大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ローマの信徒への手紙15章22~33節

2018-03-05 17:11:00 | ローマの信徒への手紙

2018年2月25日 大阪東教会主日礼拝説教 「信仰者は旅をする」吉浦玲子

<現実と希望>

 パウロはローマ訪問の希望を今日の聖書箇所で語っています。パウロの宣教のあり方は、先週お読みした箇所にあるように「他人の築いた土台の上に建てたりしない」ものでした。つまり、自分で土台から建てていくことがパウロの宣教の使命だとっています。コリントの信徒への手紙で、「私は植え、アポロが水を注いだ」とあります。最初にコリントの教会の教会の土台を建てたのがパウロであり、その後、アポロが働いたということです。パウロはコリントにかかわらず、どちらかというと教会を新たに開拓して建てていく役割をしていました。教会がどうにか形を持った後の牧会は後継者に委ねる形であったようです。しかし、パウロは創立者である自分がえらいとは言っていないのです。コリントの教会の中で、パウロ派、アポロ派と争っている人々に「私は植え、アポロが水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」と語りかけます。教会の仕事に限らず、この世界には新しいことを切り開くパイオニアタイプの人もいれば、すでにある程度形の整った仕事を継承し、成長させていくタイプの人もいます。どちらのタイプがえらいということではもちろんなく、どちらのタイプの人もこの世界には必要です。そのどちらもが必要なうちのパイオニア型であったパウロは、さらにパイオニアとして前進をしていきたいという願いがありました。先週も申し上げましたように、ローマ帝国の支配下の西側の地域にパウロは歩みを進めたかったのです。その歩みの途上でローマにいき、また、さらにイスパニア、つまりスペインまで行きたかったようです。それが今日お読みした箇所の最初の部分に記されています。

 新約聖書を長くお読みの方はご存知でしょう。このパウロの希望がこののちどうなったかということを。それは使徒言行録を読みますとわかります。パウロはたしかにこの後、ローマに行くことになります。しかし、それは自由な宣教者としての立場でいくのではありませんでした。パウロは囚人として護送されてローマに行くことになります。それは一説にはこのローマの信徒への手紙を書いた10年後くらいのことではないかと言われます。このローマの信徒への手紙を書いていた時には、パウロ自身、まさかそのような形で、将来、自分がローマに行くことになろうとは思ってもいなかったでしょう。いま使徒言行録の中のパウロの歩みを詳細には追いませんが、パウロはエルサレムで逮捕され、さまざまなところで何回も取り調べを受け、それに対して弁明をしました。パウロはローマ市民権を持っていましたから、最終的にローマ皇帝に上訴をしました。それゆえにパウロはローマへと向かうのですが、そのローマへ向かう途中、船が暴風に襲われ難破するということもありました。たいへん困難な状況でパウロはローマへとたどり着くのですが、使徒言行録の中のパウロは、逮捕されても、反対者から批判をされても、船が難破してマルタ島で過ごすことになっても、首尾一貫した態度をとり続けます。それはイエス・キリストを証しするということです。自分の状況を良くしようとか、良い待遇を受けようということにはまったく無頓着でした。たとえば法廷において自分を取り調べている相手に対してもイエス・キリストの伝道を始めたりするのです。

 「こうして神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで憩うことができるように」とパウロは今日の聖書箇所の最後に記しています。しかし使徒言行録を読む限り、パウロのローマ訪問は「喜び」とは程遠い現実であったように感じられなくもありません。

<織り物とジグソーパズル>

 ところで、ある牧師は、神の御業は織物のようなものだとおっしゃいます。縦糸と横糸を織って行く、いろんな色が混じり合い、織っている途上では、最終的な織物の柄はわかりません。あるときは、なんだか汚いくらい糸ばかり織っているような時が続くこともあるかもしれません。しかし、最終的にできた織物をみるとき、その暗い色によってくっきりとかたどられた見事な柄ができていることに気づきます。美しい明るい糸も、あまりきれいとは思えない暗い糸もその織物の中でそれぞれに生き生きと用いられてすばらしい模様を編み出していくのです。神と共にあるわたしたちの日々もまたそうであるとその牧師は言います。わたしたちはこの糸が織り物のなかでどのようなものになるのかはっきりとはわからぬまま人生の織物を織っています。でも、日々織って行くどの糸も、一本も無駄なく素晴らしい模様のために用いられるのだと。私たちの人生は神のご計画によって素晴らしい織物を織っていくようなものだとその先生はおっしゃいます。

