大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ヨハネによる福音書9章1~23節

2018-10-29 19:00:00 | ヨハネによる福音書

2018年10月28日 大阪東教会主日礼拝説教 「因果応報ではない」

<因果応報という穴>

 主イエスは、通りすがりに、生まれつき目の見えない人を、見かけられました。この生まれつき目の見えない人は神殿の外で物乞いをしていたのです。生まれつき目の見えない人は神殿に入ることができなかったのです。「目の見えない人と足の不自由な人は神殿へ入ることができない」当時のイスラエルではそのように言われていました。それは律法的な根拠があったわけではないようです。ただ旧約聖書のサムエル記にはダビデを巡る物語の中で「目の見えない人、足の不自由な人」が神殿に入ることを認めないという記述が見られます。律法ではなく慣習的なことであったようですが、神殿に入ることができないということは、神から見捨てられている人とみなされているということです。そして信仰共同体からはじき出されているということです。その神殿に入ることができない生まれつき目の見えない人は、神殿の外で神殿に詣でる人々からめぐみをいただこうとしていたのです。それはその人にとって、ずっと毎日続けてきたことでした。そのようにしてしかその人は生きていくことができなかったのです。その人を前にして弟子たちは不躾にも「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」と聞きました。このように自分に対して失礼なもの言いをされることも、この目の見えない人にとっては改めて腹を立てるようなことではなかったでしょう。多くの人々がこの人を前にしてそのような言葉を発してきたと考えられます。そういう言葉を聞き流して、ただいくばくかの小銭でももらえたらいい、そのようにしてこの人の日々は過ぎていったのです。体に障害がある、それはきっと罪のためなのだ、そういう因果応報的な考えが当時は一般的だったのです。ひょっとしたら本人もどうして自分が生まれつき目が見えないのかは、はっきりとはわからないなりに、なにか因果応報的なことがあるのかもしれないと感じていたかもしれません。

現代においてもそうです。わたしが存じ上げている、生まれつき目の見えない方も、子供のころからいくたびもいろんな人が「この子の目が見えないのは先祖が悪いことをしたからだ」とか「ばちが当たったのだ」という言葉を聞いて来たとおっしゃいました。

 因果応報、原因があって、結果がある。それはミクロの状態では成立します。また理論的には成立することです。作用する条件が限られていて、そのなかで、ある事柄が原因となって、結果が生じます。私は理学部の出身ですので、実験環境の中での原因と結果というのは分かりやすく感じます。しかし、現実の生活は試験管の中やビーカーの中のようにはいきません。もっともっと複雑です。なにが原因でなにが結果か、いろんな条件があって、それはよくわからないのです。分からないからこそ、逆に私たちはあることが起こったとき原因を追究したくなります。もちろん原因を追究しないといけないこともあります。たとえば企業が販売している製品に問題が起こったとき、問題が再発しないために、なにがなんでもその原因を調べて対策をしないといけません。コンピューターのシステム開発をしているとき、システムに問題があったとき徹底的に何日もかけて原因を調べました。

 しかし、ある限られた条件下でなら原因と結果は分かりやすいのですが、私たちの人生や世の中のことを考えるとき、原因と結果というのは分かりません。たまたま交差点で交通事故にあった、その交差点にその時間に行かなければ事故にはあわなかった、じゃあ交差点に行ったのが原因でその結果として事故にあったのか。そんなことはないのです。交差点に行くのは毎日のことで、いつも同じ時間に行っていてなぜその日だけ事故にあったのか。そういうことは、なぜ、と考えてもわからないのです。しかし、どの時代でも、どこの国でも、因果応報的な考えは根強いのです。悪い結果が起こったとき、そこには何か原因があると考えます。不幸なことが起こったとき、苦しいことが続くとき、それはこれこれこういうわけで起こったのだと誰かが説明してくれたら気が楽になります。場合によっては原因を取り除いて状況を改善できると感じます。かつてテロ事件を起こした新興宗教には高学歴な若者の信徒がたくさんいたことが話題になりました。それも理科系の若者が多かったのです。新興宗教の一つの特色として上げられるのは、そこでは問題に対して明確に答えが与えられるということです。人生について、苦しみについて、未来について、さまざまな問いに対して明快に答えが与えられるのです。もちろんそこには、どこかごまかしがあるのです。あるいは特殊な洗脳によって信じ込まされる側面もあります。しかし問いに対して答えが与えられるというのは、一般に理論的な思考ができると思われている理科系の若者にはことに魅力的だったのではないかと想像できます。もちろん、さまざまな人生経験をしていたら、人生はそのように単純に原因と結果で割り出せるようなものではないと判断できたかもしれません。しかし、人生経験の浅い若者は因果応報的な考えの穴に落ち込んでしまったのです。

 正統的な宗教においては、そうおいそれとさまざま人生の問いについて明確な答えは得られません。聖書においてもすかっと謎が解けるような爽快感を覚えることはそうありません。むしろヨブ記をはじめとして、神のなさることの不条理のなかに置きっぱなしにされるような感じを持たされるようなことも多々あります。

<遣わされた者によって>

 では、聖書は私たちをただ不条理なところに置きっぱなしにして、でもそれが神のなさることなんだとあきらめるようにと語っているのでしょうか。もちろんそうではありません。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」という弟子たちの問いに主イエスは「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」とお答えになりました。

 この聖書箇所によって、私が存じ上げている生まれつき目の見えない方は信仰を得られました。そしてまた、多くの目の見えない方がこの箇所を信仰を得た契機として上げられたり、愛誦聖句として上げられると聞きました。しかし、不思議なのは、「神の業がこの人に現れるためである」という言葉における「神の業」とは何でしょうか?実際、今日の聖書箇所に出てくる生まれつき目の見えない人は、目が見えるようになりました。神の業が現れたのです。しかし、この聖書箇所を愛誦する多くの目の見えない人たちは依然として目は見えないままなのです。しかしなお、その人たちは、この聖書箇所を読むとき、涙ぐむようにして、神の恵みについて語られます。

 主イエスはこの目の見えない人の目に唾でこねた泥を塗られました。そういうことを主イエスがなさった理由はさまざまに解釈されます。唾には消毒作用があると考えられていたというのはよく言われます。そしてまた、その泥を目に塗るという行為は、なんらかのことを主イエスがなさっているということを、この目の見えない人にが理解できるようになさったのではないかとも言われます。そして主イエスは洗い流すためにシロアムの池に行くように命じられました。その泥を洗い流すという行為をこの目の見えない人がするために敢えて主イエスは泥を塗るという行為をなさったとも言えます。その人は従順に主イエスの言葉に従いました。神殿からシロアムの池まで行きました。シロアムの池というのは神殿からけっして近いわけではありません。1キロくらいあります。ちなみに7章で出てきた仮庵祭のとき祭司が水を汲むギホンの泉のはずれにあります。もともとは考古学的にはギホンの泉の場所がシロアムの池と考えられていました。しかし、14年ほど前、あらたに100メートルほど離れたところに、遺跡が発見され、そちらがシロアムの池だということが分かったのです。神殿からそのシロアムの池までの道のりをこの目の見えない人は歩いて行ったのです。そしてシロアムの池で目を洗うと、たしかに目が見えるようになりました。これはシロアムの池の水がなにか霊験あらたかな作用をしたということではありません。聖書にはシロアムの池の説明としてわざわざ「遣わされた者」と記してあります。「遣わされた者」とはそもそも誰でしょうか?それは神から遣わされた主イエスにほかなりません。この目の見えない人は遣わされた者である主イエスの言葉に従ってシロアムの池まで行って目が開かれました。

