嘘の吐き方(うそのつきかた)
人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。
 



いつだってひとりぼっち

今日までは

いつだってひとり

今日からは


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




むしろ絶望的に、やっているのかもしれない。
僕を殺すための「手術」として。

……、。。。

…不確定性原理、という言葉があります。
今からおよそ80年も前に提唱されたあやしげな仮説です。
しかもこれは証明されているため、
量子力学の分野ではこれは意見や仮説ということではなく
原理として学者たちの知に影響を与えます。

測定精度と測定の反作用として現れる
プランク定数の壁。

相手を知ろうともがけばもがくほど陥る、
僕らの深淵に似ていませんか?

ある二つの物理量について、
例えば位置や速度といった二つの項目について、
測定値にばらつきを持たせず測定する事ができない原理的な壁。

80年も経っているらしいのに、
未だに相手に対して思い込みで接する人が絶えないという
困った問題も世の中にはあります
もっとも、証明を信じるかどうか、
自力で納得できるか、理解できるか、
ということの前に、人には未知の壁があるのですけど。

つまり、これ自体「知らない人」がいるわけで。

しかしここには必ず反証可能性というものが込められています

科学者たちはそこに孤独な全力投球を試みたり、
賞金を拒否してでも、未知の難問に答えを出そうとしますよね。

もちろん僕は科学者ではありませんし、
物理学者でも数学者でもありません。

近年、ポアンカレ予想という難問が解かれて、
その難問を解く過程において、
サーストンの幾何学予想をもが証明されてしまいました。
このことによって、
宇宙の形はおよそトポロジー的には八種類の要素に分類され
もしも地球を飛び立つ宇宙船に紐をつけ、宇由勝手気ままに飛び回り、
その紐が途切れる事無く回収可能であるなら、
宇宙の【形】は本質的には丸いという事が示されました。

これ、存在の証明に似て非なる、
非常に危険な賭だと思うのですよね。
運命論に打ち克つ努力というよりは、
運命論にますます拍車をかけるような大胆な賭け。

ようやく進んだ一歩が、ますます人を孤独にする。

たぶん、あなたは僕を理解できないでしょう。
そのことに罪はありません
僕も君を理解できないままでいる。

ただ、僕の前に超越しがたいいくつかの事実が横たわるとき、
はじめて僕は人と対話したような気になるのです。
風景の向こう側にある見えないセカイに届かないと知ったとき、
はじめて僕の声は、君に聞こえ始める。


コメント ( 8 ) | Trackback ( 0 )




まるで考え事から逃げるように
無為に時間を過ごしてしまっている。

答えが出てしまうことが怖いんだと思う。
無意識のうちに、ストレスのバイアスを避け、
どちらにもスイッチが入らないようにしている。

生の決意をすることも、死の結論をみることも
怖がっているんだと思う。

もうとっくに、自殺すると決めたはずなのに
その残り時間が迫っていることに
ただならぬ恐怖を感じてしまっている。
人と会うのが怖いのも、
誰かと話すのが怖いのも
外へ出かけるのが怖いのも
結局は、誰かのちょっとしたきっかけや何かに影響されて、
答えが眼前に突きつけられる事が怖いんだと
僕は時々考える

どんなに固く結んでも結び目がほどけていくように、
それはあの、黒い靴が僕を外へ誘うときのように
変化する地平を歩いていく靴の靴ひもは、
どんなに固く結んでもやがてそれは
なぜかゆっくりとほどけていってしまうものなんだと思う。

思う。

思うけれど、しかし。
僕はそのひもを、
不安定な足下を確かめながら何度も結び直してきた
極めて不正確な言い方をすれば、
僕はいかなる変化の砦の前でも、
ただ絶望の中に灯籠の火をともすことで、
僕は僕の結論の中の世界に居た。

その孤独感は今更言うまでもないけれど、
今を生きる君たちと、
不安定な思想に包まれて時代を生きるしかない君たちと
今、ここ、私、さえもが信用できない多感な思春期を生きる子供たちと、
どれほど違いがあったのだろうと思うと
思い込みだけで涙を流す僕のアホさ加減は、
ほとんど同じであっただろうと思うよ。

