい状況であったと思います。

先生の思いは、言われないからこそ強く、わたしの心に響きました。


難しいなか、先生は、こう言葉にしてくださるのでした。

「ゆうとくんは、みんなができないことをいっぱい体験しているんだね。本当にすごいね。」




息子は、この先生に、ゆっくりと心を開いていったようでした。


一人での卒業式をしたいから、学校に来てもらえるかな、と先生がお電話をくださったことを話したら、息子は、

「行くよ。大丈夫。先生をびっくりさせたいんだ。」

と、笑いました。


息子と先生の二年間を物語る、素晴らしい瞬間でした。




卒業証書をしっかりと受け取った息子は、

最後に、担任の先生に、絵をお渡ししました。


野花とシマリスの絵です。

先生に贈ろうと、丁寧に、一生懸命に描いた絵でした。



息子は、言葉では何も言えませんでしたが、

絵に、みんなみんな、込めたのでした。


先生には、その思いが、確かに届いたように感じられました。

嬉しそうに、眺めておられました。




先生方が見送ってくださる中、息子はしっかりとした足取りで、学校を出ました。


桜にはまだ早い、肌寒い日でしたが、

わたしの心には、柔らかなシクラメンの花が、いくつもいくつも、

優しい歓声のように、咲いていました。

大きな木の下に

2018年03月20日 | Weblog
大きな木の下に、最後に、近寄っておく。


大きな木の、いちばん側に居られるのは、冬。

春になるほど、木に、たくさんのものたちが集まる。

春になるほど、木は、自らの成長に一心になる。


あれほど無防備で、あれほど素顔の木に会うことは、できなくなる。


生い茂る葉に隠れて、木の素顔が見えなくなってしまう前に。

腕を思いきり伸ばして、しっかりと空を掴む、祈りのような姿が、見えなくなってしまう前に。



大きな木の下に、最後に、近寄っておく。

ささやき

2018年03月15日 | Weblog
いま、息子のそばにいる、ふしぎな存在。

悲しい時、困った時にあらわれ、ささくこえ。


“だいじょうぶ”

“だいじょうぶ”