 遣わされた者と出会って、遣わされたお方の言葉に従うとき、人間は目を開かれるのです。いままで見えなかったものが見えるようになります。それは肉体の目が見えている人でも同様です。肉体の目は見えながら、しかし、霊の目は閉じている、神の光が見えていないということがあります。しかしその見えない目は、遣わされたお方によって開いていただけるのです。

 この生まれつき目の見えない人は肉体の目が開かれたとともに、霊の目も開いていただいたのです。現実世界の太陽の光のみならず、神の光を感じることができるようになったのです。実際、この人が単に肉体の目が開かれただけではないということが、9章の後半を読むとよくわかります。神殿の外にいた、神から隔てられているように扱われていたこの人に神の業が現れたのです。

そもそもこの人の目が見えない理由は、本人の罪のためでもない、両親の罪のためでもない、と主イエスはおっしゃいました。人間には理由は分からないのです。しかし、分かっていることは、遣わされた者に従って行くとき、そこに神の業が現れるということです。闇の中に生きていた人間が、神の光を受けることができるということです。

 知合いの目が見えない人が、目が見えないままに、癒されないままに、この聖書箇所を愛誦しておられるのは、その友人もまた、たしかに自分に神の業が現れたという思いを持たれているからだと思います。肉体の目の視力は回復しなくても、なお、自分には神の光が注がれている、そのことをはっきり確信されていたのです。

<遣わされた者として>

 そもそも目に塗られた泥を洗うという行為は象徴的な意味を持ちます。見えなかった目が見えるようになるためには、洗い流さなければならないのです。自分で洗い流すことはできないのです。遣わされたお方の言葉に従って洗っていただくのです。使徒言行録における伝道者パウロの目から鱗のようなものが落ちた話は有名です。彼はかつてはキリスト教徒を迫害していました。しかし、ダマスコ途上で、キリストと出会い、遣わされたお方の鮮烈な光によって目が見えなくなりました。数日後、目から鱗のようなものが落ちて目が開きました。そして、それまで自分が迫害していたキリスト教徒たちが信じるキリストこそが救い主であることを知りました。パウロの霊の目が開かれた瞬間です。

 私たちもまた霊の目をふさいでいる泥を洗い流していただかなくてはいけません。鱗のように目を覆っているものを洗い流していただかなくてはいけません。洗うということは一つには洗礼を象徴しています。遣わされたお方であるキリストのもとにいって、キリストご自身によって洗い流していただく必要があります。しかし、それは洗礼の時だけではありません。遣わされた者の言葉に聞き従うとき、私たちの目は洗われるのです。

 そしてまた主イエスは「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日があるうちに行わなければならない」ともおっしゃっています。これは弟子たちにおっしゃった言葉です。「わたしたちは行わなければならない」、主イエスだけではない、弟子たちにも行うようにとおっしゃっています。何を行うのか?「シロアムの池に行け」と伝えるのです。遣わされたお方のところへ、人々を導くようにとおっしゃっているのです。そう弟子たちに、そして私たちにおっしゃっています。遣わされたお方によって目を開かれた私たちは、今度は遣わされたお方を指し示す者とされるのです。

 私たちはなぜこういうことになったのか?と過去に因果を原因を問う者でした。しかし、キリストは指し示されます。神の業が現れる未来を。私たちは遣わされたお方によって過去ではなく未来を見る者とされました。未来を見る目を開かれました。未来に向かうまことの光を見る目が開かれたのです。そしてその未来に向かう光なるお方を指し示す者となります。


ヨハネによる福音書8章48〜59節

2018-10-22 19:00:00 | ヨハネによる福音書

2018年10月21日 大阪東教会主日礼拝説教 「憎しみの石を捨てよ」吉浦玲子

<先在の神 キリスト>

 主イエスはアブラハムが生まれる前から「わたしはある」とおっしゃいました。アブラハムは主イエスの時代から1000年以上も前の人物です。イスラエルの信仰の父として尊敬を受けていた人です。そのアブラハムが生まれる前からご自身があるとおっしゃる主イエスの言葉を聞いて人々は驚き、驚いたのみならず主イエスに石を投げつけようとした、それが今日の聖書箇所の場面です。

 そもそも、イエス・キリストは、アブラハムの生まれる前どころではなく、天地創造のその前から父なる神と共に存在しておられました。ヨハネによる福音書第1章の最初に「初めに言があった。言は神と共にあった。」と記されていました。言とはキリストであり、言は神と共にあった。キリストは父なる神と共におられたのです。そのキリストを「先在の神」、先に在る神、という言い方をすることがあります。イエス・キリストは2000年前のクリスマスのとき人間としてこの世界に来られましたが、そのとき突然現れられたのではありません。初めから言なる神として父なる神と共におられました。旧約聖書の時代、まだ主イエスは肉体をもってこの世界に来られていませんが、キリストがなされたと思われる業はそこここに記されています。伝道者パウロもコリントの信徒への手紙で、創世記の時代、キリストが出エジプトの民とともにあったことを語っています。荒れ野でイスラエルの民は、岩から水を出していただき水を得て渇きから救われましたが、「彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。」とパウロは語っています。そのキリストは当然アブラハムもご覧になっていたのです。

 ところで、先週、壮年婦人会で、出席された方に、大阪東教会のポストに投函されていたある新興宗教のビラを参考にご覧いただきました。そこにはいかにもご利益宗教的な言葉が並んでいたのですが、特にキリスト教への批判もひどく書かれていました。いろいろと批判は書かれていたのですが、<教祖が30歳そこそこで死んだ宗教などは非力>だと書かれていたところを興味深く感じました。世の中の多くの人は、特に日本においては、イエス・キリストというのはキリスト教の開始者であり教祖だと思っているようです。私自身は、教会に来る前は、キリストは教祖というのとはなんとなく違うように感じていましたが、釈迦や孔子などと並んで、昔の偉い人だと漠然と考えていました。そのキリストは、30歳そこそこで十字架にかかって死なれた、それはたしかに歴史的事実です。当時の歴史家でありますヨセフスの歴史書などを見ても、イエスという人物が十字架刑になったことが記されています。その後2000年にわたって、多くの人々が、キリスト教は復活だのなんだのといって、キリストを神として祀り上げているが、たかだか30歳で死んだ人間に過ぎない、と攻撃してきたのです。現代でもそうです。ビラを投函した新興宗教だけではありません。他ならぬキリスト教の内部でも、残念なことに日本基督教団のなかにあってもイエス・キリストを人間としか考えていない人々や教会はあります。肉体の復活を信じず、30歳そこそこで死んだ宗教家、慈善活動家と考えている人々は残念ながら、いるのです。

 しかし、イエス・キリストは先在の神であられます。もちろんそれは、聞いてすぐに信じられるようなことではありません。今日の聖書箇所でも、そこが論点となっています。単に議論されているだけではありません。キリストが先在の神であること、つまりイスラエルの人々にとって信仰の父と言われるアブラハムより以前からキリストが「わたしはある」と語ることは、神への冒涜以外の何物でもなく、大きな憎しみを巻き起こすことでした。私自身、2000年前その場にいたとしたら、とても信じられなかったと思います。目の前に、先在の神であられるキリストを見ても、「この男は狂っている」としか感じなかったのではないかと思うのです。人となられてこの地上を歩んでおられるイエス・キリストは、特に神々しいようなお姿をされていたわけではありません。むしろ貧しいガリラヤの田舎者の容貌であったでしょう。しかし一方で、律法学者やファイリサイ派とは全く違う力ある言葉を語られました。素晴らしい奇跡を行われました。そういう言葉を聞いて、また主イエスのなさったことを見て「この人は何か違う、ひょっとしたらすごい預言者かもしれない」「神から特別な力をいただいている人かもしれない」そういう感覚を持つ人々もいたのです。

