大阪教育合同労働組合書記長から 首都圏反原発連合へのメール/CMLから

2012-07-23 09:18:31 | 社会
大阪教育合同労働組合書記長 竹林 隆さんから
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先週金曜日(20日)の夜、組合として、大阪での関電前抗議行動に参加してきました。そこであったことについて先ほど、以下のメール文を首都圏反原発連合にあてて送りました(なぜ、大阪でのことを首都圏に対して送ったかという理由は文中に書いてあります)。

この一連の問題について、もっと議論がされるべきだと思いますので、メール文を紹介します。

【以下、メール文引用】

首都圏反原発連合のみなさん、毎週の官邸前抗議行動の運営、お疲れ様です。

私は大阪で労働運動をしている竹林といいますが、一昨日7月20日(金)の18時、大阪の関電本社前の抗議行動にはじめて組合として数名で参加しに行きました。

そして行動に参加してしばらく(およそ30分ぐらい)たったころ、「STAFF」の腕章を付けた方が話しに来られて、「組合旗を下ろしてほしい」と求められました。それで、そのことについて結局、行動の終了時間までずっと議論を続けるという状態になってしまいました。とても残念です。

そしてそのことをなぜ、首都圏反原発連合のアドレスの方にお送りするかというと、その時の主催者の話の中に「私たちは運営や方針などすべて首都圏と連動してやっている」との説明があり、大阪の「TwitNoNukes大阪」のHPを見てもどこにもメールアドレスが記載されていないので、やむなくそちらにお送りすることをご了解ください。

さて、関電前で主催者の方たちは私たちに対し、おおよそ以下のような説明をされました。

「この運動は<再稼働反対>のシングルイッシューで集まっている」
「組合旗があるとみんな足が遠ざかってしまう」
「安全で安心な行動を守っていきたい」etc.

ちなみに私たちは何も、組合としてのアピールをマイクで訴えるなどということをするために関電前に行ったわけでもなんでもありません。ただ、日ごろ組合として取り組んでいる反原発の闘いの延長として、みんなで行こう、ということになったのです。主催者に声をかけられるまでずっと、みんなと一緒に「再稼働反対!」のコールを上げ続けていました。

この日一緒に行った30代前後の若い組合員たちの中にも、これまでにこの行動に個人として参加した者もいます。私も何度もそうしていました。けれど、いつまでも個人の課題ではなく、さらに闘いを広げるため組合として参加しようと議論しました。そして、「TwitNoNukes大阪」のHPに記載された「特定の政治団体」に労働組合は該当するか? しない! 「特定の政治的テーマ」に
労働組合名は該当するか? しない! と一つ一つ検討した上でこの日、組合旗(といっても正式な組合旗ではなく、縦長のいわゆる「のぼり旗」です)を持参して参加したわけです。

なお、もし、労働組合というものを「特定の政治団体」と認識されるのでしたら、根本的な理解が一致できません。この点について、大阪の主催者は「労働組合のバックには支持母体の政党がある」という何とも許しがたい発言をして、私たちの怒りを買っていました。私たちの組合には、100%一切特定の政党との支持関係はありません。むしろ、そういう主催者側の発言の背景にこそ、これまでの既成の労働組合を見聞して訳知り顔になっている意識、旧態依然とした古い価値観が牢固として存在していることを見せつけられました。

私たちも、そして皆さんも、オルタナティヴな社会を、もっと新しい価値観の社会を目指しているのではないのでしょうか?

また、私たちは最初、この運動は<反原発>の一点で結集しているかと思っていたのです。シングルイッシューで結集、というのはそう意味で理解していました。が、そうではなかったのですね。一昨日の主催者の話によると、原発労働の問題だとか、先住民のウラン被曝の問題だとか、核燃料の再処理問題であるとか、原発利権=原子力村の問題だとか、そういったことも持ちこまれたら困る、ただただ<再稼働反対>のコールを上げることだけで集まっている、ということだそうです。

率直に言って、それだけを続けていて反原発運動が前進するとは思えません。

また、「組合旗があると足が遠ざかる」とも言われましたが、その彼は「みんなそう思っている」というので思わず、「じゃ、アンケートでもとったのか」と言わずもがなのことを言ってしまいました。

