嘘の吐き方(うそのつきかた)
人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。
 



墓場を探す。
最近の僕は、墓場を探している。
そう感じる。

もう自分は、外へ向けて風呂敷を広げることはできないと、
そう感じながら
墓を探している。

「人間。」それが、墓石の名前なんだろうということは
恐れながらも感じてしまう。

ある意味では。
そう、ある意味では、僕が入ることのできる墓石は
生に満ち溢れていなければならない。
墓石とは永遠ではなく、
自然の中で廃れていく景色の一部なのだから。

夜の墓に水をかけることはしない。
苔の生えた、緑がかった灰色の薄れ帯びた石の上から、
たぶん、昼の水をかけるのだと思う。

ある意味では、最後の喧嘩になるのだろうか。
それが、ハッキリとしたピリオドになるほど
絶望に満ちていればいいのだけど、
きっと時々は、邪魔くさい希望に満ちた説教の電磁ノイズが
腐ったシャワーのように浴びせられたりも、するのだろうな。

忌々しいことだけど、
僕は、

僕はもう、ダメだ。


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もしも、僕が僕を誇らしく思うことが、僕のすべてであったのなら、
きっと交わることは、どうしようもない敗北で、
受け入れることも、認めることも、迷うことも、流される事も許されないのだろう。

だけど、そんなハッキリとした固い決意なんてものはなんにもなくて
むしろ、どうしようもないほどに、きっとどうにもならないほどがんじがらめに、
ぼくはただ、道徳の奴隷であるのだと思う。

人を殺すことが悪だってことすら、
きっと世の中ではすでにずっと昔から否定されっぱなしで、
それは奴隷を縛るためのぎゅっと縛った鋼鉄の綱で、
確かに笑いかけているみんなの笑顔ですらも、
きっとそれを崩さないための鋼鉄の網で、
そして人と人の信頼とか、友情とか、そういった耳心地のいい響きさえも、
きっと鋼鉄の縄でしかなくて、
ずっとその鋼鉄の牢獄の中で、
僕はただ倫理に縛られた人たちと仲良くやって、
そうやってすべてをひた隠しに隠し続けて死んでくんだと思う。

世界中の全ての他意識を殺した時に目覚める自意識があるってこと、
僕は知っているけれど、
そんな予感もするけれど、
僕がそれをやるには、あまりにも幼すぎるし、弱すぎるし、
だいいち心臓が耐えられない。

だからきっと僕は、せいぜい、家族が死んでも泣かない程度の残酷さで、
陳腐な冷酷を気取って、
秘密をばらまいて溶かしてゆく。

きっと僕には、もう何もかもが遅すぎて、何もかもが遠すぎて、
そして何もかもが懐かしくて、なにもかもが後悔の記憶で出来たロボットだけが、
僕を包む肉体にふさわしいのだと思う。

きっとこの暴れだす声も、
泣きそうで泣かないかすれ声も、
白い目で見つめるまっくろな真空も、
きっと君たちには届かない。
ただ、手を伸ばす事だけが僕らの権利で、
憧れる事だけが僕らの理想で、
恋焦がれる事だけが、僕らを滅ぼす想像力で
いつもそのやさしくて真剣なまなざしだけが、
時を越えて僕らをばらばらに壊していくんだと思う。

だから僕にはやっぱり、死がやさしいとしか思えないよ。
とてもあたたかくて、とても平等に、僕らに降り注ぐ雨だと思うよ。
緑の匂いで出来たロボットの仮面がはずされて、
僕らが人間になる時が来るのなら、
その時は、本当に、人の意思が、魂が、幻想が、
科学を踏み潰して絶望を色濃くかたどって欲しいと思う。
どんな現実にも負けない超越した理想だけが、
理解できない並行世界のように、無数に傍で散らばっているのが見えたら、
きっとその時は、僕なら重力にも勝てるよ。

永遠も刹那も、嘘として形を剥ぎ取って、
なにものにも縛られない死だけが、
僕らを次の場所へ連れてゆくよ

きっと誇りは、穢されながらも息づいてゆく光の鼓動だね。
君たちの強欲な光がここへ降り注いで壊れるとき、
僕の闇が、すべてを満たしてくれたなら、
僕はもう、それだけで満足だよ。

