大阪東教会礼拝説教ブログ

~日本基督教団大阪東教会の説教を掲載しています~

ルカによる福音書23章44~56節

2019-09-08 13:35:59 | ルカによる福音書

2019年4月14日 大阪東教会主日礼拝説教 扉は開かれた吉浦玲子

<ゆだねること>

 十字架の上の主イエスの言葉から聞いています。今日は最後の七つ目の言葉です。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と主イエスは十字架の上で叫ばれました。主イエスは神に等しい方であり、父なる神の御子であるお方でした。ルカによる福音書ではその降誕の時、天使と天の大軍の大いなる賛美がなさました。しかし、十字架に主イエスがつけられているとき、天使と天の大軍が来ることはありませんでした。もちろん、けっして主イエスは無力であられたわけではありません。神と等しいお方が、その神の力を最後の最後には発揮することがおできにならなかったわけではありません。ただ、主イエスはすべてを父なる神におゆだねになりました。父なる神は天使も天の大軍もその御子の十字架のときには遣わされませんでした。それが父なる神の御心でした。そして主イエスはその父なる神にすべてをおゆだねされたのです。

 わたしたちの人生ということを考えます時、往々にして神にゆだねざるを得ない局面があります。人間の努力や意思ではどうにもならない局面があります。高度一万メートルで航行している飛行機の機体にトラブルが起きたとき乗客にはどうしようもありません。実際、仕事でアメリカに行ったとき、気流の状態がひどく悪く何千メートルも乱降下する飛行機の機内にいたことがありますがそういうときはもうどうしようもないのです。私たちは不可抗力のトラブルや事故に巻き込まれた時、あるいは病が重篤な場合、神にゆだねるしかりません。わたしたちは自分でどうにもできなくなったとき、神にゆだねざるを得ません。力尽き倒れたときわたしたちは神にすべてをゆだねざるを得ません。それは人間的な感覚でとらえますと、ある意味、敗北でもあります。

 しかし主イエスはそのようなわたしたちとは異なります。十字架の上で敗北をなさったわけではありません。主イエスは天の大軍を呼び寄せることも、自ら十字架から降りることもおできになったでしょう。しかし、主イエスは、ご自身の意思として、父なる神にご自身をゆだねられました。肉体が滅び、やがて陰府にまで下ることになる、それを父なる神の御心としてお受けになりました。フィリピの信徒への手紙2章6節にこのような言葉があります。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあります。まさに主イエスはその死に至るまで、十字架の上でへりくだり、従順であれました。徹底して神にゆだねられました。この主イエスの父なる神への従順は見習いたいと願うものであります。たとえば自分が死の床にあるとき、主イエスのように「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と祈れたらどんなにいいでしょうか。もちろん、そう祈れるかどうかはそのときにならないとわからないことです。しかし、多くの場合、なかなか難しいことであるとも思います。

 さきほど申し上げましたように、人間にはもう自分ではどうしようもない局面があります。神にゆだねざるを得ないときがあります。しかし、そのどうしようもないときに、もちろん、神よ、ゆだねますと自分を差し出したら良いのですが、しかし、実際のところは、それまでの人生においてどれだけ自分が神にゆだねて生きて来たかということがそのとき問われます。いよいよもうだめだというとき、自分を神の前に投げ出すとき、もしそれまでの人生においても、神にゆだねた生き方をしていたらならば、そこに平安があります。心から自分を神にゆだねる時、それは敗北ではなく、むしろ勝利であり平安なのです。もちろん恐れや不安はゼロではないでしょう。しかし、それまでの人生において神に従い、神に従順に生きてきたとき、いよいよというとき、自然に神に身を任せることができるようになります。

 良く「自分を神に明け渡す」と言われます。自分が自分の人生の主人公で、自分中心に生きていくありかたから、自分の人生の真ん中に神に入ってきていただく生き方が「神に明け渡す」生き方です。自分の心を部屋に例えると、たくさんの自分の好みの家具や雑貨が所せましと置かれている状態が最初の自分です。それらのモノの管理は自分がやっています。そしてどんどんと好みのモノは増えていくのです。そこには神が入るスペースがありません。自分の好みの家具や雑貨の間の狭いところで神は窮屈にしておられます。神は本当はもっと豊かに働き恵みを与えたいと願っておられますが、私が神の働きをとどめている状態です。しかし、神と共に生きていくとき、祈りと御言葉の生活をしていくとき、どんどんと心の中のモノを捨てていくことができるようになります。神の働きの邪魔になるモノを捨てることができるようになります。そして神様が自分の部屋の真ん中にゆったりといてくださるように整えていくことができるようになります。そうやってどんどんと自分の心の部屋のスペースを神に明け渡していくのです。そうやって神が自分の心の中心におられるようになったら、これまで自分の好み、自分のやり方でやってきたことが、だんだんと神様が喜ばれるモノに変わっていきます。神様が主体的に私たちの心の部屋を整えてくださるようになります。これは一生かかって変えていただくものです。一生かかって私たちは、神に自分を明け渡していきます。そして一生かかって私たちは神に自分をゆだねる者とされます。