考えても見てください。「労働組合の旗があるとみんな怖がる」「労働組合の旗があるので足が遠ざかる」、これらの主張をして喜ぶのはだれですか。今、私たちの組合の周りでも増えている20代、30代の非正規労働の問題を考えた時に、そう、今、首相官邸前や関電前に集まっている多くの若者がそうであるように一方の富裕な正規労働者と、巨大な非正規労働者の海をつくりだして対立させ、労働組合というものはそんな正規労働者=恵まれたものの組織なんだから気にしなくていいよ、なくなってもいいよ、と思わせて得をするのはだれですか。

現実には、そんな非正規の労働相談の一つ一つを丁寧に取り上げて使用者に非を認めさせ雇用・労働条件を獲得してきたのが労働組合じゃないですか。

たしかに、一部の正規労働者のみの大手既成組合で御用組合としか言いようのない組合はあります。その筆頭が電力総連でしょう。

しかし、私たちの組合は断固として違う! 正規ー非正規の分断を乗り越えることをずっと追求してやってきました。そんな私たちにとって、反原発の課題も、<組合とは別に個人で勝手にやってたらええやん>というものではないんです。職場にも原発の問題はあるんです。それを職場での闘いで、組合としてこの間闘っています。この社会のあり方<パラダイム>を転換させるための大きな課題に原発問題があり、日常の職場闘争とも通底しているのです。

そのことを無視して、「あんたたちも、組合とは関係のない個人としてきてくださいよ」というのは、私たちに、トータルな人格を分裂させよ、と言っているのと同じなのです。

言い方を変えましょう。関電前で主催者の方が私にこう言いました。「心の中で組合員であってもいいから、ここの場ではそれを表にあらわさないでくれ」と。

本当に絶望的な怒りと、悲しみを覚えます。

この言いぐさは、あたかも、「日の丸・君が代」を強制する文科省・教委・首長・裁判所がみんな口をそろえて私たちに言ってくる「心の中で『君が代』に反対するのは自由だが、卒業式ではそれを外形的に表すのはダメだ」と鏡のように相似形です。

さらに、そんな議論をしている私たちに対して、ほかの参加者から「ルールは守れよ!」という声がかかりました。この声は「『君が代』起立のルールは守れよ!」という「市民」の声と重なります。この場での「ルール」確定に私たちがかかわった記憶はありません。いつの間にこの国は、<どこかのだれか>が決めた「ルール」と呼ばれるものをアプリオリに「守らなければいけないもの」とみなしてしまう心性ができあがってしまったんでしょうか。

で、一方で、この関電前行動でも「日の丸」の旗を持っている者もいます。毎回何人かいます。主催者の説明では「彼らにも、遠慮してくれと言っている」とのことですが、実態として変化はありません。東京では、主催者が「日の丸」に抗議する参加者に対して「あれはただの旗だ」と説明した、とも仄聞します。


こうなってくると、本当に私たちは理解不能です。「日の丸」は「ただの旗」といいなして、労働組合旗に対しては「怖がる」「足が遠のく」と言い募る<反原発運動>って、何なんですか? あなたたちは、どこに立って
いるんですか?

まさに、原子力ムラの巨大利権に群がってくる政財官の有象無象のオヤジやジジイ連中がつくっている共同体の表象が「日の丸」じゃないのですか?

ところで、前述のように、私たちに対して主催者の方はこうも言いました。「安全で安心な場を確保したい」と。組合旗があればそれが確保されないそうです。

いま、私たちは大阪の地で、必死に、本当に文字通り必死に、橋下による労働組合潰しと闘っています。橋下はさかんに、あの手この手で労働組合というものは無用なものだ、むしろ危険なものだ、と市民に刷り込もうとしています。

それに対し、私たちは必死で、労働運動は社会的運動の重要な一つであり、この貧困・格差社会の中での欠かせないセイフティ・ネットの一つだと自負しています。

そんな橋下と闘っている私たちに対して、反原発の行動の中で、主催者側から、「組合は<安全>で<安心>なものではない」という偏見に基づく説明をされたことに抗議します。

その主催者の説明では、要は、この場での判断基準は、「再稼働反対」の一点の運動かどうか、そして結局のところ「見た目」(外形的に、「うちら、個人で来たでぇ、ほら、こんなにデコッたプラカードもつくってきたしい~!」というようなレベルの問題)だということです。その基準に労働組合は合わないと判を押されたということです。

結論として今回、私たちは、いくら主催者が「実力で排除はしません。あくまでお願いをします。これからもお願いをします」とは言
っていても、精神的には完全に排除された、との感を深くします。