 それはまたジグソーパズルにも似ているかもしれません。わたしはあまり根気がないのでジグソーパズルはしませんが、ご存知のように、ジグソーパズルはたくさんのピースをはめ込んでいき、その最後の1ピースがおさまったとき、絵が完成します。最初、いくつかのピースをつないで、部分だけを見ていた時には全体の絵とは程遠い印象です。それがどんどんピースがつながって、ようやく最終的な絵を見ることができます。もっともわたしたちの人生のジグソーパズルはさきほどの織り物のと同様、最初から完成の絵が分かっているわけではありません。途上では、いったいどのようなものが完成するのか想像もつきません。しかし、わたしたちが日々ピースをつなげていく歩みをしていく時、最終的に神は私たちには想像のつかない素晴らしい絵を完成させてくださるでしょう。私たちは自分が手に持っているピース一片一片の意味をわかりません。それでも根気よく、そのピースをつなげていくとき、素晴らしい絵が神によって完成されていきます。

 パウロは確信をしていたのです。自分自身が神に用いられてキリストの証し人として生きていくとき、その日々に困難があり、自分が願っていたこととは違う状況になろうとも、最終的には、神はなにがあっても、素晴らしい絵を完成させてくださることを信じていたでしょう。パウロのジグソーパズルには鞭うちというピースがあったり、船が難破するというピースがあったり、反対者から陥れられて法廷に立つというピースがありました。しかし、その一枚一枚を神に捧げて生きていく時、どの一枚も無駄にはならない、最終的に美しい絵を神様が完成させてくださることをパウロは確信していたのです。

 自分の一日一日は、神の前にあって、ジグソーパズルの1ピースに過ぎない。でもそれを自分で無理につなげて絵を完成させるのではなく、神が完成させてくださるという確信があったのです。ですから、自分の思っていた通りには必ずしも物事が進んでいかなくても、その日々はパウロにとっては喜びに満ちたものでした。いやもちろん、日々にあって、パウロも恐れ、嘆き、悲しむことは多くあったでしょう。なかなかものごとが思っていたように進まず、不安で押しつぶされそうな時もあったでしょう。しかし、日々のさまざまな思いもありながら、神に信頼していたのです。ですから、パウロ自身、囚人としてローマに向かうとき、こんなはずじゃなかったと困惑はしなかったでしょう。神に信頼する時、未来は本当の意味で希望になります。ローマの信徒への手紙の5章で「わたしたちは知っています、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。」とパウロが語っているのを少し前に共にお読みしました。これは困難の中でも忍耐して希望を失わないようにしましょうということではありませんでした。神ご自身が欺くことのない希望を私たちに与えてくださるから私たちは忍耐ができ練達できるのです。その日々が神によって希望を生みだしていくものとなるのです。

<祝福をまとって行く>

 ところで今日お読みいただいた29節には「そのときには、キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところへ行くことになると思っています。」とあります。また、今日最初にお読みいただいた創世記12章は、アブラハムの旅立ちの場面でしたが、神はアブラハムに「あなたは祝福の源となる」とおっしゃっています。神はアブラハムを祝福して旅立たせました。しかしその神の大いなる恵み、祝福はアブラハム個人にとどまるものではありませんでした。その祝福はアブラハムからあふれ出ていきました。いまや、そのアブラハムへの祝福が全世界に及んでいるのです。あなたを祝福の源とするとおっしゃった神の言葉のように、アブラハムに始まった祝福はまずイスラエルへ広がり、キリストの到来ののちには、イスラエルの枠を越えて、全世界に及びました。

