こころの文庫(つねじいさんのエッ!日記)

家族を愛してやまぬ平凡な「おじいちゃん」が味わう日々の幸せライフを綴ってみました。

二年目の春ーそして・その2

2015年02月28日 00時03分39秒 | 文芸
「わしらもやるか?」
川沿いにある湯口家の田圃は、昨年刈り取ったままに稲藁が散らばっていた。コンバインを導入するまでは、束にした藁を積み上げた坪木の点在した田園風景だった。それがすっかり様変わりして、完全に風情は奪われた。
藁が重宝がられた昔、といっても慎三が子供の頃だから、まだ三十数年しか経っていない。それが、いまや藁は稲刈りの際にコンバインにより細切れにされて田圃に撒かれる。後は荒起こしで鋤き込まれてしまう運命が待っている。野菜の敷き藁にすべく少し除けておいたものが、取り込むのを忘れられて、腐りかけていた。表面は乾いて見えるが、下になって隠れた大半はひどく水分を吸って湿気ているだけに、ほんに始末が悪い。
慎三は松明の火を藁の乾いた部分に移した。パッと燃え上がりはするが、すぐにくすぼってしまう。焦れったい燃え方だった。
「程らいにしといて、ええで」
 藁を燃やすのにてこずっている慎三を思いばかった雅樹は苦笑しながら指示した。
 今日の目的は畦焼きである。厄介な田圃焼きにあぐねていては、全く作業は捗らない。ムラ中の四方から三々五々集まって来て一斉に焼き上げる、溜め池の大きな土堤まで、とても時間通り辿り着けない。
 雅樹は器用に畔の枯草に火を移していく。上部から火をつければ、その部分が燃えて終わりだ。下側の枯草から火を投じると、うまい具合に枯れた草を燃え伝い、火は風を呼び上方に向かって駆けのぼる。
 慎三は負けん気を顕わに、足早に兄を先行して畦を焼いた。慎三はいつも兄のすることに競争心を持ってしまう。所詮勝てる筈がないのに、懸命になった。子供時代から繰り返して来た無意味な闘いだった。
 山の方へ畦焼きが進むに進むにつれて、所々方々から竹製の愛末を手にしたムラの連中が集まって来た。
「ちょっと休憩しよか。あっちゃはもう休んどるがな」
 誰かが上げた声に、みんなはホッと身体の力を脱いた。てんでに好きな場所を見つけると、無造作に尻を落とした。煙草の煙があちこちに立ち昇り、とりとめもない世間話が始まった。
 来年にも始まる圃場整備の話から、どこそこの誰ベエが交通事故を起こしたとか、損害保険の申請やら、税金の愚痴まで多岐に渡っていた。とりわけ他人の噂話は盛んに飛び交った。
 慎三は世間話を楽しむグループの仲間入りをする気もなく、ボーッと孤独に遠くを見やった。向こう側に陣取った連中は、寝転がっているものから、立ち小便をしているものまで様々だった。慎三は無意識に煙草を銜えた。
「何しとるん?」
 世間話の輪の中にいた筈の雅樹が、いつの間にか心臓の傍に来ていた。
「別に」
「お前も話に入ったらどないや」
「無理なこと言うなよ」
「無理や言うたかてのう。お前も、ここで暮らしていくんや。慣れていかな、なあ。自分から入っていかんと誰も相手してくへんぞ」
「そのうちに慣れるわな」
 そっけない慎三の対応に取りつく島もない恰好で、頭を振り弟から離れた雅樹は、元のお喋り仲間の輪に戻った。
 雅樹の言う通りだろう。田舎では習うより慣れろが最優先である。慎三は子供時分から仲間と群れるのを避ける変わり者で通っていたが、あの頃は将来外に出ていく立場の三男坊。誰も本気で慎三の変人ぶりを気に掛けるものはいなかった。
 今は違う。新宅を構えれば、このムラの一員である。だからといってムラの連中の方からおべっかを使って近付いてくれはしない。飽くまでも慎三が進んで妥協していくしか、真のムラ入りはあり得ない。
 一時間以上もダラダラと休憩は続いた。慎三は心の中で、やるなら早くやっつけちまったらどうなんだい!と、何度も自分に毒づいた。
「そろそろやりまひょか」
 年嵩の男たちの顔色を窺うような素振りで、隣保長が声を上げた。それを潮時にノロノロと立ち上がったムラの連中は、てんでに青竹の松明に火を点けた。灯油の滲みたボロギレに炎がポソッとともった。
 一度休んだ身体は、やはり怠け者に戻るらしい。畦焼きはなかなか元の調子を取り戻せないまま、なんとか惰性で枯草に火を放っていく。作業とお喋りを閉口させる器用なのや、焦げた青竹を肩にかついだまま、火を点ける気配もなく、のんびりと歩いている、実に要領のいいヤツだって何人かいる。それでも集団になって動けばやはり凄い。一人一人の動きとは関係なく畔の法面は焼け跡が増える。
 高さは五メートル近くあるかも知れない。幅は二、三十メートルといったところか。或いはもっとあるのかも知れないが、慎三に目測は無理だ。山裾のように広がった斜面を持つ溜め池の土堤を、恍惚たる風情で見上げるムラの連中に興奮はなかった。慎三は興奮を少しばかり覚える自分を恥じた。
(続く)
(1994年10月29日神戸新聞掲載)