しかも、そこで聞こえた言説が、橋下や教委の主張とうり二つであったことに何とも言いようのない情けなさや哀しさを覚えます。

「STAFF」の腕章をして走り回っている主催者の多くが若い人たちであるのに、その体現する価値観がなんと古色蒼然としたものであるかということにめまいを覚えます。

私たちは、このような現行方針の撤回・変更を求めます。そして、労働組合に対する不当な偏見は絶対に許せません。

わたしたちが今後組合としてこの行動にどう参加するか、しないのかは私たちで決めます。しかし少なくとも、今回の私のメールに対するレスポンスは何らかで公開の形でしてもらえたら、と思います。


【中略】

よろしくお願いします。

2012年7月22日 大阪教育合同労働組合書記長 竹林 隆

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大阪教育合同労働組合HP
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大阪教育合同労働組合書記長から 首都圏反原発連合へのメール(2)/CMLから

関電本店前反原発抗議行動・団体の幟・旗について(大阪教育合同労組への返信)/TwitNoNukes大阪から

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72 コメント

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Unknown (あいくん)
2012-07-23 12:52:00
おっしゃることは当然の主張だと思います。
官邸前には毎週行っていますが、別に組合の旗を持って参加する人がいても違和感感じる方が変ですし、事実17日の代々木十万人集会では色とりどりの旗が立っていて何も不都合はなかったと思います。
何で官邸前や関電前がダメというほうがおかしいです。その一方で反原連の旗や右翼が掲げる日の丸は許している。明らかにこのやり方は独善的で排他的です。
デモにおいてそれぞれがそれぞれの主張をするのは本来自由だと思います。
NYでもロンドンでもカイロでもそう。
官邸前だけがおかしいのです。気にしないでやればいいと思います。
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反原連は、民主集中制? (颶風颯)
2012-07-23 13:13:42
この件では、東京でも反発するものが出ています。
 なんていうか、共産党の民主集中制みたいで、民主的と言いながら、実は幹部の司令絶対という感じですね。
 シングルイッシューで集うのに不可欠なのは、「小異を言わない」ことではなく、「小異を否定しない」ことだと、私は思うので、反原連幹部の態度は変な感じを受けています。
 官邸前も関電前も彼らの私有地ではないこともあって、彼らがそこに集う人に命令できる根拠はないと思います。関電前で再稼働反対はいうけど、反原連の抗議活動に参加しに来ているわけではないと言えば、済んでしまうことですね。そして、彼らの行動はそういう風に行動する人たちを増やしているだけだと思います。
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Unknown (Unknown)
2012-07-23 13:24:18
一個人として官邸前の抗議に参加している者です。

私はのぼりを下してほしいと思います。主催がどうこうと言うのではなく、一部右翼系のマスメディアがそれを切り取り、「左翼に動員されて集まった連中」と決めつけられ、抗議に足を踏み出せない人がまだ少なからずいる、ということを認識していただきたいと思います。

抗議に参加した私からすれば大した問題ではないのですが、参加を躊躇っている人からすればそれは大きな問題でもあるのです(私自身、抗議に参加したと周囲に言っただけで危険人物と思われている、正直世間の原発に無関心な人が多いことに危惧しています)。

そのことを守ってきたからこそ官邸前にこれだけの人数を集めることができたのだと私は思っています。

やりきれない部分があるのはごもっともですが、どうしても旗を掲げて唱えたいのであれば、別の日に主催して抗議されたほうがいいのではないでしょうか。変に首都圏連合に抗議して敵対するよりはいい意味で競争意識を持ったほうが前向きな脱原発運動に繋がるのかと思います。
返信する
独裁ではなくイメージ戦略でしょう (gari)
2012-07-23 16:55:51
失礼ですが、労働組合は、今とてもイメージが悪いのです。本来は、あなたの言われているとおり、労働者の権利を守るために奔走する組織であったはずですが、現状では正規雇用者の権利を擁護するために非正規雇用を認めたり、または、消費税反対など庶民の味方をするはずなのに、消費税の容認をしてしまったり、その旗には泥がついてしまっているのです。つまり、組合旗=裏切り者のイメージがついて回る。あと、組合旗自体が過去の全共闘の失敗を連想するものであり、あまり印象が良いものではないのです。古いイメージがついて回ります。前時代的なもの、それが組合旗のイメージです。過去のデモの印象を引きずる組合旗、そして、そのデモは失敗した。つまり、あれは失敗の象徴なのです。それを無理に引き出すよりも、人が集まることを重視した。それが主催者の意図だと思うし、その点は間違っていないと思う。
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Unknown (Unknown)
2012-07-23 17:00:58
関電前の抗議に行く前はデモなどに参加してましたが、
デモから足が遠のいたのは組合などの団体が多かったからです。

