大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

使徒言行録2章1~21節

2020-05-31 12:07:16 | 使徒言行録

2020年5月31日大阪東教会聖霊降臨日礼拝説教「あなたも神の言葉を聞く」吉浦玲子

【聖書】

五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。人々は驚き怪しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、

フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは。」 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

すると、ペトロは十一人と共に立って、声を張り上げ、話し始めた。「ユダヤの方々、またエルサレムに住むすべての人たち、知っていただきたいことがあります。わたしの言葉に耳を傾けてください。今は朝の九時ですから、この人たちは、あなたがたが考えているように、酒に酔っているのではありません。 そうではなく、これこそ預言者ヨエルを通して言われていたことなのです。

『神は言われる。終わりの時に、/わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、/若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、/そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する。上では、天に不思議な業を、/下では、地に徴を示そう。血と火と立ちこめる煙が、それだ。主の偉大な輝かしい日が来る前に、/太陽は暗くなり、/月は血のように赤くなる。 主の名を呼び求める者は皆、救われる。』

【説教】

<ほんとうのコミュニケーション>

 ここ数カ月の感染防止のための自粛期間、世の中では、ネット会議やネット宴会というのが盛んに行われていたようです。私自身も、ここしばらく牧師会や教会学校などをネットで行なってきました。また個人的には、学校を卒業して最初に入社した会社の同期の女性数名とネットで同窓会をしました。年賀状以外ではつきあいのなかった人たちと30年ぶりにネットを介してですが、会話をしました。30年間、会うことのなかった人と、なぜかこのコロナの時期に、ネットを介してコミュニケーションを取ることになったというのも不思議です。おそらく、この数カ月、みんなそれぞれにコミュニケーションに飢えていたのだと思います。

さて、今日は、限定的ではありますが、3月15日以来の公開の礼拝となります。もっともまだ多くの方々はそれぞれの場で礼拝を捧げておられます。早く通常の礼拝となることを祈りつつ、いましばらく忍耐をしつつ、特にそれぞれの場で今日、礼拝を捧げられる方がたを覚えたいと思います。ひさしぶりの公開の礼拝の今日は奇しくも聖霊降臨日です。この聖霊降臨日は、言ってみれば、人間と人間のまことのコミュニケーション、つながりが回復された日でした。

かつて旧約聖書、創世記11章に描かれたバベルの塔の物語がありました。人間は思い上がり、神の領域を犯すような高い塔を建てようとしました。それに対して、神は人間の言葉を乱されました。それまで同じ言葉をしゃべっていた人間は違う言葉をしゃべるようになり、皆で団結して高い塔を建てることはできなくなりました。そして違う言葉をしゃべるようになった人間は世界中に散らされました。一般には、人間が集まって、コミュニケーションをとって、一致団結して事をなそうとすることは良いこととされます。しかし、罪深い人間が集まって相談をして事をなそうとすることが、神の御心に沿うとは必ずしも限りません。いや、むしろ悪事をなすことの方がほとんどであることを聖書は語ります。実際それは人間の歴史を見ても明らかなことです。

 人間は、集って良からぬことを話し合い、一致団結して悪事をなします。一人ではできないことでも、集まれば、できるのです。たとえば、主イエスを十字架につけた人々は、一人一人が主イエスに対して真っ向から批判したわけではありません。主イエスと直接語った人はことごとく主イエスに論破されました。ですから、陰で集まって作戦を練ったのです。そして、一人ではなく集まった人々が「十字架につけろ」と叫んだのです。今日の教会においてもそうです。人間的な思いで集まって、自分の思いを御心より優先させようとするようなことが往々にして起こります。バベルの塔を教会内に建てようとするようなことが現実におこるのです。

 しかし、いま、コロナの災いのため、人間が集うことが制限されました。普通に会って普通に話をする、一緒にいろんなことをする、三カ月前までは当たり前だったそのようなことが、できなくなりました。私たちは、いま、本当に必要なコミュニケーションとは何か、そして言葉とは何かを神から問われているのかもしれません。

<新しい出発としての聖霊降臨>

 さて、聖霊降臨、ペンテコステの出来事はもともと五旬祭と呼ばれた祭りのときに起こりました。五旬、またギリシャ語でペンテコステというのは過越祭から50日ということです。この五旬祭というのは、もともと旧約聖書に記されている祭りです。過越祭から、7週目ということで7週の祭りと言われたり、初穂の祭りと言われていました。春の過越祭のころ大麦の収穫を祝い、この7週の祭りのころにはいよいよ小麦が収穫される、その祝いの収穫祭でもありました。しかしなにより五旬祭は過越し祭と同様に、旧約聖書における出エジプトの出来事、神の救いと恵みの出来事を記念し、感謝する祭りでした。伝統的な解釈のひとつとしては、五旬祭は、出エジプトののち、律法が授与されたことを記念する祭りだというものがあります。つまり、エジプトで奴隷だった民が神によって解放されました、その神に救われた人間が、救い出してくださった神の恵みに応答して新しく生きていくための律法が与えられました。その律法授与の記念としての祭りであると言われます。

 翻って新約聖書の時代、主イエスの十字架によって私たちの罪からの救いが成就されました。罪の奴隷であった私たちが自由を得ました。神に救われた私たちが新しく一歩を踏み出すための出来事が聖霊降臨であったといえます。かつて、シナイ山で出エジプトの民に律法が授与されたように、聖霊降臨においては私たちに聖霊が与えられたのです。

<激しい音と炎のような舌>

 その聖霊降臨の出来事は、神による特別なあり方で起こりました。「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。」とあります。まず音として聖霊の降臨は描かれています。その音は天から聞こえたのです。天とは単に空ということではなく、神のおられるところということです。神がなさったこととして聖霊の降臨は伝えられています。そしてその音は家中に響くほど大きかったのです。その音は家の中だけではなく、後の方の記述を読みますと、近隣にも響きわたるくらいに大きなものであったようです。

 そして「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」とあります。音だけでなく視覚的にも聖霊降臨の出来事は把握されました。「舌」とはギリシャ語でグロッサという単語ですが、言葉という意味も持ちます。つまり一人一人の上に言葉がとどまった出来事でもありました。しかも炎のような舌です。炎のような言葉が一人一人の上にとどまったのです。天上の炎のような言葉です。人間の罪と裁きと救いの言葉です。その言葉が、見える形でとどまったというのです。それも一人一人の上にとどまりました。この炎のような舌は、ペトロの上だけにとどまったわけではありません。教会のおもだった人たちの上だけにとどまったのでもありません。その場にいたすべての人々の上にとどまったのです。聖霊を待ち望んでいたすべての人々に言葉が与えられたのです。皆に、神の言葉が与えられたのです。

<あなたも神の言葉を聞く>

 言葉が与えられた人々は語りだしました。「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」ほかの国々の言葉で話し出したというのは驚くべきことですが、これは聞く人に分かる言葉で語りだしたということです。バベルの塔の物語で、人びとの言葉が異なるものとされ、お互いに意思疎通ができなくなりました。しかし、今や、神の力によって人へ伝わる言葉が与えられたのです。罪と赦しと救いの言葉が、すべての人に伝わる時代が来たのです。聖書の神の言葉が、民族や国や文化を越えて聞かれる時代が来たのです。神の力による意思疎通、本当のコミュニケーションが与えられたのです。バベルの塔の時代から人間の罪ゆえに、つながることのなかった人間同士が、ほんとうにつながっていく時代が来たということです。

