大阪東教会礼拝説教ブログ

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ローマの信徒への手紙13章1~10節

2018-01-15 19:00:00 | ローマの信徒への手紙

大阪東教会 2018年1月14日 主日礼拝説教 「愛の義務」 吉浦玲子

<権力とキリスト者>

 私たちの本国は天にあります。私たちの本籍は御国にあります、そう私たちキリスト者は信じているのです。キリストを信じて歩むとき、この地上では寄留者、旅人となります。私たちの心の半分はすでにキリストが父なる神の右に座しておられる天と結ばれており、私たちは、この地上を歩むときどこかよそ者のような気持ちになります。

 逆に私たちがこの世だけを見て、この世の原理の中だけで生きているならば、それはキリスト者の歩みとは言えません。パウロは、この世において「上に立つ権威に従うべきです」と言っています。これはこの世の支配者、権威から迫害されてきたパウロが語る言葉だと思うと不思議な気がします。これは、この世ではこの世に従ってうまく世渡りをしながら、信仰は信仰で別物として守りなさい、ということではもちろんありません。

 どのようなこの世の権威であっても、神の権威の元にあるという聖書の考え方が根底にあるのです。旧約聖書においてもそうでした。イスラエルの王は、優れた王であれ、悪性を行った王であれ、神から権威を委託されたものでした。さらにいえば、イスラエルを裁くために、異国の王すら神は用いてイスラエルを打たれ、逆に国が亡びバビロンに捕囚になっていた民を解放するために異邦のペルシャ王キュロスを用いることもありました。

 そもそも、主イエスは、この世の権力と戦われませんでした。だからといって、もちろん、迎合したり媚びたりもされませんでした。結果的に、主イエスは、たしかに律法学者、当時の議会であるサンヘドリンといった当時の権威を敵に回しました。しかし、それは当時の権威に対して反発をしたわけではなく、律法の誤った解釈、愛の欠けた行為を批判されたのです。議会を倒そうとか、領主ヘロデを倒そうとか、ローマと戦おうとしたわけではありません。

 主イエスと権力を象徴する有名な話があります。「カエサルのものはカエサルに」あるいは「皇帝のものは皇帝に」という言葉を聞かれたことがありますでしょうか?以前、マタイによる福音書をお読みしていた時、読んだ言葉です。マタイによる福音書の22章21節にあります。主イエスを陥れようとした権力者の手先たちが、わざとイエスさまに謎を掛けられます。それは「皇帝に税金を払うべきですか?」という問いでした。皇帝とは当時イスラエルを支配していたローマの皇帝のことです。「税金を払うべきか」と言われると、現代的な感覚で言えば、当然、払うと言うのがもっともな答えのように感じます。しかし、当時の状況のなかで、これは答え難い質問でした。それがわかっていて権力者たちはあえて主イエスに問うたのです。この税金はイスラエルを支配していたローマへの人頭税でした。これはイスラエルの人々をたいへん苦しめる税金でした。ことに貧しい人には大きな負担となる税でした。ですから、「払うべきだ」と答えると、多くの民衆が主イエスへの怒りを現わすことになります。それまで社会的に弱い立場の人々に人気があった主イエスがその民衆を敵に回してしまうことになります。一方で、「払うべきでない」と言えば、今度はローマへの反逆者として訴えられます。どう答えても、主イエスは追いつめられることになるという意地悪な質問でした。その主イエスは税金を納めるために用いる銀貨をもってこさせ逆に問われました。銀貨に刻印されている肖像と銘について「これはだれのものか?」と問われたのです。その納税用の銀貨には、皇帝ティベリウスの肖像が記され、さらに「いと高き神の子、皇帝にして大祭司なるティベリウス」と記されていたのです。つまり皇帝を神の権威に置くという言葉でした。主イエスから肖像と銘は誰のものかと問われた人は「皇帝のものです」と答えました。その答えを聞かれた主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とおっしゃいました。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」という言葉は、この世のことと、神のことを分離して、それぞれ大事にしなさいと言う言葉ではありません。あくまでも重きは後半の「神のものは神に返しなさい」にあります。

 当時のローマ皇帝はたしかに世界の覇者でした。自分を神として崇めろと言うくらいの権力者でした。しかし、その皇帝すら、神のご支配のもとにあり、最も大事なことは神のものを神のものとするということです。神の栄光を人間のものとしてはならない、神に帰すべきものは神に返し、その神のご支配の中にある権力である皇帝に対しても従って行くのだと主イエスは答えられたのです。

<暴君にも従うのか?>

 しかし、今日の聖書箇所のパウロの実に単純明快な「上に立つ権威には従うべきです」という言葉にはやはり疑問もわきます。たとえばヒトラーのような権力者にも従うのかという問題があります。あきらかに不正や腐敗のある権力にも従うのでしょうか。国家や政治レベルの話ではなくても、身の回りにいるパワーハラスメントをする上司にも従うのか、社会倫理に反する活動をする職場にも従うのかという問題があります。聖書の中でも、たとえば先週共にお読みしました主イエスに洗礼を授けた洗礼者ヨハネは、ヘロデ王の不正を指摘したため、投獄され殺されました。洗礼者ヨハネはヘロデ王に従うべきだったのでしょうか?