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二年目の春ーそして・その1

2015年02月27日 01時11分09秒 | 文芸
二年目の春―そして

 背丈ぐらいに切った青竹の芯を抜いた。二節は抜かないと駄目なので、鉄筋を突っ込んで少し弾みをつけて押し込むと、スポンと気持ちよく抜けた。それを二度繰り返して、やっと出来上がる。
 抜いた穴へ灯油を注ぎ入れると、ひとつながりになった竹筒の部分は、かなりの分量が詰まった。次に丸めた古い手拭いを竹筒の先に突っ込み、針金でしっかりと止めた。
「おい、用意はでけとるか?」
 長兄の雅樹が納屋の入り口からひょいと顔を覗かせた。既に手を加えた青竹の太いのを二本、肩に担いでいる。
「まだやったら思うて、余分に作っといたさかい、使うんやったら使え」
「いや、もう出来とる。ほら、これ」
 慎三はは出来上がったばかりの青竹を持ち上げて見せた。雅樹はニコリと頷いた。
「ほなら、そろそろ出かけよか」
「ああ」
 慎三はポケットにマッチがあるのを確かめて雅樹に続いた。
 今日はムラ総出による畦焼きだった。昔から連綿と続いている、春を迎える伝統的な行事である。この畦焼きを契機に本格的な田圃作りが始まる。
 二月に入った早々の日曜日の午後が該当日になったのは数年前からである。それまでの暦通りだと、たまたま平日に当たりでもすれば人が集まりにくい。集まっても精々年寄りと女連中が殆どで、池の土堤などの枯草を焼く大がかりな作業になると危険このうえない。なるべくして畦焼きは日曜日主体となった。
 慎三には今年が二度目の畦焼きに当たる。
 地元の農業高校を卒業し家を継いだ長兄と違い、慎三は高校を卒業すると同時に外へ働きに出た。その二年後にあっさりと故郷を後にして、大阪にアパートを借りて住んだ。
 それ以来、盆正月しかムラに戻らなかった。ある年は、盆正月ですら戻らずに済ませたほど、故郷への未練はカケラもなかった。
 昨年、ムラに定着すべく二十三年ぶりに帰郷したのは、それなりの理由があった。
 親が用意してくれた家に住むようになると、四十を過ぎてからのムラ入りとなった。その早春に初めて畦焼きに出た。
 兄弟三人の中で慎三だけが独り者だった。正確には一度結婚しているが、僅か二年で破綻した。共稼ぎだった妻は職場の若い男と姿を消し、それっきりになった。あれ以来、慎三は極度の女性不信に陥った。十数年、全く女っ気なしの生活に甘んじている。
 そんな孤独を余儀なくされた大阪の暮らしだったが、不思議に仕事は順調だった。シティホテルのコックとしてセコンドにまで昇進した。しかし、男ひとりの不摂生な生活が二十年近くも続くと、どこかしこに弊害が現れてくるらしい。
 十二月の宴会シーズンで仕事に追いまくられた挙句、慎三はストーブ前で遂に倒れた。それもかなり吐血した。過労による十二指超潰瘍の診断で手術を受け、肺もかなり弱っているのが判明し長期の入院を余儀なくされた。
 無事に退院はしたが、三か月に及ぶ入院生活に、慎三は自信をすっかり無くしてしまった。田舎者が大阪での暮らしと仕事に不安を覚えるようになっては、もうどうしようもない。慎三は田舎に逃げ戻る道しか見出せなかった。
 挫折の果てに帰郷した息子を両親は不憫がり、新しく家を建てて迎えてくれた。昔から弟思いだった長兄の雅樹は、ムラに戻った傷心の弟を何かにつけて気遣ってくれた。兄嫁の対応は、かなり冷ややかだったが、所詮他人である。慎三はあえて気にしないように努めた。
 新宅としてムラ入りは成ったが、都落ち同然の四十男である慎三は、ムラの衆と顔を合わせる場には余り出たくはなかった。それを雅樹は許さなかった。畦焼きも、秋祭りを初めとした諸々のムラの行事も、慎三は否応なく長兄に引っ張り出された。
 常に心鬱々状態だったものの、何回かムラの行事に出続けると、後はかなり心理的にラクになった。それが雅樹の魂胆だったと、今は感謝しているが、それを素直に言葉に出来ないのは、結局慎三の甘えに過ぎない。
「暖冬続きやったんで、枯草より青いのんが目立っちょるわ。こりゃなかなか焼けへんがな」
 雅樹は畦に青竹の松明を突き立てると、煙草を銜えながらボソッと呟いた。
 慎三は、雅樹が差し出したセブンスターの箱から一本抜くと、ライターで火を点けた。その火を黙って雅樹の口にある煙草の先に持っていった。
「あっちは、もう始めとるがい」
 雅樹は日が点いた煙草を一服すると、顎をしゃくった。しゃくった方向に白い煙がたなびいている。畦焼きが始まった。
 一時になるのを待って、それぞれの家の近くにある田圃周りから、てんでに畦焼きを開始する取り決めだった。まだ五分前田が、気の短い連中が待ちきれずに火を枯草に押し付け始めたらしい。        (続く)
(1994年10月29日神戸新聞掲載)
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家族・完結