しかしまぁ、相変わらず僕は僕のあり方を反省していないのだけれど。

その反省していない僕から言わせると
今も戦国時代も、
未来がわかんねぇとか、
隣に居る人は信用できんとか、
魂の不安定さとか、
惚れただの腫れただの言いながら
人を裏切る自分の情けなさも
護るものを持たざる人の持つ独特の無責任な弱さも、
人間的にはあんまり変わってないんだなーとか、

世界なんてたいそうあやしげなもんをしょってなくても、
こつこつと毎日小さく努力して歩んでいく人がやっぱり偉いんだな、って感じ方とか、
そういうのは、
なかなか変わらないもんなんですかね?
それとも、変わっていることが見えにくいものなのかな?

僕は、不在の中にあるときは、
「『情報』」ってものが、あんまり信用できるわけじゃないと思う。

情報を知識として、ある種の手がかりとして活用できるのは
やっっぱりそれは現実の中だけなんじゃないかと思う。
つまり現実感の無いところでは、
情報そのものは人を拘束もせず繋ぎもせず、
ある独特な閉塞化における安心しきった宇宙だから、
それを神経のように、現実を繋ぎあわせて作った巨大なバケモノのように扱ったりふるまったりすることはほぼできないんじゃないかと思う。

出会うことのない不在の世界で、
それは糸にも紐にも縄にもならないかわりに、
それはそのぼんやりとした夢をゆるすから、
その何も無いことが、
ひとつの許しなんだと思う。

すこしズレた。
話の方向が少しずれたと思う。
話を戻す代わりに今日はもうここで眠る。
携帯を打つ手が疲れてきたとか、
肉体的な理由もあるけど
それよりはね、
もっと偏った理由。

こんなに無意味に画面に向かって濡れている眼では
あんまりちゃんとしたものはみれないような気がしたから。

悲しいこともないのに、
さっきからずっと泣いてる。

結論を急ぎすぎないように、
残りの砂を丁寧にすいこむ
それが僕に出来る、せいいっぱいの、
呼吸のような気がした。



……。

コメント ( 38 ) | Trackback ( 0 )




懺悔。
ただどうしようもなく、逃げ切れない者としての
怒りの象徴のような、あてくさりのボロ布のような、生という傷跡に貼った
腐った湿布のような自己表現に対して、冷たく思う。

憂えいているのは自分の人生の方なのか、世界の方なのか、
それとも遙か遠くに見える向こう側の窓の方なのか、
もはやなにがなんだかわからなくなる。それでもまだ、
僕には死体の砂を数える時間がある

生をすでに選んでいる人間というのは、どれくらいいるんだろうか
星の数ほどいるんだろうか、それとも、ほんの一握りの人の数ほどなのだろうか
僕の開いたフレームの中で、僕の等価灯籠だけを人形のようにみる
一枚の鏡が一人の人を表すと言うよりは、一つの欠片が、一つの灯火を表す。
舞台装置は、ぐるんぐるんと回っている。暴風。台風。つむじ風。ブラックホール。

日常という舞台から飛び降りる人よりは、うっかり足を滑らせる人の方が
まごまごしながらも多いように思う。
僕はどっちだろうか、衝動的発作的欲望としての死だろうか。
決意に近い生の反作用としての死だろうか。
それとも、偶然後ろから罪が僕を殴りつけるように死ぬのだろうか。

秒数をかぞえることはできない

ただもう必死でがむしゃらに、息をしようと顔をあげるのが精一杯だ
冷たい海の底に居るときよりも、ぼんやり浮かんでいる宇宙の景色の方が、遙かに多いというのに。

絶望。
ともだちを裏切るときよりも、友達が居るかもしれないと、予感するときの方が、
気付いていく自分に対して、絶望を感じる。

未来が欲しいのか、救いが欲しいのか、
その二択だけを迫られたら、僕は神になんと口答えするだろう。
黙って神を殺す?
それもいいけど、問いかけている神が自分の意識なら、
僕は自分なりの答えをどこかに留め置かなくてはならない。
それが永遠に残るとは、もう思っていないけれど。

