子どものころは「昭和」だった

頭も悪く、体も弱い子どもでした。そんな子ども時代を思い出すだけ綴ります。
頭の悪い、体も弱い子の成長後も書いてみます。

41. さくらんぼ、桑の実、ススキの穂

2013年02月26日 | 疎開生活
国民学校6年生の初登校日のことも、そのあとのことも全然記憶にありません。

田舎の学校での初めての記憶は、運動場の柵に沿って植えられていたサクラのさくらんぼです。マッチ棒の先についた部分を「頭薬」と言うそうです。そこよりもちょっとマシなさくらんぼが生っていました。放課後、だれもいないのを見定めて木に登り、食べました。うまくはありません。腹が減っていましたので、少しでも腹の足しになればとの思いだけです。腹の足しにもなりませんでした。

6月の終わりごろでしょうか、畑で桑の実を見つけました。以前は伯母さんの家でも蚕を飼っていました。この年(昭和20年)には集落では蚕を飼う家はなかったのではないでしょうか。桑の木を切り、根っこを掘り起こしてカライモを植える家が多かったと記憶しています。残っていた桑に実が生っていたのです。
これもむさぼり食いました。これもあまり腹の足しにはなりません。桑の実で口の中が真っ黒になったことだけを覚えています。

次に食べたのを記憶しているのは、ススキの穂です。まだ成熟していない穂をむしゃむしゃ食べたものです。

秋には(戦争は終わっていました)お宮の椎の実を拾って食べたものです。

疎開していたら白いコメのご飯を食べたでしょうと聞く人がありますが、白いコメを食べた記憶はありません。いつも腹を減らしていました。「飢餓世代」と自称しています。

食べられるような物なら何でも食べる、そんな時代でした。

40.バカは死ななきゃ…

2013年02月17日 | 疎開生活
最初の登校日には、同じ集落の、同級生のたけちゃんに連れてもらって行くことにしました。
少し遠回りしてたけちゃんの家に行き、それから広い、歩きやすい道を登校するつもりでした。たけちゃんの家を出ると直ぐに上の集落の高等科の兄ちゃんが追いつきました。

この兄ちゃんがわたしの肩を抱き、どこから来た?と聞きました。それに答えると「兄弟は何人か」「親の仕事は?」とか、次々に聞いてきます。

この兄ちゃんの名前はその後も知りませんでしたが、色黒の顔で恐そうでした。それで、わたしはひとつひとつ真面目に答えました。聞かれると、ウソはつけませんでした。

高等科は高台の国民学校初等科から見える川べりにありました。学校の近くまで延々とわたしは身上調査をされました。

ウソをついたりちゃらんぽらんに答えてもいいはずですが、後々まで、今もバカ正直に答えてしまいます。
昭和の浪曲師・広沢虎造の名調子「バカは死ななきゃなおらない」です。

最初の日、教室でどうだったかとか、友だちのことなど全然記憶していません。

国民学校の最初の記憶は、校庭にあるサクラのさくらんぼのことです。


39. 疎開先の集落

2013年02月13日 | 疎開生活
新しい学校への通学の前に、疎開先の集落のことを書いておきます。

西に標高400メートル弱の山があり、その中腹から上、中、下の集落があります。わたしの疎開先は中ほどにあり台地になっています。畑地が多く、田んぼは下の集落か谷間にあります。

上の集落は狭い畑が多かったです。

下の集落は往還(いまは県道です)があり、商店もあります。

中の集落に氏神様、下の集落にお寺がありました。

国民学校初等科は村の中心部の小高いところにあり、近くに役場や郵便局、商店などがあります。
学校は家から東南にあり、通学路は二通りあります。一つは馬車でも通るような道(いまは車ではこの道を通るのでしょう)、もう一つは田の畦道を通る道です。こちらが少し近道です。でも人の通りが少なくて寂しいです。

当時腕時計は持っていませんでしたので、はっきりした時間はわかりませんが、子どもの足で30分くらいかかったのかもしれません。

次回初めての登校のことを書きます。

38. 疎開先

2013年02月05日 | 疎開生活
伯母さん夫婦には子どもが出来ませんでした。それで、親戚の娘を養女にして、婿養子を取っていました。その婿さんの実家に私たちは疎開しました。

母屋のほかに牛小屋、農機具などの小屋、鶏小屋などがあります。母屋には薪小屋がついていました。その薪小屋を空けてそこを貸してもらいました。

薪小屋と言っても、6枚の畳を敷くことができ、かまども置けました。トイレは外に作りました。60ワットの裸電球が1つ部屋の真ん中にぶら下がっていました。
いまで言う1DKです。ここでとうちゃんと2人で住み始めました。かあちゃんは町の家に残って、会社に勤めていました。

母屋にはおばあちゃん、息子夫婦、高等小学校2年の長男、5年生の次男、一番下に女の子がいました。おばあちゃんが元気で、まだ家の中を切り盛りしていました。

ここらでは裕福な農家で、その傘の下にいるので安心な疎開生活のスタートでした。伯母さんの家からも直線で100メートルくらいしか離れていないので、それも安心でした。