日記

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当ブログについて

2024年05月11日 | ブログ

当ブログについて 当ブログは、公開、非公開を管理人の意思において定期的に行っております。

公開、非公開はカテゴリー別において管理しています。 そのため、公開も一部のみの限定公開となることが多いです。

あしからずご了承下さいませ。現在、ご質問等の個別の対応は控えさせて頂いております。

どうぞ宜しくお願い申し上げます。  管理人 拝


叡尊(興正菩薩)と枚岡神社 元寇降伏祈願法会 蒙古襲来・元寇 全国寺社へ降伏祈願・鎮護国家法会を勅命 2024年5月11日

2024年05月11日 | ブログ
1274年~1275年には全国の寺社で宗旨宗派関係なく、元寇降伏祈願法会が開催されていたのでしょう。

叡尊(興正菩薩)と枚岡神社 元寇降伏祈願法会 蒙古襲来・元寇 全国寺社へ降伏祈願・鎮護国家法会を勅命 2024年5月11日
https://youtu.be/LsKjS2uDLj4?feature=shared


往生院と修験道 往生院と陰陽道 妙見菩薩像・八臂弁財天像 土御門家と額田歴代組 金剛生駒山系・生駒山・岩瀧山 役行者 不動明王 2024年5月10日

2024年05月10日 | ブログ
土御門家と勘解由小路家。双方の明暗が分かれた拙仮説として、南北朝の争いにその要因があったとみています。八咫烏陰陽道と美作後南朝。少し止まっていますが、早く美作後南朝も再考察を再開したいですね。

往生院と修験道 往生院と陰陽道 妙見菩薩像・八臂弁財天像 土御門家と額田歴代組 金剛生駒山系・生駒山・岩瀧山 役行者 不動明王 2024年5月10日
https://youtu.be/WD1ii0u1SmI?feature=shared


勧学・司教有志の会 声明(七の四)に思ふ

2024年05月10日 | ブログ
結局、声明七も的外れなままに終ってしまったか、、残念。まあ、あまり期待もしていなかったけども、、



いまさらに、「空」、「縁起」、「無分別」をめぐる解釈の誤用については書くまでもないと思っていたが、要は「新しい領解文」問題も根っこの部分にあるのは、これである。

有志の会が、声明七(まだ途中)にて、くだんの問題論文のことと併せて、「私の煩悩と仏のさとりは 本来一つゆえ」の間違いについて、「仏願の生起本末」の観点からの反論をされているが、本質的な問題はそこではなく、明らかな「空」、「縁起」、「無分別」の誤用にあるのである。

どうしてこの点をもっとダイレクトに指摘されないのかが不思議なのである。

もちろん、従前より親鸞思想・浄土真宗教学において最も弱いのが、空思想、中観思想であります。もっとも、元々は世親、曇鸞、道綽、善導と空思想、中観思想を扱わなかったというわけではないものの、その比重は明らかに軽くなっていくことになりました。

これにはもちろん大きな理由があり、般若の智慧、空性の悟りは、自力聖道門における修行の力により獲得していくものであるとして、非常に難解で困難を極める空性の智慧を求むることは、凡夫愚鈍なる者の救いの道にはならないとして否定していくことになるからであります。他力浄土門へといっそうに傾斜していくことになるわけであります。

そのため、「空」、「縁起」、「無分別」に関しての議論も必要なく、彌陀本願の勅命、本願招喚の勅命へ向かって、いかにあるべきかということに教義的な主眼がおかれることになっていったわけであります。

このため、当然に弱いのは仕方がないのですが、それなりに仏教の基本、基礎も学び、大学でも教授クラスにあるとされている勧学(しかも与奪者)でも、まさかの誤用を擁護するという愚挙には、開いた口が塞がらないということであるわけです。

極論ではなく、悪取空見による慈悲殺生、利他殺生の容認とも似たような論理を述べることになっているのであります。

それは、「一切は空、無分別であるのだから、何をしてもそれは善悪の分別も関係なく許容されるものとなる」ということであります。要は、「仏も凡夫も、また仏の行為も、凡夫の行為も、その全ては空であり、無分別であり、善悪もなく、同じである」という、このようなことを述べているのが、「新しい領解文」であり、満井論文であるというわけなのであります。

有志の会は、この点をもっと問題にしないといけないと思うのであります。
・・
先に示した満井秀城勧学(与奪者)の改悔批判における

『「私の煩悩と仏のさとりは本来ひとつ」は、生死即涅槃の法義です。仏智見から見れば自他一如として、仏と衆生と隔てるものはありません。それを凡夫の分別心が両者を隔絶してしまうのです。』