2015年02月26日 00時35分35秒 | 文芸
誠治が三千代を送り届けて、再び家に帰り着いたのは、既に真夜中近かった。散らついていた雪も本降りに変わっていて、家の前は白い絨毯を敷き詰めたように積もっていた。
 車から出て一歩踏み出すと、ジャクッと鳴った。実に気持ちいい感触が足裏に広がった。
 照正とヤスエは、まだ起きていた。客間ですき焼きの残りをつつきながら一杯やっていた。珍しくヤスエまで盃を手にしている。
「なんや、まだやってたんか?」
「ああ、たまにはええじゃろうが。母さんとの水入らずなんて、そう滅多にあるもんじゃないでのう」
 上機嫌そのもので照正は言った。
「ほれ、お前もちょっと座って、お父さんの相手したらええやろ。こんな機会、そうあるもんじゃないけ」
「うん」
 誠治は素直に頷いて、照正の真向かいに胡坐を組んだ。遅々と差し向かいになるのはいつ以来だろうか。もう記憶は薄れていた。
 ヤスエが手早く誠治に猪口を手渡し、器用な手つきで酒を満たした。夫の晩酌に付きあって三十年近く、自然と身についたものである。
「ええお嬢さんやったなァー、三千代はんは 照正がポソッと言った。
「ああ」
 面映ゆい思いで誠治は反射的に返事をした。
「ほんまに今度は大丈夫なんやろな?」
ヤスエが、またしつこく念を押した。口癖になっているのだろう。それもこれも誠治のせいなのである。しかし、今度は少し様子が違っていた。不安めいていなくて、不思議と明るい口調なのだ。三千代と逢って安堵を覚えたのかも知れない。
「ヘヘヘヘヘ」
 返事の代わりに誠治は相好を崩して見せた。送り届けた先で、三千代が何気なく漏らした言葉を思い出すと、自然にそうなった。
「一足先に誠治さんのお父さんやお母さんの娘になってしまったって感じ。お父さんのすき焼き、本当においしかったわ。お腹いっぱい食べてしまった」
 三千代の笑顔は、誠治の不安な部分を一掃してくれた。心が和らいだ。内心「やったァー!」と快哉をあげていた。
「絶対逃げられんじゃあねえぞ。大体お前は不器用すぎるんだ。ええか、よう聞け。女ちゅうもんは……」
 照正は息子の幸福感に満ちた様子にホッとしたせいか、一気に酔いが回り始めたらしい。機嫌のいい時に、照正が口にする説教である。
「分かった。分かったよ」
「よーし!そんならええわ」
 照正はひと声上げると、そのままゴロリと横になった。すぐにイビキがリズムよく始まった。
「まあまあ、こんなとこであんた寝るんかいな?」
 ヤスエは反射的に立ち上がると、毛布を引っ張り出して照正にソーッとかけた。
「フフフフ」
「なんやね?」
「お父さん、あない偉そうな口叩いてるけど、あのヒトもあんたと似たようなもんやったんやで」
 ヤスエは少女に戻った表情で空中に視線を泳がせると、クスッと思い出し笑いをした。
「あんヒト、見合いの席で、こっちが恥ずかしゅうなるぐらい真っ赤になって、とうとう最後までひと言も言えんかったんや。そらもう、おかしゅうておかしゅうて」
「そんなんで、よう一緒になれたもんやな」
「そらしょうがないねん。私の方が惚れてしもうたから……」
 ヤスエは照正を見下ろして、頬の辺りを少し赤く染めた。意外な母親の一面を垣間見た思いで、誠治はただただ感動した。
「あんたは、お父さんにソックリやがな」
 ヤスエの言葉が、実に心地よく耳に響いた
。(完結)
(1990年12月22日神戸新聞掲載)
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家族・その3

2015年02月25日 01時55分53秒 | 文芸
「ええ具合にたけとるがいな。さすがお父さんや、年季が入っとるで」
ヤスエはケラケラと笑った。まさか年季ですき焼きの味が決まるとは思えなかったが、誠治は父親に感謝した。気のつかぬ家族と勘違いし、腹を立てた自分が恥ずかしかった。
「さあ、顔が揃うたんやで、早速頂こうかいな。誠治、そちらさんにもはよう席について貰うてからに」
ヤスエは性急に進めた。いくら裏切られようと、ヤスエは息子が連れて来る相手を、いつでも最大限の用意で歓待してくれた。
誠治の兄、俊晴とその妻の比呂美も顔を見せて、田島家の賑やかな夕食は始まった。
「今夜は冷えるで、熱いだけでもご馳走じゃ」
 照正は熱燗を独り占めして、やけに明るい。彼以外は誰も吞めるものがいない田島家の夕食は、普通ならお通夜に近い雰囲気で、ただ黙々と飯をかき込むだけだったが、三千代の存在は場を明るく変えてくていた。
「味付けが合わなんだら遠慮のう言うてや」
「ええ。でも美味しいです。、本当に」
 三千代は嬉しげに答えると、それを証明するかのように、セッセと箸を進めている。
 誠治はチラッと母親を窺った。三千代に対する反応が気になったからである。
 ヤスエは静かに食べていた。それが長い慣習になっていて、食事時にはしゃいだりすることは滅多にない。可もなく不可もない顔付きでいるヤスエに、誠治は内心ホッとした。
 外に出ると白いものが散らついていた。やけに冷え込んでいた筈である。今年初めて見る雪は、門灯にボーッと照らし出されて、幻想的だった。まるで蛍の乱舞だった。
「きれい!」
 三千代は目を見張って立ち尽くした。その愛くるしいまでの撫で肩に誠治は手を置いた。
「おう!もう降り出しとったかい?今年は早い雪やのう。こら、積もりそうやで」
 照正は玄関から首を伸びるだけ伸ばすと、顔を覗かせて言った。
「へえ、はや雪かいな」
 俊晴も感心したように声を上げて、三和土まで出張って来た。ゾロゾロとヤスエも比呂美も、興味津々といった態で後に従っている。
 誠治が振り返ると、放心げに舞う雪を見上げている家族の顔が揃っていた。急におかしさがこみ上げて来て、クスッと噴き出した。
 その気配に三千代が敏感に振り返った。
「まあ!」
 微かな驚きの声を上げた三千代は、すぐに口元を緩めた。明るい笑顔だった。誠治と顔を見合う格好で、若い二人のちいさい笑い声は共鳴し、溶けあって続いた。
「気ィーつけてな、三千代さん。誠治、ちゃんと送ったげるんやで。あんたの花嫁さんなんやから。ほな、三千代さん、また来てくださいな」
 ヤスエは何度も頭を下げて、三千代を見送った。今度こそ、息子に幸せが間違いなく来るように……!と切実な母の願いが、その姿にはあった。誠治の胸のうちに熱いものがみるみる溢れた。
 雪が散らつく中を、照正は上機嫌で車までついて来た。しこたま呑んだ酒のせいもあっただろうが、彼の赤らんだ顔には、それ以上の意味合いが込められていた。
「三千代はん。頼んないヤツやけど、よろしゅうになァ」
 運転席の窓越しに照正は妙に甲高い声を出した。酒臭い息が誠治の顔へまともに吐かれたが、誠治はあえて避けようとしなかった。
「こちらこそ。お父さま、今日は本当にご馳走になりまして、ありがとうございました」
「いやいや、なんも歓迎でけなんでのう、申し訳なかったわい。ハハハハハ」
三千代のさりげない挨拶に、照正は、こんな嬉しいことはないと言わんばかりに、赤い顔を一掃赤くして笑った。
(続く)
(1990年12月22日神戸新聞掲載)
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家族・その2