 ただ一つふまえておかねばならないことは、パウロの時代は現代と政治や権力のあり方が違うということです。近代以降のまがりなりにも国民一人一人に主権が与えられている国家の権力のあり方とパウロの時代のローマ帝国とは話が違うということです。しかしだからといって、自分自身、ローマ帝国の役人から不条理な鞭打ちを経験したことのあるパウロが単純に、上に立つ権威に従えといっているわけではありません。

 神学者のカール・バルトは、ここで言われている「従う」と言うことは、盲目的服従ではないと、解説をしています。バルトは第二次世界大戦の時、ドイツの教会を支配しようとしたヒトラーに対抗した告白教会のグループのリーダーでした。ナチスに対抗するバルメン宣言を中心になって作成したのがバルトでした。もちろん当時の状況は単純ではなく、バルトたちのグループだけがナチスと戦った正義のヒーローで、それ以外は間違っていたとは割り切れないところもあります。しかし、そのバルメン宣言の第一のテーゼというのには「聖書においてわれわれに証しされているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である」つまり私たちの依るべきところはイエス・キリストにみである、ということが宣言されています。そしてさらに続きます、「またそれと並んで、さらに他の出来事や力、現象や真理を、神の啓示として承認しうるとか、承認しなければならないとかいう誤った教えを、われわれは退ける」とも宣言しています。つまり、イエス・キリストを越える権威はない、ということを言っているのです。つまりイエス・キリストの権威を越える権力の横暴はゆるさないということです。これは「皇帝のものは皇帝へ、神のものは神のものへ」という主イエスの言葉とも、「上に立つ権威に従え」というパウロの言葉と矛盾はしていません。神の権威は神のものであり、その権威のもとにある限りにおいて、この世の権威に従うと言うことです。逆に神の権威への越権はゆるさないということがバルメン宣言では宣言されているのです。

 パウロ自身、迫害を体験しながらも、この世の権力というものを絶対的なものだとは全く思っていませんでした。「権威者は、あなたに善をおこなわせるために、神に仕える者なのです」とパウロは言っています。たとえ皇帝であって神のご計画の中で神に仕える神の僕に過ぎない、だから従ってやろうではないかと言っているのです。それは皮肉や負け惜しみで言っているのではありません。本当に恐るべきお方は神であり、本当に恐るべきものは神の裁きだとパウロは考えているからです。その神のご支配のもとで、この世の権を含め、すべてのことを、善をおこなう契機としてとらえようと言っているのです。

 7節には、貢を納め、税を納め、恐れすら支払い、敬ってもやりなさいとパウロはいっていますが、これはむしろ余裕の言葉なのです。皇帝のものは皇帝に返してやりなさい、そのくらいやってやってもいいだろう。そうパウロは言っているのです。「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい」という言葉は「すべての人々に借りが残らないように支払ってしまいなさい」という意味です。皇帝のものは皇帝に、皇帝に借りを残してはいけない、この世の上に立つ者にも借りを残してはいけない、そうパウロは語っています。

<神の権威の元の隣人愛>

 さらに「互いに愛し合うということのほかは、誰に対しても借りがあってはなりません」という言葉があります。これは「すべての人々に自分の義務を果たしなさい」、つまり「すべての人々に借りが残らないようにしなさい」という言葉と響き合う言葉です。

 さらっと読むと、この世の権威の話から唐突に隣人愛の話に変わっているようでとまどうのですが、上に立つ権威に従うという義務を果たすことよりも困難なことが私たちにはあるということをパウロは語っています。皇帝のものを皇帝に返す、皇帝に対して借りは造らないようにすることは私たちにはできても、私たちにはそもそも大きな借りがあることをパウロは語っています。私たちには返しきれない借りがあります。

 私たちには愛の借金があるのです。大きな大きな借りがすでにあります。

 キリストの十字架において示された愛に対して借りがあるのです。キリストは私たちの罪を贖われました。贖いという言葉は文字通り、借金を代わりに支払うということです。聖書の時代でいえば、借金のために身売りをした奴隷を買い戻すということです。罪のために奴隷となっていた私たちのためにキリストは十字架にご自分を捧げられました。御自分の肉と血によってわたしたちの罪の贖いをされました。キリストの命によって私たちは贖われました。私たちはキリストに支払いきれない愛の負債を負っています。

 上に立つ権威に対しては借りを造らないようにできても、私たちには永遠の愛の負債が残っています。私たちは、とんでもない金額の愛の負債を負っている、そのことを聖霊によって、ほんとうに理解するとき、私たちは少しずつ、隣人を愛することができるようになります。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」という言葉は、十戒にある言葉です。この掟の字面だけみると、厳しい戒めであって、愛という言葉から遠いように感じます。しかし、年末の説教で出エジプト記から少し十戒について触れましたときにも語りましたが。十戒はは前半が神への愛について記されているのに対して、後半にある「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」は隣人への愛を示しています。パウロもこの言葉について「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されますと語っています。愛はただ情感的なことではありません。なんとなく仲良くすることではありません。愛は愛の実践を伴うものです。愛するということは端的に相手に善をなすことです。

 権力者に対して、善をなしなさいとパウロは語りました。同様に、隣人に対しても私たちは悪ではなく、善をなすのです。しかし、権力者に従うことよりも隣人と愛し合うことの方が私たちにははるかに難しいのです。

 私たちはすべてを捧げて、私たちのために善をなしてくださったキリストへの愛の借金を返すことができません。そして自分たちの現実を見る時、隣人とも愛し合うことがなかなかできないのではないでしょうか。ごく身近な人に対しても、いえ、時には身近な人であるがゆえに十分に愛することができない自分であることを思います。そう思ううとき、私たちの愛の借金は日々増えているように感じます。私たちは地上を去るその日までその借金を増やしていくかもしれません。だからこそ私たちは祈り求めます。愛する者と私たちを変えてくださるように祈り求めます。そのとき神のご支配の中にある私たちは愛をまっとうすることができます。愛の律法をまっとうすることができます。


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