の主張に対しての拙反論のあれだけで、もう十分にお腹いっぱいという感じでもある。。

要は、論文における下記に対して反論するだけで、もう十分ということである。

『・・これを私は約仏の視点として説明して来た。約仏の視点としての「生死即涅槃」とは、仏の眼からご覧になれば「自他一如」として、仏と衆生との間には、何も隔てるものはない。相手のいのちに自らのいのちを見るのが、仏知見というもので、仏の無分別智から見れば、仏と衆生とは隔絶していない。それを衆生の側が、凡夫の妄分別によって生仏を隔絶して捉えてしまうのである。・・』(『なぜ「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」なのか』満井秀城・序論より)

主張したい、正論としたいのは、この点なのである。

もちろん、間違っているし、トンチンカンな主張である。

それは、前回に拙生が述べてあるとおりである。

[・・仏智見は、単純に、自他一如と観るわけではない。仏智見とは、一切は空性として如実に直観知する仏陀による見方のことである。確かに、空性としては、一切、自他共に一如ではある。つまり、悟りも煩悩も当然に空性を本質としているということは同じではあるが、それで、悟りと煩悩が同じとはもちろん言えないのである。はたらきがまるで違うし、煩悩があるならば、まず迷い苦しみは無くならないし、空性を了解すること自体も、そもそも難しいのである。また、凡夫の分別心が、悟りと煩悩を分けるわけではない。悟りと煩悩を分けるのは、空性了解の有無である。空性了解できていない凡夫が、悟りの状態にあるなどとはもちろん言えないのである。更に、悟りは無分別ではない。悟った仏陀は、如実知と如量知にて、空性了解から世俗の煩悩による迷い苦しみのありようもご覧になられるのである。空性了解のない凡夫煩悩からではもちろんそんな見方も無理なのである。正確に述べるのであれば、無分別なのは、空性として離戯論であるということを示している事態であり、世俗、凡夫、煩悩のある立場からでは、それも真に理解することも無理なのである。空性を本質としてあること以外に悟りと煩悩が同じなわけなど全くないのである。・・]