2015年02月24日 01時01分16秒 | 文芸
「ほれ、見てみい。無理な事するさかい、こない酷い目に遭うんじゃろが。自分の甲斐性、よう考えなあかんわのう」
 傷心の誠治に一層の打撃を与えたヤスエの強烈な皮肉である。
 返納された結納品一式は、日の目を見ることもなく田島家の物置に仕舞われたままになっていた。新品のまま中古化運命にあった。
 そんな過去があるせいで、ヤスエは誠治の言葉を一発で認めようとはしなかった。
「痛い目に遭うんは、お前なんやから……」
 ヤスエは意味深な口調でしみじみと誠治を諭すように言った。
 誠治が恋人の三千代を伴って帰って来たのは、夕方の六時過ぎである。既に辺りは薄闇が広がって、一層寒々としていた。
 家の前に車を停めると、誠治は顔を赤らめて三千代を振り返った。
「ここが僕の家や。古臭い田舎の家やろ。デカイのだけが取り柄や。ヘヘヘヘ」
 誠治は、やや興奮気味の時分を悟られまいと、照れ笑いで誤魔化した。
「なんか怖いな」
「どうして?」
「だって……」
「心配いらへん。いつも話してる通り、うちの家族は、気ィー使う必要あらへんのやから」
 誠治は、弱気になっている三千代を、自分が守ってやらなければと、騎士になったつもりで気負っていた。
「アレ?いい匂いがするぞ!」
 車のドアを押し開けると同時に、空腹を思い切り刺激する旨そうな匂いが誠治の鼻腔を襲った。すき焼きである。好物なだけに、まず間違いない。
(もう始めてるのかな。彼女を連れて来ると連絡しといたのに、ちょっとは待っててくれりゃいいのに。全く気が利かへんねやから……!)
 誠治は頬をプーッと膨らませた。気の利かない家族だと、三千代に思われはしないかと気が気ではなかった。
「夕食中みたいね。わたし、迷惑じゃないかな……?」
 予想通りに三千代が表情を曇らせて訊いた。そんな気配りが出来る彼女に誠治は惚れたのだが、自分の家族が彼女に気を使われる対象なのに、情けなくてイヤだった。
 ひと言文句を言ってやろうと覚悟を決めて、誠治は思い木戸を開けた。
「お帰り」
 いきなり声を掛けられて飛び上がった。玄関口で待ち構えていられるとは思いもしなかった。誠治はキョトンと立ち尽くした。
「えろう遅かったやないか、お前ら。さあ、はよ上がれ。…あ、あんたも上がりんな。腹も空いてるやろが」
 父親が人の好さを丸出しにして言った。誠治の背に隠れるように寄り添う三千代に、ペコリと頭を下げた父親の顔は心なしか赤らんでいた。根っからの照れ性なのである。誠治はその性格をそっくり貰っている。
 客間にデーンと据えられた大きな座敷卓の上で、グツグツとすき焼きは煮えていた。ちょうど頃合いにたき上がっているため、部屋中にすきっ腹を刺激する美味な臭いが充満していた。
「お父さんがな。もうそろそろ来るんちゃうか言うて、たき始めはったんや。まだ早いがなって、私らは止めたんやけどな。いや、もう帰って来おるわいいうて承知せんでなあ。そいが、ほんまにピッタリやがな、驚いたわ」
 いつのまにかヤスエがビールとジュースを盆に載せて立っていた。三千代にやはりペコリとお辞儀すると、目をツツいっぱい細めて笑った。どうやら、ヤスエは、父は、三千代に好感を持ったらしい。誠治は満足げに頷いた
。(続く)
(1990年12月22日神戸新聞掲載)
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家族・その1