<罪を砕く叫び>

 ところで、今日の聖書箇所は少し前に一緒にお読みしましたマルコによる福音書においてイエス様が亡くなられる場面と内容的に重なっています。全地が暗くなり、イエス様が叫ばれて息を引き取られ、そしてまた神殿の幕が裂けたというところは似ています。しかし、中心となる、イエス様の言葉が違います。以前お読みしましたように、マルコによる福音書ではイエス様は「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫ばれました。しかし今日の聖書箇所では、主イエスが叫ばれたのは「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」でした。言葉についてはマルコによる福音書を一緒にお読みしたときお話ししましたのでここでは触れませんが、しかしよく読みますと主イエスの言葉の違い以外にも、少し違うのです。たとえば全地が暗くなることも、マルコによる福音書では「全地は暗くなり、それが三時まで続いた」と記されていますが、今日の聖書箇所では、「全地は暗くなり、それは三時まで続いた。太陽は光を失っていた。」と「太陽は光を失っていた」という言葉がさらに重ねられています。これはいずれもアモス書で預言されている裁きの日の成就ですが、ルカによる福音書の方がさらに闇が深く描かれています。ある説教者は、「太陽が光を失っていた」というのはキリストを十字架につけた人間の罪の深さのゆえに神がそのみずからの光を人間に注ぐことをおやめになった状態であると語っておられました。創世記において「光あれ」とおっしゃった神が、光を人間に注がなくなった状態です。それは罪なきキリストを十字架につける人間の罪のあまりのひどさのゆえに、神が人間からその御顔を背けられている状態であるとも言えます。

 神が御顔をそむけられる、あるいは神が沈黙をなさる、それは神が冷酷で残酷だからではありません。人間の悲惨から目をそむけ、放っておかれているわけではないのです。あまりにも人間の罪が深いゆえに神は人間から見るとその光を隠され、御顔を隠されるのです。十字架の時は、まさに神の御子を、神と等しいお方を、人間が十字架につけるという、人間の罪が極まった時でありました。そのとき、太陽は光を失ったのです。神は御顔を隠されました。

 そしてまた、神殿の垂れ幕が裂けました。これはマルコによる福音書では主イエスが息を引き取られたときに裂けたと記されていましたが、本日の聖書箇所では主イエスが息を引き取らられる前に裂けたと記されています。これは福音書間で事実が矛盾して記述されているというより、それぞれの福音書を記した人々が、それぞれに聖霊によって語られたことを信仰的にとらえて記したことによる違いといえます。ルカによる福音書においては垂れ幕は主イエスの死の前に裂けました。ある方は、これは神殿の破壊、すなわち、人が神を礼拝することができなくなったことを意味するとおっしゃいました。人間の罪が極まり、太陽が光を失い、神が御顔を背けられた、そして人間と神をつなぐ礼拝をおこなうための神殿が壊れたのです。神と人間の間をつなぐものが破壊されたのです。人間の罪のゆえに破壊されたのです。神と人間の間が断絶したのです。神を礼拝することができなくなってしまったのです。

 しかし、その人間の罪のゆえの闇の中、神殿が崩壊して、神と人間をつなぐものがなくなったそのとき主イエスは叫ばれるのです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と。父なる神が人間から顔を背け、恵みの光を注がず、礼拝を捧げられることも拒まれている、そのとき主イエスは叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と。これは御子からの父なる神への呼びかけでした。主イエスはここで父なる神を信頼し、すべてをゆだねられ、平安に死へと向かわれただけではありません。人間の罪の闇が極まるなかでなお父に呼びかけられたのです。沈黙される父へとなお御子はご自身を捧げるということを伝えられたのです。ご自身を罪の贖いの捧げものとして捧げることを叫ばれたのです。どうぞ父よ、お受け取りください。犠牲の小羊であるこの私の霊を、わたしのすべてをお受け取りください。そしてこの罪の闇を打ち破ってください。ふたたび人間があなたを礼拝することができるように、あなたの御顔を見上げることができるようにしてください。そのような新しい時代を開いてくださいという叫びが「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」でした。