勧学・司教有志の会 声明(七の四)
     ー総合研究所冊子の問題点ー  
衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
『教行信証』「信文類」(『註釈版』二五一頁)
【問題三】 本論において、多くの先学の文章を掲げているが、いずれも前後の文脈を無視したきわめて恣意的な引用となっており、読者に誤解を与えている点
 これまで述べてきたように、冊子の序論における解説は宗義として成り立たないが、続く本論では、先学の文章をその論述意図を無視して引用するなど、学問的にも道義的にも問題があり、このような冊子が本願寺派総合研究所の名で出されたことに、深い失望の念を禁じえない。
 本願寺派の研究所は、これまで宗門内外から高い評価を得てきた。特に聖教の編纂においてはデータの集積から研究・出版に至るまで、重厚かつ緻密な業績を積み重ねてきた機関である。しかし、このたびの冊子は、全体にわたって辻褄合わせの説明に終始しており、その説明を正当化するために聖教の文を扱い、さらには先学の文章までも都合のいいように恣意的に引用している。これは研究所の名を貶めるばかりではなく、本願寺派の教学への信頼を失墜させるものであり、ひいてはご本山やご門主さまのお立場をも傷つけるものである。そして引用された先学の方々に教えを受けた人々が強い憤りを覚えていることを、この冊子を制作した責任者である総合研究所所長(当時)の満井秀城氏は知っておくべきである。
 そこで本声明では、主に本論「はじめに」における村上速水和上の文章の引用、そして本論後半における梯實圓和上の講義録の引用のあり方について大きな問題があることを指摘し、逐一の引用における問題点については「附論」において論じることとする。
 まず「はじめに」のなかで引用された村上速水和上の文章について、文脈を無視した切り取りがなされていることに言及しておきたい。冊子に引用された村上和上の文章では、真実の智慧によって実相が知られるならば、同時に現実が虚妄であることも知られるとし、「現実の虚妄相を認知すればこれを憐愍せざるを得ない」として、その根拠に『往生論註』善巧摂化章が挙げられている。前後も含めた引用元の村上和上の文章は、本声明(七の三)で述べたものと同様に、衆生の虚妄を知ることをもって、阿弥陀仏の慈悲の生じている直接かつ根本の理由とするものであることは明白である。けっして一如平等とみる智慧のみをもって、慈悲の生起を語られたものではない。むしろ引用箇所の直後には「迷悟の差別宛然たるところに救済の悲願が起る因由があり」と明確に述べられている。
 にもかかわらず冊子では、こうした前後の文脈をまったく無視して、あたかも村上和上が「〈煩悩菩提体無二〉という真実の智慧に基づく阿弥陀如来のお慈悲」を述べているかのように断定し、「本来一つゆえ」の一行の正当性を示す文章とするのである。あまりに恣意的に過ぎ、これは端的にいって、引用ではなく利用である。このような手法は「はじめに」だけではなく本論全体にわたって見られ、学問的にも道義的にも問題があると言わざるをえない。
 次に、本論後半において、梯實圓和上の講義録をことさらに「最晩年のもの」と断りつつ、きわめて恣意的に切り取っていることを指摘しておきたい。梯和上の講義内容は、無分別智によって感得される一如の領域について語られたものであり、「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」の一行とはまったく関係がない。むしろ引用箇所の直後からは、一如平等とみる無分別智ではなく、万法の差別を見通して言葉をもってはたらきかける「無分別後得智」という仏智の側面(清浄なる分別智)の重要性について語られており、阿弥陀仏の名号をその「〈無分別後得智〉の現れ」として講義を結ばれている。したがって、けっして本来一如だから阿弥陀仏の救済が成立するなどと講義されてはいないのであり、冊子は梯和上の講述意図をまったく無視している。先学の言葉を単なる権威として利用するこのような手法は、研究者として恥ずべき行為である。
 このような手法は、それだけでも許されないものであるが、その上で、冊子の結論では「本来一つゆえ」の一行について、「序論でも述べたように議論の余地はない」と断定している。もはや暴論というほかないが、この「議論の余地はない」についても、序論では、
「私の煩悩と仏のさとりは本来一つ」の部分については議論の余地はまったくない。
と述べていながら、結論では、
あらためて言いうることは「私の煩悩と仏のさとりは本来一つゆえ」の一行は、…中略…序論でも述べたように議論の余地はないといえる。
と述べており、序論にはない「ゆえ」という理由句を加えることで、あたかも「本来一つ」が阿弥陀仏の慈悲の起こる理由として問題ないかのように、論点をすり替えている。冊子のいたるところに見られるこのようなごまかしにも、私たちは惑わされてはならない。
 以上、この冊子は制作意図からして浄土真宗の根本的立場を無視しており、その内容についても、辻褄合わせの説明のために聖教の文を扱い、自らの主張を正当化するために先学の文章までも恣意的に利用し、さらに論点のすり替えを行って「議論の余地はない」と一方的に結論している。学問的にも道義的にも問題のあるこのような冊子を宗門の全寺院に送付して、各地の僧侶・門信徒の方々の憤りの声を封じ込め、悲しみの声を無視するのであれば、それはもはや同朋教団のあり方とは言えないであろう。
 冊子を制作した責任者である満井氏は、学階「勧学」有階者である。およそ勧学・司教は、ご法義を護ることにおいて、ご本山そしてご門主さまを護っていく。勧学・司教にとって、ご法義を護ること以外に、ご本山・ご門主さまを護る術(すべ)はないことを、心に刻んでいただきたい。
 最後に、この声明文は本願寺派の勧学・司教有志により発するものであるが、その「志」(こころざし)とは、ご法義を尊び、お念仏を大切にする僧侶と門信徒の同朋同行と共に、ご門主さまを大切に思う、愛山護法の志であることはいうまでもない。
二〇二四年 五月 九日
    浄土真宗本願寺派 勧学・司教有志の会
        代表 深川 宣暢(勧学)
           森田 眞円(勧学)
           普賢 保之(勧学)
           宇野 惠教(勧学)
           内藤 昭文(司教)
           安藤 光慈(司教)
           楠  淳證(司教)
           佐々木義英(司教)
           東光 爾英(司教)
           殿内  恒(司教)
           武田  晋(司教)
           藤丸  要(司教)
           能仁 正顕(司教)
           松尾 宣昭(司教)
           福井 智行(司教)
           井上 善幸(司教)
           藤田 祥道(司教)
           武田 一真(司教)
           井上 見淳(司教)
                 他数名

河内・浄土院跡へ 瓦の散在状況の確認と記録 東大阪市横小路町 2024年5月9日

2024年05月09日 | ブログ
再度、浄土院跡へと赴きまして、現況を記録しておきました。

河内・浄土院跡へ 瓦の散在状況の確認と記録 東大阪市横小路町 2024年5月9日
https://youtu.be/vg_0Olg-xNk?feature=shared