ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

志波姫神社(築館志波姫八樟)

2012年02月13日 21時56分56秒 | 宮城の散歩道(仙台を除く)
そもそも志波姫神社が気になったのは、鹽竈神社に志波彦神社があり、それに対象する志波姫神社が何故この地にあるのか? それが最初だった。
しかし、結論はまだ見出していない。
実は、志波姫神社は〔栗原市築館志波姫八樟〕・〔高清水五輪〕・〔古川桜ノ目〕・〔高清水:皇大神社〕などがありました。 これは順次UPします。
町名にもなった志波姫神社ですが、どのような経緯があったのでしょう。

志波姫神社
式内社 陸奥國栗原郡 志波姫神社 名神大 (旧村社)

御祭神:木花開耶姫命  

倉稻魂命・應神天皇・素盞嗚尊・菊理姫命・伊弉册命・大日靈命・軻遇突智命・倭姫命 




ここでは、境内にある案内板も由緒をご紹介します。

由 緒
志波姫神社は、木花開耶姫命を祀る延喜式神明帳栗原七座の内の大社にして、人皇第四十五代聖武天皇の神亀天平年間の創建といわれ、延暦年間(796~801)に坂上田村麻呂東征の際、武運長久と五穀豊饒を祈願したと伝えられる。
社はもと伊豆野権現社と稱し、築館の町裏玄光に鎮座されていたが、正保年中に祝融の災に罹り、社殿のすべてが烏有に帰し、其の後再建されることなく伊豆大権現の石宮を祀るのみであった。

寛永十六年(1639)伊達第二代藩主忠宗公は、※家臣古内主膳重廣に伊豆野原の野谷地を賜り、その開拓を命ぜられた。
伊豆野原を拝領した古内主膳は、伊達藩の土木技術者であった川村孫兵衛元吉に伊豆野原開拓工事の設計を依頼、正保元年(1644)工事に着手、三年の難工事の末、伊豆野堰の完成をみた。伊豆野堰開削によって、伊豆野原開拓に成功した領主古内主膳は、明暦三年(1658)に至って社殿を造営し、水下十五ヶ村の守護神として此の地に遷座した。

明治二十二年四月、市町村制の施行により、姫郷村、白幡村、梅崎村の三ヶ村を合併し、この由緒ある社名を唱えて志波姫村とした。 町名ゆかりの神社である。

平成四年十月二十七日、志波姫神社本殿(素木造・一間社流れ造り・目板葺)が江戸時代初期の建築様式を伝えるものとして、宮城県指定有形文化財に指定された。


※古内主膳
古内重広 ふるうち-しげひろ
1589-1658 江戸時代前期の武士。
天正(てんしょう)17年生まれ。国分盛重の子。陸奥(むつ)仙台藩士古内実綱(さねつな)の養子。藩主伊達忠宗(ただむね)の信任をえて奉行にすすみ,1万6000石を領した。明暦4年7月12日忠宗が死去すると,即日殉死した。70歳。通称は主膳。


志波姫神社についての補足説明は「資料編」にあります。http://sanpomichi114.blog119.fc2.com/blog-entry-1.html

資料編には、志波姫は岐神であり道祖神を表すこと。また、今も庭渡(ニハタリ)の権現とて祭る者、即是なり。とあり、古事記は、波比岐神をも、大年神の子とす。
そして、志波姫とは、八衢比売にあたり、やがて道祖神に同じ。中世以来、道路衢神と呼ばれし岐神も、これに外ならずといふ。論は、宮城郡志波彦神社址の下に詳にしたり

やっと志波彦神社との関係を見つけました。
興味のある方はご覧下さい。


 

鳥居をくぐると杉並の参道が真っ直ぐあった。



第二の鳥居





拝殿にも立派な狛犬が・・・出雲型と言われるものですね。








昭和43年(1968)建立



舞殿でしょうか?




本殿は鞘殿に保護されている。








金田明神
この石宮は、元禄十二年九月十八日與兵衛、権内と山伏の室鏡院が無実の罪で磔の刑に処せられたが、その霊を鎮めるため建立したものである。八樟原にあったが、農村活性化住環境整備事業区域となったので平成十三年四月ここに遷座した。
台座に「文政九年丙戌九月十九日、願主、肝入彦十郎、善助」とある。


山神


下駄があるが意味は不明





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13 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (あーさん)
2012-02-14 00:31:16
Oh  戦闘型狛さまだぁ
立派にガードマンの責務を果たしているやうな  ♪

ガードマンと言えば、ホイットニー 亡くなりましたねぇ
志波彦さんとの関係 (酔漢です)
2012-02-14 17:00:53
志波姫と志波彦とは、どこかで繋がっているのかな。とは思ってましたが、思っただけで、深く調べてみたことはありませんでした。
こういう理由だったのですね。
塩竈神社境内の志波彦神社の移設の経緯は、散歩道で詳しくしりましたが、延喜式であるわけです。この志波姫神社も延喜式だとばかり思ってました。ちゃんと勉強しないと・・。
なぜに~ (維真尽(^^♪)
2012-02-14 22:56:21
ここに
出雲型が?!