ふと浮かんだ。
遺書を書いて死ぬ人よりも、遺書を書けずに死ぬ人の方が、
ずいぶんと多いんじゃないかって。
もちろん、遺書を読んでもらえないうちに形が何かに消されて
記録とも風景ともわからぬうちに、背景にとけ込んで消えていくことの方が、
多いのかもしれないけど。
僕は恵まれている方だろう、こうして君に、一度でも読んでもらえるということなら。

小さい頃、アリを靴の裏で踏みつぶしながら、
踏みつぶしたアリをぐりぐり地面にこすりつけながら、
よく考え事をしていた。
今思い出すと、未来を妄想するように物思いに耽っていたという方が、
表現は近いというか、しっくりくるのかもしれないけど。

こんこんと咳をする自分をみてくたりと縮こまることよりも、
僕はこんこんと咳をする時に揺れる世界の景色の方に不思議さを感じていたから、
今にして思えば、僕のフレームやカメラ位置は最初から少しピントがずれていて、
それでいて、自分を映し出しているような気になっていたのかもしれない。

誤解を招いたのが自分なら、
フレームを切り取る事に失敗していたとしても、
問いを立てたのもまた、自分の中からの発露だと思う。
誤解をしくじったのが世界の方なら、
フレームを切り取れずにいる自分が、
世界から自分というカメラを切り出せずにいる自分が、
自分を見つめるまなざしそのものが、より一層の困難な歪みをつくっていく。
それを知りながらも、まだ僕や君を見つめようとする気配は、
もはやそれはどうしようもなく病的に高められた、自意識の気配という影でしかない。
それならば、映し出す光を想定して、形をここに残しておく方が、
光っているライトの位置そのものに、影を落とすことに繋がるだろう。
ようするに、間違っていたのは自分の方なのだ。
僕であり、君であり、意識の投影であると誤解する影そのものの自分の方なのだ。

だったら僕は、現象が現象の中に含まれる位置に戻すために、
あえて光の中に影を創り出そう。
そのことによってしか、その影絵遊びに寄ってしか
いつしか含まれる形で、その希薄な世界は見え隠れしないのだから。
人は誰しもズームしすぎていて、ピントのぼけた景色しか身体が映していない。
それは自分の重力の歪みに負け続ける行為だからだ。
だからいっそのこと僕と君は、同じ観察眼を、同じ位置まで戻して、
そうやってブラックホールの中から、熔けていく光を見たらいいんじゃないか?
その熱っぽい周期の鼓動を、君がまだ、光と呼ぶ事ができていれば、ということではあるにしろ、
それが真っ黒な輝きであったとしても、不在の記録であったとしても、
僕はいっこうに構わない。
閉じられた空間で、ぐるぐる回る無限回廊のような景色であったとしても、
ぼくはいっこうにかまわないし、それを気にしない。
それでもまだ、僕は最後の閉じる瞬間まで、何かを見ようとするだろう。
それが誤解であるのかどうか、ジッと確かめる疑心暗鬼にも似ているから。
最初の誤解はどうやってもたらされたのか
世界で最初の死体は、どこからやってきたのか
そうしたことは、通常の平文化された記号からは、まったく予測のつかないこと。
あたえられたばしょからやってきた記号は、その位置そのものを映し出すアルゴリズムとはならない。
観測はいつも外部から行われているわけではなく、
振り向けば無くなるようなセカイでもなく、
最初からありもしない世界であるという帰結があるから、
その位置で、不在の場所で生を眺める行為そのものが、
存在を誤解した外部からは、外部として映りこむからだ。
もしも君という観察者が、内部として、僕そのものとして存立し得るなら、
僕はここに、君の死体を君に見せる行為ではなく、
僕の死体を僕に書き残す行為として、ここに存立させる可能性があるからだ。
それはデカルト的な不安定さを持つ、コギトの嘆きに似ていても、
その色の反転の仕方は、その確かな原点をここに止めない。
あらゆるものの不在を証明する動きは、
あらゆるものの存在を支えない。
ゆってゆくだけの外部は、内部という糸には繋がっていない。
それはすなわち世界という壁を意識する行為であって、
意識を確立する地平とはならないからだ。
歩き出さない人、死体を見つめる神、それ自体が死に神であるからだ。