2015年02月23日 00時02分51秒 | 文芸
家 族

「…もしかしたら、今日、付き合ってる女の子、連れてくるかも知れん…」
 唐突な誠治の言葉に、飯をよそっていた母親のヤスエは、一瞬キョトンとした。次に苦笑すると、またかと言った風に誠治を見た。
「ほんまの話やで。この春ごろから付き合い始めた相手や。ちゃんと結婚を前提の、真面目な付き合いしてるんや」
 誠治はヤスエを納得させようと必死になった。口が自然に尖って、口の中の飯粒が飛び出すほどの勢いで弁明した。
「汚いがな。食べるんと、喋るんと別々にしいな。まあ、行儀の悪いこっちゃ」
 ヤスエは顔をしかめると、誠治を咎めた。
「あ、悪い」
 誠治は口を押さえて、頭をペコッと下げた。眼だけでギョロッと見上げると、
「だけど、ほんまやからな」
 しつこく誠治は念を押した。
「どんな女の子やいな?」
「ええ子や。俺の事、よう理解してくれてる」
 誠治の顔がくしゃくしゃになった。
「この子は、また鼻の下、長うしてからに。ほんまに懲りへんのやさかい、しゃーないな」
 yスエは呆れ顔で言った。無理のない話で、今まで何度となく息子の話を素直に信じては、結局はぐらかされて来ていた。結婚しようと付き合っていた女性の話は、今回で確か四度目である。すぐに信じられるはずがなかった。
「大丈夫やて、今度は間違いあらへん」
 誠治は口をキッと結んで言った。彼自身、今回の相手を逃がしたら、もう終わりだと自覚している。真剣にならざるを得なかった。勿論、過去の結婚話も真剣ではあったのだが_」
 1度目は職場で知り合った女性である。数度デートしてから結婚を約束した。早計かなと言う危惧はあったが、そっちの面では相当の晩生である誠治の焦りが先行した。当時、既に三十歳、それでいて女性と付き合った経験は皆無という政治が焦っても当然だったろう。
「俺は、もうこの年や。遊んでる余裕はない。結婚を考えた付きあいしかでけへんさかい」
 誠治のやたら正直なプロポーズに、相手はしっかりと頷いてくれた。恋愛が始まったばかりの興奮が、彼女にそうさせたのだと後日知ったが、その時点ではもう有頂天になっていて、単純に喜んだ。
 しかし、相手は十九歳、冷静になるというか、飽きるのも早かった。
「年の差が気になってしもて…もうダメ!」
 最初から分かり切っているはずの条件を理由に相手は離れていった。あまりにも呆気なかった。
「それ見てみい、お前に女の子と付き合えるはずないんやがな」
 結婚相手が見つかったとふぃちょうしていたせいもあって、ヤスエの皮肉はきつかった。
 二度目は、1度目の失敗が頭にあったせいか、五つ年上の女性と付き合った。利己の体験者だったが、誠治は全く気にもかけなかった。今度こそ間違いないとヤスエに報告した直後に、いともアッサリと別れが来た。
「あの人と、結婚できなくても、傍にいたいの。だから、あなたとは結婚できない…てんごめんね」
 誠治のほかに付きあっている男性がいて、しかも妻子持ち。最終的に彼女は誠治より、そっちを選んだのである。不倫なんて小説家テレビドラマの中での話だと思っていた誠治は、思わぬ成り行きになす術はなかった。相当なショックを受けて、しばらく立ち直れなかった。
「やっぱり、お前が自分で嫁さん見つけるなんて土台無理なんや。そら見合いしかあらへんわな。お母ちゃんらに任しとき」
 ヤスの道場めいた皮肉に、誠治は深く傷ついた。彼の傷心ぶりは傍目にもはっきりとわかり、憐みの混じった同情を受けた。
 鬱々と楽しまぬ日々を送る政治を見兼ねて、ヤスエと父宏正は見合いの話を次々と探して来た。どれもこれも政治のフィーリングに合わず、すぐに断った。
 そうするうちに三度目の恋愛。M女子大四回生で小学校の教諭を目指す女性だった。彼女とはトントン拍子に婚約まで漕ぎ着けた。大学卒業を待って結婚式を挙げる約束で、結納まで交わし、式場から新婚旅行までの予約一切が済んで安心していた矢先に、
「ごめんなさい。私…結婚できないわ。小学校の先生になりたいの。蚊のせいに賭けてみたいの」
 と、彼女はいきなり言い出した。教育実習に出て、ちいさな教え子から「先生、先生」と慕われて、すっかりその気になってしまったのだ。
 必死の説得も空しく、、彼女の心変わりの逆転ならずで、ついに婚約破棄を迎えた。誠治は両親の顔をまともに見られなかった。
(続く)
(1990年12月22日神戸新聞掲載)
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好きこそものの上手なれ

