嘘の吐き方(うそのつきかた)
人はみんな嘘をついていると思います。僕もそうです。このページが嘘を吐き突き続ける人達のヒントになれば幸いです。
 



光を欲しがる行為は、
神を生き返らせる行為に、
あまりにも似ている。

似すぎている。
まっくらだ。
あまりにも、似すぎている。

とても、切ない。

生きている人間を、殺したのは、自分なのだから。


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言葉が無力であるのは
言っている意味が通じないからではなく、
システムが崩壊するとき、言葉もまた、
バラバラに崩壊するからである。


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放っておけば、大人はすぐに一つの結論に導く。
一つの結果に結びつくことは、協力ではあるけれど、
終局でもあるから、
それはとても迷惑な事だと思う。
説得が暴力としてしか機能しないとき、
新しさは全て現実感に呑み込まれていく。
そしてまた、結論は一つに集約されてゆく。

説得の反作用によって起きる、
斥力と、嘔吐に、目を向けて
それがなんなのか、知ろうとする。

もし、どんな光にも逆らうことの出来る、深い深い絶望があったのなら、
そこに、平和はありますか?

心の平穏は、ありますか?


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相手の言ってることがわからない。
自分の考えていることがわからない。
言葉という、共有された嘘ばかりが見えていて本当にみたいものは何も見えない。

中心を、知りたいと思った。
誰かが考えていることにしろ、
自分が考えていることにしろ、
対象が考えていることにしろ、
意識が考えていることにしろ、
神が考えていることにしろ、
どんなことでも。

そう、どんなことでも。
本当は、何かを知りたいと思った。
けれど、言葉を辿れば辿るほど、あまりにも、それは作られた、
誰かによって作られた、嘘の輪郭を辿ることしかできなかった。

察する、ということを知った。
黙して語らず、ということを知った。
嘘を吐く、ということを知った。

本当は、そこで何を知ったんだろう。
そして、何に出会ったんだろう

僕は、知ることで、何かに触れたことができただろうか?
一度でも、誰かに触れることができただろうか?

僕は、一度だけ、すごく閉じられた世界で
何かが射し込むような、強い光を感じたことがあったけど、
それは、生きることの痛みにとてもよく似ていて
そして、とても鋭くて強い恐怖に似ていた。
今が何かわかったような気もしたけど、
自分がとてもおろかしい、どうしようもない壊れそうながらくたのような気がした。

全てがバラバラに消耗されていく、疲弊された世界の中で
自分を信じる事は、なによりも恐ろしい。
たとえば、何も知らない自分という、その閉じられた自分に気付くことができたとしても、
それを肯定することも、否定することも、僕にはかなわない。

僕という嘘が、
作られたばかりの嘘が、生まれた場所に還っていくだけの行為だったから。

心で向き合うことは、とても永遠に近くて
とても永い牢獄に思えた
何かを信じることはできないけれど
何かを壊さずに済んだ、
結局のところ、そういう弱さでしかなかった。

僕は、自信ということばが嘘であることを知っている
自分という幻想を信じた者だけが見る、夢のように儚い灯籠であることも知っている
それでも、きっとそこになにかあるって、それを知りたくて、それを信じたくて
ずっと探しているから、
それは、創り出す行為に似ているという、そういう嘘でしかない。
記憶が等速で創られ続けるという嘘。
思い出すことが、等速で忘れられるという嘘。
その嘘がある限り、人は時間を超える事ができないって、知っている。

だから、心の壁はいつも透明で、いつも白く黄色い灰色の暖かみで
僕くらに遠くふりそそぐ。

とおく、とおくとおくふりそそぐ。
美しい景色の中で、儚い今を振り返るように
逃げ壊れる、自分を優しく守るように
ずっと、自分が居るハズって何かあるハズってそんな淡い期待だけが存在を支えてるって
僕らは気付いていけるから

きっと、すごく切ないことだけど
自分は、自殺するような速さで、生きることにとても近い等速度で
粉々に、砕け散ってゆく。

生きることは切ない。
だけど、死ぬことは、それと同じぐらい、やさしくて、あたたかい。


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世界はひとりぼっちだと思い始めたのは、いつ頃からだろう。
同じように、誰もこの世界に居ないと、
意志はどこにもないと、
信じ込み始めたのは、いつからだったろう。

孤独を伝えようとする行為は、
多くの意味を含んだ暴力の世界において、
とても優秀な美徳と似ていると思う。
それはとても迷惑で、とても儚い行為であるから。

だけど

ひとりっきりの
なにもない空間の
わずかな外へ向かう光は
同じ強さで光る 星に出会うことは 決してない

だから

多くの場所において
僕はなるべく、極力、何者にも
出会うことのないように
決して、何かを想像したり、期待することのないように
ただ、罪人であることを
努めるべきだと思う。