いつかきっと全てが僕と同じになるから、
過ちを綴りながら、今はただ、ブロックを壊してゆく。
全ての闇をつんざくように、光の悪意は僕をほろぼしてゆく。


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生についての言及や、性に関する事柄について考えていると
なんだかふつふつと、
いや、妙になんだかいらだたしい気持ちや
腹立たしい気持ちが込みあげてくるので
その妙ちくりんな怒りについて考えていて、

ふと、あることに行き当たった。

「僕は生きている事が恥ずかしい。」

これが、非常にややこしい命題をいくつも生み出している。

僕は家族が死んでも涙すら流さない
とても残酷な人間性を持っているのだけれど
葬式の時に喪服を嫌って私服を着てみたり
儀式を拒否して部屋に閉じ籠もってみたり、

まぁなんというか、とても罰当たりな人間っぽいのだけど
そうしたことはわりとどうでもよくて
つまるところ、家族の死なんて僕にとってはどうでもよくて
それについて考えていると何か時間を損しているような気分さえ湧いてくる。

たぶん、多くの人が家族の死を痛みとして受け取っているんだと思う。
けれど僕は、自分で選び取ったわけでも、勝ち取ったわけでもない、
気付いた時には既にそこに居た家族に、
いったいどんな感情で接して良いのか、
いまひとつよくわからない。

いま、またひとつ気になる事が浮かんだのだけれど
目上の人に対する敬語というのは
これととてもよく似ていて
訓練するまで、敬語の使い方も、それの必要性もわからない。
本質的には、自然な状態で、僕よりも前の時代を生きていた人に対して、
なぜ、尊敬の念を抱かなければならないのか、
まったく理解できない。

単純な話として、自分が生まれてきたことそのものに、
きちんと感謝していない人間が、
形式だけ人に合わせて感謝したフリを続けるというのは
なんだかとてもおかしな行為をしている
踊りか祭りの類のような気がするのだけど、
さりとて日常において自分の人生が受け身であることを
堂々と主張する行為というのも、
非常に人々の怒りを買いやすい。

…なぜか?

わからない。

なんでなのか、よくわからない。
僕の目には、かなり多くの人が、能動的に生きているのではなく、
受動的に日々の人生を惰性で、存続の延長として
「生きているフリ」
しているような気がしてならない。

それに比べると、部屋に閉じ籠もって鬱々とした日々を送っている人間の方が、
よっぽど自分に正直な在り方をしているように思える。
いや、思えてしまう、と書くべきなのか??

わからない、どうもよく、わからない。

正直さがなんなのかというのも、
最近なんだか混乱しててよくわからない感じになってきているのだけど
要するに僕の中から、生そのものに対する自信というのは
とうの昔に捨てられていて、

(なんだか生きているんだかどうだか、疑わしい)

というあたりから、存在に対する疑念が植え付けられ、
あるいは生じ、それが哲学的な領域に踏み込むことで
言い訳として言説化され、自分自身の説得のような形で思い込まれ、
結局のところデカルト的な言説はもはやとっくに崩壊してて、
信じられそうな神様もさしあたって居ないし、
さりとて荒廃と名付けられた世界の変化を目の当たりにしても
もはや感動すら湧いてこないとなると、
いよいよ自分の感性はあやういのではないか?

と、昭和的感慨にふけってしまう。

根本的な問題として、自分は愛し合う家族から生じた光ではなく、
惰性から生み出された闇だろう?
というのが二極化した時の答えみたいなもんで
ただ、ある種全体がグレーな空気に包まれているので
そうした言及を誰かに迫られることはほとんどない。

例えば初対面の人に
「あなたは愛し合う家族からきちんと生まれましたか?」
なんて聞いてくる奴もいないだろう。

で、ある種の洗脳されたハズの価値観から生み出される問題として
「誰かを愛する事ができない人間は死ね」
という、なかば暴力に近い圧力がじわじわと表出してくる。

これが、性に関する堕落と向き合う時に、
対立的に生じる自分の欲?(業?)として
分析はされるのだけど
これに関してもなんだかやっぱり自信は無く、
ほどなくもするとぐにゃぐにゃとしてくるのであったりなかったり。

それにしても今日の文体はずいぶんとぐにゃぐにゃしている。
自分でも愕くほどだ。
あーもう、なんていうか、やっぱりというかなんというか…

「せいに対する羞恥心」

これが、僕にとって心の壁なんだ。
そしてまた、乗り越える事を強要される世の中が、
なんだか哀しい。

もっと夢のように曖昧な肯定感があれば、
世界の輪郭は、破壊されるのだろうか?