2015年02月22日 00時12分30秒 | 文芸
好きこそモノの上手なれ
病院に着いたのは深夜。母危篤の連絡に取るものも取り合わず車を飛ばしたのだが、結局一時間三十分近くかかってしまった。閑散とした病院の駐車場に乗り入れて、急いで携帯電話を手にした。守衛室に連絡を取った。
「表に回って下さい。いまドアのロックを外しますわ」
 何とものんびりした口調だった。しかし、これで病院に入れるのだ。
 ひっそりした病室のベッドに母は眠っていた。昨日までの荒い息遣いはなかった。
「一時四十二分に亡くなられました。おいでになるまでと先生も処置をされましたが、引きのばしは無理でした」
「いえ、ありがとうございました」
 母の遺体を目の前に、看護師との受け答えは淡々としたものになった。それは私がいい大人であり、いい年齢だからだった。それに前日までの母の状態を見て覚悟を決めていたせいでもある。
 母と二人きりの時間。入院してチューブで生きながらえる状態になってからは、隔日にベッドのそばに付き添ったが、カクシャクとしていたころは、滅多に二人で向き合う時間は取れなかった。母の傍に居たのは兄の家族で、私は自分の家族との生活があった。いま後悔している。元気な母の話を聞き、私の話を聞いて貰えばよかったと切実に思う。
 私は極端な『お母ちゃん子』だった。末っ子だから、母は可愛くて堪らなかったのだろう。二人しかいない息子の一人を事故で喪ってから、母の愛情は俄然私一人に向いた。何かにつけて息子の家族の世話を焼いてくれた。私はそれを煩わしく思ったりしたのだから、まさに親の心子知らずだった。いくら後悔しても、もう母は生き返らない。
 何も語らぬ母と水入らずで送る深夜の時間。無性に悲しくなってきた。張っていた大人の虚勢が時間と共に緩んできたに違いない。私は母が惜しげもなく愛を注いだ子供に戻っていた。(お母ちゃん……)胸が熱くなった。目を閉じると、若く美しい母の姿が浮かぶ。私の人生の岐路に必ず立ち会ってくれた母の姿が蘇ってくる。
「ええか、よう覚えときや。お母ちゃんに似て内弁慶のお前が社会に出たら、しんどい目に合うのは分かりきっとる。そやけど固い殻ん中に閉じこもるんやないで。喋れんでもええ。その分、仕事を、人を好きになったらええ。言葉なんかのうても好きになったら向こうも好きになってくれる。そしたら、お前も生きやすうなる」
 母がこんこんと諭すように言ったのは、私が不祥事を起こして高校を退学せざるを得なくなった時である。仕事に忙しい父は子供の問題は母に任せた格好だった。母の言う通り、私の性格は母そのものだった。人との付き合いが苦手で、一人で何かをコツコツやっていた母を常に身近に感じて育ったのだ。そっくりで当然かもしれない。
「そら一人で楽しめるんが一番やけど、お前は男やろ。社会に出なあかんのや。女のお母ちゃんと違う。そやから、仕事も周りの人も、何でもええとこ見つけて好きになることや。好きなもんは誰でも努力が出来る。努力したら成果が出るやろ。そしたら周りが認めてくれる。好きこそモノの上手なれ、やがな」
 箱入り娘で育ち、父を養子に迎えた母。たぶん我がまま放題に生きて来たのは間違いない。その母が、挫折のさ中にいる息子を放っておけなくて口にした言葉。母なりに大事に記憶していたのだ。尋常小学校でしか学べなかった時代。女に学問は必要ないとされた時代を生きて来た母が発した言葉。息子だから私はそれを信じて受け止めた。 
高校を受け直して工業高校に入った。普通科に通っていた私は、工業高校が何たるかを知らなかった。学ぶのは電気科。教科書を見てもちんぷんかんぷんだった。やる気が起こらなかった。電気技術の実習など興味がないから逃げ出したくなる。とにかく高校を卒業さえできればとの打算だけで我慢の学校生活を送った。クラスでも、「自分は落第生」との意識が強くて、一人もんもんと机にかじりついていた。
「どない?学校は」
 母はわざわざ部屋に入って来て訊いた。敏感に私の鬱々した気分を悟ったのだ。
「まあまあ、やってる」
「なんか好きなもん見つけたか?」
「え?」
 いきなりの問い掛けに驚いて母の顔を見直した。優しい笑顔が、そこにあった。
「好きな教科は?」
「……国語……かな」
  小さい頃から本の虫だった。自分の世界に閉じこもれたからだった。だからあえて言えば国語は苦手ではないのだ。
「へー、すごいすごい。好きなんあるやんか。よし、国語を頑張って勉強したらええ。好きなんやから、ええ点取れるよう努力しい。あとのんは、程ほどでええから」
 私は口あんぐりとなった。母の思わぬ反応に戸惑った。通う工業高校電気科の生徒にはさほど重要でない国語を頑張れと言うのだ。好きだからと言う理由だけで。しかも好きな教科があることを底抜けに喜んでいる。
 母の言葉に従って、テスト勉強は国語を中心にやった。するとどうだろう。勉強が楽しい。国語の勉強はどんどん進んだ。母の言う好きになった効用だった。
 学期末の試験で国語の成績はクラスのトップになった。嬉しかった。その影響は大きかった。次々と好きな教科が生まれた。英語、数学……電子理論、電子工学……。好きな先生、頼れる同級生仲間も出来た。相乗効果である。その先生の指導で校内弁論大会で優勝、地区大会の学校代表となった。さらに地区弁論大会に入賞。その実績で生徒会長に立候補して選ばれた。どんどん好きな世界が広がった。
「よかったなあ。お母ちゃんの言うた通り、好きこそモノの上手なれやろ」
 喜び過ぎてクシャクシャになった母の顔。自分の言葉を信じて実践した息子の成長が嬉しくてたまらなかったのだろう。そんな母が輝いて見えた。
 私はベッドの上から覗き込んだ。魂を失って横たわる母の顔は白かった。大柄だった体がまるでミイラのように縮んでいる。母の顔に触れんばかりに屈みこんで、シワシワになった手を握った。さすった。何度も何度も。不肖の息子に溢れんばかりの愛をくれた母に感謝しながら、優しく優しくさすり続けた。
「好きになったらええ。それが始まりや。好きこそモノの上手なれやで」
 母の声が聞こえる。(うん!そうやお母ちゃんの言う通りやったわ。おかげでなんとか自分の家庭を持てるまでなったんやもんな。ありがとうな、お母ちゃん)
 思い返せば、私が好きになった一番手は、間違いなく……母だった!
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コラム4

2015年02月21日 00時34分48秒 | Weblog
ニッコリ、車掌さん

 幼稚園と小一の子を連れ、二歳の子をだっこして大阪へ夫婦連れで出かけるはめに。夏休みでJRも阪急電車もギュウギュウ詰めで、座れることはまず絶望的でした。
 所用を済ませて帰る電車もやはり立つしかなく、その二人の子も、末っ子をだっこし続けの夫も、もう限界の様子で、ハラハラ。
 その時です。通りかかった阪急電車の車掌さん。若い方でした。子供にニコッとされると、キョロキョロ。そして「ちょっと待っててね」と、若い女の子がグループで座ってる席へ素早く行かれ、
「ごめんね。君ら、席譲ってくれへん?」
 と、まるで友達みたいな気軽さで声をかけられたのです。
 若い女の子たちも最初ビックリした感じでしたが、こちらを振り返ってやっぱりニコッ。サッと立ち上がり、
「どうぞ座ってください」。
「いや、いいです」
 と恐縮する私と夫でしたが、
「ハイ。ボクら、ゆっくり座ろうね」
 と、車掌さんは子どもたちをその席へ。結局、私たちも後に続きました。
「よかったね」とまたニッコリされた車掌さん。女の子たちに「どうもありがとうね」と会釈を残して立ち去られました。
 その車掌さんの手際のよさと、女の子たちの親切な対応といったら……。いまだかって若い人のそんな姿にお目にかかった経験のない、不運な私たちの目を開かせてくれたこの方たちに、感謝の気持ちでいっぱいです。
(和子二十七歳時掲載)

七つの子
 身体の弱い子どもだった。よく熱を出しては寝込み、親父やおふくろに心配のかけっぱなしだった。いつだって、ウンウンいいながら寝ているそばに、おふくろはジッとつきっきりでいてくれた。
 気が遠くなりかけたとき、頭の濡れ手拭いが冷たく置き直された。そのヒヤッとする刺激に意識を取り戻した私は、のぞき込んでいたおふくろの顔をぼんやりと認めることができた。
 おふくろの口は何かを口ずさんでいた。眼はしっかりと私を見守っていた。指が布団の上から私の身体をポンポンと優しく叩いていた。「七つの子」のリズムに、自然と私の口も開いた。
 歌はおふくろがたぶんそれしか知らなくて、子守唄といえばそれだった。声を出す元気もない私の唇が、おふくろと見事にハーモニーしていた。    (恒義四十七歳時掲載)

汲み取りに落ちた亭主
 ウチの亭主は、トイレは水洗じゃないとダメなタイプ。でも私は、実家がいまなお汲み取り式という田舎の家庭で育ったから、どんなトイレでも平気なんです。
 さて、結婚して十数年になりますが、私の実家に一緒に帰ったのは数えるほど。理由は、亭主が「汲み取り式やとワシ、便秘になるんや」というから。だから帰省しても、亭主は便意を催すと、近所のスーパーか喫茶店に出かけて用を済ませるのです。
 ところがこれが、実家の両親にとっては気にくわない。
「田舎を馬鹿にしやがって!」となる。で、便所ひとつで私の実家とは疎遠になってしまいました。
「子どものときから水洗で育っているから、汲み取り式は、どうもイカン」が口癖の亭主。    
彼の関西にある実家だって、ひと昔前までは汲み取り式だったはずです。たかがトイレのことですが、私は結婚して以来、田舎モンの悲哀をしみじみ実感していました。
 ところが最近、何年ぶりかに亭主の兄さんが我が家に寄ったとき、何かのはずみでトイレの話になりました。そしたら、兄さんは、
「こいつは子どものころ、便所に落っこちよってな。それで長いこと怖くてトイレに行けんかったんや!」
 思わぬ亭主の過去に、私も子どもも大笑い。もちろん本人は苦笑いーー。
 何が便秘になるからや!汲み取り式が怖かっただけやんか。アホか!さァ、今度は有無をいわさず私の実家に連れて帰るぞ!と思っている私です。
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コラム2

2015年02月20日 01時14分35秒 | 文芸
道の駅
鳥取に父方の親戚がある。周囲を深い山に囲まれた田舎町だった。ちょいちょい用事で出掛けた。峠を越えて山の中を延々と車で走ると、ようやく到着する。途中休憩する施設など皆無で、疲れを抱えたまま往復した。
 今は峠を越えずに済む快適な道がついている。そして、路線に道の駅が何か所か出来た。おかげで、楽しみが生まれた。
 地元の野菜や特産品が所狭しと並べられた道の駅。飲食も個性的なメニューを楽しめた。行きも帰りも立ち寄るようになった。
 数年前に亡くなった母は同乗すると、道の駅に寄るのを楽しみにしていた。母の大好きな豆腐竹輪が道の駅で買えたからだった。鳥取の名産品が手近に手に入るようになったのは、道の駅のおかげだった。
 高齢の母には不自由な体でも、好きなモノを買い物できる道の駅に出会えたことは、幸せだっただろう。道の駅に立ち寄ると、豆腐竹輪をせがむ母の笑顔を思い出してしまう。
読書タイム?
病院に入院した時、家族へ最初に願ったのは、本の差し入れ。毎日なにかしらの本を読まないとおられない活字大好き世代である。昔なら嵐が丘とか水滸伝など、かなりな長編の世界に没頭したものだが、最近は肩の凝らない推理小説。勧善懲悪なのがお好みだ。
 なかでも大沢在昌作品が最近の愛読書だ。差し入れられたのは『北の狩人』。秋田から上京した若者、雪人と新宿の佐江刑事の痛快無比な活躍を描いている。父の死の真相を求めて東京をさすらう雪人の強さは、今も昔も私の憧れそのもの。手に汗を握り、喚呼する。
テンポのある文体に引き込まれてしまった。いつしか主人公になっている自分に気付く。昔、東映の映画を見た後、主役になり切ったまま家路についたのを思い出した。
スティーブン・セガールの映画を見るような快感だった。一気に読み終わり、爽快な読後感に満足した。病気も憂さも一気に飛び晴らせたようだ。本の力は侮れない。
娘のハッピーシーン!
「お父さん、これ……」
 躊躇しながら娘が差し出したのは一枚の写真。よく見ると、娘が彼氏と底抜けの笑顔でポーズを取っている。
「式場の下見で、係の人が写してくれたの」
「もう決めたんか?ここに」
「あと一つ、彼の推す式場を見に行くの」
 照れ気味に答える娘だが、幸せいっぱいの顔をしている。素直に喜んでやる場面だが、不器用な父親は、やはり仏頂面で、
「ええとこに決まったらええのう」
「ありがとう」
 30年以上父と娘だったのだ。父親が内心で相好を崩しているのは、お見通しだろう。
「素直じゃないんだから」
 妻に図星をつかれるのはいつも。でも、そう簡単に性格は変えられない。しかし……?
 待ちかねた娘の華燭の典が、もう秒読みに入った。さすがの仏頂面も、そろそろかなぐり捨てる時期が迫って来ているようだ。
夜行バスさまさま
四十年ぶりの東京行き。ある公募に佳作となり、その表彰式に招待された。会場は東京。交通費は新幹線利用で計算されたものの六十%が支給される。これを逃したらもう二度と東京には来れないだろう。なんとか交通費を安くしたいと、ネットで検索。安くできれば、東京で遊べる費用が捻出可能だ。
 せこい考えで調べた結果、高速夜行バスが一番格安だ。すぐさま予約した。
 夜行バスは片道八時間ちょっとかかる。それで平日四千円台。かなりなお得感だが、その分我慢の旅程だ。夜行バスは窓をカーテンで遮って外部と遮断が決まりらしい。そして早い時間から消灯される。そう簡単に寝られない分、退屈すぎて辛い。足を存分に延ばせない狭い席で辛抱の道中だった。
 帰りも同じ。家に帰ると、ドーッと倒れこんだ。旅の思い出は夜行バスのしんどさだけ。
 もし次の機会があれば、節約も程々に、新幹線か飛行機で快適な道中を過ごしたい!
老化現象イヤ!
「もう!なんて恰好してるの。何でも着ればいいわけじゃないでしょ。体裁ってものがあるのよ。買い物で一緒に歩けないわ」
 久しぶりに妻と買い物へ一緒に行こうと誘われたのに、もう言いたい放題である。
 確かにあるものを手当たり次第に重ね着したが、寒い思いはこりごりって理由だけ。
「これ見てごらんなさい。」
 妻が出して来たのは古いアルバムである。開いてみると、えらくスマートな男女の写真が貼ってある。結婚した当時の私と妻の写真である。しまった体つきはともかく、着こなしもすっきりと整っている。我ながらほれぼれする男ぶりではないか。思わずニヤリ。
「わかった?私の結婚相手はこんなに素敵だったのよ。それが……あ~あ~」
 妻のこれみよがしな悲嘆ぶり。でも、どうしようもない。自分のポッコリおなかを見る。
「これじゃー、いくらおしゃれしてもなあ」昔は簡単に諦めはしなかったけど……。