 その場にいた人々は、神の霊の力によって話しだしました。逆に言いますと、神の霊の力によらなければ、本当の意味での伝わる言葉というものはないのです。意味としては伝わったとしても、バベルの塔の物語で描かれているように、罪の言葉しか人間には語ることはできないのです。

 しかし、一方で、語る側が聖霊に満たされて語っていても、聞く側の人間によって、聞こえ方が違うのです。ある人には福音だと聞こえても、ある人にはつまらない話と聞こえたりします。この聖霊降臨の場面でも、弟子たちが語る言葉を聞いて、「「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。」と13節にあるように、聖霊に満たされた言葉を聞くことのできない者をいたのです。これは今日においてもそうです。聖霊に満たされた言葉、神の言葉を聞きとれない人々は一定数いるのです。

<教会の誕生>

 そしてまた聖霊降臨の出来事は教会の誕生だと言われます。一人一人に炎のような舌が与えられた、神の言葉が与えらえた、そこに教会が起こったのです。弟子たちが協議して、伝道のために教会という組織を立てていきましょうと決めたから教会が起こったのではないのです。聖霊に満たされ“霊”によって語る人々が起こされたところに教会が起こりました。これは徹頭徹尾、神の出来事として教会が起こったということです。天から風のような音がしてとありましたが、つまり人間の中から教会が起こったのではなく、外から、教会は起こされたのです。今日の聖書箇所の後半にヨエル書からの引用があります。本日の旧約聖書の朗読でもヨエル書からお読みしました。預言者ヨエルがすでにこのことを預言していたのです。預言されていたことでも分かるように教会は神の出来事として起こったのです。神の出来事として起こった教会は、徹頭徹尾、神の言葉を語る共同体、神の御旨をなす共同体として歩んでいきます。教会は人間同士が人間の思いで話し合って設立し、そしてまた運営していくこの世の共同体とはまったく違うのです。このことを私たちは肝に銘じる必要があります。

 ところで、ある方がおっしゃっています。聖霊に満たされる、というときの満たされるという言葉は支配されるという意味だと。つまり聖霊に満たされるとは聖霊に支配されるということです。支配されるというと、あまり良いイメージを皆さんは持たれないかもしれません。支配などされず自由にのびのびとやりたいと思われると思います。しかし、繰り返しますがバベルの塔の時代、人々が自由にのびのびと作ろうとしたものは天まで届く塔でした。「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」と人々は考えたのです。人々が住みやすい素晴らしい町を作ろうと言ったのではありません。有名になろうと言ったのです。それは自分の評価を求める行為でした。実際に自分や家族や街の人みんなが幸せになることではなく、人間の欲望を満たすことを大事にしたのです。それは自由なようであって、自分の欲望に支配された状態でした。聖霊降臨は、そのようなちっぽけな自分の欲望に支配された生き方から、聖霊に支配された生き方へと変わるための出来事でもあります。

 そもそも聖霊とは、キリスト教の根本原理の一つである三位一体の神のことです。聖霊なる神がこの地上に来られたのが聖霊降臨の出来事です。いま、子なる神である主イエスは天におられます。主イエスが天に昇られ、その代わりに私たちの内に来てくださったのが聖霊なる神です。しかし、この神は、聖霊降臨の時、突然現れられた神ではありません。主イエスが、世の始まりのずっと以前から父なる神と共におられたように、聖霊なる神も、父なる神と共に最初からおられました。そしていまや、私たちの内にお越しになり、私たちを満たしてくださるのです。自分の欲望に支配されていた私たちをまことに解放してくださる神です。自分の欲望に支配され罪の奴隷であった私たちが聖霊によって満たされる時、本当の意味で自由に生きていくことができるようになります。

<神の収穫物>

 しかし、不思議なことです。神は人間に聖霊を注ぎ、“霊”によって語る者とされました。その言葉は神の救いの言葉です。神は神の救いの業を人間に語らせられるのです。“霊”によって語っても、それは限界のある人間の言葉でもあります。人間に語らせることなく、ご自分で直接語られた方が効率的なように感じます。しかし、神は神の救い、福音を人間を用いて語らせられます。そこに神の人間への信頼と愛があります。不完全で未熟で弱い人間に神はなお期待されるのです。子なる神を十字架につけても救いたかったご自分の民を神は用いられます。聖霊降臨は収穫祭として祝われたと最初に申し上げました。神にとっての喜ばしい収穫は、なにより、救われた私たち一人一人なのです。神は救われた私たち一人一人に目を留め聖霊を与えてくださいました。そして新しく生きる者とされました。神の救いを伝えていくものとされました。私たちはなお豊かな収穫を与えられます。私たちの人生においても豊かな実りを与えられ、大阪東教会にも与えられます。聖霊によって満たされたところに豊かな実りがあるのです。

 


使徒言行録

2020-05-24 09:49:31 | 使徒言行録

2020年5月24日大阪東教会主日礼拝説教「希望を持って待つ」吉浦玲子

【聖書】(聖書協会共同訳)

 それから、使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の階に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子のユダであった。 彼らは皆、女たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて、ひたすら祈りをしていた。 
 その頃、百二十人ほどのきょうだいたちが集まっていたが、ペトロはその中に立って言った。「きょうだいたち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。 ユダは私たちの仲間の一人であり、同じ務めを割り当てられていました。 ところで、この男は不正を働いて得た報酬で土地を手に入れたのですが、そこに真っ逆様に落ちて、体が真っ二つに裂け、はらわたがみな出てしまいました。このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。 
詩編にはこう書いてあります。/『彼の住まいは荒れ果て/そこに住む者はいなくなりますように。』また、/『その職は、他人が取り上げるがよい。』 
ですから、主イエスが私たちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼(バプテスマ)のときから始まって、私たちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者のうちの誰か一人が、私たちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」 
そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストとも言うヨセフと、マティアの二人を立てて、 次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうち、どちらを選ばれたかをお示しください。 ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、この務めと使徒職を継がせるためです。」 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒たちに加えられた。

【説教】

<待つ時>

今、新型コロナ肺炎の影響で、さまざまなイベントが中止になっています。私の知り合いのお子さんで何人かこの春、高校に入学された方がおられますが、その方たちは入学式もなく、せっかく入学した学校の制服を着ることもまだないそうです。そのような事態ですから、高校野球を始め、子供たちや青少年のためのさまざまなスポーツの大会も中止になっています。スポーツだけではありません。合唱コンクールとか、文科系のさまざまな大会や行事も中止になっています。大人にとっても、そのために時間をかけて準備していたような行事が中止になるというのはたいへんな痛手ですが、学生時代という、その時しかない限られた時間の中で目指していたさまざまなことが中止になるというのは、とてつもなく大きなことでしょう。これからの人生が大きく変わってしまう、そんな子供たちも少なからずいるでしょう。

 目指していた目標が取り上げられてしまう状況、あるいは目標が定まらない中途半端な状況のなかで、人間は自分を見失ってしまいます。試練や逆境の時であれば、むしろまだがんばれるかもしれません。しかし、がんばろうにも動きようのない時、私たちは呆然として立ちすくんでしまいます。そのとき、人間の絶望は深いのです。

 さて、主イエスの弟子たちは、主イエスの十字架と復活という大きな出来事、たいへんな神の奇跡を目の当たりにしたのち、主イエスが天に昇られ、主イエスと離れ離れになりました。これまで導いてくださった主イエスは弟子たちと共にもはやおられません。弟子たちはどうしていいのかわかりません。一方で、彼らは主イエスがやがて与えられるとおっしゃっていた聖霊をまだ受けていませんでした。主イエスと共に宣教をしたり学ぶこともできず、かといって、宣教を始めるために必要な聖霊はまだ与えられていない、中途半端な状況に置かれていました。

