子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

徽章もボタンも陶器製

2014年11月27日 | 中、高時代
きょう(11月27日)NHKあさイチのジャパナビで多治見の陶器が出ていました。
そのなかで、陶器でできたイヤリングやボタンが出てきました。
それで思い出しました。

わたしが中学に入ったのは1946(昭和21)年でした。
新品の帽子や学生服を買うことはできませんでした。なかったのです。

上級生がかぶっている帽子の徽章は陶器製でした。ボタンも陶器でできていました。実用だけを考えて作られたもので、今朝のテレビで見たような美しくてかっこよいものではありませんでした。
金属製がなかったのです。戦争中金属類は供出させられました。ボタンや徽章が供出させられたのではないかもしれませんが、そのころから金属製がなくなったのかも、と想像します。

普通のボタン(シャツのは貝殻製が多かったと思います)もなかなか買えませんでした。

ツレはこんな話を今でもします。
「親戚のおばさんからシャツをもらったのよ。うれしかったけど、ホックを全部取ってからくれたので、そのまま着られなかった」

ホックも貴重品でした。シャツはやってもホックはやりたくなかったのでしょう。

戦争中や戦後はそんな時代でした。
テレビを見ながらそんな話を思い出しました。

今年は早くも水仙咲く

2014年11月24日 | 平成
わが家には狭い庭があります。

そこに今年は早くも水仙が咲きました。



例年は12月下旬に陽だまりの水仙が最初に咲くのですが、今年は例年のようにはいかないようです。
別の場所から咲きはじめました。

写真の少ないブログですので、花の写真を入れてみました。
目休めです。

引き続き面白くないブログですが、訪問してください。お願いします。

タタミのヘリを踏むな

2014年11月23日 | 小学生時代
NHKの朝ドラ「マッサン」で畳は目に添って拭けとかヘリを踏むなとか言われて、外国人のエリーは戸惑っていました。
これはまだ大正時代の話ですが、昭和10年代でもしばしばおっかさんから言われました。

明治生まれのおっかさんです。当然親からそう躾けられていたのでしょう。わたしもさんざん言われました。
その訳はわかりませんでしたが、踏んだらいけないのだなあ、と親の言うことを守るようにしました。

よくわからないまま、親の言うことを聞いたことも多いですね。

平成の今の子どもたちは「なんで、なんで」とその理由を聞くでしょうね。
その時には答えられません。勉強が必要です。(;一_一)

出針 夜爪

2014年11月12日 | 小学生時代
朝出かけにツレが洋服のボタンが外れたが、母は出針はしてはいけないと言っていた、と言いました。

それで思い出しました。
うちのおっかさんも言っていました。出かけに針を使うといけないと。理由を聞いたことはありません。出先で災難に遭うのでしょうか。よくわかりません。

どうしても針を使わねばならないときには、「ああ忙し、ああ忙し」と言いながら針を使っていました。それがおまじないみたいでした。ツレも同じ呪文を母親から聞いたと言っています。

夜の爪切りもタブーでした。夜は爪を切ってはいけないと言われていました。これも理由はよくわかりません。
昼間明るいところで切るように、これがおっかさんの口癖でした。

出針、夜爪は平成の時代にはないでしょうね。昭和以前のことかもしれません。

チンチン電車の記憶

2014年11月05日 | 小学生時代
市内にもチンチン電車が走っていました。市中心部から南へ5キロ弱、昭和2年から同27年まで運行されていました。
実際に走っていた電車を有志が探して来てペンキ塗りなどして展示に備えています。



これを見たときに市内を走っていたのでしょうが、わたしの記憶と少し違うと思いました。
電気を架線から取るパンタグラフが記憶と違うのです。

NHKの朝ドラ「マッサン」のドラマの舞台は大阪です。ここを走る電車が「マッサン号」として先月ラッピングされて運行されたそうです。車両は昭和3年製造とありましたが、パンタグラフはわが市で展示予定の電車と同じでした。

わたしの記憶ではパンタグラフは1本の棒状(ポール)でそれの先端に円形の金属があり、ポールにロープが繋がれていました。そんな電車がないかとネットで調べましたがありません。

それが「明治村」にあったのです。明治村で走っていました。それが次の写真です。



前にお相撲さんのまわしのような網はわが市の電車にもありました。人をひかないようないようにと聞いたように覚えています。

チンチン電車は終点まで行くと後先が変わります。今までの後ろが先頭になります。そこで車掌さんがポールについたロープを持って後部の電線にはめかえます。これがうまくいかなくて、車掌さんは苦労していたようです。乗客はそれをゆっくり見ていました。

チンチン電車の思い出はもう一つあります。
太平洋戦争中男子の運転手が足りなくなり、女性の運転手さんがいたと聞きました。