「めんどくさい。』
その一言で済む。僕という、人生を投げ出している君は。


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




人の死をきちんと悲しむ事ができるのは
すでに生を選んでいる人だけだと思う。

今から死のうか生きようか迷っているような人は、
死に対して、あまりにも真剣すぎて、どこか希薄で鈍感で
感情が幽離している部分があるように思う。

そういう意味では、僕は家族の死をきちんと受け止めたり、
処理したりする事ができていない、
ある見かたをすれば、消化不良のような状態かもしれないと思う。

死について、いろいろ考えたりはするけれど、
そのことが、痛みではなくて、どこかブラックボックスで、
逃げ続ける解けない紐としての、棺桶という結び目や、
死体の謎という肉薄する疑問体が詰め込まれていて
あるいはもしかしたら、死体を食す事によってしか、
それは理解できない事なのかもしれない。

腐敗していく身体の臭いと、
生が失われていく臭いは、
果たして同一のものなのだろうか?

垢の臭いは、死の臭いなのか?

僕は、それはなんだか少し違うような気がしている。
もっと戦慄する恐怖のような、
冷たさや熱さに似た固い硬いこわばったもので出来ていて
それを理解できない事が、
【生】そのものとしての、ある種の壁だと思う。

もし、現実に死を理解できる者が居たとしたら、
それはあらゆる固さと柔らかさを超越した軟度を、
すでに身につけてしまった人なのではないか?

そういえば昔、肉体を槍で貫かれても死なない人が居た。
寝なくても平気という人も居た。
そういうオカルトじみた話にも、
どこかしら不思議な規則性があるように思う。
オカルトにはオカルトの法則があって、
それを超える事はできず、
オカルト的な何かによって、
やはり滅んでしまったりする。

別にその事が悲しいわけではないけれど、
やっぱり少しは不思議な事だと思いはする。また、思う。

今も。

喪失が哀しいと思う事はたびたびあるのに、
景色を儚いと感じる事もたまにあるのに、
それでも人の死が悲しいとうまく理解できないのは、
僕が冷たく閉じた人間だからなんだろうか?

それもまた、やっぱり少し違うような気がしていて
むしろ僕を心が無いと非難した人間の方にも、
大事な心構えや道徳性が欠けていたように思うから。

しかしだからといって、
僕に全く問題が無いということにはならない。
やっぱり僕はなにかしらの問題を抱えていて、
それがうまく、自分で掴めていないのだから。

積み重ねた努力を放棄する時、
僕は登山の荷物を一つ失う。
頂上で弁当を食べる喜びが無くなるようなものだ。
だけど僕はその時、たいがいにして、
自分から何が失われたのか、ほとんど全くといっていいほど
気づけないほどの頭の悪い人間なのだ。

でも、何かが失われた、という喪失感だけは残る。

それを考えあぐねている間、
やっぱり僕の歩行は停滞する。

僕の中で失われた何か、
僕の中で鈍くなっていく感情、
自分の危機にしか流れないような水っぽい涙。

枯れたオアシスのようなこの自分という砂漠で、
僕は明日を掴み取って、【昨日として】数える。

誰かに会うたびに、僕は死んでいく自分の数をかぞえる。
その癖が無くなる頃には、僕という自分の砂も、とうに無くなっているのだろうか。

喪失の地平で.