 そのような中途半端な状態にあった弟子たちは、エルサレムにいました。40日ほど前、つまり一カ月と少し前に主イエスの十字架の出来事があったエルサレムです。過越の祭りの異様な高揚の中、「十字架につけろ」という恐ろしい熱狂に支配されていた、あのエルサレムに、弟子たちは戻ってきたのです。復活のイエス・キリストと出会う前は、自分たちも逮捕されるのではないかと恐れて、鍵をかけて、息をひそめるようにしていた弟子たちでした。しかし、今日の聖書箇所を読む限り、主イエスの十字架の直後のような怯えた弟子たちの姿はありません。身の危険という点では、依然として、エルサレムはけっして安全とはいえません。過越し祭のときのような高揚は去って町は平静に戻っているにせよ、主イエスを憎んでいた祭司長たちをはじめ権力者たちはまだ目を光らせています。そのエルサレムで弟子たちは祈りの日々を送っていました。それは、主イエスが「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。」とおっしゃっていたからです。

 主イエスが昇天され、聖霊が降るまで9日の日々がありました。昇天されて、その翌日にも聖霊が降れば良かったかもしれません。しかし、神は敢えて9日という間を置かれました。それは弟子たちにとって必要な時間だったのです。私たちにとって、中途半端な、目標が定まらないような時間、あるいは目標が取り上げられているような時間もまた、神から与えられた必要な時間であるのです。

<祈りつつ待つ>

 その時間の中で、彼らはただぼんやりと待っていたわけではありません。彼らは、なすべきことをなして待っていたのです。まず第一に彼らは祈っていました。主イエスを裏切ったイスカリオテのユダを除く11人の中心となる弟子たちと、それ以外の弟子たち、総勢120名ばかりが「心を合わせて<熱心に>祈っていた」のです。新しい共同訳では「心を合わせて<ひたすら>祈っていた」と訳されています。熱心にとかひたすらと訳されている言葉のもととなるギリシャ語には<揺るぎなく行う>、<確固として行う>、<専心専念する>というニュアンスがあります。つまり彼らは心を合わせ、心を乱すことなく、もっぱら祈っていたということです。

 弟子たちが置かれていたのは中途半端な状況だったと申し上げましたが、だからといって彼らは不安に押しつぶされそうになっていたのではありません。彼らは不安で不安で神に祈っていたのではありません。神に期待して祈っていたのです。現実的には、彼らは無力でした。エルサレムという都で、たかだか120人が集まったからといって何ができるというわけではありません。実際、40日ほど前、主イエスも、ユダヤ人たちに殺されてしまったのです。ローマの植民地であったイスラエルでありながら、祭司長たちに扇動され、熱狂した群衆はローマの総督すら動かして主イエスを十字架につけたのです。それを目の当たりにした弟子たちは自分たちの無力さをいやというほど知っていたはずです。何より、主イエスを置いて逃げてしまった自分たちの弱さを彼らは良く良くわかっていました。だから、彼らは祈りました。自分たちの無力さを知っているからこそ祈ったのです。しかし、それは絶望の祈りではなく、希望の祈りでした。無力な者の気休めではなく、神への期待の祈りでした。自分たちがどれほど無力で罪深い者であろうとも、神は必ず働いてくださる、そして神は自分たちを用いてくださるという神への期待が彼らを祈りへと向かわせました。主イエスが昇天前に「あなたがたはわたしの証人となる」そうおっしゃった言葉ゆえに彼らは祈りました。

そもそも、自分に期待をしている人は祈りません。自分を信じている人に祈りは不要です。そういう人にとって、祈りなど弱者のたわごとに思えるでしょう。しかし、自分に期待し、自分を信じて生きていく人は必ず挫折をするのです。そこで、目標を見失い絶望するのです。一方で、神に期待し、神を信じる人の祈りは聞かれます。神の未来に希望を持って祈るとき、たしかに未来は開けるのです。

<神のビジョンのなかにある私たち>

 さて、弟子たちは、祈っている中で、一つのやるべきことが示されました。それは、主イエスを裏切り、自殺をしてしまったイスカリオテのユダの代わりの使徒を選ぶことでした。これは、弟子たちにとって、ある意味、辛いことであったと思われます。ユダは主だった弟子のひとりでした。福音書を読むと、ユダは共同体の財布を預かっていたことがわかります。会計、財務という重要な役目を担っていた、有能で信頼されていた弟子でした。その弟子が裏切り、死んでしまいました。ユダはかつて皆の仲間であって、寝食を共にしていたのです。ある意味、家族よりも近い、運命共同体として歩んできた仲間であったユダの裏切りに、弟子たちは驚き深く傷ついたと思います。これは共同体における負の出来事でした。できれば、触れたくないことでした、しかし、彼らはそこから目をそらしませんでした。目をそらさず、ユダを個人的に糾弾するのではなく、正しくこの出来事を神の御心として解釈したのです。ここで、詩編69編からの言葉が引用されていますが、弟子たちは、ユダの裏切りと不幸な自殺の経緯をかつての預言の成就として考えたのです。

 私たちも、このような振り返りをすることは大事です。あのことは運が悪かった、あの人が間違っていたせいだ、あれはラッキーだったというような表面的な判断で物事を終わらせてはいけないのです。状況の奥にある神の働きを思わねばなりません。もちろんそれは、すぐには分からないことかもしれません。何年か経ったあと、ああ、あの出来事の中に、神はこのような計画をもって、恵みを注いでくださっていたのだなあと分かることもあります。その時には、不運だった不幸だったあの人が悪かったと思っていた出来事が、時がたったとき、まったく違った視点で見えてくることがあります。神の光に照らされて見えてくることがあります。

 新しい神の視点で物事が見えてくるとき、未来のビジョンも見えてきます。弟子たちには神が描かれている将来の宣教のビジョンが見えてきたのです。もともと使徒たちは12名でした。これはイスラエルの12部族に通じる12です。神の祝福される完全な数字です。イスカリオテのユダが死んでしまい、今は11名となった使徒を12名にしようと彼らは考えました。それは数字として切りが良いから、とか、役割分担的にあと一人いた方がいいからということではなく、神の祝福の完全な姿を彼らは思い描いたのです。いまはたかだか120名しかいない共同体がやがて祝福されて成長していく、その姿を彼らは思い描いたのです。神の完全な祝福の姿がこの地上に現れるビジョンを与えられました。ですから彼らはその来るべき未来へ向けての備えをしたのです。ひたすらに祈るとき、神のビジョンが与えられ、具体的な為すべきことが与えられるのです。

<御心の意外性>

 選挙は二人の人が候補に立てられ、最終的にはくじで決められました。くじで選ばれるなんて、いい加減なような気がします。もちろん今日においては、このような選挙のあり方は一般的ではありません。しかしこの時も、けっしていい加減にくじ引きをしたわけではありません。主イエスがこの地上で宣教されていた最初から、昇天の時まで一緒にいた弟子という条件のもとに二人の人が立てられました。ここで興味深いのは「バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフ」と、ヨセフという人には説明があるのに対して、マティアという人は名前しかあげられていません。おそらく、弟子たちの中で、目立っていたのはヨセフという人の方であったのでしょう。マティアは地味で目立たない人であったのではないかと推測されます。きっと人々の思いとしてはヨセフを使徒とすることで一致していたのではないでしょうか。しかし、弟子たちは最終判断は神にゆだねました。そこでくじという形にしたのです。弟子たちが祈ってくじを引くと、マティアが選出されました。人々はその結果にどよめいたかもしれません。神の御心は人間の考えとは違うということが示されたのです。祈りのうちにビジョンが与えられ、また祈りのうちに神の御心は具体的に進んでいくのです。