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くだらないね、僕らが書いた言葉たちは。
多くの人たちから、レッテルを貼られて生きてきた。
そしてもちろん、僕もレッテルを貼り返して生きてきた。

どうせ評価なんて、好きか嫌いかなんて、
本当に大事な事から比べれば、
とてもつまらない線引きに過ぎないのに。

相手を遠くにおいて、引力が弱いとか、
相手を近くにおいて、引力が強いとか、
そんなこと、伝えたい事に比べれば
全然たいしたことじゃないのに。

どうして虫の羽音を、虫が鳴いている、というんだろう
どうして羽をこすり合わせた不思議な波動を、僕らは鳴き声というのだろう。
桜が散る音も、枯れ葉をこすりあわせた音も、
樹が鳴いているとは、言わないことの方が多いのに。
あの雨に似た鳴き声を、鳴き声と呼びたいのは、
そう呼びたいのは、僕らがそう思い込んでいるからでしょう?
枯れるように散ってゆく時の声を聞いて
泣いているように思うのは、僕らが悲しいからなのでしょう?

口を開いて、首をつたうような音を出すことがつらいなら
指を動かして、記号を重ねる事がつらいなら
空気を逆流させて振動を伝えることがつらいなら
象徴を練り合わせた、鼓膜の振動さえもつらいなら

もうなにも、書かなくていいし
見なくていいし
読まなくていいじゃないか。

ただその胸の内にある、圧迫したとどろきを
確かめればいいじゃないか!

だけど君は、その内側だけでなぞられる
不思議な声を聞きたいんじゃないの?
その声を聞いている間だけ、誰かが居るような気がするんじゃないの?

それが僕じゃないのなら、
君はいったいなんなのか。

それすらもわからなくて、
ただ生きて欲しいと願うなら、

もう僕の言葉も、君に残る僕の記憶も
やがて暴力と同じものになっていくよ
命令もお願いも要らない。

ただ自分のために、
遺書が書ければ、
それでいい。

そう思いながら
僕は僕の中に耳をすませる


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遅すぎた?
本当に遅すぎたんでしょうか。

多くの人が、僕の側に近づいて、そして謎の要求を残し、
僕の側から消えていきました。
多くの人が、鏡の前で幻影に向かって、
欲しいものをつぶやいて、
そしてそこから去ってゆく。

僕の姿に、何を重ねてるんです?
今ある、それ以上の、何が欲しいんです?
欲しがればいい。
名乗ればいい。
手を伸ばせばいい。

それでも。
僕は何も与えない。
僕は君に何も与えないよ。
僕は鏡であり、ただの死体なんだよ。

何を願う。
何を望むの?

僕は僕を許さない
僕はもうすぐ消える

それが、なにか困ることなのでしょうか?

僕はもともとここには居なかった自分なんだよ
誤解から始まったものなんだ
決してありはしないのに、
それでも、ここにあって欲しいと、誰もが願ったから、
僕はここにある記号に言葉と名付け
そして僕という秘密を結んだ。
固く閉ざした自意識で、
「きっと僕はあるはず」
そう思おうとした。