 その主イエスの叫びが闇を切り裂き、新しい扉を開きました。もちろんそれが明らかになるのは復活の朝です。しかし、その叫びを聞いた人々はその朝を前にして、なにごとかを悟ったのです。百人隊長はこの出来事を見て、「本当に、この人は正しい人だった」と言って神を賛美したとあります。百人隊長はまさに主イエスを十字架につけたローマ側の人間でした。十字架にかかった罪人を見たのは初めてではなかったでしょう。多くの罪人を見てきたと考えられます。だからこそ、わかったのです。主イエスは他の罪人とまったく違うお方であることを。百人隊長は主イエスの叫びを聞いて、なにごとかを感じ取ったのです。そこに偉大なことが起こったことを感じ取ったのです。主イエスの十字架が神の出来事であったことを悟ったのです。それも恐ろしいことではなく、神の恵みの出来事であることを悟ったのです。ですから神を賛美したのです。とてつもない神の業がそこにあったこと、新しい扉が開かれたことをを悟ったのです。また見物人たちは「胸を打ちながら帰って行った」とあります。主イエスをののしっていた人々もまた、なにごとかを感じて帰って行ったのです。

 主イエスの十字架は人間の罪の闇が極まったところに立ちました。本来なら神が御顔を背け、人間との交わりを断絶するそのときに、主イエスの叫びによって新しい扉が開かれました。私たちは普段自分が闇の中にいるとは思いません。いえむしろ現代は光にあふれています。偽りの光にあふれています。偽りの光に慣れて、闇を知らない私たちの内側で闇はいっそう深まっているでしょう。しかしそこにも主イエスの叫びが届くのです。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と。罪深い闇の中にいる私たちを救い出す叫びです。闇を破り神の恵みの光を私たちに注いでくださるための叫びです。


ヨハネによる福音書19章28~30節

2019-09-08 13:31:24 | ヨハネによる福音書

2019年4月7日 大阪東教会主日礼拝説教 渇く吉浦玲子

<渇かない水を与えられる方の「渇く」>

 十字架の上の7つの言葉に聞いています。今日は「渇く」という言葉と「成し遂げられた」という言葉について聞きます。

 主イエスはかつて、ヨハネによる福音書7章で「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてある通り、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」とおっしゃいました。秋の仮庵祭のときのことでした。そのエルサレム最大の祭りの時、祭司たちがうやうやしくギホンの泉から金のひしゃくで水を汲み上げました。それは神の救いの水を汲むという詩編に記されている言葉を象徴していたのです。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」という主イエスの言葉には、金のひしゃくでこの世の泉から水を汲み上げたとしてもあなたたちは救われない、という意味が含まれていました。主イエスご自身を信じ、そして主イエスご自身から飲ませていただく水によってでなくては救われないのです。主イエスご自身の水によって、あなたがたはまことに救われる。まことに潤され癒され生かされるのだと主イエスはおっしゃいました。何回かお話をしましたように、水はイスラエルにおいてことに貴重なものでした。多くの川は雨期の一時期を除けば涸れた川であり、イスラエルに水は乏しかったのです。それゆえに流れ出る水のイメージは、神の豊かさを象徴していました。

 ところで「ベン・ハー」という有名な映画の一場面に、主人公が策略によって罪を着せられ囚人として連行されるところがありました。ご覧になられた方も多いかと思います。連行される過酷な歩みの中、水も与えられず、主人公は衰弱します。共に移送されている他の囚人たちには水が与えられているのに、主人公だけには与えられないのです。意識ももうろうとして、もはやこれまでかというところで、誰かが、主人公に水を与えました。はっきりと水を与えたのが誰かは説明されていませんでしたが、「水を与えるな」と言いかけたローマの兵隊が、主人公に水を与えた人の様子に圧倒されて、何も言えませんでした。そのローマ兵の様子によって、水を与えた人はイエス・キリストであると暗示された場面でした。与えられた水を飲み、主人公は力を得ます。肉体的な渇きや衰弱が癒されただけでなく、生きる気力が与えられたのです。それはキリストによって救いの希望が与えられたのです。ベンハーはキリストに与えられた水によって救いへの希望を与えられたのです。