<わたしたちは力を受ける>

 さて、次週はペンテコステ、聖霊の降臨をお祝いする祝祭です。教会でクリスマスや復活祭と共に大事にしている三大祝祭の一つです。しかし、クリスマスや復活祭に比べますと、少し影の薄い祝祭でもあります。三位一体の神というとき、父なる神、子なる神はなんとなくイメージできても聖霊なる神はイメージしにくいということがあります。しかし、聖霊なる神がおられなければ、私たちはイエス・キリストを理解することができません。イエス・キリストを理解できなければ、父なる神をも私たちは知ることはできません。聖霊なる神は、私たちの信仰の入口に立っておられる神です。聖霊なる神なくして信仰はありません。その聖霊を受けるために弟子たちは祈り、そしてまた将来に向けて具体的な備えをしました。弟子たちがまことの信仰を与えられたのはペンテコステの後でした。弟子たちは聖霊によって主イエスの十字架と復活の出来事の意味をはっきり分かったのです。今日の聖書箇所の時点では、弟子たちはまだキリストによる救いの根本のところは分かっていなかったといえます。しかし、神は不完全な信仰者の祈りに応えてくださるおかたです。

 そもそも、弟子たちも、私たちも、聖霊を受けたからといって、すぐに完ぺきな信仰者になるわけではありません。私たちはいつも不完全な信仰者として聖霊を祈り求めます。聖霊を祈り求め続けるのです。今日の聖書箇所でリーダーとして力強く人々を引っ張っているペトロにしても、聖霊を与えられた後も、失敗をして、後輩のパウロに叱責されたりします。ペトロのみならず私たちはどこまでいっても完ぺきな者ではありません。愚かで弱い者です。ですから神に祈ります。聖霊降臨の前の9日間の弟子たちのように私たちは祈り続けます。無力であるゆえ、不完全なものであるゆえ、そして罪深い者であるゆえ、祈り続けます。そこに聖霊は与えられます。しかし、聖霊なる神を軽んじている時、与えられたはずの聖霊の力は発揮されません。私たちが、神に期待することをしなくなり、自分に期待しているとき、祈りの力は弱まります。祈りの力が弱まるところに聖霊の働きはありません。聖霊の働きのない信仰生活はありません。そして聖霊の働かない教会もありません。聖霊が働かない教会は教会という名前であっても神のまことの教会ではありません。個人も教会も祈りによって立っていきます。神に期待し祈り続けるところに聖霊は豊かに力を発揮します。そこに未来に続く豊かなビジョンが与えられます。さらなる神への期待のうちに私たちは力が与えられます。主イエスはおっしゃいました。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」そうです、私たちは聖霊によって力を受けるのです。そのとき、今がどのようなときであっても、どのような状況であっても未来への希望が与えられ、けっして揺るがないのです。


使徒言行録1章1~11節

2020-05-17 08:44:55 | 使徒言行録

2020年5月17日大阪東教会主日礼拝説教「ふたたび出会うために」吉浦玲子

【聖書】

テオフィロ様、私は先に第一巻を著して、イエスが行い、また教え始めてから、お選びになった使徒たちに聖霊を通して指示を与え、天に上げられた日までのすべてのことについて書き記しました。 イエスは苦難を受けた後、ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。

そして、食事を共にしているとき、彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼(バプテスマ)を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって洗礼(バプテスマ)を受けるからである。」

さて、使徒たちは集まっていたとき、「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」と尋ねた。 イエスは言われた。「父がご自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。 ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。」 こう話し終わると、イエスは彼らが見ている前で天に上げられ、雲に覆われて見えなくなった。イエスが昇って行かれるとき、彼らは天を見つめていた。すると、白い衣を着た二人の人がそばに立って、言った。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたイエスは、天に昇って行くのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またお出でになる。」

【説教】

<主人公は誰か?>

 今日から使徒言行録を共に読んでいきたいと思っています。この使徒言行録は、福音書からの続編といえるものです。最初のところに「先に第一巻を著して」とあります。この第一巻とは「ルカによる福音書」を指します。使徒言行録は「ルカによる福音書」と同一の著者によって記されていると考えられていまして、この使徒言行録は、「ルカによる福音書」を第一巻とする全二巻からなる書物の第二巻目といえます。

 第一巻である福音書は、主イエスの誕生から宣教活動、ご受難、復活の出来事が記されていました。当然ながら、イエス様が、お語りになったこと、なさったことが中心に記されています。先日まで読んでいました「ヨハネによる福音書」もまた同様でした。

 しかしこの二巻目にあたる使徒言行録は、その1章の前半にのみ主イエスは出て来られ、そののちは直接には出て来られません。おおまかにいいまして、使徒言行録の前半はペトロを中心とした誕生したばかりの教会の働きが描かれ、後半は教会がイスラエル・ユダヤという枠を越えて広がっていく状況の中で、パウロを中心にした働きが描かれています。では、使徒言行録の主人公は、ペトロなのか?あるいはパウロなのか?それとも教会という組織なのか?いろいろと考えられますけれど、しかしやはりこの使徒言行録は<神の物語>なのです。使徒言行録ではペテロが逮捕されたり、ステファノが死刑になったり、暴動のような事件が起こったりします。使徒たちの勇気ある行動、信徒たちの熱心な様子が描かれます。しかし、その真ん中で働いておられるのは神なのです。そして、特に聖霊なる神が働いていておられます。使徒言行録は聖霊言行録だとおっしゃる先生もおられます。つまり使徒言行録の主人公は聖霊と言って良いでしょう。私たちは、そのことを覚えながらこの使徒言行録を読み進んでいきたいと思います。

<私たちの旅>

さて、この使徒言行録では、ペトロが、パウロが、またマルコやルカが、宣教の旅に出て行きます。当時は、パレスチナ地方のなんだか怪しげな新興宗教の布教者と思われていた彼らが聖霊の導きによって大胆に町々を旅していきます。一方で、私たちは今、新型コロナ肺炎の感染予防のために、旅に出ることは基本的にできません。行きたいところに行けない、やりたいことができない、ストレスのたまる、閉塞的な状況に置かれています。それに対して使徒言行録の中の人々は、あちこちに行っている、もちろん遊びに行っているわけではありません。そして迫害などで苦労することも多いのですが、少なくともひとつところに縛られていないという点において、今の私たちの置かれている状況からは、一見、羨ましくも思えます。

 しかし、思い出していただきたいのです。先日まで読んでいました「ヨハネによる福音書」の最後21章で主イエスがペトロに語られた言葉に「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」がありました。実際、使徒言行録のなかで主イエスの弟子たちは、旅から旅ではありましたが、いつも行きたいところへ行ったわけではないのです。行きたかったけれど行けなかったということもあります。伝道のために良かれと思って計画していたところとはまったく違うところに聖霊によって行かされてしまったということもあります。使徒言行録の最後の部分ではパウロがローマに行く話があります。パウロはもともとローマに行きたかったのです、そしてたしかにローマに行きますが、それは囚人として護送されるという形で行くことになります。ペトロに<他の人に帯を締められ>と主イエスは語られました、つまり自分の自由な意思ではなく連れて行かれることもあるとおっしゃった、そのことがパウロにも起こったのです。まさに人に帯を締められ、ローマにパウロは不本意な形で行くことになります。しかしそれらすべてのことが聖霊による導きでした。