全ての団体がそうではないと思うけど、あまり関係ないチラシを配ったり、物々しい雰囲気になってることが多く、こういう雰囲気なら行くのをやめよう…とデモに行かなくなりました。

関電前の抗議には何回か行ってますが、行ってる理由は何かの団体ではなく、個人個人が集まってる雰囲気が安心できるので行っています。

回を重ねるごとに、のぼりを見かけることも増えましたが、
コッチも雰囲気が変わってきたな…と残念に思っていました。

組合や団体の方が参加するのは素晴らしいことだと思うので、のぼりなど掲げずに参加してはどうでしょうか?

若い女の子や、会社帰りのサラリーマンなど、デモなどに参加しない人々が、なぜ金曜日の抗議には参加しているか…
特定の人達が集まっているんじゃなく、個人個人が集まってる雰囲気だからです。

私は、もしあの場にデモのように組合などののぼりが多くなったら、行くのを躊躇うかもしれません。

主催者の意向が納得いかないのであれば、別の日に、別の形で抗議されることを願います。
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代案 (法廷)
2012-07-23 17:17:02
長く反原発運動をなさってきた方々にとっては、誇りを傷つられる話だとお察し申し上げます。

聞いたところでは、たとえば「再稼働反対!」というメッセージを大書きして、隅っこに組合(グループ)名というレイアウトならOKとのこと。某大学の自治会ののぼりは、これで文句を言われなかったとか。

ご納得いかないかもしれませんが、時代が皆さんに追いつきつつあるのですから、ここはひとつ、運動の灯を絶やさないご高見を。
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STAFFの方に同意 (通りがかり)
2012-07-23 17:17:45
これはSTAFFの方に全面的に賛成。上の方が述べているように、原発推進派からは、「やっぱり反原発運動というのは左翼運動なんだ」という絶好の宣伝道具にされるだけでしょう。反原発派の中には少なからず保守層もいるのでそうした人にとっては足が遠き、広範な国民運動のはずが左翼運動に純化してしまうかも知れません。
また、そもそもなぜ組合旗を掲げるのか不明です。自己ピーアールでしょうか? 労働運動でなくて反原発運動なのだから組合旗は不要なはずでしょう。
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私の考えること (おやじ)
2012-07-23 17:29:24
反原発の一点で集まるとき、反原発以外ののぼりや旗を自粛してもらうのか、それとも全ての旗を認めるのか。このいずれしかない。主催者が前者と決めたのであれば、それに従う。嫌なら別の集まりに参加すればよい。組合旗、日の丸持ちたい人は、それぞれそれが許されるデモに参加すればよい。私自身は、反原発運動でいろんな旗をもっても問題ないと思うが、しかし主催者の提示したルールに従うことが主催してくれた人たちへの礼儀ではないか。そのルールが駄目なルールなら、その運動は人を集められないし、駄目だということなのだから。