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ひとりぼっちであることが罪であるとはかぎらない。

コメント ( 5 ) | Trackback ( 0 )




どこにも向かわない行き詰まりの中で
自分と向き合う苦痛を感じながらも、それでものろまな考え事をじっとしている。
真綿で首を絞めるという表現があるけれど、
別に僕は真綿で自分の首を絞めてるわけでもないと思う。
けど、外に対する期待がほとんどかなり大部分失われているのも確かで
未来に対する自分の展望が無いということもゆゆしき事態だけれど、
それよりは他人に対して一切何も期待できなくなってきている事の方が
よっぽど重大な問題じゃないかと思ったりする。
元々自分と向かい合う作業や、一人で黙々とパズルを解き続けるような行為の方が多くて
人と話すことにはあまり向いてないような気はしていた。
でも、いつの頃からか、僕は人前に居るときの自分と、
自分一人で居るときの自分に、大きな隔たりを感じるようになっていた。
中学生の頃や、高校生の頃までは、あたまの中に広がる無数の妄想人たちと
様々な会話を続けていて、それは日常会話の延長であったり、
捏造された記憶であったり、親しい人たちの性格をシミュレーションする作業の連続でもあった。
要するに人と向き合うという作業は、様々な形の鏡に向かって
自分という光を乱反射させる行為であって、
誰かに対して当てた光が返ってきてこそ、自分が何者であるかという輪郭が
ゆっくりうっすらと表れるのであって
そこに誰も居ないとき、それは主に記憶と向き合う作業で、
過去の記憶をひきずっている限り、僕は僕自身の記憶と会話し続け、
悩み続けねばならない。
別な言い方をすれば、難解なほどけない糸を抱えて絡まっている人ほど、
難しい局面を読み続ける棋士のように譜面と向かいあい続けねばならない。
僕は多くの人間を切り捨ててきたし、多くの人間を見放してきた。
そうやって要素の数を減らしながら、ずっと物思いにふける猿をし続けてきた。
けれど、タイムリミットが近づくにつれ、僕の考えている事は
整理されるどころか、思考力と記憶力が薄らいで、ずいぶんといい加減になってきてしまっているように思う。
一人の時間をたっぷりと用意し、外部と真剣に向き合うというのは、思いのほか難しい。
一人であるとき、外部がどこにあるのか、たびたび見失いそうになるからだ。
「問題」「悩み」「痛み」「感覚」そうしたものが世界の輪郭をぼんやりと僕の中で形成してるのであって、
なんらかの媒体を介さずに世界を直接感ずるというのは、やはりこれまた難しい。
土台の無い場所で、ゆっくり歩きながら走り回る地面を確認するような、
そんなへんてこな行為に似ているからだ。
二つの混乱が僕を形作り、その矛盾と混乱の中で、ハンドルをどちらにも切る事のできない自分を見つめる。
ただじっと何もしない自分を見つめて、なぜ自分に何もできないのかを考える。
行動に関するクラッチは感動だ。動機付け、期待、衝動、欲望、計画。
未来を見通せない場所で、何も期待のない場所で、頼りになるのは欲望だ。
けれど僕の生命力はとても希薄で、欲望はおそろしく少ない。
たぶんあるのだろうけれど、欲望よりも堕落の方が性に合っているから、
それがますます僕の生命力を奪っている。
努力するための目標は無い。僕は盲目だからだ。
ただ足場を固めながら、地面の確認ばかりをしている
いつも一歩を踏み出せば、その道は崩れるとばかり思っている。
実際に、歩くたびに道は消えていったのだけれど。
それが特別悲しいわけではないだろう。
むしろ今、僕が悲しいと感じられないことこそがゆゆしき問題のような気がしている。
どうしてこんなにも世界から記憶と感動は失われていくんだろう。
失われてゆくもののなかでしか、何かを大切にする事はできないからなんだろうか?
僕に何か大切なものは与えられただろうか?
僕は何か、自分で大切なものを作っただろうか.
僕は創らなかった。
大切なものが出来そうな時、ことごとく僕はそれを壊した。
僕の通った後には、廃墟のように廃れたがらんどうの欠片ばかりが残った。
主に心の通いそうで通わなかったコミュニティの残滓で、
それがなおいっそう、僕から感情を奪っていった。
たぶん、人は涙を流さなければ、次に泣く事はできないのだ。
ずっと涙を我慢していたら、もう次に泣く事はできないのだ。
今、僕に泣く事のできるものはなんだろう。
泣きたいほど、大事でかけがえのないものはなんだろう。