<イエス・キリストとは何者か>

 今日の聖書箇所は、前のところから続いていて、前のところと同様に、今日の聖書箇所のイエス様の言葉は、「イエス様を信じた人々」に語られています。その「イエス様を信じた人々」は、神を信じ、救い主の到来を待ち望んでいたユダヤ人たちでした。不信仰な人々ではなく、信仰熱心な人々でした。そして多くの律法学者やファリサイ派の人々が主イエスへ憎悪を持っていたのに、今日の聖書箇所で主イエスと話をしている人々は、主イエスをひとたびは信じた人々でした。

 その人々に主イエスはあろうことか今日の聖書箇所の前のところでは「あなたたちは悪魔の子だ」とまでおっしゃいました。「あなたたちは神に属していない」とおっしゃったのです。人々は当然納得できません。ひとたびは信じた主イエスに対して「あなたはサマリア人で悪霊に取りつかれていると、我々が言うのも当然ではないか」と人々は言い返します。ユダヤの人々からしたらサマリア人というのはもっとも軽蔑すべき人間でした。もともとは同じユダヤの血筋でありながら、信仰的にも人種的にも他の民族と混血したさげずむべき人間でした。しかも、「悪霊に取りつかれている」ともいうのです。ここから先の議論は前の箇所と同様、平行線に終わります。「あなたは『わたしの言葉を守るなら、その人は決して死を味わうことはない』と言う。わたしたちの父アブラハムよりも、あなたは偉大なのか。彼は死んだではないか。預言者たちも死んだ。いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか。」人々はそう主イエスに迫ります。目の前にいるイエスという男はまぎれもなく人間の姿をしているのです。実際、主イエスは、肉体的な飢えを覚え、渇きを覚え、疲れを覚えつつ、この地上を歩まれました。その肉体は、もろく、けがをすれば血を流すのです。その肉体を持ったこの男が、なぜ「死を味わうことはない」などというのか?アブラハムも死んだ、偉大な預言者エリアも死んだ、エレミヤもイザヤも死んだのです。「いったいあなたは自分を何者だと思っているのか?」その問いは自然に起こってくる問いです。

 しかし、この場面ののち、不思議なことが起こりました。これから主イエスは十字架にかかられ、実際にその肉体はたしかに死にました。30歳そこそこで命を落とされました。しかし、主イエスは復活なさいました。実際に復活の主イエスと出会った人も、実際には出会わなかった人の間にも、主イエスの復活を信じる人が起こされました。主イエスが先在の神であることを信じる人が起こされました。キリストが十字架にかかられたこと、復活されたこと、そしてキリストが神であり人間であること、そのことを毎週毎週、キリストの教会は語っています。教会に来られている方は毎週毎週それを聞きます。聖餐においてもそのキリストの死の贖いをぶどうジュースとパンによって知らされます。しかし、どれほど聞いても、どれほど知らされても、<キリストとは何者か>ということを人間は通常では理解できないのです。今日の聖書箇所でユダヤ人が発した「いったいあなたは自分を何者だと思っているのか?」という問いはすべての人間の心に湧き上がる主イエスへの問いです。主イエスを30歳そこそこで死んだ教祖であると理解するのは簡単なことです。主イエスに共感を覚えながら、立派な言葉を残した宗教家であるとか、貧しい人々や差別されている人々を救った社会運動家であると理解することも難しくはありません。しかし、本当のところイエスとは何者なのか?それを本当に理解することはほとんど不可能です。そこには信仰の働きがいります。聖霊の働きが必要です。

 証拠を並べ立てて、エビデンスを数限りなくあげて、主イエスはかくかくしかじかの者であるとは言えないのです。しかし、実際には2000年にわたって、信仰者は起こされてきました。それは2000年にわたっておびただしい人々が教会の作り話を信じてきたのではありません。信仰の働き、聖霊の働きと言っても、「鰯の頭も信心から」というような信仰ではありません。科学的知識の乏しい人々が救われたいと願ってむやみやたらと信じたわけでもありません。主イエスは「神であり人間である」「アブラハムの前からあるというお方である」と証言するたしかな信仰者が起こされてきたのです。

<栄光を神に帰するときわたしたちは自由になる>

 しかし、日本においてはキリスト教の信仰者はマイノリティです。平日に大阪東教会の牧師館の窓から、ときおり外を眺めますと、多くの働き人が通り過ぎていきます。夜になっても、いくつもの会社の事務所には明かりがついています。残業して働いている人々がたくさんいます。かつて自分もそんな働き人の一人でしたから感慨深いものがあります。いつまでたっても消えない事務所の明かりがあり、さらには土日でも誰かが仕事をしている様子のある事務所の窓があります。あの窓の向こうの人はちゃんと休みがとれているのだろうかと心配になったりします。そのように忙しく働く人々にとって、生きていうえでイエス・キリストが何者なのか?そんなことはどうでもいいことなのでしょう。自分は何者か自分はこれからどう生きていくのか、といったことは考えることもあるかもしれません。しかし、実際は日々の暮らしで精いっぱいなのです。ノルマがあり、守るべき家族があり、それぞれに果たすべき責任を果たして生きておられるのです。

 ところで、わたしの母教会で、ある年配のご婦人の証を聞いたことがあります。そのご婦人は、若いころ、聖書に興味があり、教会にも少し通ったのですが、信仰を得るまでには至らなかったそうです。その後、結婚をなさって、弁護士をなさっているご主人を支えて生きてこられました。家庭を守り、ご主人が独立され事務所を立ち上げるときなどはことに多忙なご主人を支えて事務所が軌道に乗るまで一緒に苦労をされたそうです。ところがそのようにして30年以上も連れ添ったご主人があるとき、突然、「別れてほしい」とおっしゃったそうです。寝耳に水のことで、なぜ?と問うても明確な返事は得られず、しかし、もともと弁護士で弁は立つご主人で、うまく言いくるめられた形で、離婚をせざるを得なくなりました。熟年離婚でした。長年にわたってその方が積み上げていたものがすべて崩れ落ちたように感じたそうです。さらに、離婚をしてしばらくして、もともとご主人には別の女性がいて、その女性と一緒になるために自分と離婚をしたということが分かったそうです。この世においてはありがちなこととはいえ、当事者としてはたまったものではありません。すでに離婚は成立して時間もたっています。千々に乱れる思いの中で、若いころ読んでいた聖書をふたたび開いたそうです。やがて教会に行くようになり信仰を得ました。そしてかつてのご主人への腹立たしい気持ちよりも、神を信じること、主イエスと共にあることの平安のほうが心を占めるようになったそうです。そのようなつらい体験をした人だけが信仰を得るのでしょうか?そうではないでしょう。神は一人一人に対して特別なやり方で招いてくださいます。毎日毎日、教会の前を通り過ぎていく多くの人々に対してもそうです。まったく興味がない、日々のことで精いっぱい、そんな人々が一人も滅びることなく主イエスを信じる者とされるように、主イエスはアブラハムの前からあるということを証できるようにしてくださいます。