この投稿者は橋下と闘っていると言うが、橋下のファンだって、この反原発デモにはいるのかもしれないのである。独善を排し、無用な摩擦はできるだけ避ける。これが、これまでのデモや集会とは違う点である。それほど原発問題というのは広範な人々を招来せしめているのである。これまでの運動との作法の違いは留意すべきではなかろうか。
返信する
Unknown (Unknown)
2012-07-23 18:37:09
 こんにちは。遠隔地(どこから見て!ということでもありますが)に暮らしており、まだ、デモに参加したことがありません。ユーストリームでデモの映像を、ときに泣きながら見ています。参加されている方ありがとうございます。
 お書きになっていること、本当に胸が痛くなるようで、おっしゃるとおりだと思いながら読みました。しかし、現実的に、と考えたときに、とても複雑で難しい対立の種があると思えました。ひとつは、人数が増えたとたんに最前列あたりに現れた運動家的な人たち。警察のいうことを聞くな、突入しろ、というようなことを口にして場が騒然としていました。もちろん、この人達とは違う、ということが分かる人には分かりますが、そうでない人にとっては、団体旗とこうした戦闘的な旧態依然としたひとたちというのは結びついて捉えられてしまうというのは、現実としてあるでしょう。また、そうしたときに、この団体旗はいいが、この団体旗はだめだというのは、これも現実的に考えてより多くの問題が生じることは火を見るより明らかです。そうすると、少なくとも私から見て、あまり温厚とは思えない団体が団体旗を翻して最前列に陣取り、集会全体を騒然としたものとしてしまう、ひいては、事故が起こったり、怪我人、逮捕者が出るような事態を招く可能性があります。そういう可能性を極力廃して平和裏におこなうことによって、なにより数によって総意をあらわしていこう、という主催者の主旨(また多くの参加者の考え)とは乖離することとなるでしょう。だから、自分自身の心をばらばらにするのではなく、「事情を汲んで」参加するというふうには考えられないだろうか、と思います。個人が場によってまとう社会性を変化させることは、常に屈辱的なことではないはずです。(もちろん譲れないことがあることがあるということは認識しています。)
 ふたつめは、日の丸についてです。最近反原発タレントと言われたりしている藤波心さんのツイッターでのやりとりを見ていて、これも、現実問題として日の丸への認識の世代間格差の大きさを感じました。私は、心さんを利発で勇気と行動力があり、また、自分の役割をよく分かって発言することが出来る賢さもある、そして何より歌が上手だという、尊敬を持って見ています。しかし、彼女は日の丸容認を表明しています。日の丸容認に異を唱える人とのツイッターでのやりとりを見ていましたが、どうやら、サッカーやなんかでほっぺにペイントしてしまうような、みんなで日の丸を振って応援するという、そういうニッポンがんばれ的な象徴として認知されているらしいとつくづく感じました。第二次世界大戦の敗戦国(侵略国)のなかで、唯一「国旗」を変更しなかった国である日本、だからこそ、最近まで国家・国旗法が制定されずに象徴として使われていたという歴史や、つまり、日の丸を掲げて侵略された歴史を強く認知している国があること、また、例えば沖縄では祖国復帰の運動の際にみんな日の丸を掲げ、そして裏切られ、その後の権利のための運動に日の丸は上がらなくなったという経緯。さまざまな、言わば、他者の権利を剥奪する血塗られた歴史を持った旗であるということについて、今の若い子たちは、知識としても感覚としても知らないのだと思います。私は、ワールドカップの馬鹿騒ぎでも、日の丸が踊る姿を見ると、気持ち悪! と思いますが。加えて、メディアは、スポーツ選手が日の丸に敬意を払う姿や君が代を歌う姿を感動的な演出で撮影し放送しています。こうした、メディアから受ける印象(スポーツの感動と合わさるので効果的です)、歴史をちゃんと教えないという「教育方針」の成功によって、若い世代にとっての日の丸の印象は、おおよそ私たちのそれとはまったく異次元のものとなっているのだと感じました。あんなに利発な心ちゃんがどうしてこんなふうにしか言えないのかしら、と私は思いましたが、おおよそそういうことなのだと思います。私は団体旗よりも、日の丸に嫌悪感がありますし、さまざまな団体旗が色とりどりに立ち上る集団と、日の丸でうめつくされる集団ならば、当然、団体旗の方が健全だと感じます。(若者は、それでも日の丸の方がいいというのかな……。)少なくとも中規模以上の集団でなければ、日の丸が掲げられていることに対して、(とりあえずお年寄りやらその筋の人やら靖国に参拝したい人は省いて)ある一定の世代とそれより若い人達との間で、圧倒的な感覚の差があるのだと思います。それは、周到におこなわれてきた「教えない」という教育の結果でもあることを考慮しなくてはならないでしょう。
 団体旗を掲げたかった、またそれを拒絶されたことへの憤りは、日の丸ならよいという理屈とも相まって増幅されることも、よく分かるのです。でも、これだけの規模のデモを、ここまでけが人も逮捕者も出さずに続けてきた、多分、思っていた以上に膨れ上がった参加者を前にそれこそ、ひとつひとつ対応している、主催者とていわばてんやわんやの状態だと思います。当然、これだけの人数がいれば小さいことから大きいことまでさまざまに意見や思いは違ってくる。主催者は、完璧にはなれないでしょう。また、完璧だという総意があるならば、それはもはやカリスマ支配となってパラドキシカルに民主的なデモではなくなるという危険性もはらみます。
 なにが言いたいかというと、今はとにかく、けが人も逮捕者も出さず、車道を開放しないと言われたら、次の週にはクルマや自転車が張り紙をしたり白い風船をつけたりして車道を駆け抜けるという、したたかさとユーモアを持って、人数を減らすこともなく、数が増えたことで内部分裂を起こすこともなく、粛々と、しかし、たゆまず集まることで今までの日本には起こらなかったムーブメントが国に動かさざるを得なくなるというのが勝利へのシナリオでしょう。安保反対の運動は、あんなに集まり、あんなに戦い、あんなに声をあげても結局国は変わらない、という敗北シナリオを後世に残したのです。結局だめなんだ、という。そうではない道筋を示していけることが、そうできるかもしれないということが、今の絶望の方が勝っている(と私は感じています)今のこの社会の一筋の光です。だから、その大目的のために、時間をさきあの場に集まっている人たちの中にいさかいが起こらないであるようにと、遠くから見ているのです。嫌なことは嫌だと言うことはもちろん、大切なことです。しかし、私は上に書き連ねた理由から、日の丸が許容され団体旗は遠慮してほしいと言われることは、主催者のこれまでの尽力に免じても許容範囲だと受け入れてもらえることを希望します。もちろん、主催者が日の丸を奨励したり、日の丸を持って集まりましょうと呼びかけたならば、まったく別の問題として断固反対です。
 今は、このムーブメントが、平和に国を変えることが出来るように、人々が国に声をあげること、反対だということができるのだとういうこと、そういう国民としての力を手に入れていくことができるように、と思っているのです。こんなんじゃ生ぬるい、というような声があることも知っているけど、生ぬるくないやり方で負けたじゃん、かつて、と私は言います。ほんとに雑多な人が参加して、思い思いのプラカードを掲げて、それで、逮捕者も出ないでなにかがかわっていけば「ほほえみ革命」と呼びたいほどです。もちろん、その行動の源は大きな怒りと憤りですが。
 ま、いろいろあるけど、このデモでは手作りプラカード、このデモでは団体旗、という参加の仕方があっていいんじゃないかと私は考えます。言いたいことは一緒ですし、そのことで、個人が切り裂かれるような思いをする必要はないし、また、理由はどうあれ、人数が減っていったり参加者同士が批判的になっていくのは国にとっては思うつぼでしょう。とにかく、内部で分裂していくことなくこのデモが進んでいくことを遠くから祈るように見ています。長文を失礼しました。(ほんとにこんなに長くなってしまいました、すいません)
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Unknown (70年代生まれですが)
2012-07-23 19:35:34
デモというのは本来示威行為なんです。
世界中どこでもそうです。
それぞれ自分の主張をこらして様々に表現するのが普通であって、制限したり統一したりするのは、本来ナチスドイツがやった全体主義の発想に近いのです。