たぶんなにもない。

僕は自分の両手を確かめる行為ばかりを繰り返して、
何かを造ろうとはしていなかったからだ。

ただ僕は、排泄物のように、人々の心に、不在を書き込んでいった。
僕という存在の、不在を。
つまり、忘れられるためだけの、僕という謎のありかを。

それは、小さな世界にある、プランク定数のようなものとなっただろうか。
人々が心を知りたがる上での、確実でどうしようもない壁となっただろうか?
人々が、希望を失うための、絶望を確立するための、良い処方箋となっただろうか.

たぶん、ならなかった。
そしてたぶん、僕のこのテキストもまた、磨かれた鏡とはならなかった。
僕が、まだ真っ直ぐな心を手に入れていないからだ。
僕が、まだ僕の心を映し出すための、真っ直ぐに心を磨く努力をしていないからだ。

それでも僕は、できたら僕の書いたテキストが、最後の人に届けばいいな、と
願ってばかりいる。
消えゆく人が、最後に、誰かを見つめるよりも、世界を見つめるよりも、自分を見つめる事ができたらいいな、と
僕は思っている。

孤独は、いつも誰かとの間でのみ描かれる。

例えば君と、隔絶されたセカイと、僕の間であるようにして。

けれど僕は、最初からそんなものは、無ければいい な と思っている

僕も居なくて、君も居なくて、セカイも無ければいいのにな、 と思っている。

見つめるだけで浪費される世界が、今日も僕の手の上で、ほどけて解けてゆく

今日も、何もわからない僕として、、明日を待ち続ける。


コメント ( 4 ) | Trackback ( 0 )




「どうして不在の中から、知を受け取るのだろう?』

数点の、桜並木の道から、僕は僕に似た景色、僕の求める景色、僕を恋する景色を選び取る。
それは冷徹に貫かれる意志とは全く違っていて、のんきに考え事をしている時に足が選んでいる道。

数行の、たった一晩で書かれるたくさんの雑多なブログから、
僕は僕の文章の種が芽吹きそうな種と元を探す。つまり、盗作。

厳密に言うとコピーはしない。もちろん、
コピペもしない。

読んでいる時がちんぷんかんぷんであればいい
あればあるほど、いい。
そこに誤解が生まれるから、その誤解が紐解くなにかが、
僕という土台を足がかりにして、間違った答えを見つけ出す。
それが、オリジナル。

間違った用法と、間違った単語と、間違った意味をたくさん憶えている。
それが、オリジナル。

風が吹いてくる景色を探した
想像力の風が、向こう側から吹いてくる景色を探した

ひらがなの方がいいと思う事はたびたびある。
どこで区切ったらいいのか、その切れ目がわかりにくい方が、
より一層多くの誤解を生むからだ
僕はたくさんの聞き間違いをして、たくさんの空想をして、たくさんの空耳の中から、
自分だけに割り振られたノイズを探した。僕の呼吸で。.

導かれるままに話をしていたら、
何人かの人間は僕に向かって予測を立てる。
柔らかい予測、硬い予測、そして、アテにならない予測。
予想と書いてもいいけど、僕にとって相手がお客さんであるなら、
そこに客観性という言葉を割り当てて、そこに理性を近づけよう。
君の理性を殺し、君の感情を、僕の理性にする。
刺し込むように、割り当てていく.
それをもって僕は、例え間違っていようとも、君に対する相対性に
ひとときの何かを委ねて、
相対する僕たちの誤解に委ねて、(重ねて、)
その間違いを認める事と受け取る事が同義であるように、
君を客観性と呼ぶ。