 キリストはわたしたちにも豊かな水を与えてくださいました。一人一人に豊かな水を与えてくださいました。それはただのちょっとした慰めや気分転換のためのドリンクではありません。根源からの生きる力を与えてくださいました。救いの水でした。その豊かな水を、心、魂、霊を豊かに生かしてくださる永遠の水を、与えてくださるイエス・キリストは十字架の上で「渇く」とおっしゃいました。人間を深いところから豊かに潤してくださるお方ご自身が渇かれたのです。徹底的に渇かれたのです。これは6時間に及ぶ十字架刑のための衰弱や脱水という肉体的な渇きではありません。父なる神と断絶をするという霊的な渇きを味あわれたのです。この渇くという言葉は、詩編22編から来ています。「口は渇いて素焼きのかけらとなり/舌は上顎にはり付く。/あなたはわたしを塵と死の中に打ち捨てられる。」十字架の上で、罪なきお方が、父なる神から裁かれ、渇いて渇いて渇き切り、塵と死の中に打ち捨てられました。神から離れることが渇きの根源でした。しかしそのイエス・キリストの渇きのゆえに、そしてキリストが塵と死の中に打ち捨てられたゆえに、私たちは潤されました。

<現代の「渇く」>

 ところで、長崎県出身の者として渇きということでどうしても思うのは1945年8月9日の原爆投下の日のことです。もちろん私が体験したことではありません。しかし繰り返し聞かされたことです。原爆投下後、被爆した人々でまだ命のある人々は水を求めて川に殺到しました。爆心地に近い浦上川には多くの人々が来ました。川にたどり着く前にこと切れる人々もたくさんいました。川にたどり着いてもそのまま川の傍らで亡くなったり、川に流されました。川には無数の死体が折り重なっていたのです。それは地獄のような状態であったでしょう。長崎というクリスチャンの多い土地で、しかも大きな天主堂のある地域で、そのような悲惨が起こることに深い思いを巡らさずにはいられません。水を求めて浦上川に向かった人々の渇きの現実を私は戦後に生まれて、いくたびも耳で聞いても実際は1945年8月9日その日の水を求めた人々の極限の苦しみを知ることはできません。それはもちろん肉体的な極限の苦しみ、渇きでした。しかしまた同時に、ごく普通に市民生活を送っていた人々が不条理な死を与えられる、その不条理さに対する渇きでした。神なき世界と思えるような残酷な世界への渇きでした。その渇きをその場に体験したことのない人間は実際のところは知ることができません。しかし、ただお一人その苦しみをご存知の方がおられます。十字架にかかられたイエス・キリストです。十字架の上で「渇く」とおっしゃった主自身が、神と切り離された極限の渇きを経験されたイエス・キリストただお一人が、浦上川に水を求めた人々の渇きをご存じなのです。人間が引き起こした悲惨によって、戦争というこの世界の罪。国家の罪、人間の罪によって、地獄絵図のような苦しみを味わった無辜の人々の渇きをイエス・キリストただお一人はご存知です。

 では原爆にあったことのない人間には渇きはないのでしょうか。もちろんそうではありません。まだ献身を志す前のことです。所属していた教会で、新しい交わり会を計画しました。私が当番となって準備しました。もともと昼に行っていた会を、仕事をしている人も来れるように夜にもやりましょうということになったのです。午後7時半開始でした。昼の会は、茶菓を準備して茶話会的な感じでの交わりだったのですが、夜の会はどうしようかと思ったのです。大学生や20代の若い方、それも未信徒の青年たちの出席が予想されていました。予算や当番の私自身の負担から考えて食事を出すのは無理なので、ボリュームのあるお菓子を出そうかなと考えていました。ところが当日、仕事を終えて準備のために早めに教会に行くと、お寿司やら惣菜の唐揚げやらが集会室の机の上に積み上げてありました。ある姉妹の差し入れでした。その姉妹自身は昼の会に出席されたのですが、夜の会のことを心配され、差し入れてくださってたのです。青年たちの中にはかなり難しい問題を抱えていた方もおられましたし、経済的に厳しい状況の方もおられました。そのことをよく知っていた姉妹が差し入れてくださったのです。姉妹は後から、おっしゃいました。「あのな、あの青年たち、からからやねん。渇き切ってるんや。でもな、だからこそ、まずお腹いっぱい食べてもらったらええ。体がからからじゃあ、霊の水も入ってこおへん。お腹いっぱいになって、ほっとして、そこからや。そこからイエス様の水が入ってくんねん。」その姉妹の配慮で、青年たちは良く食べ、集会にもなじんでくれました。その後は、予算をいただいて、夜の集会では青年たちにも手伝ってもらって簡単な料理を皆で作って食べるようにしました。その集会に出席した青年からは受洗者も複数与えられました。からからだった青年たちが、まず肉体と心の渇きを癒され、やがてキリストと出会い、まことの永遠に渇くことのない水をいただいたのです。それは単に若い人と和気あいあいと食事をして伝道しましたということではないのです。当時集っていた若者の中には逮捕歴のある方もいました。彼らは、差し入れしてくださった姉妹がおっしゃるように深い渇きを覚えていたのです。神を知らず闇の中で渇いていたのです。神を知らない渇きは実際のところ、人間を死へと導くのです。神と離れている渇きは肉体の渇き以上に生きる力を奪うのです。ベンハーが水を飲んで力を与えられたのは単に体が潤されたからではありません。それがキリストからの水であり、命の水であったからです。絶望的な状況の中で、不条理な試練の中でなお希望を与えてくださるのがイエス・キリストからの水でした。