 主イエスは54節で「わたしが自分自身のために栄光を求めようとしているのであれば、わたしの栄光はむなしい」とおっしゃっています。わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であるともおっしゃっています。クリスチャンは神に栄光を帰すということを良くいいます。<主の祈り>の最後も「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」と栄光が神にあることを告白して神を賛美する形になっています。しかしまた、わたしたちは神の栄光ということを言いながら、どうしても自分の栄光を求めてしまう者であることをいやというほど知っています。栄光というとおこがましい気もしますが、神の御心よりも自分の思いをどうしても優先してしまうところがあります。そのとき、私たちは神の栄光を軽んじています。

 先の熟年離婚をした婦人は、他の女性のもとへ走った元のご主人に対して恨み言はおっしゃいませんでした。もちろん離婚の理由が分かった時点ではそうではなかったのですが、信仰を得てからは、怒りや憤りを捨てられました。その婦人は「自分に罪はあった」とおっしゃいました。妻としてのおごりがあったともおっしゃいました。弁護士事務所を開設したとき業界誌にも夫婦ともども写真が載って紹介されたりして、とても舞い上がっていた、と。立派な妻としての自分の栄光を誇りにしていたと気づいたそうです。その自分の栄光への誇りを捨てたとき、怒りや憤りや元のご主人への憎しみもなくなったそうです。

 今日の聖書箇所の最後のところで、人々は、「石を取り上げ、イエスに投げつけようとした」とあります。これは単に腹を立てて暴力行為をするというのではなく、明確に石打の刑を行おうとしたということです。8章の最初のところに姦淫の現場を押さえられた女性を石打の刑にするかどうかという話が出てきましたが、当時であっても、刑というのは裁判で決められるものです。しかし、この場面は、裁判なしで、有無を言わさず、主イエスを死刑にしようとしたのです。それほどに人々の憎しみが大きかったということです。特別に神に選ばれた民でありアブラハムの子孫である自分たちの栄光を彼らは思っていたのです。神を信じていると思いながら自分の栄光を第一に考えていたのです。その自分の栄光を傷つけられたとき、そこには殺意を伴うほどの憎しみが湧き上がるのです。

 実際にはキリストを石打にしようとした人々ではなく、キリストが栄光をお受けになりました。十字架の栄光です。みじめな死刑に過ぎない十字架がキリストにとっての栄光でした。しかし、私たちもまた、その十字架に栄光を見ます。神の栄光を見ます。輝く救いの十字架の栄光を見ます。ですから、神に栄光を帰すことができます。神に栄光を帰す、というのは単なるへりくだりではありません。十字架の栄光ゆえに、私たちは神に栄光を帰すことができるようになったのです。そして神に栄光を帰すとき、ほんとうに私たちは自由になるのです。自分の栄光を手放すとき、私たちは私たちを縛り付けていたさまざまな苦しみやら感情から解放されます。握りしめていた憎しみの石を地面に置くことができるのです。そして本当の命へと歩みだすことができるのです。

 


ヨハネによる福音書8章31〜47節

2018-10-21 15:17:26 | ヨハネによる福音書

2018年10月14日 大阪東教会主日礼拝説教 「あなたを自由にするもの」 吉浦玲子

<あなたを自由にする真理とは>

 「真理はあなたたちを自由にする」

 この言葉は、ひょっとしたらクリスチャンではない人には、ヨハネによる福音書のなかで一番知られている言葉かもしれません。ヨハネによる福音書には「神はその独り子をお与えになったほどに世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とか「わたしは命のパンである」とか「わたしは道であり真理である」といったたくさんの有名な言葉がありますが、「真理はあなたたちを自由にする」は国会図書館にも掲示されているくらいキリスト教とは直接関係のないところでも掲げられる言葉です。ヘール宣教師が創立されたことで大阪東教会とは縁の深い大阪女学院の南門にもラテン語と英語で掲示されています。さらにミッションスクールではなかったわたしの出身校にもたしか掲げられていたと思います。

 図書館や学校に掲示されているこの言葉を一般の人がご覧になると、これは学問や知識の偉大さを語った言葉であろうと思われると思います。私自身、教会に来るようになる前は漠然とそう感じていたと思います。もちろん単に学問とか知識とは語られていない、「真理」と語られています。そこにとても高邁なものを多くの人は感じるのではないでしょうか。自然科学にせよ人文科学にせよ、人を高みへと上げていくものだという感覚があると思います。人間が無知の闇から、理性の明るいところへ入ってくる、そうするとそれまでできなかったことができるようになります。何も見えない手探りのところから、明るい理性の光の中でいろいろなことがわかり、いろいろなことができる、つまり人間は真理によって自由を得ることができる、そのようにこの言葉から考える人が多いかもしれません。しかし、この言葉はヨハネによる福音書の文脈の中で味わうとき、そのような高邁な理性を賛美するような内容ではないことがわかります。

 そもそも、この言葉は誰に向かって語られているのでしょうか。今日の聖書箇所の直前のところを読みますと、主イエスがご自身は「わたしはある」という存在、つまり神であることを語られ、そのことを「多くの人々が信じた」とあります。つまり今日の聖書箇所では、そのご自身を信じた人々に対して主イエスは語っておられます。信じなかった人ではなく、信じた人に語られているというのがポイントです。その信じた人々に「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」とおっしゃったのです。

 逆に言えばわたしの言葉にとどまらなければ、わたしの弟子にならなければ、あなたたちは真理を知ることはなく、不自由なのだと語っておられるのです。このイエス様の言葉に、せっかく主イエスを信じた人々はつまずきました。信じた人々は、自分たちは真理を知っていると思っていたからです。特別に神に選ばれた民である自分たちは神のことを良く知っている、そしてその神こそが真理そのもののお方であることを、自分たちは誰よりも知っていると思っていたのです。誰よりも神を、そして真理を知っている自分たちが、真理を知らない、そして不自由な存在であるとはまったく思っていませんでした。

 「わたしたちはアブラハムの子孫です。今までだれかの奴隷になったことはありません」そう彼らは答えます。旧約聖書の時代、神はアブラハムを選ばれました。そしてそのアブラハムへ、アブラハムのみならずその子孫であるイスラエルが特別な選びのなかにあり、祝福の源であることを約束されました。以後、千年以上にわたって、イスラエルの人々は自分たちはアブラハムの子孫であること、神から特別に選ばれているものであることを誇りにしてきました。しかしながら一方では、歴史的にはイスラエルという民族、そして国家は、一時期を除いて、政治的独立もままならない弱弱しい存在でありました。今日最初に読んでいただきましたネヘミヤ書にも、イスラエルが神に背き、奴隷のような状態になっている嘆きの言葉がありました。そして、主イエスの時代もローマ帝国に支配されていたのです。しかしそのような政治的状況にも関わらず、いやそのような状況であるがゆえに、自分たちの特別なアイデンティティーを彼らはよりどころとしていました。しかし、主イエスはおっしゃるのです。「罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。」教会に来ている私たちは、罪の奴隷ということはよく聞きますし、それなりにわかります。罪によってがんじがらめにされている、そういう感覚は理解できると思います。じゃあ自由になったらどこへでもいけるのでしょうか?ここで主イエスは興味深いことをおっしゃっています。「奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。」

