ガザ 私たちは殺戮に「否」と言ったか?(2)/岡真理

2009-01-17 12:42:17 | 世界
京都新聞2009年1月12日(月)朝刊より
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イスラエル軍による、パレスチナ自治区ガザ地区
への攻繋が始まって二週間がすぎた。国連の運営す
る学校も爆破されるなど、パレスチナ人の死者は八
百人以上に上る。泥沼化が懸念される中、世界の共
通課題としてパレスチナ問題に取り組む京都大准教
授の岡真理さんが寄稿した。
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私たちは知らなかったーホロコーストのあとで、ドイツ人は
そう言って自らを免罪しようとした。「知らなかった」という
ことが、もし言い訳になりうるとすれば、それは、「知ってい
たら必ずや黙っていなかった」という含意があるからだ。だが、
本当にそうなのか?私たちは、人間が収容所に閉じ込めら
れて、なす術もなく殺されているのを知っていたら、必ずや
「否」の声を上げるのだろうか?

では今、ガザで起きていることは?百苔十万の人間を出口
なしの檻に開じ込めて、空から海から陸からミサイルを砲弾を
浴びせて殺鐡する。そんなことが、世界注視のなかで公然と、
半月以上にわたり続いている。

まるで、「知っていたら、おまえたちは本当に声を上げるのか
?」と問わんばかりに。
この「公然性」は私たちをみな、殺識の共犯者にする。いや、
私たちはその前から共犯していたのではないか。過表三年間、
封鎖されたガザで、水も電気もガスもガソリンも、ライフライ
ンのすべてをイスラエルにコントロールされ、かろうじて生命
だけを維持するような「生かさず、殺さず」の状況に百五十万
もの人間がとどめおかれてきた。だが、私たちはそれに異議
を唱えず事態を許容し、そうすることで殺人者たちにメッセー
ジを送っていたのではないか。

パレスチナ人の生など、私たちには関心がないと。ガザという
監獄でパレスチナ人が「これが人間か!」という生を強制され
ていたとき、私たちが大きな声で「否」を訴えていたならば、
果たして今回のこの殺織はありえただろうか。殺人者たちに青
信号を出したのは私たちではないのか?

ガザは今「監獄」から「絶滅収容所」に変貌した.「アウシ
ュヴィッツ」「ヒロシマ}と同じく、「ガザ」は人問が人間で
あることの臨界を意味する言葉となってしまった。「ホロコー
スト」とは、「ヒロシマ」とは、私たちにとっていったい何だっ
たのか?「人間の命は決してこのように扱われてはならな
い、人間とは決してこのように死んではならない」という命顕
は、これらの悲劇から私たちが掴み取った、決して手放しては
ならない真理ではなかったのか。

このよろな出来事のあとで、ガザの人々はなお、人間の善性
を信じることができるのだろうか?彼らは許すことができる
のだろうか?ミサイルと砲弾の雨のなかで逃げ惑っていた彼
らを、知っていながら見殺しにした世界を。ガザを瓦礫の海に
して、八百名以上を犠牲にすることで、イスラエルは証明した
いのだろうか?世界界は人間がこんな形で殺されるのを知って
いても止めはしないのだということを。このとき、破壊され尽
くしたガザの街とは、倫理的に破壊されたこの世界の似姿にな
るだろう。

だが、攻撃が始まってから二週間ほどのあいだに、市民社会
のネットワークはインターネットを駆使し、グローバルにつな
がりながら、世界各地で、緊急の抗議行動を組織し、「否」を
訴えている。人間はなんぴともこのように死んではならない
と。攻盤をテロに対する自衛と位置づける日本のマスメディア
は報道しないが、テルアビブでも三日、ユダヤ系市民を中心に
一万人以上が一大反戦デモを行い、封鎖と占領による尊厳の破
壊こそが問題の根源だとして大義なき戦争を告発した。

たとえ停戦が実現しても、封鎖と占領が続く限り、問題は解
決しない。爆撃で虫けらのように命を奪うことも、封鎖で尊厳
ある生を奪うことも、人間性を顧みない点において等しい。私
たちは訴え続けなければならない。なんぴとも決してこのよう
な生を生きてはならないと。

(現代アラブ文学、京都大准教授・岡真理)

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ガザ 私たちは殺戮に「否」と言ったか?(1)/岡真理
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