<酸いぶどう酒を受けられたイエス>

 さて、「渇く」とおっしゃったのち、主イエスには酸いぶどう酒を含ませた海面が口元に差し出されました。この酸いぶどう酒の意味は諸説ありますが、多少鎮痛効果もあるような薬も混ぜられたものであったというのが多くの意見です。喉の渇きも多少は癒すものであったかもしれません。他の福音書には、十字架につけられて間がないころに、この酸いぶどう酒を主イエスに与えようとしたけれど、主イエスはお受けにならなかったことが記されています。それは主イエスが、十字架において渇きを渇きとして徹底してお受けになるおつもりだったからでしょう。しかし6時間を経て、主イエスは完全に渇きを体験されました。父なる神と断絶した渇きを味わい尽くされました。そしてすべてが成し遂げられたことを主イエスはお知りになりました。それゆえ「渇く」という言葉をおっしゃったのです。神が渇かれたのです。私たちの罪によって神が徹底的に渇かれ、そのことによってすべてが成し遂げられました。しかし、主イエスの「渇く」という言葉を聞いた人々は、それを単なるのどの渇きを訴えていると捉えたようです。そこで酸いぶどう酒が差し出されたのです。すでにすべてを成し遂げられた主イエスは、もはや酸いぶどう酒をお拒みにはなりませんでした。そのぶどう酒をお受けになりました。

 主イエスの最初の奇跡、ヨハネによる福音書でいうところのしるしは、カナという町の婚礼の席で、水をぶどう酒に変えるというものでした。それも最上の良いぶどう酒に変えるというしるしでした。婚礼は喜びの象徴でした。主イエスは人々の喜びのためにその業をなさいました。貧しい若い夫婦の門出と、そこに集う人々の喜びのために奇跡を起こされました。人々に素晴らしいぶどう酒を与えられた方ご自身は、その肉体の死を前にして没薬のまざった酸いぶどう酒をお受けになりました。人々に最上のぶどう酒をお与えになった方は罪人として、苦い杯を受けられたのです。

 今日、私たちは、今年度最初の聖餐式にあずかります。キリストの十字架と復活を覚える聖餐式です。キリストの引き裂かれた肉と、流された血を覚えます。私たちはキリストの肉と血をいただきながら、キリストが渇かれたことを覚えます。聖餐は天における晩餐の先駆けでもあります。神の国の宴の素晴らしさを覚えつつ、私たちの救いのために、キリストが酸いぶどう酒を受けられたことを思い巡らせます。キリストは私たちが良きものにあずかるために渇かれ、酸いぶどう酒を受けられました。私たちが神と出会い、救われ、良いもので満たされるために、キリストは苦い杯をお受けになりました。

 そしてその苦い杯をお受けになったその時、まさにすべては成就されたのです。「頭を垂れて息を引き取られた」とあります。天使が救いに来ることなく、エリアが迎えに来ることもなく、炎の車で天に上げられることもなく、みじめに頭を垂れて主イエスは亡くなられました。それが金曜日の出来事でした。土曜日はユダヤ教の安息日、それも過越し祭の特別の安息日でした。今日の聖書箇所の続きを読みますと、その特別の安息日に備えて人々が十字架から遺体を引き下ろそうとしたことが記されています。本来は遺体は何日も十字架の上で晒されていたようです。しかし、人々は祭りのためにそそくさと死体の処理を急いだのです。みじめに頭を垂れて死んだ罪人のことなどには構っておられないのです。この時、人々は知りませんでした。たしかにすべてが成し遂げられたことを。