だから正直言えば、僕らの持つ客観性は、一つも真実が失われいないのなら、
最初から何一つ証明されていない。

だから僕らはそこに便利な断絶の記号を持ち寄って、
それを砂上の楼閣という音でコピーした。

普通、何人かの科学者がいれば、そこには理論と証明が付きものだ。
だけど僕らが会話する【普通】という観念の縛りにある日常の中で、
証明された会話など、いったいどれほどあるのだろう。
そしてまた、僕たちに、信じられる科学者の友達など、何人ほどもいるのだろう。
数え切れないほど、多くて少ない。
中途半端なくらい、【普通】からは隔絶されている。
閉じた音の縛りの中で、反響音を聞いて、ぼくらはそれを残響音だと思い込む。

過去から発せられる音なんて、じつは一つもないのに。
未来からやってくる光も、宇宙を満たしてる源初の闇も、
じつはすべて刹那の自閉に閉じ込められているのに、
そこにまだ、空間と名付けて、距離を拡げようというのか?

結局過去なんてものは、どれくらい硬くしつこくエネルギーで縛り付けて、
ぎゅっと重力で固めて、形を保っていられるかということでしかない。
全部がハードウェアだとしても、全部がソフトウェアだとしても、
やがて今という変質の時間をかけあわせ続ければ、
それらはどろどろに熔けていく。

たった一秒ではじまった世界なら、たった1秒で終わる。
僕の人生と同じくらい、短い速さで伸び縮みする。
心臓が孤独に打ち拉がれて、宇宙の歳だけ周期を重ねていく。
どんな巨大なマクロも、どんな場所にある小さな欠片も、
すべてが閉じながら開いている限り、
それは僕の死の中に包含されている。

結論などありはしない。

ただ、日常から非日常に向けて幽離しようと跳躍するものだけが、
不可解な死を遂げることができる。

道ばたで落ちている石ころを蹴った事があるだろうか?
その石ころに痛いと言われた事はあるだろうか?
傍に立っているカカシに話しかけた事はあろうだろう?
しかもその会話に、断絶を感じた事があるだろうか?
あらゆる存在から祝福されて、神の名前をもらった事があるだろうか?
同じだけの存在を前にして、自分がちっぽけだと感じた事はあるだろうか?

だれだってあるだろう
だれもがここではひとりなのだから。

多くの時限爆弾が仕掛けられた密室で、
僕一人が起爆剤を探してる。
何もかもが静寂に包まれた宇宙で
僕だけが動く方法を知っている。
誰にも出会えない真っ暗闇で、
僕だけが鏡の光を呑み続けている。

喪われるだけで
ただ一つを目の前にするだけで
それがこんなにも孤独だと、
どうして僕にはわかるのだろう。

それはいつまでも鏡の知を超えなくて、
いつも僕の姿しか映さないから

ずっと同じ場所で爆発を繰り返して
ずっと同じ場所で爆縮を続けるから

だからここにある変化は何もかも同じで
そして何もかもが違う場所にあろうとする
もしもひとつひとつの違う物が
あらゆる物質の最初の結び目が、
僕と一緒にほどける事を願うなら
そのとき僕等はひとつの同じになろうとする。

本当に僕を手に入れる方法は、
やはり僕が死ぬしか無いのだから。

あらゆる自殺の中に、形を崩壊させない自殺があるだろうか?
どんな長い永遠が、愛液の涙を氷に冷ますだろうか。

僕に維持できる記憶はひとつもない。
ただのひとつも、この世界に記録する事はできない。
あの巨大なピラミッドでさえも、
あの間違いだらけのナノテクでさえも、
一人の誤解が組み立てた断壁の科学でさえも、
それはあらゆる場所に、記録が不可解な不可能であること。

だから僕は君たちに、僕の死の再生を委ねるべき。
自殺の起こる奇跡のような再現性を、ただ君の心の前で繰り返すべき。

読み取られている絶壁の隔離だけが、
その幽離だけが、激しい感情の乖離だけが、
その理解不可能さこそが、
僕たちの再生を記録する媒界としての媒体なのだから。


だだをこねる胎児の宇宙のように
僕の星くずが、ひとつだけ消えていく

『今日、君と出会ったことで・」


コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )