ひーさんの散歩道

道には、様々な歴史や文化が息づいている。
歴史に触れ風景に感動し忘れていた何かを探したい。

若宮丸/初めて世界一周したのは宮城県人だった

2012年03月30日 11時52分07秒 | 宮城の散歩道(仙台を除く)
日本で始めて世界一周した人は宮城県の人だった。

この記事は、2008年7月6日にUPしたものですが、再編しUPしました。

 世界一周し故郷寒風沢に帰還した津太夫と左平たち

若宮丸は、米沢屋平之丞の持船で仙台藩の米や材木などを積んで江戸へ運んでいた千石船でした。
当時の石巻は北上川を利用した水運が栄え、藩の米蔵が建ち並んでおりました。
このような千石船は1,000隻以上も集まっていたようです。

1793年(寛政5年)11月27日、江戸へ向かった若宮丸は、仙台藩米約1,300俵と材木400本を積んで石巻港を出港しました。

乗組員16名


 1. 平兵衛(ひょうべい)  船頭     31歳 石巻市    (到着後死亡)
 2. 吉郎次(きちろうじ) 船親父    67歳 石巻市小竹浜 (イルクーツクで死亡)
 3. 左太夫(さだゆう)  舵取り    51歳 塩竈市寒風沢 (ペテルブルクに向う途中で離団)
 4. 儀兵衛(ぎへい)   賄い(まかない)32歳 東松島市室浜 (帰国)謁見
 5. 津太夫(つだゆう)  水主(かこ)  49歳 塩竈市寒風沢 (帰国)謁見
 6. 左 平(さへい)   水主     31歳 塩竈市寒風沢 (帰国)謁見
 7. 民之助(たみのすけ) 水主     30歳 塩竈市寒風沢 (帰化)謁見
 8. 銀三郎(ぎんざぶろう)水主     29歳 塩竈市寒風沢 (ペテルブルクに向う途中で離団)
 9. 茂次郎(しげじろう) 水主     29歳 石巻市小竹浜 (帰化)謁見
10. 市五郎(いちごろう) 水主     29歳 石巻市    (イルクーツクで死亡) 
11. 八三郎(はちさぶろう) 水主     25歳 石巻市    (帰化)謁見
12. 善 六(ぜんろく)  水主     24歳 石巻市    (帰化)謁見
13. 多十郎(たじゅうろう)水主     23歳 東松島市室浜 (帰国)謁見
14. 辰 蔵(たつぞう)  水主     22歳 塩竈市石浜  (帰化)謁見
15. 清 蔵(せいぞう)  水主     不明 石巻市    (ペテルブルクに向う途中で離団)
16. 巳之助(みのすけ)  炊(かしき) 21歳 石巻市    (帰化)謁見

賄い=荷物の仕入れや会計などをした。
炊 =食事や洗濯、お茶くみなどをした。

若宮丸が石巻港を出てから約一週間後のことであった。塩屋岬沖(福島県いわき市)において悪天候に遭い、12月3日には、やむなく船の命である帆柱を切り捨てた。操船不能となって漂流し、翌年1794年(寛政6年)5月10日、ロシア領アンドレアノフスキー諸島アレウト列島(アリューシャン列島)の小島に漂着した。

地元の住民(アリュート人)に助けられましたが、船頭平兵衛は病死し、残る15人はこの後シベリアのイルクーツクに送られ、ここで7年間滞在する間にさらに市五郎と吉郎次の2名が病死、善六・辰蔵・巳之助・八三郎4名は洗礼を受けてロシアに帰化した。