 渇き切きって干からびたように死んだイエス・キリスト、水を求めて浦上川で一口水を口にしてこと切れた無数の被爆者のように、最後に酸いぶどう酒を受けられて息を引き取られたイエス・キリスト。しかしすべてが成し遂げられていました。イザヤ書43章にこのような言葉があります。「見よ、新しいことをわたしは行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。わたしは荒れ野に道を敷き/砂漠に大河を流れさせる。」キリストは渇いて死なれました。しかし、新しいことはすでに芽生えました。渇き切って死なれたキリストのゆえに新しいことが起こりました。荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる、これは単に詩的な象徴的な表現ではありません。この世界の不条理な荒れ野に神は実際に道を敷かれるのです。人々が命への希望を失い殺伐として渇いている現代の砂漠に豊かな大河を流れさせられるのです。キリストの福音によって大河が流れるのです。 神を知らなかったゆえに渇いていた人々が神を知り、まことに豊かな水を受け癒されるのです。私たちも豊かに水を受けます。尽きることのない命の水を受けます。私たちのために渇き切ってくださったイエス・キリストのゆえにあふれ出るほどの命の水をいただきます。


マルコによる福音書15章33~41節

2019-09-08 13:24:52 | マルコによる福音書

2019年3月31日 大阪東教会主日礼拝説教 見捨てられたイエス吉浦玲子

<イエスは弱音を吐かれたのか>

 十字架の上の主イエス・キリストの7つの言葉から聞いています。今日の言葉は「エロイ、エロイ、レマ、サバキタニ」です。イエス・キリストは十字架の上で「エロイ、エロイ、レマ、サバキタニ」と叫ばれました。意味としては「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」ということです。当時、イスラエルでは旧約聖書で主として使われていたヘブライ語ではなく、アラム語が使われていたと言われます。そのアラム語の響きがそのまま聖書に記されているのです。新約聖書はギリシャ語で記されていますが、ここは実際のイエス様の叫び声がその音のまま記されていると言えるでしょう。

 まさに主イエスが叫ばれたこのとき、キリストはたしかに父なる神に見捨てられたのです。そもそも、天地創造をなさった父なる神に見捨てられることが、この世界でもっとも恐ろしいことであることを、誰よりもご存じであったのはイエス・キリストでした。いつも父なる神との豊かな交わりのなかで生きてこられた主イエスにとって、父なる神との断絶の苦しみを誰よりもご存知でした。その苦しみを誰もよりも知っておられる他ならぬイエス・キリストご自身が父なる神から見捨てられた、それが十字架の出来事でした。

 あるクリスチャンの小説家はこの場面のイエス・キリストに少しがっかりしたとエッセイに書いていました。その方はイエス様が十字架の上で弱音を吐かれるような場面をできれば読みたくなかったと書いていました。イエス様に雄々しく最後まであってほしかったと書いていました。その小説家の書かれた小説やエッセイでキリスト教に興味を持ち、信仰に入った人も多いのですが、私はその小説家のこの場面への感想についてはイエス・キリストの十字架の出来事への理解が間違っていると思います。この場面ではキリストが十字架の上で死を前にして単なる弱音を吐かれたのではないのです。この聖書箇所はいまだかつて人間の中で誰も経験をしたことのない、父なる神の裁き、神の呪いをイエス・キリストご自身がお受けになる、その場面です。そのとき、「エロイ、エロイ、レマ、サバキタニ」と主イエスは叫ばれたのです。誰一人として、その叫びを叫ぶ体験をこれまでしてこなかったのです。もちろんローマ帝国の刑罰としての十字架刑は多くの犯罪者が受けたでしょう。しかし神との決定的な断絶、神の裁き、神の呪いを受けられたのはイエス・キリストお一人でした。

