大阪東教会礼拝説教ブログ

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コリントの信徒への手紙Ⅰ 第10章1~27節

2024-01-21 15:56:01 | コリントの信徒への手紙Ⅰ

2024年1月21日大阪東教会主日礼拝説教「越えられない試練はない」吉浦玲子

<金の子牛はどこにある>

 信仰をもって、すぐの時も、また、何年、何十年とたったとしても、神様は現実のことのようには目に見えるわけではなく、その声を聞けるわけでもありません。それでも、神様が守ってくださる、イエス様が導いてくださる、そう感じることが折々にあり、それゆえに、神を信じ続けることができると感じる方が多いのではないでしょうか。単なる偶然とか、運が良かったでは済まないようなことがたまに起こる。そういったことが少し奇妙な、不思議なありかたで起こったりする。そのなかで少しずつ神への確信が増し加えられていきます。そもそも人生において、奇跡的な体験や、神の臨在を強く感じる体験を繰り返ししているから信仰が保ち続けられるのか、必ずしもそうとは限らないと思います。聖書を読んでもそれはよく分かるのです。

 旧約聖書における最大の奇跡は、何といっても、モーセが率いるイスラエルの民が、追って来る当時世界最強のエジプト軍の精鋭部隊を背後にし、目の前は海という状況で、絶体絶命のピンチという場面で、神が、目の前の海を分け、海の底に道を作ってくださり、イスラエルの民はその道を渡ってエジプト軍から逃げることができたという「海の奇跡」でしょう。イスラエルの民はエジプト軍から守られ、それまでの400年間、エジプトの奴隷であったことから解放されました。イスラエルの民は、もちろん神に感謝し、喜びました。彼らはとてつもない神の奇跡、神の救いにあずかったのです。

 でも、そのわずか三日後には、人々は神への不平を言いだします。さらには、モーセが神から律法を授かるために40日の間、シナイ山に上っている間、こともあろうに、残っていた民は、金の子牛を作って、その子牛を神として崇めていたのです。パウロが7節で「彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。」と語っているのはこの時のことです。海を割り、また、水がないと叫ぶ民のために岩から水をほとばしらせてくださり、食べ物がないという民のためにマナを降らせてくださった神を信じることをせず、こともあろうに金の子牛を作って崇めていたのです。神を見ることも耳で聞くこともない私たちからしたら、これだけはっきりと神のなさったことを体験しているイスラエルの民の背信には驚くばかりです。この金の子牛の出来事は、「海の奇跡」からまだ二か月も経っていない時の事です。私たちは、このイスラエルの民を愚かであると思います。今日、私たちは神様が目に見えないからと金の子牛やら、目に見えるありがたいご本尊のようなものを作って崇めるようなことはしません。では私たちが、まったく偶像崇拝をしないといえるのか?それは分からないと思います。

 偶像とは神ならぬものを神とすることです。現代においても私たちには絶えず神ならぬものを神としようとする誘惑を受け、場合によっては負けてしまいます。そもそも人間は神に救われていながら、すぐにそのことを忘れてしまいます。洗礼において、救われながら、その感動が去れば、すぐに救われている自分を忘れてしまうのです。あからさまにお金や地位や権力を頼りにはしないかもしれません。つまりお金や地位や権力を神とはしないとしても、神よりも自分の思いを優先するという、いってみれば、自分を神とする性質は誰にでもあるでしょう。実際のところ、それでは「海の奇跡」から三日後に神に不平を言って二か月も経たないうちに金の子牛をあがめていたイスラエルの民とあまり変わりません。

<神の力を信じる>

金の子牛の出来事以降も民の背信は続き、結局、出エジプトをしたイスラエルの民で約束の地に入ることができたのはヨシュアとカレブのふたりだけでした。度重なる神への反逆を行った民は荒れ野で滅び、最初にエジプトを出てきた民の子供の世代の人々が約束の地に入ったのです。パウロは11節で言います。「これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。」イスラエルの民は神から救われました。しかし繰り返し神以外のものを神とし、神に不平を言い続けてきました。そして結局、約束の地に入れませんでした。

 じゃあ私たちも神様に不平を言ったり、不信仰な態度を取ったりしたら、御国に入ることはできないのでしょうか。主イエスご自身はこうおっしゃっています。「だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。」主イエスはここで、人間が犯すどんな罪も冒涜も赦されるとおっしゃっています。「人の子に言い逆らう者」つまり主イエスに逆らう者であっても赦されるとおっしゃっています。ただ「“霊”に対する冒涜は赦されない」とおっしゃっています。“霊”というのは聖霊であって、神の力とも言えます。主イエスは神の力によって、聖霊の力によって、十字架のうえで罪の力に勝利されました。そして私たちを救ってくださいました。“霊”を信じないということは、神の力による主イエスの勝利を信じないということです。つまり神の救いを信じないということです。神の救いを信じない者は、当然ながら神の救いにはあずかれないのです。