 たしかに奴隷は主人の気分次第でどこかに売り飛ばされる可能性があるわけです。罪の奴隷であるとき、自らの罪によって縛られて思うままに歩むことはできないということは往々にしてあります。現実的に、奴隷にとって主人の家は自分の家ではありません。奴隷は自分のいる場所を自分で選ぶことはできません。家を選ぶ自由はないのです。では奴隷でなく、自由になったら、家を自由に選べるのか、あるいは自分が家の主人になるのかというとそうではないのです。その家の子供になるのです。神の子供になるのです。正確に言えば神の御子であるキリストと同じように神の子供とみなされるのです。そして神の家にずっといるのだとおっしゃるのです。有名な詩編23編は人間を豊かに養い祝してくださる神への賛美があふれています。「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。」に始まり、「命のある限り/恵みと慈しみはいつもわたしを追う./主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう。」で終わります。神の家にとどまるとき、神の恵みと慈しみがわたしたちにあふれんばかりに与えられるのです。しかし、私たちが奴隷であれば、そこにとどまることはできないのです。子供とされた者たちはとどまることができるのです。恵みと慈しみが後を追うように絶えることがないのです。

 今日の聖書箇所でも、主イエスは「わたしの言葉にとどまるならば」と語っておられます。この言葉のニュアンスはわたしの言葉の中にいるならば、ということになります。ただ言葉を聞いていいねと思っているだけではない、その言葉の中に自分の全体が入っているということです。少し前に、神がご自身のことを「わたしはある」とおっしゃるとき、この言葉はいつでも現在形だと申し上げました。神はかつても「わたしはある」お方で、今も未来もたえず現在形で「ある」お方であると申し上げました。そのいつも現在形であるお方のところへ、現在形のお方の中に、いつもとどまり続けるということが大事なのです。先ほど申し上げたように、この場面で主イエスが話されている相手は主イエスを信じた人々でした。主イエスを信じるということはそれだけでも素晴らしいことです。当時、主イエスの話を聞いても憎しみしか感じなかった人々もいたのですから。しかし、「信じる」というそこでとまってはいけないのだとおっしゃっています。主イエスの言葉の中にとどまり続けることが必要なのです。わたしたちもまた、過去や未来のことではなく、今現在、主イエスの言葉の中にとどまり続けることが必要なのです。かつて洗礼を受けた、だからそれでいいのだということではないのです。毎日毎日、み言葉の中にとどまり続けるのです。

<み言葉にとどまるということ>

 そしてまたみ言葉の中にとどまり続けるということは、単に知識としての御言葉を知っているとか信仰書を読み続けているということではなく、その御言葉に生き続けるということです。キリストとの交わりの中に生き続けるのです。キリストが言葉そのものであられたように、わたしたちも言葉そのものの生活をしていくのです。それにしても37節からあとは、たいへん過激ともいえる主イエスの言葉が続きます。「あなたたちがアブラハムの子孫だということは、分かっている。だが、あなたたちはわたしを殺そうとしている。わたしの言葉を受け入れないからである。わたしは父のもとで見たことを話している。ところが、あなたたちは父から聞いたことを行っている。」

 せっかく主イエスを信じた人々に、「あなたたちはわたしを殺そうとしている」とおっしゃるというのはどういうことでしょうか?さらに39節以降では言葉が激しくなります。「あなたたちは、悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。」あなたたちは血筋はたしかにアブラハムの子孫かもしれないが、その本性は悪魔である、あなたたちはアブラハムが父だと言っているのが、実際のところあなたたちの父親は悪魔なのだとおっしゃっています。

 繰り返しますが、これは信じなかった人々におっしゃっているのではないのです。私自身、この箇所をはじめて読んだとき、面食らいました。躊躇する思いがありました。なぜ主イエスはここまでおっしゃるのかなと思います。たいへん厳しい言葉です。しかし、それが人間の真実なのだと主イエスは見破っておられるのです。信じている、そういいながら、人間は自己中心的に生きていきます。宗教的な上着を着ながら、その内側には恐ろしい罪の肉体を持っている。それはたとえば歴史をみれば分かることなのです。第一次世界大戦、第二次世界大戦、そこには日本も入っていますが、基本的にはキリスト教国同士の戦いでした。神を信じているはずの人々同士が殺し合いをしたのです。ホロコーストもありました。第二次世界大戦後もそうです。人間は自己の利益のために他者を抹殺することをいとわないのです。それは国家や民族単位の、たまたま、さまざまな条件が重なってタガがはずれたようになって起こったことではありません。むしろそこに人間の本性が現れるのです。国家や民族単位で、特殊な条件下や追い詰められた状況の中で、集団心理が暴発したり、愚かな独裁者の暴挙というだけではなく、そもそも人間の内側に秘められたものが明らかになったということなのです。人間一人一人の中の自己中心性、悪魔的な者があるのです。

 信じていても、なお、わたしたちは罪の奴隷になってしまう、神の子供ではなく悪魔の子供になってしまう、その根っこのところにある、悪魔に連なる罪の本性を断ち切るために来られたのが主イエスでした。わたしたちが主イエスを信じるということはもちろん重要なことです。しかし、わたしたちが信じることに先立って、キリストが十字架において、その悪魔の血筋を断ち切ってくださった、まとわりつく罪の縄目をほどいてくださったのです。宗教改革者ルターは、若い時、どんなに宗教的戒律を守って、まじめに修道士としての生活をしても、聖書を熱心に学んでも自分が救われたという実感を持てませんでした。むしろ自分の罪深さに悩みました。自分の内なる悪魔に翻弄されたのです。そのルターが、ただ神の恵みとして、神から与えられるものとして救いがあること、そのことを信じるのみで救われることを悟りました。そのルターは生涯にわたって悪魔と戦ったということは有名です。悪魔というと現代を生きる私たちはなにか現近代的な妄想のように感じますが、これまで話しましたように人間の根っこには悪魔的なものがありますし、それがある種の外的な力となって現れてくることもあるのです。ルターが悪魔に対してインク瓶を投げつけたというのは有名な話です。そのインクの染みの残った部屋がいまは観光コースになっているそうです。そういうことを聞くとばかばかしいような思いを持たれる方もおられるかもしれません。しかし、現実的に信じる者にとって悪魔との戦いはリアルなものなのです。

 しかし、その戦いは実際のところ、すでに主イエスによって勝利されています。先ほど申しましたように、十字架こそが悪魔と主イエスの戦いでありました。今日の聖書箇所で、主イエスはとても激烈な言葉を語られました、しかし、「あなたたちの父は悪魔だと、だからあなたたちは救いようがない」とおっしゃっているのではないのです。だから私が戦って、あなたたちを悪魔から救う、神の子供とするのだとおっしゃっているのです。神の子供とされたわたしたちは、なお、まだ肉体を持ち、罪の世界で生きています。悪魔からの誘惑は多くあります。ですから戦いはあります。しかし、その戦いは、私たちが悪魔と直接対決をするのではなく、み言葉にとどまり続けるという戦いです。すでに勝利してくださっているキリストの真理にとどまり続けるという戦いです。

 ギリシャ語の真理という言葉には、真実というニュアンスもあります。高邁な概念や思想ではなく、現実生活に根を下ろした真実な姿が真理です。キリストは真実に戦ってくださいました。血を流し肉を割いて戦ってくださいました。そのキリストの真実な姿にとどまり続けるのです。そのとき、神の恵みと慈しみが私たちを追うのです。今日も明日もとこしえまでも恵みと慈しみのうちに生かされるのです。


