国民学校6年生の初登校日のことも、そのあとのことも全然記憶にありません。
田舎の学校での初めての記憶は、運動場の柵に沿って植えられていたサクラのさくらんぼです。マッチ棒の先についた部分を「頭薬」と言うそうです。そこよりもちょっとマシなさくらんぼが生っていました。放課後、だれもいないのを見定めて木に登り、食べました。うまくはありません。腹が減っていましたので、少しでも腹の足しになればとの思いだけです。腹の足しにもなりませんでした。
6月の終わりごろでしょうか、畑で桑の実を見つけました。以前は伯母さんの家でも蚕を飼っていました。この年(昭和20年)には集落では蚕を飼う家はなかったのではないでしょうか。桑の木を切り、根っこを掘り起こしてカライモを植える家が多かったと記憶しています。残っていた桑に実が生っていたのです。
これもむさぼり食いました。これもあまり腹の足しにはなりません。桑の実で口の中が真っ黒になったことだけを覚えています。
次に食べたのを記憶しているのは、ススキの穂です。まだ成熟していない穂をむしゃむしゃ食べたものです。
秋には(戦争は終わっていました)お宮の椎の実を拾って食べたものです。
疎開していたら白いコメのご飯を食べたでしょうと聞く人がありますが、白いコメを食べた記憶はありません。いつも腹を減らしていました。「飢餓世代」と自称しています。
食べられるような物なら何でも食べる、そんな時代でした。
田舎の学校での初めての記憶は、運動場の柵に沿って植えられていたサクラのさくらんぼです。マッチ棒の先についた部分を「頭薬」と言うそうです。そこよりもちょっとマシなさくらんぼが生っていました。放課後、だれもいないのを見定めて木に登り、食べました。うまくはありません。腹が減っていましたので、少しでも腹の足しになればとの思いだけです。腹の足しにもなりませんでした。
6月の終わりごろでしょうか、畑で桑の実を見つけました。以前は伯母さんの家でも蚕を飼っていました。この年(昭和20年)には集落では蚕を飼う家はなかったのではないでしょうか。桑の木を切り、根っこを掘り起こしてカライモを植える家が多かったと記憶しています。残っていた桑に実が生っていたのです。
これもむさぼり食いました。これもあまり腹の足しにはなりません。桑の実で口の中が真っ黒になったことだけを覚えています。
次に食べたのを記憶しているのは、ススキの穂です。まだ成熟していない穂をむしゃむしゃ食べたものです。
秋には(戦争は終わっていました)お宮の椎の実を拾って食べたものです。
疎開していたら白いコメのご飯を食べたでしょうと聞く人がありますが、白いコメを食べた記憶はありません。いつも腹を減らしていました。「飢餓世代」と自称しています。
食べられるような物なら何でも食べる、そんな時代でした。