お金を稼ぐ為にイルクーツク(バイカル湖)で漂流民は漁をしました。



島人男女並 少女之図 北嶋人のアリュート人
彼らの衣装はトドの皮や羽毛で作られていました。

漂流民13人の運命はここでも大きく変わります。
皇帝に即位したアレクサンドルが日本との貿易や交流を本格的に進めたからです。

1803年(享和3年)3月、ロシア皇帝アレクサンドル1世の命により、13人の漂流民は首都ペテルブルクに呼び出された。
4頭立ての馬車で向ったのですが馬車のスピードが速く、左太夫と清蔵の二人が激しい乗り物酔いで旅を中断。
さらに、銀三郎が高熱と赤い発疹が出て旅を取りやめました。
長旅の疲れや病気のために現地にとどまった3名を除き、10名になった漂流民は50日もかかり首都に到着し、5月15日、皇帝に謁見。

帰国の意思を問われ、津太夫・左平・儀兵衛・多十郎の4人が帰国を、他の6人は残留を希望しました。


大航海
4人の他にロシヤに帰化した善六も通訳として乗船しました。
この時日本との交渉の為航海中に「日露辞典」を編集しています。
因みに、善六はロシヤと日本との間に起きたゴロヴニン事件や高田屋嘉兵衛拉致事件で、日本とロシヤの和解交渉のために函館に上陸し活躍しています。

ロシア初の世界一周就航船・ナジェージダ(希望)号は、首都近くのクロンシュタット港を出港、コペンハーゲン港(デンマーク)、ファルマス港(イギリス領)、サンタ・カナリア島(大西洋)、マルケサス諸島(南太平洋)、ペトロパブロフスク港(カムチャツカ)などに寄港し、約1年3カ月におよぶ航海を経て、1804年9月6日ついに長崎に入港した。

途中、イギリス沖ではナポレオン戦争の最中だった為、フランス船と間違えられて攻撃を受けたり、南アメリカの最南端のマゼラン海峡では強風に合い、南極近くまで流されたり、マルケサス諸島のタヒチやハワイ諸島では、原住民達と遭遇しバナナや椰子の実などを食べたといいます。


これは、マルケサス諸島(タヒチ)の男女で、男性は髪を角のように束ねて、額からつま先まで入墨をしており漂流民はまるで鬼のようだ!と言ったそうです。
女性は手の部分だけ入墨があったようです。


こちらは、サンドイッチ諸島(ハワイ諸島)の男女ですが入墨は見られません。

津太夫達の足跡が見られます。





帰国した4名は、石巻を出港してから11年もの年月をかけ帰って来たことになります。
しかし、当時の日本は鎖国をおこなっていました。当然幕府はロシアの申し込みをすべて断り貿易もさることながらロシア船が入国する事すら禁止されロシア側が得るものはありませんでした。
そんな中日本での生活を悲観し絶望した多十郎が自殺を計る事件も起きました。
翌年1805年(文化2年)3月、ロシア使節レザーノフは津太夫たち4人を長崎の役人に渡し帰ることになりました。
レザーノフは別れの時「二度と会うことは無いだろうが、今度は地下で再びお会いしましょう。」と涙を流しながら別れを惜しみました。


津太夫やレザーノフが6ヶ月間滞在した、長崎梅ヶ崎の仮屋


ナジェージダ号(軍艦) レザーノフ来航絵図より


長崎港に入港したナジェージダ号を300数艘の船が囲み、約3万人が警備にあたったので、ロシア人は、日本の国を守る仕組みがしっかりしていることに驚いたそうです。


幕府の厳しい取調べを受けた後、仙台藩に引き渡された。

江戸の仙台藩下屋敷にて九代藩主伊達周宗(ちかむね)もまた蘭学者大槻玄沢と志村弘強に命じ、詳細な聞取りをおこなった。

こうしてまとめられた「環海異聞」は彼らの苦難に満ちた長期の漂流体験、異国体験の末に持ち帰られた貴重な海外情報を鎖国時代の日本に伝えた記録として、その後の日本の世界認識の発展に大きく寄与したとされている。

津太夫達がふるさと塩竈(寒風沢)や東松島市の室浜に帰ったのは1806年(文化3年)のことでした。
長崎で自殺をはかった多十郎はふるさとに帰って間も無く4月1日(36歳)で、儀兵衛も後を追うように9月3日(45歳)で亡くなりました。
津太夫は外国で見てきたことは、一切話すことが無く1814年(文化11年)7月29日に70歳で、左平は1829年(文政12年)4月12日に67歳で亡くなりました。