ヨハネによる福音書8章21〜30節

2018-10-21 15:12:59 | ヨハネによる福音書

2018年10月7日大阪東教会主日礼拝説教 「あなたはどこに属するのか」 吉浦玲子

<出口のない罪の迷路で死ぬ>

 「わたしは去って行く」主イエスはふたたびご自身がこの世界から去って行かれることを語られています。主イエスはご自分が十字架にかかられることを語られています。「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」そう今日の聖書箇所で語られています。同じ言葉が少し前の7章34節にもあります。その言葉の真意を人々には理解できません。7章では「この男はギリシャ人のところへ行くつもりか」と人々はいい、今日の聖書箇所では「自殺でもするのか」と人々はいぶかしがります。

 会社員時代、入社したころは、社員証や社員バッチを警備員さんに見せれば社内に入ることができました。昭和から平成のはじめくらいまでは、そういうものを忘れても警備員さんは社員の顔を覚えていますからだいたい顔パスで入れてくれました。しかし、だんだんとセキュリティがうるさくいわれるようになって、電子化されたカードで認証されなければ入門できなくなってきました。そのうちさらに、社内でも入れる範囲というのが所属や仕事内容や役職などによって細かく複雑に分けられるようになりました。隣の部署の自分は本来入れない場所に行かなければならないた場合、そこの部署の人から内側から扉を開けてもらったり、迎えに来てもらって部屋へ入ります。しかし、途中でちょっとうっかりドアを出てお手洗いなどに行ったりしたら、もう二度ともといた場所に入れなくて、そこの部署の人が探しに来るまで廊下で立ち往生ということもありました。

 主イエスは「あなたたちはわたしを捜すだろう。」しかし「見つけることはできない」とおっしゃるのです。まるでセキュリティシステムで締め出すかのようです。そして「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」このような怖ろしい言葉も語られています。この言葉を聞きますと罪という出口のない迷路のなかで死を迎えるというイメージが湧いてきます。セキュリティでロックされて扉は開かない、逃げ道もない、誰も迎えに来てくれない、そんな罪の迷路の中であなたたちは死ぬのだと言われているようです。しかも、この「罪のうちに死ぬ」という言葉は21節と、さらに24節では二回、合わせて三回繰り返されています。しかも、24節の前半の罪という単語はギリシャ語では複数形になっているのです。主がどれほどのこの恐ろしい言葉を、人々への警告として強く語られたかということがわかります。

 いま、聖書研究祈祷会では、サムエル記を読んでいます。サムエル記の最初の部分は、やがてイスラエル最初の王となるサウル、そして偉大なダビデに油を注ぐことになる預言者サムエルの物語になっています。そのサムエルの少年時代に、サムエルが仕えていた当時の祭司であったエリにはたいへん行状のよくない息子がいました。息子たちも祭司でしたが律法に違反して捧げものの肉を横取りしたり性的にも不品行を行っていました。それを知りながら、その息子たちをエリは祭司として仕えさせ続けました。それはエリ自身の罪でもありました。そのエリに対して神は警告をなさいます。最初は預言者を通して、つぎには少年サムエルを通して。警告は繰り返されます。旧約聖書を読んでわかることは、このサムエル記に限らず、神の警告というのは多くの場合、繰り返されるということです。逆に言うと神は繰り返し警告をしてくださるということです。一回で人間が立ち返らなくても、なお繰り返し警告をなさるのです。人間が悔い改めることを待ってくださっているからです。神の警告は裁きの警告であり恐ろしいものでありますが、同時にそこには神の愛と憐れみもあるのです。ご自身から離れている人間への神の切なる思いがあります。主イエスもまた、切なる思いをもって、「あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」と警告なさっているのです。

<神の国との断絶>

 さらに主イエスは「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。」ともおっしゃいます。あなたたちは下のものに属していてわたしは上のものに属しているというと、あなたたちは下々の者で、わたしは高級な者であるとおっしゃっているように聞こえます。たしかに主イエスは神の御子ですから、神の御子からしたらすべての人間は下の者、下々の者ではあるといえなくはありません。しかし、単純にそういうことをおっしゃったわけではありません。主イエスは「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している」という言葉を言い換えて、「あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない」とおっしゃっています。「世」というのは、罪で壊れている世界であると、先週申し上げました。人間はそもそも罪で壊れた世界に属しているのです。その罪で壊れた世界が主イエスのおっしゃる「下」なのです。神がおられる上の世界、つまり天とは人間はもともと切り離された存在なのです。アダムとエバの時代からそうなのです。この世と神の世界は決定的に断絶しているのです。

 しかし、人間はその決定的な断絶がわかりません。主イエスに向かって「自殺でもするつもりなのだろうか」と言い合っているユダヤ人にとって、自殺とはもっとも神から離れた罪深い行為でした。つまり自殺するとは神のおられる天から最も遠い、下の下に行くということを意味します。ユダヤ人たちは自分たちは律法を守り正しいのだから、上にいるつもりでした。上にいる正しい自分たちから見て、主イエスを下に見ているのです。その主イエスが去るとおっしゃっていることに対して、自殺でもするつもりかというのは、この男はもっと下に行くのかと考えているのです。神を自分の下に置く、それこそが罪の最もたるものです。神を、神の御子を下の下に見ながら、人間は罪の中に死ぬのです。罪の迷路から出ることはできないのです。

<時代を貫いて「わたしはある」>

 しかしまた24節を読みますと「『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる」とおっしゃっています。逆に言いますと、「わたしはある」ということを信じるならば、罪のうちに死ぬことはないということです。「わたしはある」という言葉については何回か礼拝でご説明したことがあります。エゴーエイミーというギリシャ語で、「I am」ということです。わたしは存在しているものである、というような意味になります。出エジプト記で、神に対してその名前を問うたモーセに神がお答えになった「『わたしはある』というものである」というヘブライ語の言葉の「わたしはある」と同じ言葉です。つまり神がご自身を顕された言葉が「わたしはある」なのです。

 ヨハネによる福音書には「わたしはある」という言葉をはじめ、主イエスが「わたしは~~である」とご自分を顕される表現が多く出てきます。今日の聖書箇所の少し前では「わたしは世の光である」とおっしゃいました。さらにヨハネによる福音書の後半には、有名な「わたしは道である」「わたしはまことのぶどうの木である」「わたしは真理である」「わたしは良い羊飼いである」といった言葉が多く出てきます。それは神である主イエスがご自身について、繰り返し、わたしたちに主イエスのことを理解できるように語りかけてくださっている言葉です。

 ところで、これはある方の話からの孫引きになりますが、アウグスティヌスという偉大な神学者は、この「わたしはある」という言葉は永遠に現在形なのだと語っているそうです。神という存在は永遠に過去にならないということです。つまり、つねに現在でありつづけるお方が神であるとアウグスティヌスは語っているそうです。この地上のすべてのものは、人間も動物も建物も、やがて過去のものとなります。言うまでもなく、すべての人間は死にます。その存在はやがて必ず過去になります。壮大な建物もやがて朽ちます。東洋的な感覚でいえば、すべてのものが移ろい、流れていく、変化していく、一定していない、刻一刻、すべてのものが過去となっていきます。しかし、神はそうではない、永遠に現在なのです。イザヤ書40章8節に「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」とあります。神の言葉はとこしえに失われないのです。その言葉は単に聖書という書物に印刷された言葉ということではありません。わたしたちの記憶に永遠に残る言葉ということでもありません。言葉なる神である主イエスの存在そのものがとこしえに立つのです。主イエスが言葉そのもののとして永遠におられるということです。<わたしは世の光である>と語られた主イエスが、いついかなるときも、人間の歴史を超えて、時代を貫いて「わたしはある」ものとしておられるのです。