北前船に乗ってやってきたのかな (=^・^=)
あーさんへ (ひー)
2012-02-15 11:28:59
あの歌は良かったですね。
薬物の依存は簡単に治らないですね。
威嚇している狛犬はやる気満々ですね。49(0
酔漢さんへ (ひー)
2012-02-15 12:04:28
共通する点は岐神であること、これは塩土老翁や猿田彦と同じです。
どうも、シワという文字が岐神、道祖神を表すようです。
志波姫が終わったら鼻渕神社の編集をしなおします。
維真尽さんへ (ひー)
2012-02-15 12:23:09
昭和の建立ですから、石工さんの好みなのか?
山陰出身のかたか?
そのうち書きますが、出雲神族が伝承したかも知れない製鉄と塩作りは、この地にものこっています。鉄を作る時のふいごは片足を使うため足が悪くなります。又、火を見つめるため目を悪くします。
三宝荒神やあらはばきは足の神様、鉄の神様、目の神様と言われます。
これは出雲と密接な関係を感じます。
維真尽さんへ (ひー)
2012-02-15 12:41:12
昭和の建立ですから、石工さんの好みなのか?
山陰出身のかたか?
そのうち書きますが、出雲神族が伝承したかも知れない製鉄と塩作りは、この地にものこっています。鉄を作る時のふいごは片足を使うため足が悪くなります。又、火を見つめるため目を悪くします。
三宝荒神やあらはばきは足の神様、鉄の神様、目の神様と言われます。
これは出雲と密接な関係を感じます。
猿田彦命と天照大皇神 (伝八郎)
2012-03-12 16:05:43
資料編には、志波姫は岐神であり道祖神を表すこと。また、今も庭渡(ニハタリ)の権現とて祭る者、即是なり。とあり、古事記は、波比岐神をも、大年神の子とす。
そして、志波姫とは、八衢比売にあたり、やがて道祖神に同じ。中世以来、道路衢神と呼ばれし岐神も、これに外ならずといふ。論は、宮城郡志波彦神社址の下に詳にしたり。

只今退院してきました。いゃー痛かった。

上記によると志波姫神社はやはり庭渡神社と呼ばれていた訳ですね。予想はしていましたがこれは発見です。有難う御座います。
阿須波神が志波彦命、波比岐神が志波姫と言うことが立証されましたね。
そこで、又問題になるのが志波彦命、志波姫命とも道祖神・岐神とされる事。つまり同神ではないかと言う事です。
そして、その解答はアマノウズメを祭る志波姫神社にあると思います。
つまり、猿田彦命と天照大神は入れ代わったたのではないかと私は考えています。
伝八郎さんへ (ひー)
2012-03-15 06:36:02
シワの意味を読んだ時は!私も同神だっちゃ!
と思いました。
そうすると、鹽竈神社の神はいずれも系統が同じになります。左宮右宮は、綱宗の考えが入ったのでしょう。
退院おめでとうございます。これからは、不摂生にご注意を・・・我が身もですが
狛犬 (大京)
2012-04-15 21:15:46
出雲型って言うんですか。
塩釜神社にもあって、変わった形だなって思ったんですよ。
大京さんへ (ひー)
2012-04-16 08:06:21
そうです。
構え型と言いますが、出雲に多く見られる為、出雲型とも言われますね。
はじめまして (mitsuhiro hirano)
2012-07-12 00:11:26
はじめまして。とおりすがりの者ですが、興味がある話だったので、コメントします。

志波彦も志波姫も延喜式内神社で高い神階(特に勲位)をもつ点から推測すると、対エミシ勢力の岐神(ヤマト勢力の守護神)として祀られていたのでしょう。なぜなら、シバ・シワの地名は、ヤマト勢力の境界線の北上と並行して、地名も北上しているからです。

東山道の果てにましますのが「シワ・シバ・シバタ」。果ての三陸海岸にましますのが「ケセ・ケセマ・ケセン・ケセンヌマ」。この名のある場所自体が当時のヤマト境界線そのものです。

それにしても、現在伝わる伝説は、後世の熊野修験やら、民間信仰、さらに記紀神話の神々との習合で、ごちゃまぜになっているから、ややこしいと思う今日この頃・・・・。
mitsuhiro hiranoさんへ (ひー)
2012-07-12 18:32:33
コメントありがとうございます。
古代の蝦夷と呼ばれたもの、または縄文辺りから祀られた神々、つまりヤマト政権や律令国家ができる以前の神々を知ることは出来ないかと、探って神社回りをしていたのも一つの理由です。
出雲もそうですが、ヤマト政権が出雲を乗っ取る時も、地元の神である大国主等々を自分たちの神の中へ編入させています。きっと蝦夷を操るには蝦夷の崇拝する神を合祀させてしまうこともあったでしょう。
仰る通り、複雑に入り交じって簡単には判断できなくなっていますね。
古代の事を語ると、結論は想像でしかないことが、悔やまれます。文献などの記録がありませんからね。
確か、気仙沼のアイヌ後の地名は、ケセモイだったと記憶しています。
何れにせよ。蝦夷は坂上田村磨呂などにより北へと追いやられた事は間違いない無いですね。

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