<裁きの闇>

 ところで「全地は暗くなり」とあります。これは旧約聖書のアモス書から来ています。「その日が来ると、主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇とする。わたしはお前たちの祭りを悲しみに、喜びの歌をことごとく嘆きの歌に変え、どの腰にも粗布をまとわせ、どの頭の髪の毛もそり落とさせ、独り子を亡くしたような悲しみを与え、その最期を苦悩に満ちた日とする」(アモス8:9‐10)。これは裁きのことが書かれているのです。そのように真昼に全地が暗くなるというのはまさに神の呪い、怒りの時、裁きの時であることを示すものです。その不気味な闇は昼の12時から3時まで続いたとあります。主イエスは十字架にありました。朝の九時から手と足を釘で打ち付けられ、12時を過ぎ3時まで、6時間にわたる、痛みと出血と衰弱、呼吸が圧迫される苦しみが長く続きました。その6時間を経て、死の直前に主イエスは「エロイ、エロイ、レマ、サバキタニ」と叫ばれました。この言葉は詩編22編の言葉でありました。この詩編は最初は、まさに神に見捨てられた絶望のうめきで始まります。しかし、詩編22編を読み進んでいきますと、最後は神への賛美で終わります。ですから、主イエスは十字架の上で、詩編22編を声にお出しになり、最後は神を賛美なさっていた、つまりここで主イエスは嘆いて弱音を吐いておられたわけではなく神への信頼の言葉をおっしゃっていたのだという解釈も成り立ちます。

 しかし、「エロイ、エロイ、レマ、サバキタニ」という叫びはその時の主イエスの真実な叫びでありました。まことの嘆きの言葉でした。神の裁きの闇の中で、決定的な神との断絶、神の呪いをお受けになる苦しみの叫びでした。そしてその叫びは私たちが叫ぶ叫びでありました。私たちは、神に背く罪人でありながら、神から完全に切り離される、神から見捨てられるまことの恐ろしさを知らぬ者です。私たちの罪の行く末が、本来は神から完全に切り捨てられる、永遠の虚無に向かう出来事であることを知りません。ことに日本では、人間は死んだら神羅万象の中に還っていくような思想があります。しかし、罪人の死は、決定的な神との断絶なのです。太陽の光も失せる暗闇の中に、絶望の中に死ぬのです。その恐ろしさを想像できないので、ともすればこのイエス・キリストの叫びを死を前にして弱音を吐いている人間の言葉であると感じます。堂々と死をおそれず最期を迎えた偉人は歴史上、古今東西たしかに存在します。それらの人々に比べれば、たしかに情けない、みじめな叫び声に聞こえます。しかし、これは本来私たちが叫ぶ叫び声でありました。

<私たちの嘆き>

 ところで、わたしはこの叫びの言葉は信仰を持つより前、10年以上宇前から言葉としては知っていました。「エロイ・エロイ・ラマサバクタニ」という呪文のような言葉を知っていました。高安国世という、かつて京大のドイツ文学の教授であり、また歌人として著名な方の若いころの短歌の中で知っていたのです。「エリ、エリ、ラマサバクタニと呼びしとき空より声の来たることなし」という短歌でした。この短歌を作った当時、高安国世はまだ教授ではなく、貧しい研究者で下。病弱で、妻子を抱え困窮をしていました。彼はクリスチャンではなかったと思われますが、キリスト教国であるドイツの文学を研究していたので、聖書の言葉も良く知っていたのでしょう。「エリ、エリ、ラマサバクタニと呼びしとき空より声の来ることなし」という言葉には深い嘆きがあります。病の中で困窮し、妻や子供を抱えて厳しい日々を送っているその中で、どこかから救いなどは来ない、空から声などこないという深い嘆きがここにあります。

 高安国世の嘆きは、戦中戦後の貧しい時代の日本人の共通した嘆きでもありました。働いても働いても楽にならない、貧しく、いつもお腹をすかせ、病を得て、苦しみの中にいる人々の嘆きでした。けっして空から救いの声など来ないのだと人々は嘆いたのです。困窮の中で死に物狂いで自分の力で抜け出していくしかない、そのような嘆きでした。それは言ってみれば、神も仏もない、というような嘆きの言葉でした。ここにはたしかに人間の嘆きの真実があります。このような嘆きは戦中戦後より経済的には豊かといえる現代にはないでしょうか。もちろんそうではないとみなさんもお感じになっているのではないかと思います。現代においてはむしろもっと表に出てこないところでの嘆きがあるのではないかと思います。ブラックな職場、いじめ、パワハラ、虐待、もう人々は嘆くことすらできない状況の中で、現代は声を上げられない声なき嘆きの時代であるといえます。昔、コンピュータのシステム開発をしていたころ、まさにブラックな職場で、深夜2時3時まで残業をしていました。その深夜に、若いエンジニアが言うのです。「血でも吐いたらゆるしてくれるかな。仕事やめられるかな」というのです。血を吐こうが家庭が崩壊しようがゆるされない厳しい現実があり、そこでは嘆くこともできない苦しみがあります。