 出エジプトの民は、単に神に不平を言っただけではなく、神の救いを信じていなかったのです。彼らは海を割ってくださってまで救っていただいたのに、荒れ野の旅の途上で幾たびも「こんなことならエジプトにいた方が良かった」「エジプトの肉鍋はおいしかった」と言ったのです。つまり、エジプトで奴隷だったことから解放され救われたことを心から感謝していなかったのです。神の救いを信じていなかった。神の霊の力よりも、エジプトの肉鍋の方が良かったのです。神の力を信じていなかった。ですから彼らはパウロがいうように「悪しき前例」として滅びました。神の“霊”の力を信じていなかった、神の救いを信じていなかったからです。救いを信じていなかったのですから、救いにはあずかれなかったのです。

 私たちは時に神様に不平を言っても良いのです。主イエスはどんな罪でも、キリストを冒涜したとしても赦されるとおっしゃっているのですから。「なぜこんなことになるのですか」と神に向かって叫んでもいいのです。しかし、ただ、キリストが十字架において勝利してくださった、神の霊の力によって勝利してくださった、そのことを忘れさえしなければいいのです。キリストが、その勝利のしるしとして、肉体をもって復活してくださった。そのことを感謝して喜ぶ心を持っていたら良いのです。翻って「復活なんてあれは作り話だ」とうそぶく心には、キリストが“霊”によって、神の力によって勝利され復活なさったことを信じる心はありません。そこには救いはありません。

 ですから私たちは折々に信仰が弱く、時に神への不満に陥るかもしれません。神ならぬものを神とする誘惑に負けてしまうかもしれません。しかしそのたびに十字架と復活に立ち帰ります。キリストが神の霊によって私たちを救い出してくださったことに立ち帰ります。そのとき、私たちはいくたびもいくたびも神を悲しませ、時に冒涜する者であったとしても赦されるのです。

<耐えられない試練に神はあわせられない>

 荒れ野を歩んだ出エジプトの民は、たしかに試練がありました。敵が迫って来る、水がない、食べ物がない、そのような命に関わる危機的状況がありました。そういう点において出エジプトの民には同情したくなるところもあります。神に叫びたくなる気持ち、不満を言いたくなる気持ちも、分からなくはありません。私たちもこの地上という荒れ野を歩むとき、試練にさらされます。その試練は、神の訓練でもあります。申命記でモーセは40年の旅の終わりにいよいよ約束の地に入ろうとする民に語ります。「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。」

 40年の荒れ野の旅はけっして楽なものではありませんでした。それは神が民に与えられた試練だったのです。私たちもまた、この地上という荒れ野を歩んでいます。そこにも試練があります。しかし、その試練の中にあっても、神の救いそのものを見失い、そして神以外のものを神としてしまうことがあってはならないとパウロはこう語ります。

 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」試練もまた神の御手の内にあるのです。それは私たちが、まことに神の言葉を知り、神の民として生きていくことができるように、親が子を訓練するように、私たちを訓練してくださっているのです。ですから、その訓練はけっして耐えられないようなものではないのだとパウロは言います。神は必ず「逃れの道」を備えてくださるのだと。この「逃れの道」は試練のど真ん中をつっきっていく道です。試練を回避したり迂回する道ではありません。神と共に試練に向き合い、そのど真ん中を走っていくのです。

 ところで、この試練に関するパウロの言葉は、クリスチャンでない人からもよく引用される言葉です。10年ほど前に放送された「仁」というドラマでも主人公がよく語っていました。江戸時代にタイムスリップした医者がそこでたいへんな試練にあうのですが、「神は乗り越えられる試練しか与えない」と主人公は繰り返し語って試練に耐えるというストーリーでした。また五年ほど前、水泳選手の池江るかこ選手が白血病を公表なさった時も「神は乗り越えられない試練は与えられない」と語り、病と戦う姿勢を表明されました。

 私は「仁」というドラマは好きでしたし、池江選手の強靭な精神も素晴らしいと思いました。ただ、誤解があってはいけないのですが、神は人間に対して、手加減をして試練を与えられるということではないのです。そしてまた人間の側の忍耐や精神でその試練を乗り越えていくのではないのです。本当の意味で、試練を神からの試練として受け止め、対決していくのです。そして神が備えられた逃れの道を走っていくのです。そのためには、神の力への信頼がいるのです。その信頼があるとき、神からの試練がまことに神からの訓練であることをわかり、神への信頼をもって乗り越えていけるのです。ただ人間の頑張りで乗り越えていくのではありません。神の救いを信じ、神の霊の力を信じるとき、私たちは試練を前にしても、神から離れて、神ならぬものを神として別のものにすがったり、しゃにむに自分の根性で乗り越えようとすることないのです。ですから試練にあっても私たちは絶望しないのです。

なにより、私たちは、だれよりも大きな試練をお受けになったキリストを見上げます。キリストは人間には担いきれない十字架の試練、父なる神の怒りを受けてくださいました。ですから私たちは救われました。私たちは十字架と復活のキリストを見上げます。どのような時も見上げます。そのとき、私たちは試練の中にあったとしても逃れの道が見えてきます。そして神から離れるのではなく、むしろ十字架のキリストへとむかって、飛び込んでいきます。そこに神のまことの愛と恵みがあります。



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