いろんな旗がいっぱい立っていた十万人集会にも大勢来てるのに、官邸前で旗があると人が来ないから駄目だとか、言いがかりも甚だしいと思いますね。

コメントを見ると、組合旗自体が過去の全共闘の失敗を連想させるとか、
両者の関係を事実関係としてまったくわかっていないで全共闘がー、とか無知なことを言う人が、いい大人の大半を占めるようになってしまったという事実には驚きますが、こういう無知蒙昧な通念が組合旗へのアレルギーを生んでいるんでしょうね。
そのくせ右翼の掲げる日の丸や旭日旗はあっさり認めてしまうという寛容さ(笑

私もそうですが日本国民は80年代以降の右傾化教育によってすっかり政府のいいように手なずけられてしまったということでしょう。
だからデモ、過激派、全共闘、組合旗、左翼の扇動とかパブロフの犬のように叫ばれて敬遠されるわけです。政府の勝利なんでしょう。

このことは歴史思想学者の子安先生などもツイッターで嘆かれていますね。@Nobukuni_Koyasu

主催者の意向がどうのだの、警察にかわって誘導するだの、こんな警察に従順なデモは世界に類がないです。
結局、鉄柵で囲われても文句を言う方が悪いということになってしまう。馬鹿な話です。

主催者と警察は仲良くやりたいんでしょう。だから今回のデモも、なんだか段々と予定調和的な雰囲気になってきです。

その上、文句があるなら来るなとか、別にやれとか、ファシズムのように排他的なことを言う。
デモの私物化も甚だしいと思います。

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