 パウロは29節の前のところで、当時財政的に苦しかったエルサレム教会を支えるための援助金をもってエルサレムへ向かうことを書いています。この援助金を取りまとめてわざわざエルサレムに向かうということ自体、たいへんな困難なことでした。その困難な業をパウロはあえて自分でやったのです。しかし、そのあとにある「キリストの祝福をあふれるほど持って」という言葉は、援助がうまくいった喜びのうちに、ということではありません。そちらにいって、一緒に喜びあいましょうということではありません。「キリストの祝福をあふれるほど持って」という言葉は原語では「キリストの祝福の充満のうちに」という意味があります。つまりパウロ自身が祝福の中にすっぽりと包まれているというイメージなのです。

 パウロがなにか手土産のように祝福をたずさえていくのではなく、パウロ自身が充満する祝福の中に包まれている、そしてパウロがゆくところゆくところ、パウロと出会う人にも祝福が注がれていくというイメージです。かつてアブラハムは祝福の源とされました。アブラハムは旅立ってのち、生涯ほぼ定住はしませんでした。転々と旅をしました。神から最終的な行き先は告げられず、転々としたのです。その旅の途上でアブラハムが寄留する土地にはいつも祝福がもたらされました。それはアブラハムの息子のイサク、ヤコブでも同様でした。さらにその子どものヨセフもそうでした。ヨセフは、エジプトに奴隷として売られてしまいますが、売られていった先で祝福をもたらす存在となりました。つまり私たちの信仰の遠い祖先たちもまた、パウロと同様、自分自身の思いではなく神のご意志により旅をする人生でした。アブラハムもイサクもヤコブもヨセフも、必ずしも自分の願っていた人生を生きたわけではなかったでしょう。しかし、その歩みは神の祝福の充満のうちの歩みでした。それはアブラハムとかパウロといった信仰の巨人だからそうだったのではありません。私たち一人一人もすでにそうなのです。わたしたちもまた祝福にすっぽりと包まれているのです。その祝福は、キリストの十字架の死と復活によって与えられたものです。

 ところで、先日、クリスチャンの友人と話をしました。その方はわたしと同年代でしたが、なかなか自分の家族が教会に行ってくれない、洗礼を受けてくれない、信仰を持ってくれないと嘆いておられました。それは自分の信仰生活がちゃんとしていないからだろうかと思いつめておられました。家族への伝道というのはどの家庭でも難しいものです。その方には、月並みなことではありますが、気長に祈りつつ待つしかないよ、というようなことを申し上げました。ただ、話しつつ思ったのです。その方自身がすでに祝福の源となっていることをもっと感じてほしいなと思いました。その方自身にあふれる程の祝福があり、すでに祝福に包まれている。たしかにご家族への伝道はいろいろな要因があり、むずかしいでしょう。しかし、その方を包む込む祝福はかならずその方の周囲に影響を及ぼしていると思うのです。ですから自分の「信仰生活がだめだから」なんて落ち込むことはないのです。もちろん、だからといってなにも伝道をしなくてよいということでもありません。しかし、既に自分を包んでいる祝福の充満を感謝しつつ歩む生活がもっとも大事なのではないかと思います。

 私たちひとりひとりは、祝福にすっぽりと包まれて、神と共に旅をしていく人生です。そして美しい織物をおっていく、またジグソーパズルを完成させていただく日々です。思いもかけないこともあります。こんなはずじゃなかったということもあります。ローマに向かっているつもりなのに、ぜんぜん違うところに回り道をするような日々もあります。エジプトに放り出されるような日々もあります。しかしなお、その歩みの中で、わたしたちはそれぞれにキリストの祝福に充満されて歩んでいくのです。私たち自身には祝福に充満されている感覚はないかもしれません。それどころか辛いことばかりある日々かもしれません。しかし、わたしたち自身にははっきりと気づけなくても、わたしたちもまた、アブラハムと同様、祝福の源とされているのです。パウロと同様、キリストの祝福の充満の中にあるのです。

 私たちが意識しようとしまいと、わたしたちは、祝福の充満の中を旅していきます。美しい神のご計画のうちに信頼して歩んでいきます。


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