<人の子を上げる>

 そのとしえに立たれるお方は「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」と今日の聖書箇所の後半で語られています。人の子を上げたとき、それまで主イエスが「わたしはある」というお方であることを信じなかった者もやがて知ることになる、とおっしゃっています。「人の子」という言葉は旧約聖書においては、もともとは、一般的な「人」と同じで、ごく普通に人間を示す言葉として使われていました。しかし、やがてこの言葉は人間のような姿をとった天的な、神的な存在、さらには救い主メシアを指す称号として使われるようになりました。新約聖書においては、使徒言行録における一回の例外を除いて、「人の子」という言葉は主イエスご自身がご自分を指す言葉として語られています。つまり人となって来られた救い主、神としてのご自身を指す言葉として「人の子」と語られたのです。

 その救い主である自分をあなたがたは上げるのだ、そのときあなたがたは知ることになると語られています。上げるというのは十字架に上げるということです。主イエスを理解せず自殺でもするのか、下の下に行くつもりかと考えた人々はイエスを十字架に上げるのです。罪人として上げるのです。上に上げると言っても、十字架にかけるのです。そもそも律法の言葉に「木にかけられている者は呪われる」とあります。十字架は神の呪い以外の何物でもありません。自殺しそうな、下の下に行きそうと考えたこの男をやがて人々は神の呪いにふさわしいものとして十字架に上げる、つまり木にかけるのです。ここで主イエスは「上げられる」と受け身ではおっしゃっていません。「あなたたちは、人の子を上げたとき」と、上げる主体はあなたたちであることを強調されています。しかし、人の子を上げたとき、つまり神の子を呪われた者として殺したとき、初めてあなたたちはすべてを知ることができると主イエスはおっしゃっています。

 逆に言えば、私たちは神の子を呪われた者として十字架に上げなければ、つまり自らの手でキリストを上げなければ、主イエスが「わたしはある」というものであることを知ることはできないのです。今年の受難説に壮年婦人会で「パッション」という映画を見ました。「パッション」について何度か申し上げたことですが、あの映画の監督のメル・ギブソンは<他ならぬ自分がイエス・キリストを十字架につけた>という信仰告白をもって映画を作成したそうです。ですから、イエス・キリストが十字架に釘で打ち付けられる場面の打ち付ける手はメル・ギブソン自身の手だったそうです。まさに自分がキリストを十字架につけた、上に上げたのだという信仰告白なのです。私たち一人一人も思いの強弱、信仰体験の違いはあっても、人の子を上げた一人一人です。神を呪われた者として木につけて殺したのです。

 こう申しますとひどく重苦しい思いとなりますが、しかし、主イエスはそのときこそ、私たちは主イエスキリストが「わたしはある」というものであることを知るのだとおっしゃってくださっています。本当にイエス・キリストは神の御子であること知ることができるのだとおっしゃってくださっています。そのとき、私たちは罪の迷路の中で死ぬことはなくなるのです。セキュリティロックされたようなどこにも出口のないようなところにいた私たちのために主イエスは木にかかってくださり、呪われてくださり、私たちを信じる者としてくださいました。それは固く閉じられていた救いの扉をこじ開けて救い出してくださるためでした。私たちが罪の中で死なないように、天と断絶したこの世に生きる私たちになお天への道を開いてくださるためでした。私たちはキリストがこじ開けてくださった扉から出ていきます。その歩みは天を目指す歩みとなります。さきほど「上げる」という言葉は木にあげられる、呪われた者としてキリストを十字架につけることだと申しました。人間から見たら確かにキリストは罪人としてみじめに木につけられ十字架に上げられて死なれました。しかし、そこにこそ私たちの救いがありました。そのことのゆえに、「上げる」ということは栄光へとキリストがあげられることをも意味します。人間の目にはみじめで凄惨な刑罰の現場が、神の栄光の表れとされるのです。その栄光のゆえに扉は開かれました。私たちはその開かれた扉を自分の手で閉ざしてはいけないのです。いま、キリストをお迎えします。私たちの最も大事なところへ最も中心へとキリストに入ってきていただきます。そのとき、私たちの歩みもまた栄光の上に向かって始まっていきます。


ヨハネによる福音書8章12〜20節

2018-10-01 19:00:00 | ヨハネによる福音書

2018年9月30日 大阪東教会主日礼拝 「世の光」 吉浦玲子

<闇を照らす光>

 主イエスは「わたしは世の光である」とおっしゃいました。ヨハネによる福音書1章ですでに「言(ことば)の内に命があった。命は人間を照らす光であった」と記されています。言、つまり主イエスの内にまことの命があり、そしてそれは人間を照らす光であると言われているのです。まさに光として主イエスは来られました。天体の太陽の光が地球上の生物の命に不可欠なものであるように、主イエスは、私たちの存在の根源を支える光です。その光なる神であるイエス・キリストご自身が「わたしは世の光である」と今日の聖書箇所ではおっしゃっています。

 「世の光」という時の「世」という言葉は、「コスモス」というギリシャ語です。英語で宇宙を指す単語はコスモスですが、その語源となった言葉です。「世」という漢字を見ると、なんとなく、日本人は世間とかこの世といったものを考えますが、「世」「コスモス」というのはむしろ神がお造りになった世界、宇宙全体、被造物全体の世界を指すニュアンスがあります。そしてまたそれは、神のご支配が完全になっている「天」と対比されるニュアンスもあります。罪のあるこの世界、壊れた世界が「世」とも言えます。

 しかし、その罪で壊れた世界にあって主イエスは「光」であるとおっしゃっています。「わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」この世界は、そして一人一人の日々は、時に闇の中と感じられることがあります。どう考えても真っ暗闇ではないかと感じることもあります。その暗闇のなかをみ言葉に支えられて、主イエスの言葉に励まされて生きる、主イエスご自身がともしびのように私たちの道を照らしてくださいます。詩編119編105節に「あなたの御言葉は、わたしの道の光/わたしの歩みを照らす灯」という言葉があります。イエス様が、神のみ言葉が、暗闇を照らしてくださるのです。照らしてくださるのであれば、そこは闇であってもまったくの暗闇ではありません。だから主イエスは「わたしに従う者は暗闇の中を歩かない」とおっしゃるのです。

 以前、東北の大震災の時の夜の闇の話をしました。先般の台風21号の被害で広範囲に関西でも停電がありました。そののち北海道の地震でも大規模な停電、ブラックアウトが起こりました。闇の恐ろしさは、それが底なしであって、光がどこかから来るという希望が持てないことから来ます。

 主イエスが「わたしに従う者は暗闇の中を歩かない」とおっしゃるのは、一つには先に申し上げたように、主イエスご自身が私たちの歩みを照らしてくださるということがあります。主イエスが光として共におられるので、そこは底なしの闇ではありません。そしてまた、私たちは先の見えない闇を歩いていくわけではありません。いま、この世は、世界は罪の闇の中にあります。罪によって壊れた世界です。しかしやがてこの世が、世界が完全に新しくされるときがきます。神の救いが完成するときが来ます。キリストがふたたび来られるときです。そこに大きな光があります。ですから、私たちは先の見えない闇を歩いていくのではありません。その光はいまは遠くにぼんやりと感じられているだけですが、やがて確実にやってくる光です。私たちはやがてやってくる完全な光を信じることができるので、闇の中を歩みながら、完全な暗闇に埋もれてしまうことはないのです。