品のよい、初老のおじいさんの声だという。



わたしの友人は、

「何か起きる前にあらかじめ教えてくれる声がする」

と話してくれた。


それは、音でなく、心で感じる言葉。



多くの人は、そんな声やメッセージを聞かないかもしれないけど、

「なんとなく」こっちの方がいいと思って、

という風に、やはり何かしら感じ取っている。



ご先祖様かな、

懐かしい人かな、

あの大樹の魂かな、

広くみんなを見守る存在かな。




この世界に、地に足をついて、しっかりと生きていく、ということは、

不思議な感覚を卒業していくこと、でもなくて、

見えるものにも見えないものにも、感謝しながら生きることかな。



ささやきに、

メッセージに、

「なんとなく」に、

ありがとう、と思いながら。


ゆるやかに。




そのために、必要だな、と思うのは、

自分の内に軸を持っていること。


そこが始まり、と、知っていること。



願ったこと、

思ったこと、

行ったことに、

責任を持つこと。



人生の真の目的は、

たくさんの人や存在たちと「共働」しながら、何か大切な素敵なことを実現していく、

そういった表現もできるかもしれない。

12年

2018年03月13日 | Weblog
今日、12才になった息子に、手紙を書きました。


ほんとうにありがとう

12年も生きてくれて

あなたらしくいてくれて

わたしの子でいてくれて



そんなことを書きました。



人が生きることは、

昨日も生きて、今日も生きているということは、

すごいことです。

明日も生きることができたら、ほんとうにすごいことです。


それが12年も続くことができたなんて、奇跡のように素晴らしいことです。


いのちの始まりに、そのように定めていなければ、できないことです。

その決心に、膨大ないのちや想いの協力をもらわなければ、できないことです。



今日、わたしが感謝しなくてはならないもの(存在)は、四方八方にある。

すべての空間に。

すべての時に。


だから、どこへ手をあわせたらいいのか、わからない。

それは、どこへ手をあわせても、よいということ。


こんな時、窓口になってくださるのが、ご先祖様を祀るものや神社なんだと思います。



わたしは、

明日も、息子や自分や家族みんなが生きているとは、思っていません。

そうなれたら、どれほど素晴らしいだろう、

そう思っています。



今日を、大事にお祝いしよう。

すべてのものに、心いっぱいに、感謝をささげてこよう。


息子の夢や願いを、しっかり聞いておこう。

得難い明日や未来へ、願いを送ろう。

森を想う

2018年03月11日 | Weblog
上野動物園を訪ねたのは、何十年ぶりかしら。

“ネコ科哺乳類の実物を見たくてたまらない”という息子への、ささやかな誕生日プレゼントの旅でした。


上野駅を降りれば、愛らしいパンダの赤ちゃんブームで、大変な賑わい。

入場するまでに、かなりの時間並びました。



わたしたちは、シャンシャンの行列には加わらず、ネコ科哺乳類のいる場所へ一目散。

どこもしっかり人垣ができていて、なかなかじっくり見ることができませんでしたが、

小回りのきく息子は、なんとか、大好きな動物たちの姿を捉えることができたようです。


わたしは、ある動物の前で、動けなくなりました。

なんという魅力。


ヒグマです。



これほどまでに大きいとは思いませんでした。

本や写真はよく見ていましたから、数字としての大きさは知っていました。


でも、そんなものじゃないのです。

物凄いのです。


あの色、

あの顔つき、

あの毛並み、

あの歩き方、

あの風格、

そういう全部が、覆い被さってくるようなことなのです。



わたしにとって幸運なことに、クマのエリアはちっとも混んでいなくて、

じっくり見ていても、人の迷惑になりません。


わたしは、動けなかったし、動きたくなくて、

ただもう、ひしと、ヒグマを見つめていました。



わたしのクマ好きをよく知っている息子は、主人と一緒に、

“ぼくたち他のところを見てくるから、ママはここにいていいからね”

と、どこかへ。



わたしの周りにも、入れ替わり、人が流れていましたが、

そこには、ヒグマとわたししか、いなかったのです。



ヒグマは、同じところをぐるぐる回っていました。

もちろん、あれだけの巨体に与えられた空間は、あまりに小さい。

仕方のないことです。


ヒグマは、何かを求めるように、いつまでも回っていました。



ヒグマよ、

たくさんの人間たちを、あなたはどう感じているの?



あなたの目に、わたしが止まることはない。

でも、わたしの目には、あなたしか映らない。

あなたは、あまりにも美しい。



不意に、わたしの心に、森が立ち上がりました。

深い深い、人を寄せ付けない森。

見たこともない森。



そこは、もしかしたら、あなたの故郷なの?

もしかしたら、あなたの祖先がいたところなの?


あなたは、その森で生きたことがないかもしれないけど、

あなたの魂が、懐かしがっているの?


あなたにもわからないけど、どこからかやってくる懐かしさに、覆われることがあるの?


ヒグマ。




一人で行ったなら、わたしは閉園までそこにいたかもしれません。




“ママ、すごいのがいたよ”

息子が呼びに来てくれました。


ヒグマとわたしだけの時間は、終わりました。

ホームスクール5年目に

2018年03月10日 | Weblog
朗読会の帰り道。

主催者さんの一人でもある大好きな友人に、あるお母さんを紹介していただきました。


我が家と同じく、二人のお子さんとホームスクールをしていらっしゃるのです。

“このスタイルがいちばん”と信じ、また、本場であるアメリカに行き、実際に見て、

“やはりこれでよいのだ”と確信され、力強く歩んでいらっしゃる。

落ち着きとあたたかさと、揺るぎない強さを感じさせる、そんなお母さんでした。



わたしも、ニューヨークに、ホームスクールをしている友人がいます。

蜜蜂を飼ったり、森を見回ったり、ツリーハウスを作ったり、それはそれは伸び伸びと。


アメリカではホームスクール家庭が多く、友人一家も近所にホームスクール仲間が何組もいます。

みんなで集まったり、支えあったり、

本当に素敵だな、と思います。


日本では、そういう仲間と出会うことが難しい状況です。

学校へ行かないことが、悪いことのように感じられるからでしょうか。


それでも、わたしたちは、
“うちはホームスクールやってます”
と、あちこちで話していますので、

こんな風に、同じように生きるご家族に、時々、出会うことができます。

とてもとても嬉しいことです。



この春から中学生と呼ばれる年になる息子は、

これからも、ホームスクールを続けていきます。

5年目です。

“他の生き方は、ぼくじゃないから”

と言っていました。



ホームスクールには、限界や不足もあります。

それはきっと、他のどの選択をしても同じことだと思いますが、

少しでも補えるように、

少しでも豊かにできるように、

模索を続けていきます。



“ホームスクール、やっていますよ”


大きな声ではないですが、

小さくもない、普通の声で、

これからも、お話ししていこうと思います。


素敵な出会いを、楽しみにしながら。

朗読会、はじまるはじまる

2018年03月08日 | Weblog
今年ほど、しっかり「冬ごもり」できた年はありませんでした。

深い深い雪に、鎮まるように。

   

そして、春がやってきました。

わたしも、そうっと、お日さまに会いにいくように、動き始めよう。


今年も、はじまりの朗読会は、長野市戸隠。

明日開催です。

大好きな友だちや、お母さんたちが、待っていてくれます。


詩や、おしゃべりや、シンボルツリーのお話しを、たくさんします。

楽しみです。



新潟市寺尾の「うんまんま」さんにも、来月から毎月、伺います。

(今年は、実家の両親の農繁期を支えたいので、5月と9月はお休みさせていただきます。)

こちらも、大好きなスタッフさんたちが待っていてくださることが嬉しく、

馴染みのお母さんとの再会も、初めてのお母さんとの出会いも、楽しみです。


みなさん、ありがとう。