それが、そもそもの始まりだったんだよ。
僕は無かった。

僕はただ、君たちの前で、
鏡を溶かして、映した光を、灯籠の中に投げ入れ、
再び、影の位置に戻すだけだよ。

初めから、君は無かったのだから、
それが名前を失うことに、
そんなに抵抗して、そんなに恥ずかしがって
それがいったい、なんになるというのでしょうか。

始まった場所に、全てを戻す時が来る
ただ、それだけの絶対性が、君にとって、恐怖となるのでしょうか。

僕が、恐ろしいのでしょうか。
それとも、僕が愛しいのでしょうか。
複雑な面持ちで、生も死も、激しく拒絶したいだけの、
逃げのびる延性なのでしょうか。

僕は許さない
僕の存在を許さない。
それは、強い力と弱い力を統合して、
ただ、君たちの前に、消える火と同じ刻絶をもたらす。


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う~ん。
僕も追加の書き込みをしようかと何度も向かい合ったのですが
そのたびにたぶんchokoさんは悩みながら何かを書こうとしてる最中だろう、
と感じてやめたのですよね。

久しぶりに、震えながら文章を読みましたよ。
それが寒さのせいなのか、心の怯えのせいなのかははっきりとはわからないのは
まぁいつものことなのですけれど…。

大丈夫ですよ。
あなたは別に僕を嫌いにならないと思う。
そして僕を嫌いになるのは、結果として、30歳以上の僕がどうなっているのか、
目の前に現実を突きつけられた時でしょう。
それまでの間は、悩みながらも普通にふるまっていることができると思う。
もちろん、複雑な感情と、喜怒哀楽は無くならないのでしょうが。

人と人との対応は、ほんとうに難しいです。
意見の押しつけ、迷惑、そうしたことをいつも考えないといけないし
正直わずらわしいです。
表現を試みる者にとって、本当に、心底言いたいことを言うのが、
何よりも大事なはずなのに…
このキチガイじみた横暴さを前面に押し出す僕でさえ、
心の壁と闘いながら書いている、
書いているというのに…

本当に、書きたいことを書くことができていないんです。
いつも向かうべきところは、相手の居る向こう側ではなく、
僕たちのいる、こちら側なんです。
真っ直ぐに、読んでいる、書いている人を射抜くことの出来る、
ただ、こちら側へ向けて書くべきなんです・・・

BLOG-FRIENDSは、最初から、僕の甘えだったんです。
そしてそれは、僕たちの甘えでもあったんです。
二瓶さんは、本質的には悪くありません。
始まりを思い出せば、いかなる動機であろうとも、
相手の創り出した土俵の上で闘うべきではなかったんですよ。
それでは責任が取れない。
発言にも、表現にも、命がけになることはできない。
BLOG-FRIENDSは、リスクのほとんどを代表者に任せてしまっているから、
それがそもそものあやまちの始まりなんですよ。

だからこそ、あの話し合いには全員に参加して欲しかった。
みんなに、僕の問題を分けたかった。
僕が悩んでいる問題、BFがうまくいかない問題、
完成度が足りていない問題、
正しさがどこにあるか全く想像もつかない世界でも、
表現を試みようと、その動機がそこにあるのなら、
僕たちは同じ場所で話し合うべきだったんです。
今でも僕はそう思っています。
だからこそ、自分の顔に泥を塗りながらも、
あの場所に参加できた。

僕はBLOG-FRIENDSに全てを賭けてはいませんでした。
だからこそ、あの場所で暴れている僕は、
滑稽で、おかしくて、恥ずかしくて、そして愚かしい。
いつも、そこに後悔がつきまとっているからです。

べつに僕は、あの場所でみんながどうなろうと、
君がどう対応しようと、誰がお金を出そうと、本を出そうと、
本当はそんなことどうでもいいのです。
そんなことは、すごくつまらない、目の前に当面だけあるゆめまぼろしのような、
はかなくもろくつまらない微々たるお粗末な問題に過ぎないのだから。
そう、たぶん君が言う、おそまつな問題。

僕はね、書きたいことが書きたいんです。
ただ、書きたいと、思っている、そのことが、書きたいんです。
それを読んで、誰がどうなろうと、知ったこっちゃない。
文章でなくてもいい、音でなくても、絵でなくても、言葉でなくても、
空気でなくても、なんでもいい。
壊れたっていいんです。
腕が無くてもいい。
心臓が、もげたっていいんです。
でも、言いたいことは言いたい。
言いたい!
ただ、言いたいんです。

不可能ですよ。
うん、不可能。
たぶん、君が不可能だと言う。
僕も不可能だというところに、あくびまじりに、ためいきつきながら、
うんうん、無理だね。ニコッと、
うん、そんな感じに、うなづくふりも、間抜けなふりも、
ただどうしようもなく、するでしょうよ。

いいんです、そんなことは。
無理でも。
無茶でも。
無謀でも。
暴挙でも。
企みに似ていても、嘘ばかりの全滅意識でも。

けどね、今、ここで、こうやって、
書いて、書き込んで、訴えて、叫んで、
僕らが、こう、ここで、こうやる、
この、ばかばかしい、
まがまがしい、
この、ぼけかけた、
ぼやけた、
かすんだ、
曇りきった、
気が狂った人を好きになるような、
この、切実な想いを、
どうやって、君は、ここへ、伝えるんです?

やらないんですか?
それを?
あなたは?
きみも?ぼくも?
ただ、あきらめて?

いやなんですよ。

みんな死んでもいい

僕は、自分の弱さを、周り中に飛び散らせて、
迷惑きわまりない、この腐りきった自意識を、
ここで終わりにしたいんですよ。

みんなどうせ、自分のことばっかりが大事でしょ?
僕は違うよ。
自分なんて信じてない。
それゆえに、弱い。

呼吸なんかね、とまったっていいんだよ。
今、全て、思ってることを、ここにぶつけることが、できたなら。
本当に、真実のみを、取り出して、
ここにぎゅって、、、固く、
永遠の間違いとして、刻まれるような、心を、のこすことが、できたなら。
それはね、死んでも掬われるんです。

やりたいことをやって死んだって、
胸張って言えるんですよ。
何歳で死のうが、関係ない。

「君にわかるわけない」←こうやって

こうやって

あきらめて、壁を作って、知らないフリして、
なにもわかんないままで
それで、
それでもいいんですよ。
本当は、なんでもいいんだから。

だけどね、
だめなんですよ
僕だけは、ダメ。
だめなんだ
絶対に許せないんですよ
叫ばないで死んでいくなんて
怖くて怖くて。
だめ。無理。やだ。
やだやだやだやだやだ。

邪魔しないで欲しい。
手伝わなくていいんです。
僕の死を、願わなくてもいい。
けど、そこで、壁を作って、理解を諦めて、
私の思いが届きますようにって
他人に目配せしながら、遠慮がちに、
さめた倫理の中で、
ひえきった道徳の中で、

そうやって…
たのしいですか?

僕はキレイじゃない。
そんなこと、誰に言われなくても、わかってる。
純粋な悪意を取り出すことができたら、
きれいじゃなくても、僕を許せるって、解る。

我慢することには、慣れてる。
ずっと貧乏だったから
ただジッと欲望をひた隠しにして、我慢することは、慣れてる。

だけどやだ!
死ぬ前には、我慢せずに、僕の言いたいこと、
全部言いたい。

祈っててよ。
生き残る事じゃなくて、
僕が、思ってることの全てを、ここに、吐き出せる日を。


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目を伏せ、翳りの中で相手を欲望する。
そうした行為が、いつもいつも、踏み越えてはいけない
切れ端としての、写し込む影としての、
現実を、思わせる。

欲望にまみれた現実は、いつも僕を恐ろしいものと思わせ
破壊にまみれた現実は、いつも僕を儚いものだとさとわせる。

手が伸びたからものを欲しがったんじゃない
欲しかったから、手を伸ばしたわけでもない。
そんな風に求めるなら、
いつだって、僕の手は宇宙の外を掴まなければならない。
体は、肉体としての身体は、宇宙よりも大きく成長せねばならない。

僕が欲しいもの、
自分ではないと思う。
「自分」が欲しいとも、
「自分」が有るとも思っていない。
自分なんか、あるはずないっていつも思ってる。

だけどその、形を求める行為は、
フレームを見つけ出し、それ自身とχとして重なろうとする行為は、
妄想の代入は、行為の中で、
ただ欲望として僕は対象を欲望する。
それが怖い。