<主イエスだけの嘆き>

しかし、時代の中で、あるいは恵まれない環境の中で嘆く人間の嘆き、声に出すこともできない嘆きも含めて、そういった人間の嘆きと、十字架の上のイエス・キリストの嘆きはまったく質的に異なります。時代が悪い、運が悪い、環境が悪い、政治が悪いと自分の身の上を嘆く言葉と、イエス・キリストの十字架の上の嘆きは質的にまったく異なります。「罪」と言うものを捉えているか否かの大きな違いがあるのです。イエス・キリストはもちろん罪なきお方です。しかし、私たち人間の罪のゆえに神の呪いを受けられました。太陽の光のない闇の中で神から見捨てられました。人間の罪のゆえに神から見捨てられた嘆きでありました。それは私たちが本来は嘆かねばならない嘆きでありました。最初に言いましたようにある小説家が情けないと書いていましたが、その情けない嘆きをすべきは私たちであったのです。しかし、私たちが嘆くべき、神から見捨てられる嘆きをイエス・キリストが嘆いてくださいました。

 その絶望の嘆きの中で主イエスは息を引き取られました。それまでどの人間も経験したことのない絶望の中でイエス・キリストは死なれたのです。「エロイ、エロイ、ラマサバクタニ」という言葉の響きが「エリヤ」という響きに似ていたからでしょうか、人々は「エリヤを呼んでいる」とか「エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いました。しかし、エリヤは来ることはありませんでした。見物人の目には、最後までイエス・キリストはみじめなお姿で、弱弱しく、神になぜわたしをお見捨てになったのですかと嘆いて亡くなった<自称救い主>であったのです。

<新しい時代>

 さて「イエスは、大声を出して息を引き取られた」とあります。さらに「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と続きます。これは神殿の至聖所を隔てる幕が裂けたということです。大祭司が年に一回、罪の贖いのために入っていく至聖所の幕が裂けたのです。この垂れ幕はかなり頑丈な幕であったようです。厚みが10センチほどもあり、両脇から馬がそれぞれ引っ張ても破れないようなものだったとも言われます。その幕が裂けたのです。それも高さ20メートルほどもある幕が上から下に裂けたのです。下からであれば、なんらかの人為的な力がかかったとも考えられなくもないですが、上から、というのはまさに神の力によって裂けたといえます。至聖所と人々を隔てていた分厚い幕が裂けたのです。ここは原語では「裂かれた」という受け身の表現になっています。まさに上から、神の力によって裂かれたのです。それは罪の贖いの業がまさに完了したということを指します。つまり、もう大祭司による贖罪の業が不要になったということです。イエス・キリストの十字架による完全な罪の贖いの業がなされたからです。

 キリストが深い嘆きを嘆いてくださっていたゆえに、私たちの嘆きべき嘆きを嘆いてくださったゆえに幕は上から下に裂けました。隠されていた至聖所があらわになりました。私たちに隠されていたものが開かれたのです。救いへの扉が開かれました。キリストが神と完全に断絶する嘆きを嘆ききってくださったゆえに、「空より声の来ることなし」ではなく幕は空の方から上から裂けたのです。まさに新しい時代の幕開けとして裂けたのです。

 人間の嘆きとイエス・キリストの十字架の上の嘆きは異なると申しました。しかしまた私たちはイエス・キリストが徹底的に嘆いてくださったゆえに、本当に嘆くことができるようになったのです。真実の嘆きを私たちも嘆くことができるようになったのです。空から声が来ることない、そのようなむなしい嘆きではなく、はっきりと、空に向かって、天におられる方に向かって嘆くことができるようになりました。私たちの嘆きはむなしく虚空に消えることはありません。どのような嘆きもキリストが十字架において完全に嘆いてくださったゆえに、神の前に差し出すことができるようになりました。運が悪い、環境が悪い、不条理な目にあった、そんな私たちの嘆きの、どんな一つ一つすらも、むなしくはなりません。さらに、私たちの罪ゆえに、ある意味、自業自得と思える苦しみであっても、私たちは嘆くことができます。誰にぶつけることもできない嘆きをもたしかに受け止めてくださる方がおられます。ですから私たちはどのようなときでも立ち上がっていくことができます。嘆くことができるというのは私たちの命を底支えしてくれるものです。私たちはむなしいもののうちにずぶずぶと沈んでいくのではありません。十字架にかかってくださり陰府にまで下ってくださったお方が私たちを下から支えてくださいます。ですから安心して嘆くことができます。真実の嘆きを嘆くことができるからこそ、喜びの日には心からの喜びを喜ぶことができるのです。