 こじ付けめいて聞こえるかもしれませんが、自由に行けることだけが聖霊に導かれる旅ではないのです。聖霊に導かれる旅は、思いがけず、「行くな」とストップされることもある旅です。なぜ止められるのか、その時は、皆目見当がつかない、そういうこともあるのです。あるいは不本意な形でいかされる旅もあります。いま、私たちは自粛を余儀なくされています、ステイホームと言われています、しかし、それもまた、聖霊による旅の途上のできごとなのです。使徒言行録を読むことによって、そういった今現在私たちが置かれている旅の状況を知ることもできます。聖霊が2020年の今、私たちに何を語ろうとなさっているのかを知ることができのです。2000年前の物語の中に吹いていた聖霊の風が、今私たちの上にもやはり吹いています。その風はどこから来てどこへ行くか、すぐに具体的にはわからないかもしれません。しかし、その風が揺らす木々の音は聞くことができます。たしかに聖霊の風は吹いている、そしてはっきりとはわからなくても、注意をして心をすませているとだんだんと風の行方も感じられてきます。私たちは今置かれている場所で聖霊の働きを知らされるます。使徒言行録の時代に吹いた聖霊の風の物語を聞くとき、今この時を生きる私たちの旅の行方をも聞くことができます。

<私たちの見るべきもの>

 さて少し長く、使徒言行録に入る前にお話ししました。その使徒言行録の最初は主イエスの昇天の場面となります。主イエスは天に昇って行かれました。主イエスは死なれたわけではありません。その肉体はそのままに父なる神のもとに昇られたのです。使徒信条で「天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と私たちが告白していますように今、主イエスは父なる神の右におられます。

 十字架の悲惨な死から復活され、復活の主イエスと出会った弟子たちは喜びました。復活から40日にわたって、いくたびも、弟子たちは、主イエスとあいまみえることができたのです。しかし、ふたたび、別れは来ました。それが今日の場面でした。主イエスはその直前まで語っておられました。「さてこれから私は天に昇るよ」というような事前の予告はなく、話し終えると唐突に登って行かれました。弟子たちは驚いたことでしょう。「ヨハネによる福音書」で復活なさった主イエスがマグダラのマリアに自分がこれから父のもとに昇っていくということは語っておられました。今日の場面にいた弟子たちもそのことは分かっていて、その心づもりはしていたかもしれません。しかしそうであったとしても、別れは唐突でした。別れというのはいつも唐突なのです。

 彼らは呆然として、あるいは名残惜しく、天を見上げていました。主イエスの姿はもうとっくに見えなくなっていたその空を見上げていました。その彼らに白い服を来た二人の人、天のみ使いが語りかけます。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれたのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる。」

 ここでは主イエスがふたたび来られること、つまり、再臨について語られています。たいへん重要なことが語られているのです。主イエスが天に昇られて、弟子たちは主イエスと別れました。しかし、それで終わりではないということが語られています。主イエスは再び来られるのです。主イエスの再臨を待ちながら、弟子たちはまた新しい時代を歩み出すのです。それは地上の歩みです。この世界での日常の歩みです。翻って、私たちは失ったものを悲しんで、その失ったものを見つめ続けることがあります。弟子たちが天を見つめていたように。しかし私たちは失ったもののところにとどまるのではなく、漠然と天を見つめるのではなく、この地上を歩むのです。

<キリストの証人として>

 しかしまた私たちは、キリストがふたたび来られるそのときまで、キリスト不在の地上を、寂しく、心もとなく歩むのではありません。むしろ、キリストが天に昇られた出来事は、天と私たちの間が固く結びつけられた出来事なのです。キリストが昇天なさるまで、父なる神がおられる天は、たしかに私たちからは遠いところでした。しかし今やキリストがおられます。しかも、そのキリストは私たちと無関係におられるのではありません。教会のかしらとしておられます。教会はキリストを頭とするキリストの体と言われますが、まさに、キリストによって、天と地がつながれたところに立つのが教会です。私たちは地上にありながら天につながれ、キリストにつながれているのです。

また、ある方は、キリストが天に昇られたということは、天が私たちに近づいて来た出来事であるとおっしゃいました。遠くにあった天が、キリストによって私たちに近づいて来た、そしてそれは教会において近づいて来たのです。そしてさらにふたたびキリストが来られる時、天はさらに地上に近づきます。黙示録に描かれているように天のエルサレムが降りてくるのです。やがて天と地は一つになるのです。

 そして、キリストの昇天ののち天が近づいて来たと言っても、私たちは、先ほども申し上げましたように、天だけを見上げて生きるのではありません。私たちはすでに天と結ばれているのですから、安心して、この地上を生きていくのです。神が天と地を一つになさるその時まで、キリストがふたたび来られる時まで、神がご覧になっておられるのはこの地上なのです。今現在、神が目的とされているのは地上なのです。

その地上で私たちはなすべきことをなしていくのです。この地上でなすべきことは何かというと、それは召天の直前に主イエスがお語りになっていた言葉の中にあります。それはキリストの証人となることです。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そしてエルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」そうキリストはおっしゃいました。

 キリスト者となり、天に結ばれて歩む者は、おのずとキリストの証人とされるのです。このキリストの地上での最後の言葉は、「証人になりなさい」とおっしゃっているのではないのです。キリストを信じる者には聖霊が与えられ、聖霊が与えられた人は<証人とされる>のです。さきほど私たちはなすべきことをなすと申し上げましたが、私たちは<証人とされる>のですから、<なす>ための力、つまりキリストを証言する力は、神から与えられるのです。こののち、たしかに弟子たちに聖霊が降り、彼らはキリストを証しする者とされました。そしてなすべきことが与えられ、なしとげるための力も与えられました。

 ここで、ただなしとげるための力というと少し堅苦しい言い方になるかもしれません。私たちは懐かしい人の思い出を語るように、あるいは愛していた人のさまざまな良いところを語るようにキリストのことを語るのです。無理して語るのではありません。自然と語りたくなって語るのです。もちろん、言葉にしないときもあるかもしれません。でもキリストを愛して生きていくとき、聖霊によって私たちは少しずつ変えられていきます。

私たちは親しかった人、とても影響を受けた人、尊敬していた人と気がつくと同じ言葉をしゃべっていたり、行いや考えが似てきたりするようなことがあります。それと同じように、私たちは知らず知らずのうちに、キリストに似た者とされていきます。それはきよらかな立派な人になるということではなく、ごく普通に生きながら、もともとの個性はそのままに、むしろ短所もありながら、どこかでキリストを感じさせるような人になっていくということです。

 私たちもこの地上を天に結ばれながら、キリストのことを語り、キリストに似た者と変えられながら生きていきます。そして私たちは、ふたたび愛するイエス・キリストと出会います。その再会の時までを、キリストの証人としてのこの地上の旅します。良き時も悪き時も、自由に歩き回れる時も、また忍耐して一つ所にとどまるときも、すべてが聖霊に導かれた祝福の旅なのです。この週もその豊かな旅が始まります。

 


ヨハネによる福音書21章15~25節

2020-05-10 08:39:25 | ヨハネによる福音書

2020年5月10日大阪東教会主日礼拝説教「愛の始まり、旅の始まり」吉浦玲子

【聖書】

ヨハネによる福音書 第21章15〜25節

食事が終わると、イエスはシモン・ペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」と言われた。ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われた。二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた。三度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった。そして言った。「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる。」ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである。このように話してから、ペトロに、「わたしに従いなさい」と言われた。

ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である。ペトロは彼を見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった。しかし、イエスは、彼は死なないと言われたのではない。ただ、「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」と言われたのである。

これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である。わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている。

イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。

【説教】

<愛に始まる>

 主イエスはペトロに「わたしを愛しているか」と問われました。それも三度、問われました。三度目に問われたとき、ペトロは悲しくなったと書いてあります。それはそうでしょう。愛している人から、何度も何度もわたしを愛しているかと問われるということは、自分の愛を信じてもらえていないと普通は感じます。

 この聖書箇所は、ペトロが、主イエスが逮捕された時、主イエスのことを三度も知らないといったことと対応していると解釈されます。つまり、自分を裏切ったペトロに対して、ここで主イエスが三度愛を確認して、赦してくださっている場面であるとも言えるでしょう。しかし、考えてみますと、「お前なんて知らない」「あいつとは何の関係もない」と、かつて自分を否定し、切り捨てられた相手に対して、「自分を愛しているか」と問うただけで赦すということは普通は考えられないことです。表面上、関係を回復させることはあったとしても、以前とまったく同じような関係にはなりにくいのが普通です。しかし、主イエスは「わたしを愛しているか」と問われ、そこから新しく愛の関係を作ろうとされます。

つまり、神は過去を問われないのです。今と未来だけを問われるのです。今、愛しているのかを問われるのです。ペトロの裏切った過去、弱かった過去は、キリストご自身が十字架につけてしまわれました。罪の過去は十字架のゆえに神の前でリセットされたのです。

 過去を問われない代わりに、私たちは別のことをはっきりと問われます。私たちが今日の聖書箇所を読んで、最初に引っかかるのは「ヨハネに子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」という言葉の中にある「この人たち以上に」という言葉ではないかと思います。口語訳では「この人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」と訳されています。つまり、他の人が自分を愛している以上に、自分を愛するか、言ってみれば他の人の主イエスへの愛よりあなたの主イエスへの愛が大きいのかという問いととることができます。しかし、別の取り方もできます。あなたは他の誰よりも私を愛するか、つまりヨハネでもトマスでも他の人でもなく、私を一番に愛するかという問いとも取れます。まるで子供が「弟や妹よりもぼくのことが一番好き?」と親に問うように「誰を愛するにも増してわたしを愛するか?」と問うておられるとも取れます。

 いずれにとるにしても、ここで問われているのは、神への愛の絶対性、純粋性、特別性なのです。私たちにとって、神への愛が何よりもまさるものかを神は問うておられます。これは厳しい問いです。家族よりも親友よりも神を愛するかということです。良く神への愛と隣人愛と言います。しかし、先立つのは神への愛なのだと聖書は語るのです。これは厳しすぎると感じる人も多いでしょう。しかし、神を愛せない者は、ほんとうのところは、家族も友人も愛することはできないのです。

<信頼と使命>

 しかしまたその愛の有様は、私たち自身では測りようもないことです。かつてのペトロなら、「はい、私は誰よりもあなたを愛しています」「あなたのためなら死ねます」と答えたでしょう。しかし、ペトロは自分の弱さを痛いほど知りました。ですから、もうそのようには答えられないのです。「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存知です」と答えるのが精いっぱいでした。ペトロの振り絞るような思いがここにあります。しかしこれは精いっぱいの答えであると同時に、神にゆだねた言い方でもあります。弱い私の心をすべてご存知なのはあなたです。私の愛が満ち満ちていても、乏しかろうとも、その心をあなたにゆだねますというのです。ある方は、愛は説明ができないのだとおっしゃいます。そもそも高価なプレゼントや優しい言葉で自分の愛を説明することはできない、ましてや自分のために命まで捧げてくださった主イエスに対して、何をもっても愛は説明できないのです。ただ「あなたがご存知です」としか答えようがないのです。そして、仮に私たちの愛が乏しくとも、主イエスはその愛を受け取ってくださるのです。ここにペトロの主イエスへの新しい信頼があります。その信頼関係に基づいて、「わたしの羊を飼いなさい」という言葉が主イエスから与えられます。つまり、新しい使命を与えられて歩み出すのです。「わたしの羊を飼いなさい」という言葉は、ペトロへ伝道者として、また教会を導く者としての使命が与えられてたことを示します。しかしまた、専任の伝道者のみならず、キリストを愛し、キリストに従う者は、それぞれにキリストの羊を飼うのです。私たち一人一人にキリストは飼うべき羊をお与えになるのです。愛に始まり、ペトロの、そして私たちの旅は始まります。

 ところで、以前にもお話したことがありますが、私の信仰の先輩で、現在70代の女性で、生まれてから一度も引っ越しをしたことのない人がいます。結婚をして、子供が生まれ、いまは近所に娘さんやお孫たちが住んで行き来をしているけれど、自分自身は一度も実家から出たことがないのです。でもやはり彼女にも人生の旅はありました。親を見送り、長く病と闘っていたご主人の介護をして見送り、信仰の先輩であり親友であった友人も見送りました。生まれたお孫さんに先天的な疾患があり、娘さんと共に悩まれ、娘さんを支えられました。喜びも悲しみも当然ながらさまざまにありました。しかし、キリストと共に歩む時、その歩みの途上においては喜びも悲しみもありながら、その旅は、愛に始まり、愛に終わります。

 愛に始まった旅は、けっしてひとところにとどまりません。物理的にはこの先輩のようにひとところに住んでいたとしても、私たちは信仰の父であるアブラハムのように、そしてまたペトロのように、パウロのように信仰の旅をしていきます。信仰の日々は十年一日(じゅうねんいちじつ)のようなものではありません。

<楽な旅ではない>

 さて、キリストから飼うべき羊を与えられ、私たちは一人一人の旅へと旅立ちます。主イエスの愛によって押し出される旅です。しかし、その旅はけっして楽な旅ではないのです。この世界にある限り、人間には苦難がありますが、ことに信仰者には神の訓練ともいえる試練があります。そしてその歩みは、この世的に見る時、必ずしもハッピーエンドとは思えない場合もあるのです。ここで、ペトロに主イエスは、「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところに行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして他の人に帯を締められ、行きたくないところに連れて行かれる。」とおっしゃいます。ダビデがそうであったように、そしてまた主イエスの母マリアがそうであったように、その人生はけっして彼、彼女たちの望みがかなったものではありませんでした。ここで、特にペトロに主イエスがおっしゃっていることは、ペトロが最後には殉教をすることになるということでした。「両手を伸ばして」という言葉は十字架にはりつけになる、ということを暗示します。そのことを主イエスはご存知でありながら、なお「わたしに従いなさい」とおっしゃいます。

 たいへんな困難な道をペトロが歩むことをご存知で、しかもその最後は殉教することになるというのに、わたしに従いなさいとおっしゃる主イエスは冷たい厳しいお方でしょうか。たしかに、主イエスに従わなければ、ガリラヤで漁師として、貧しくはあっても平穏な一生をペトロは送ったかもしれないのです。

 しかし、のちにペトロが残したと言われる「ペトロの手紙」を読みますと、ペトロ自身が、後年、自らが主イエスに従って歩んだ道のりを後悔していないばかりか、むしろ大いなる喜びをもって語っているのがわかります。かつて主イエスと共に歩んだ弟子たちではなく、生前の主イエスも復活なさった主イエスも直接は知らない弟子たちの前で、ペトロは語ります。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせない素晴らしい喜びに満ちあふれています。それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」