あるはずの無いものに、
切実なフレームの中に、重なった瞬間だけ、
乗り越えた瞬間だけ、捕まえたと思った瞬間だけ、
【実現】という夢を見るから
ただ、その痛みに似た達成感は、
悲しいほど充実に似ていて、
何もかもを狂わせる理想という焦がれる充足に似ていて
ただ、その報酬が欲しいために、
ただ、実現したという錯覚が欲しいために、
そのフレームを、高く拳をあげて吠えるなら
僕らはもう、いつだってその側で拡大し続けるしかない。

それは、いつも宇宙を壊す行為にしかならない。
宇宙に恋するような行為ではない。
宇宙はむしろ、自殺する事によって還るような場所だから、
時を超えれば、口から肛門が出れば、
逆流するような世界だから、
回して、ぐるぐる回して、その歯車を回して、
僕らは未知を咀嚼する

口を通過するだけで
何かを知ったことになるのなら、
僕らはもう、その声を聞いただけで
そのイメージの臭いを嗅ぎ取っただけで、
いわば半分は完全に失ったようなものだ。
壊れることによってのみ、
喪失があるがゆえに、ものごとは、永遠の中に保存されてゆくのだから。

怖くてもいい
欲望してもいい
だけど、失うことだけは、
忘れることだけは、
ただ、いつも僕の中で悲しい。

僕は、忘れられる自分を知りすぎていて、
ただ、悲しい。
僕は、世界が悲しい。
僕の世界は、悲しい。

僕は、いつでも何か大事な事を忘れている
それが怖くて、
いつも君の事を、知らないフリをするけど

君もきっと
僕のことを、忘れたふりして
僕のこと、何にも知らないっていうけど
だけど、忘れないで。
怖いだろうけど、忘れないで。
もっと、もっともっと長い間、僕の痛みを覚えていて。

記憶しなくてもいいから、覚えていて。
その輪郭が無くなってもいいから、
薫りが消えてもいいから
そのイメージの中で体験される明日が嘘になってもいいから
僕をおぼえておいて。

目が覚めたとき、いつも夢の中で見た欲望を忘れている
悲しいほどに、自分が何者なのかわからない

真っ直ぐに自分を見つめる事が恐ろしくて
ただ、君たちは僕を欲望していく。


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押し込めた感情は 溢れ出すほど暴れるけど
殺してしまった感情は 二度と再生することはない。


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津軽三味線の音を、聴きたいと思った。

ただ、僕は津軽三味線の事は何も知らないし、
聞いたこともないし、それがどんな音なのかも知れないまま。
それが、それだけが唯一の問題でもあった。

ただある日唐突にそれが頭に浮かんで どうしても確かめたくなったから
それを聞いてみたくなったのだとしたら、
僕は聞いた瞬間に例えそれが嘘で出来ていたとしても、
必死に塗り固めたなけなしのちっぽけな音色だったとしても、
僕はそれによって津軽三味線を知ったことになるだろう。
そして知ったかぶりすることになるだろう。

どっちにしろ、僕は津軽三味線の事なんて、何も知らないのだから。
ある意味では、それは存在にとてもよく似ていて
スプーンで掬ったひとしきりの宇宙の味に似ている。
それを何も知らない事だけが、唯一の、それを知る資格となるのだし、
そしてまた、真実と、本質とを、何も見極めることが出来ない僕の馬鹿さ加減だけが、
津軽三味線を「知る」ことができるのだから。

しかしたぶん、ひとたびそれを聞くことができれば、
それはその内実を失うと同時に、
がっかりする速度で僕は感動するだろう。
初めての、その一回目だけが、涙が出るほど大切な味で、
何かを知ってしまえば、その瞬間に、その実そのものであるところの
味は永遠に失われてしまうのだから。

通過した瞬間にだけ、フレームと等価になった瞬間だけ、
失われた痛みとともに、僕は味を知る。
そしてその味は、【僕の痛みの音色を奏でる】
三味線の事は知らない。津軽三味線のことは、もっと知らない。

たぶん、聴きたくもない。

しかしただ、小さな出来事は、
きっかけとして、時として何かを超越するための
「きっかけとして」僕に作用する。
どこから生まれたのかはわからない。
けれど、誰かが僕に囁く。