 ある女性が以前こういう話をしてくださいました。その方は熱心なクリスチャンであったお母さんに育てられました。お母さんが所属していたのはかなり熱心な教派で毎日早朝の祈祷会などもあったそうです。その早朝の祈祷会に、その女性は母親に連れられて行っていたそうです。眠くてしんどいなあと思いながら母親に連れていかれたそうです。やがて大学生になり親元を離れて生活をするようになって、その人は親への反発もあり、教会には行かなくなりました。当初はせいせいして楽しく生活をしたそうです。やっと自由になり自分の好きなように生きることができるようになって喜びにあふれていたそうです。しかし、だんだんと生活がすさんだ感じになってきたそうです。特に悪い生活をしていたわけではないのです。しかしなにかが足りないのです。日々はそれなりに不自由なく楽しく生活しているようで、どこか満たされたない思いがありました。そして、楽しいはずなのに、むしろ自分はずぶずぶと暗い沼のようなものに落ち込んでいっているような感覚を持ったそうです。何年かのち、その方は教会にふたたび行きました。そして子供の頃、無理やり連れていかれていた時は感じられなかった主イエスがそこにおられることを感じました。そして暗い沼にずぶずぶと落ち込んでいた自分がいま光の中にあることを感じたそうです。彼女はお母さんが行っていた厳しい教派ではなく、もう少しゆったりとした教会に落ち着かれました。そして初めて心の平安を取り戻したそうです。

 キリストを知らなくても、主イエスと離れていても、実生活でなにか悪いことが起こるわけではないのです。逆にキリストを知っていても、イエス様と共に歩んでいても、明るい日々だけがあるわけではない、それは皆さんもよくよくご存知でしょう。しかし、けっして明るくはない日々であっても、底なしの沼のような暗いものに取り込まれていくような日々ではありません。いつも私たちの歩む足元は照らされているのです。そして、目を上げると向こうに光が見えているのです。キリストがこの罪の世にふたたび来られるときの光がすでに見えているのです。

<私たちも光とされる>

 そしてまた「暗闇の中を歩かない」というとき、私たち自身がすでに変えられているということでもあります。私たち自身が光を放つ者とされているのです。キリストを信じ、キリストと共に歩む者は、自分では感じられないかもしれませんが、すでに光を放つ者とされているのです。聖霊なる神が内側におられるからです。私たちは神を知らずたしかに闇の中に生きていました。罪の闇の中を生きていました。そのとき、私たちの中には光はありませんでした。しかし、キリストを信じたとき、私たち自身が変えられました。ほのかに光を放つ者とされました。ですから暗闇の中を歩まないのです。

 <一隅を照らす>という言葉があります。これは金銀や財宝ではなく、人間の正しい行いや謙虚なありかたによって、その人のいるところが明るくされるということです。天台宗を開いた最澄という方の言葉からきているそうです。最澄がおっしゃったことは、人間のあり方としてとても素晴らしいことだと思います。しかし、私たちが暗闇の中を歩まないということは、正しく世のためになることをして、一隅を照らす存在になるからではありません。すでに神が私たちを変えてくださっています。自分たちが気が付いていなくても、キリストと共に歩むとき、私たちはすでに光を放つ者とされるのです。

 しかしそれはなにか華々しい光ではないかもしれません。一隅を照らすようなあり方ではないかもしれません。あああの方は目立たないけれどこまごまと気をつかってくださる、あるいはあの方といるとほっとするというような、つつましいけれど周囲に良い印象を与えるということでも必ずしもないかもしれません。

 子供が小さい時に町内の子供会で能勢のキャンプ場にキャンプに行きました。キャンプ場には大きな天体望遠鏡があり、夜、皆でその望遠鏡で星を観察しに行きました。望遠鏡の管理をしている方から、望遠鏡やら星の説明を受けて、かわりばんこに望遠鏡をのぞいたのですが、印象に残っているのは、大型の望遠鏡で月を見るのはまぶしすぎて危険だという説明です。天体観測される方には常識的なことかもしれませんが、月が眩しすぎるということに私は驚きました。なにかフィルターを付けたのか、あえて小さく見るようにしたのかわかりませんが、月の光がそれほど強烈であるということには驚きました。

 太陽の光は直接見てはいけないと子供の頃、言われた記憶があります。直接見てはいけない、だから黒い下敷きのようなものを通して観察した記憶があります。その太陽の光を反射しているだけの月の光もその表面を大きな望遠鏡で見るとき、とてつもなく眩しいのです。それは見る者の目を害するような激しいものなのです。眩しい光とというのは、かならずしも心地よいものではありません。キリストは光として来られました。まことの光として来られました。その光は、かならずしも心地よく、人々を喜ばせるようなものではなかったのです。わたしたちもまたキリストを信じ歩むとき、その放つ光は必ずしもこの世の人にとって心地の良いものとはかぎらないのです。

 ところで、今日の聖書箇所は、7章の仮庵祭の話から続いています。7章で主イエスが「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」とおっしゃり、また「わたしを信じる者は、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」と生きた水について語られた背景には仮庵祭のなかで、ギホンの泉というところから水を汲んでくるという儀式があったことがあります。その水は神の救いの象徴でした。しかし、そのようなギホンの水を汲んでも、人間は救われない、わたしを信じて、わたしの生きた水を受けなければ救いはないのだ、と主イエスはおっしゃったのです。祭りで盛り上がっている人々へまさに冷や水を浴びせるような言葉を語られたのです。

 そしてまた今日の聖書箇所も、仮庵祭で、夜、神殿に4本の黄金の燭台が灯されたことを背景としています。その燭台はとても大きくてエルサレムのどこからも見えたそうです。この燭台は、モーセの時代、荒れ野を旅する民を神が夜は火の柱として守られたことを象徴しています。祭りの時、この巨大な光を見るとき、先祖を導かれた神の光を人々は思い起こしたのです。しかし、その人々に主イエスはおっしゃるのです。そんな金の燭台の光ではなく、このわたしこそが、この罪で壊れた世という荒れ野を旅するあなたの光なのだ。そのような儀式の光では、この世の闇を照らすことはできない、そう主イエスはおっしゃっています。仮庵祭のとき、壮大な神殿で、煌々と輝く光に酔いしれていた人々にとっては、主イエスの「わたしは世の光である」という言葉は、耳障りな言葉であったかもしれません。主イエスの光は大きくて、まことの光であったゆえに望遠鏡で見る月の光が目によくないように、人の心を突き刺すものであったかもしれません。実際、先週お読みしました姦淫の女の場面では、主イエスの光によってその場にいた人間の罪が明るみに出されたのです。

 しかし、主イエスの光は罪を明るみしますが、同時に、そこから救いが始まる光でもあります。そこにしか救いがないという光です。神の光を失った状態が罪だからです。しかし、いま世の光なる主イエスはすでに来られています。この方と共に歩むとき、私たちは暗闇を歩くことはありません。出エジプトの民が闇の中を火の柱に守られて歩んだようにキリストの光と共に歩みます。それは金の燭台に灯された人工の光ではありません。キリストの光はわたしたちを光の子としてくださる光です。神の目から見たら、私たちもいまこの世の闇のなかで、はっきりと輝いて歩んでいく一人一人なのです。神に愛され、神の光を放つ、光の子供なのです。