 主イエスと寝食を共にしたわけではない、復活のイエス・キリストと出会うという決定的な体験もしていない、そんな人々が、自分と同様に、主イエスを愛し、喜びに満たされている、その事実を見て、年老いたペトロは万感の思いにあふれるのです。投獄されたり、さまざまな困難があった、失敗も幾たびかした、しかし、ペトロは与えられた羊を養い魂の救いへと導きました。

 楽な人生であったとしても、経済的に裕福であっても、社会的な名誉を得ても、魂が滅ぶ人生にはまことの喜びはありません。主イエスはご自分を愛する者の日々が困難に満ちながらも、実を結ぶ人生であることをご存知だったのです。主イエスの羊を飼う、つまり、神から与えられた使命に生きることは自己実現を目指す生き方とは違います。自分の目指すところに行くとは限らない生き方です。しかし、自分の魂が救われ、また周囲の人々の魂も救われる、その信仰の実りを見ることのできる人生を、主イエスを愛する者は生きていくのです。ですから、主イエスは「わたしの羊を飼いなさい」とそれぞれの旅へと押し出していかれたのです。

<振り返らない>

 ペトロは主イエスとの会話のあと、「振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた。」とあります。ペトロは振り向いて、後ろから来る弟子について「主よ、この人はどうなるのでしょうか」と問いました。主イエスは。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい。」とおっしゃいました。つまり、あなたには、この人のことは関係がない、ただ私に従いなさいとおっしゃったのです。

 前を向いて、今を生きている時、そして未来へと歩むとき、私たちは私たちの使命に生きることができます。しかしまた私たちは振り向いてしまう者でもあります。振り向くとき、私たちは、余計なことを考えるのです。人と比べてしまうのです。あの人、この人と比べてしまいます。それぞれに違う使命を受けて、それぞれに人生の旅をしているのに、比べてしまうのです。

新型コロナ肺炎の予防のため、自粛生活をしているなかで、以前の会社の友人たちと、ビデオ会議システムを使って、オンライン懇親会をすることがあります。パソコン上で皆の顔を見るとそれぞれに元気です。話ははずむのですが、時々、他の人と、私は少し生活が異なっているので、会社や仕事の話とかでは、会話について行けない時もあります。何となく置いてきぼり感を味わうこともあります。でもそれで良いのです。それぞれ違って良いのだと思います。それぞれに違う旅をしているのですから。

ペトロが振り向いた先にいた主イエスが愛された弟子は、やがてヨハネによる福音書を記したと書かれています。伝承ではこの弟子は長生きをしてペトロのような殉教はしなかったとも言われます。この弟子はペトロとはまた違う旅を旅したのです。それぞれに生き方も死に方も違っていました。しかしそれぞれに実を結ぶ人生を送ったのです。

<旅の続きは私たち>

「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を納め切れないであろう」と記してヨハネによる福音書は終わります。主イエスはガリラヤで、エルサレムで、イスラエル全土で、またサマリアで、多くのことをなさいました。それらの一つ一つを書いたら、世界もその書物を収めきれない、これは主イエスへの平凡な賛辞ではありません。むしろ私たちへ向けた言葉です。この書物に収めきれない主イエスのなさったことは、私たちになさってくださったことでもあるからです。ヨハネによる福音書はここでいったん終わりますが、主イエスの業はここで終わってはいません。私たちに続いているのです。私たちの日々に主イエスの愛の業は為され続けています。ペトロになさった業が、主イエスを直接は知らないペトロの弟子たちへと続いて言ったように、2000年後に生きる私たちにも続いています。私たち一人一人の旅の物語が続いていくのです。時間と場所を越えて、膨大な物語が続いています。世界も収めきれない旅の物語です。「わたしを愛しているか」その問いに繰り返し答えながら、日々主イエスに従いながら、私たちの愛の旅は続いていきます。


ヨハネによる福音書21章1~14節

2020-05-03 08:17:11 | ヨハネによる福音書

2020年5月3日大阪東教会主日礼拝説教「岸まで泳げ」吉浦玲子

【聖書】

ヨハネによる福音書 第21章1〜14節

その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったのほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。

 

【説教】

<食べる物はあるか>

 弟子たちは主イエスの復活ののち、漁に出ました。弟子たちは復活のイエス・キリストと出会ってすぐに意気揚々と宣教活動を始めたわけではなく、もともとの生業であった漁をしていました。このあたりの経緯はよくわかりません。彼らは慣れ親しんだティベリウス湖、つまりガリラヤ湖で漁をしました。このとき、漁に出たメンバーには漁師でなかった者も含まれているようですが、中心となったのは、もともとプロの漁師であったペトロたちでした。その彼らが、良く知った場所で一晩中漁をしたのにまったく魚は獲れませんでした。

 彼らは疲れ果てて、夜明けを迎えました。その夜明けの岸辺に主イエスは立っておられました。弟子たちはそれが主イエスだとは、最初、分かりませんでした。岸から舟は200ぺキスほど離れていたとあります。だいたい90mほどの距離です。朝の光の眩しさの中ではっきり顔が見えなかったのでしょうか。しかし、知っている人であれば、その距離なら判別できると思われます。でも、なぜか弟子たちは主イエスと分かりませんでした。

主イエスはおっしゃいます。「子たちよ、何か食べる物があるか」。「食べる物」という言葉は<パンと一緒に食べる物>という意味です。新しい共同訳では「おかず」と訳されています。これは単純に「漁の塩梅はどうだい?」と聞いたとも取れます。しかし、ここには主イエスの愛情もあると思います。一晩中漁をしていた弟子たち、疲れ果て、お腹もすいているでしょう。その彼らの食事を心配しておられるのです。実際のところ、この岸辺ですでに主イエスは火をおこし食事の準備をしてくださっていたのです。

これまでも繰り返しお話してきましたが、聖書は精神論や哲学を説いているのではないのです。人間が必要とするものを神がご存知であることを語ります。ですから十字架におかかりになる前、主イエスは神の教えを語ることと合わせて、病の人を癒し、空腹の人には食べ物を与えられました。もちろん、それは神の国の宣教よりも、慈善活動、社会福祉が大事だということではけっしてありません。しかし、神は憐れみ深いお方です。主イエスも人々の苦しむ姿をご覧になって憐れまれました。その憐れみの心のゆえ、主イエスは人々の必要なものを与えられました。病には癒しを、空腹には食事を。奇跡としか言いようのないやり方で与えられました。ヨハネによる福音書では、主イエスのなさった奇跡のことを「しるし」と表現しています。神の救いのしるしであり、神の国のさきぶれとしての奇跡の業でした。人々がそのしるしを見て神の救いを知ることができるようになるためのしるしでした。ですから、本当は、与えられた人たち、救われた人たちはそこに神の業を見るべきでした。しかし、病を癒されても、食事をいただいても、多くの人はそこにしるしとしての神の業を見なかったのです。そうなることはご存知であっても主イエスはなお憐れみのゆえ、しるしをなさったのです。

主イエスはここでも弟子たちにまず「食べる物があるか」とお聞きになるのです。今、彼らに必要なものは、神学や宣教の話ではなく、疲れ切った肉体を癒すことだと主イエスはご存知だったのです。弟子たちは「ありません」と答えます。すると主イエスは「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」とおっしゃいました。プロの漁師が、見知らぬ人からそのような指図を受けるのは不本意だったかもしれません。しかし、彼らがとりあえず言われたとおりにすると、多くの魚が獲れて網を引き上げることができないくらいだったというのです。舟の右側と言われた右というのは神の力の座を示します。網が引き上げることができないほどに魚が獲れたというのは、そこにまぎれもなく神の業、しるし、奇跡があったということです。ぼろぼろに疲れていた、食べる物もなかった弟子たちに、あふれるほどの神の恵みが与えられました。

私たちは、それぞれの困難な日々にあって、復活のイエス・キリストと出会います。一晩中漁をして、何の成果もなかった、そんな弟子たちと同様に、徒労に終わった夜のあと、私たちは朝にキリストと出会います。精いっぱいやってもうまくいかなかった、失望していた、そのとき、イエス・キリストと出会います。主イエスは待っていてくださるのです。そして聞かれるのです。「子たちよ、何か食べる物があるか」と。

食べ物などあるわけがないのです。精いっぱい探してきた、あれこれ努力してきた、それらがすべて無駄だった、何をいまさらおっしゃるのか?そう毒づきたくなるような思いの中で、それでも「舟の右側に網をおろしなさい」という主イエスのおっしゃったことに従うとき、恵みが与えられるのです。とてつもない祝福が与えられるのです。

<岸まで泳げ>

 さて、網を引き上げることができないほどの魚が獲れた時点で、主イエスが愛しておられた弟子は、岸におられるのが主イエスだと分かります。ルカによる福音書にも、似たような大漁の話がありますが、彼にはこの大漁が尋常なことではないのが分かったのでしょう。人間の業ではない、これは神の業であると。だから「舟の右側に網を打ちなさい」とおっしゃったのは主イエスだと気づいたのでしょう。そしてペトロに「主だ」と言います。するとペトロは、裸同然だったので上着をまとって湖に飛び込んだとあります。ペトロらしい熱心さが感じられる行動です。大漁の魚で身動き取れない舟で岸に向かうよりも泳いだ方が早いと飛び込んだのです。一刻も早く主イエスのところに行きたかったのです。プロの漁師であるペトロがもう魚のことはほったらかしなのです。さらにイエス様にお会いするのに裸同然では失礼と思ったのでしょう、わざわざ上着をまとって湖に飛び込みました。急いで主イエスのもとに行きたいのに、上着をまとうと泳ぎにくいはずなのに、少々、滑稽とも思えるペトロの姿です。しかし、そこにペトロの一途さがあります。

 さきほども、神から恵みを受けても、それだけで終わる人が多いことが聖書に記されているとお話ししました。それに対して、ペトロは一刻も早く、主イエスのもとに行きたいと湖に飛び込みました。それは人から見たら滑稽ともいえる姿です。

 しかし、信仰の姿というのは、けっして、崇高であったり、賢そうであったりはしません。上着をまとって湖に飛び込むような滑稽なこととして、周囲の人には見える時が往々にしてあります。毎日、働いて疲れ果てているのに教会に行くなんて、ある人にとってはばかげてみえるかもしれません。せっかくの休みの日は体を休ませるほうが賢く感じられます。祈る時間があったら、もっと人のためになる活動をした方が良さそうに思えます。

 教会にあっても、時として、信仰的な姿勢というのは嘲笑を受けることがあります。ある教会で20年ほど前、会堂を建築したとき、家が経済的に貧しくて会堂建築のために十分な献金ができなかった人が、醤油を作って売ってその売り上げを教会に献金したそうです。醤油は市販のものより安く一本百円程度で売られたのです。その方は一生懸命作って売りましたが、その醤油の売り上げの献金は会堂建築の費用全体からしたらごく微々たるものでした。しかし、そこには醤油を作って売った人の精いっぱいの信仰がありました。しかし、醤油作るなんて、手間暇だけかかって、非効率的でばかばかしいと思う人も、当時、いたのです。

 しかし、信仰的であるということは、スマートさや、賢さ、効率では測れません。しかし、ことに現代人は、スマートさ、賢さ、効率を重視します。教会の中でも往々にして、そういったものが幅を利かせます。醤油を作るようなことは泥臭いこと、湖に飛び込むようなことはばかばかしく恥ずかしいことと、教会の中ですら思われます。嘲笑されるのです。

 もちろんむやみやたらと泥臭ければよい、非効率であれば良いということではありません。大事なことは上着をまとうことです。ペトロは上着をまといました。そのこと自体は、それこそ、いっそう滑稽なことに見えます。しかしそこにペトロの神への畏れがありました。神への畏れを抱きつつ、そしてまた神への熱心を抱きつつ、ペトロは岸まで泳ぎました。その神への敬虔のゆえに、滑稽とも思えるペトロの姿は神に愛されるのです。

<祝された食卓>

 岸に着くと、先ほども申し上げましたように、主イエスはすでに食卓を準備しておられました。そこに新たに漁をして獲った魚が加わりました。主イエスがすでに備えてくださっていた食卓に彼らの漁をして獲った魚が加えられるというのは象徴的です。私たちの人生においても、大成功をした、ものすごく成果が上がったと思える局面でも、実際のところは、多くのものを神が整えてくださっていたのです。もちろん私たちも努力をします。ペトロたちが漁をするとき、抜かりなく舟の手入れ、網の準備をして、漕ぎ出して、季節や天候や魚の具合に合わせて知恵を絞って漁をするように、私たちも日々努力をし、精いっぱいのことをするのです。その喜びの成果が神の整えられたものに添えられる、そこにまことの祝福があります。

 主イエスが「今とった魚を何匹か持って来なさい」とおっしゃり、シモン・ペトロが獲れた魚を数えると153匹もあったとあります。153という数字についてはさまざまに解釈があります。しかしここでは、とても多かったとのだと読んでいいと思います。「それほど多くとれたのに網は破れていなかった」とあります。

 人間の為すことには破れがあります。無理があるのです。過労になるまで働いて病気になってしまう。経済的に恵まれていても、家庭が不和になってしまう。努力を重ねて名声を得たのに傲慢になって孤独になってしまう、というようなことが、この世の中でよく聞かれます。しかし、神と共に歩むとき、破れはないのです。あふれるほど魚が獲れても網は破れないのです。やり終えた後むなしくなったり、燃え尽きたりもしないのです。朝の光の中、香ばしく魚が焼ける香りのなか、和やかに食事をするような喜びに満たされるのです。

<私たちのガリラヤ>

 ところで、21章はガリラヤが舞台です。20章までの十字架から復活の出来事はエルサレムが舞台でした。場所的にはずいぶんと離れています。ガリラヤは言ってみれば、弟子たちのもともとの拠点でした。ホームとアウェイと言い方をすればホームです。復活の主イエスはエルサレムでも弟子たちとお会いになられました。しかし、ガリラヤでも会ってくださったのです。ある方は、エルサレムは日曜日であり、ガリラヤは平日だとおっしゃっています。つまり私たちは日曜日、教会で主イエスとお会いするだけでなく、平日、それぞれの場所にあっても主イエスとお会いするのです。

 「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのはこれでもう三度目である。」とあります。復活なさった主イエスとお会いするということは特別な一回だけのことではないということです。私たちは繰り返し出会うのです。教会で出会い、また日々においても出会います。

 弟子たちが、これまでも復活の主イエスとお会いしていたのに、最初、岸辺に主イエスを見たとき誰か分からなかったように、私たちもまた、すぐ忘れてしまうのです。奇跡的な体験をしても、決定的な神との出会いをしても、なお人間はすぐ忘れてしまうのです。神の救いを、神の憐れみを忘れてしまうのです。いつも食卓を整えてくださっている神の労苦をないがしろにするのです。ですから、私たちは出会い続けるのです。神と出会い、神を畏れつつ、しかしまた心弾ませ、岸まで泳いでいくのです。そこには祝福の食卓があります。