当時の資料は本当に貴重なものですね。そしてその様子は絵に書いていますので、特に貴重な存在です。



これは、内陸でヤクーツクに向う途中であった民家で土で塗り固めてあり、なんと窓には氷を張って室内に光りを入れていたそうです。


こちらは、シベリアから太平洋への出口にあるオホーツクで見た丸太造りの家屋です。



皇帝に謁見したあと、西欧から持ち込まれた気球がペテルブルグで初めて飛行する催しを見学しました。


ペテルブルグの芝居小屋
千人を収容できる大きな建物で、ガラスの大灯籠や多くの蝋燭が灯され昼間の様な明るさだったといいます。


プラネタリウムと大天球儀
津太夫達はプラネタリウムを見学しましたが、日本で最初のプラネタリウムを見れたのは昭和30年以降のことです。
この絵は、全世界がが描かれた巨大な地球儀です。「ゴットルブ球儀」といい今も存在します。

 
ロシヤ皇帝アレクサンドル一世の肖像画      津太夫達が帰ってから28年経った長崎港1832年








塩竈市のHP

詳しくは、こちらのHPがわかりやすいです。
子供にも理解できるよう解説されてます。
石巻若宮丸漂流民の会のHP

津太夫の世界一周記

参考文献:NPOみなとしほがま発行、若宮丸の津太夫と佐平
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26 コメント

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「環海異聞」 (あーさん)
2008-07-06 10:25:51
入手できれば読んでみたいですね

大黒屋光太夫 なみの冒険!
質問で~~す (meme)
2008-07-06 10:25:56
ブログのコメントとは違うんですけど
ひーさん、プロフの写真変えましたよね。
この写真は今、現在のひーさんですか??
あーさんへ (ひー)
2008-07-06 19:31:19
大黒屋光太夫???
冒険記ですか?
質問? 聞くは一時の恥…この名前に使われている、太夫は(たゆう)と読みますか?

それから本は、宮城県図書館にあるようなので行ってみます。
memeさんへ (ひー)
2008-07-06 19:35:01
ちょと前の……
あまり変わりないので、採用しました。
やっぱり小坊主の方がいいかなぁ?
悩んでます。
そうですよね~ (維真尽(^^))
2008-07-06 21:12:03
海流の関係で~
どうしても
同じような~場所に漂流することになるんですね (^_-)-☆
維真尽(^_^)さんへ (ひー)
2008-07-06 21:20:51
この話しも帰って来たからわかるわけで、帰国出来ずに消息不明はいっぱいいたのかも…
Unknown (桃源児)
2008-07-06 22:12:58
世界一周して、日本に帰還。
鎖国時代ですから、その見聞は貴重なことだったでしょうね。
鎖国が始まった頃には、海外に出た日本人の帰国は一切、認められなかったようですが、この頃にはそれも緩和されていたんでしょうか。
桃源児さんへ (ひー)
2008-07-07 00:55:26
もう少し、調べたいことが…
伊達周宗は7代藩主? でも14才で亡くなってます。
年号を照らし合わせて見ます。
政宗の時に鎖国ですから7代の頃は、緩くなっていたかもしれませんね。
それに、理由が理由ですからお咎めは無かったようですね。逆に重要な情報源だったのでしょう。
Unknown (浅羽由紀)
2008-07-07 03:18:12
こんばんわ♪
私のブログへのコメントありがとうございました!

こんな話を初めて聞けました。ありがとうございます。帰国しなかった人達の心境が気になります。
大丈夫みたいです (meme)
2008-07-07 06:43:28
私のブログへのコメント、
ちゃんと全部入ってたと思いますよ~ん。
大丈夫です!安心してくださいませ。

ひーさん、お若いんですね~。
50代と言われないでしょ??
40代でも通ります!!ビックリした!!

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