遠い記憶の彼方から、僕に、そのことをささやく。
そしてまた、僕は何者に教えてもらったのか、そのことをも失う。

物語はまた、秘密の味に似ている。
スプーン一杯ですくった、その通いたぎった血と似ていて、
内実を、秘密の味に変える。
創作性、と人は呼ぶのかもしれないけど。
想像力の中で体感された出来事だけが、
約束された秘密だけが、
僕の小さな器の中で記憶になっていくのだとしたら、
忘れられることは、信じがたいほどちっぽけな痛みだろう。

無遠慮な、エネルギーの固まりから、
自分という、フレームをつかみ取った瞬間だけ、
僕は僕としてここに立脚されるのだから。

記憶してもらうことだけが、
その他者性だけが、
存在の証明に似ているなら、
僕はもう、いつだって等速度で死にかけた魂なのだから、
削ることは、もはや痛みとは呼べない。
ただ、囁かれた遺書となるだけだ。

僕が何者であったのか、
それはもう意識の問題とはならない。
僕をきっかけに、君が何を知ったのか、
ただ、その事だけが問題となるだろう。

だから僕はここで、君に一つの絞り込んだ命題に似た問題を問うことになるだろう。

「津軽三味線を聴きたいか?」

僕は答える。
『津軽三味線なんか知りたくない。』

それでもまだ、僕のフレームは津軽三味線を聞きたいと
ただ、ありのままに普通に聞きたいとねだるだろう。
もはやそこに本質は何もない、
透き通った、誰のためにもならない、ただ超現実の扉を開けて、
三味線の音が、現実としてやってくる。

その音を聞きながら、僕はきっと、狂ったようによだれを垂らす。
死にかけた瞳から、生きてるかもしれないって嘘に、
ただ、縋ってここにあるために。


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体験を言葉にする事ができる人はまだ救われていて、
体験を言葉にする事ができなくなったら、
もし、語ることの全てが、言葉から遠ざかり、
むしろ言葉という世界から切り離されるほど遠い位置であろうとする
引力に身体が傾いていくのなら、
それは涙によってしか洗われることがないし、
涙が尽きるほど乾いた音を立てて崩れる輪郭の中に
牢獄の側に居るのなら、
ほんの不確かな、身体の配置が、足の位置が、
踏み出す時の傾きが、
全ての結果を支配していく。

どんな姿勢で居れば、
時を超えて選択肢を選びうるのか。
どんな熱情と根拠があれば、
えぶかいその灯籠の中に身を置くことができるのか。

ほんの50年の嘘も、
ほんの30年の嘘も、
選択肢を選び取れないぎりぎりの中にさまよう霧の中にしか、
その姿は見えない。

ゆっくりと足を踏み出して、
ゆっくりとベランダの扉を開ける。
そこから吹くkazeが、
超現実の闇を創る。

閉じきった世界の、選ばれない選択肢が、
開ききった世界の、もう一つの選択肢が、
まっすぐさをこじ開けて、
zeroを超えようとする

どんな光も届かない、真っ直ぐさを超えて
引力はやってくる。

重力の先に憧れて、死へ近づこうとする。

とても怖い。
現実と、灯籠と、超現実の間で揺れる。
鏡の中に霧を見て、
鏡の奥にフレームを見る。

自分なんか無い。
自分なんかない。
じぶんなんかない。
じぶんなんか、無い。

無い、無い、無い。

僕はどちらがわに居るだろう。
あの扉も、この扉も、どの扉も開ききっていない。
ただ、重力の風が時を超えてやってくる。
怖くても、いつも、問題はその先にある。

黒い翼を開いて、白い翼を羽ばたかせる。
赤ん坊の泣き声が聞こえて
世界の終わりがくる。

灯籠の間で、人と人の間で、
老化のhikariが揺れる
うつぶせで寝るように
目を開いて盲目になるように

時間を超えて、選択肢がドットのように現れる。
「どこに居たい?」
「どこが痛い?」
「どこを感じる?」

ありえないほど、自分が居ない。
意志のない瞳で、世界を見届ける。
閉じられた終極の、終わりだけを見つめる。
終極の糸がほどけて、1は0へと変わる。

たぶん、みたいだけなんだろう。
誰もが全て、1から0へ変わる瞬間を。


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