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きょうこのごろの記

2015年02月19日 01時10分47秒 | 文芸
告白された記念日
 好きになった相手を、ただ見守るだけしか出来ない。内向的な性格で、思いを正直に告白などとても無理な話だった。
 やはり、彼女にも片思いだった。相手に好きだとはやはり打ち明けられない。(また、失恋かな……)でも、彼女を遠くから見ているだけで不思議に幸せだった。
「あのう、今度のゆかた祭り、一緒に行ってくれませんか?」耳を疑った。信じられなかった。でも彼女の笑顔は目の前にあった。
 初めてのデートは、楽しかった。でもよそ行きの態度しか取れない自分が情けなかった。好きな相手が手の届くところにいても本音が出せない。すると別れ際に彼女が言った。
「これからも付き合って下さい。前から好きだったんです。でも、声がかけられなくて。やっと思い切って誘えて、よかった!」
 逆告白で、私はやっと恋人を手に入れた。プロポーズも彼女がしてくれた。以来三十年近く、婦唱夫随のしあわせ関係が続いている。
節分ごっこ
「年の数だけ豆を食べたら、この一年幸せに暮らせるんやで。さあお食べ」
 父の言葉に従って、兄と競って大豆の炒ったのをボリボリ食べた。ふと父が豆を食べないのに気づいた。いま考えれば、四十何粒もいっぺんに食べるのはむちゃくちゃなのに。でも、幸せを約束してくれる豆なのだ。
「どうして食べないの?幸せになれないよ」「おとうさんは鬼になるからええんや」
 とボール紙で作った鬼の面をかぶった父。赤いクレヨンで書きなぐった赤鬼はかっこよかった。「ウォーウォー」と手を上げて襲いかかる真似をする父から、「キャッキャッ」と逃げ回った。豆は家の外にまいた。鬼の面をかぶった父も一緒になってまいた。
「鬼は外!福はうち!」
 最近豆をまく光景は身近に殆ど見かけない。恵方巻きの丸かじりに凌駕された感がある。どうも物足りない。鬼とはしゃぎ回ったあの行事は家族の絆作りにつながったのに。
娘の結婚式を前にして
「今日、結婚届を出してきたよ」
 2月に結婚式を控えた娘の報告に、思わず彼女の顔を見なおしてしまった。
 とうとう来たか。愛する娘がドーンと遠くに行ってしまった気がする。名字が変わってしまったのだ。無性に寂しさを感じた。
 免許証をはじめ、通帳、保険……と書き換えを早めに済ませて、新婚生活に備えようと、毎日あれこれと忙しい娘を見るにつけ、男親の無力さと侘しさが募る。なんと存在感が薄いことか。娘といつも付き添って行動する妻が羨ましくてならない。
 そこで始めたのが、結婚式にむけて花の絵手紙の製作。招待客に一枚一枚配ってやろうと、四季折々の花を手描き、幸せいっぱいの娘の気持ちを代弁した言葉を筆に託して書き添える。父親の愛をそこに込めて。
男親ってどんなん? 
さて、結婚式で男親の存在感を認めて貰えるだろうか?それにしても、名字の変更、少し早すぎるぞ。胸のうちでボヤきっぱなしだ。
長女の結婚話が着々と進む。(やっとその気になったかと…)とひと安心である。   ところが、お互いの家族の顔合わせ、結納、結婚式場の打ち合わせ……と具体的に進みのに一向に相談がない。花嫁荷物の買い物も、仲間外れで、妻と娘がなかよくデパートに出かけるのを黙って送り出す。なんとも侘しい。
「土曜日に結納に来られるから家にいてよ」
「水曜日の大安、荷物を運び入れるからね」
 声がかかるのは、その場に父親が必要な時だけ。それも直前である。わたしの予定などお構いなしだが、愛する娘のことだから慌てて予定を調節して間に合わせた。
 ところが古い友人との何十年ぶりの対面日が、その日に重なった。相当前に告げていたので、優先した。帰宅すると不機嫌丸出しの妻のきつい皮肉が待っていた。
「これだから男って、もう頼りにできないんだから。本当に父親の責任感じてるのかしら」
 おいおい、それはないだろうが!

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