孤独は別に好きではない
むしろ嫌いな方だと思う。
好きとか嫌いとか、そんなことを述べること自体、
ほとんど意味のないことなんだけれども。

ただ、忘れられることは、
いつも悲しい。
精一杯、憶えられることは、憶えておきたい。
けど、大事なものがなにもなくて
いつも、僕は世界のことを忘れ続ける
ずっと今だけを保って
ずっと同じテリトリーの中で
同じ道の中を
森のようにぐるぐる回る。

怖いからでもある
もし、この世界に
どうやっても絶対に否定できないような
生の灯りがともっている場所があったのなら
きっと僕は、そこから動くことは、決して出来なくなりそうだから。
どんな不安も、どんな悲しみも、打ち消してしまえるような、
そんな美しい灯りが点されたなら、
僕はその点だけを求めて
ずっと、その場所に無力なまま、立ちつくすだろうから。

だから僕は
いつも、孤独と友達であるべきだと思う。
困ったときに孤独は助けてくれるし
孤独は誰かを裏切ったりもしないから

けれどそれは
たぶん、すごくつまらない消え方なんだと思う。
ずっと同じ場所で、火打ち石を打ち続けるような
そんな痛い作業なんだと思う。

僕はよくわからない

求めるものもなく、ただ歩き続けるという作業が。


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命日が近づいてる感覚にゾッとする
寒気がすると書くこともできるし
うす痛いと書くこともできる

寝返りを打ったときや
ちょっと体勢が変わった時に
胸のあたりが少し痛いだけでも
ドキっとする
このドキッとする感覚がくせもので
精神的にどきっとしてるのが
実際に心臓がドキッっと痛いのか
いまひとつよくわからない

まぁもっとも、感覚なんて明確に区分けできる事自体が異常なんだけれども

引っ越しについて考えてみたりする
あるいはヒットラーの自殺とか
北朝鮮の中心心理とかについて考えてみたりする

多くの欲望と、無能と、完璧に打ちひしがれた絶望と、
革命的な思い込みと、
他にどんな才能が結びついたとき、
「科学の扉が開くのか?」
といったようなことについて考えてみたりする

例えば何十万年かに一度、
プレートテクトニクスとともに
温度変化が起こっていたとしても、
それを人間の尺度で「急激な変化」と感じる事ができなければ
そこに地球の鼓動は感じられない

---

心臓の鼓動は、最終的にどの範囲で停止したとみなす事ができるのか
変な科学のメスで心電図を見たり
オーロラを見たり
夜空を見上げたり
周波数でものを考えたりも、するんだけど…

だけど死ぬ寸前に波長が長く永く、とてもながくなって、
その周期が地球と同じ波動になって
そのサイクルがぴったり合ったとき、
果たして地球の命の声はきけるかな?と
宇宙が閉じて、あらゆるものが爆縮の中で
ブラックホールに飲まれて世界が超越を起こすとき、
果たして声は、凝縮された声は僕自身に届くかな…?
とか、なんか不安になったりする

もちろん
黒船や星空や言い訳や内臓の痛みでさえも、
外からの感覚として受け取ることができるほど無力でなければ
あらゆる孤独は、その外壁からの隔離によって孤独と感じるわけだけど
そもそもある種のえっした感覚の中に
ずっと束縛されて動けない翼に、
どれくらいの人が、心を痛めているのだろう

自分を、意志を、フレームを、
新陳代謝が行われている変化の世界を、
自身の肉体の皮膚と同じ位置で感覚を痛みとして受け取れる人は.
ずいぶんと恵まれてるんじゃないかと思う

皮膚をつねられて痛いと感じてるうちは、
腕を切って血が出る事によろこびを感じてるうちは、
まだそのフレームが、きっと自分自身なんだと散ることができるから.

けれど、人の意志が知的なフレームで、宇宙と融合してるとき、
つまりカメラが常に人類でしか動いていないとき、
僕らはどうやって、ミクロな痛みをマクロな世界につなげていくんだろう

かつて、世界が光と闇しかなかったころ、
僕らには触覚しかなかったと思う
もちろん、感覚として機能していることもなかったろう

だけど、爆発的なフレームの中で
痛みを感じる事でしか生を体感できないのなら
何億回もの宇宙の鼓動の中で、ずっと高次元化が起こるだけなら、
僕らはどうやって、
その生を確かめていけばいいんだろう

宇宙になりたい。
誰かがそう思ったこともある
だけど。

宇宙は自殺したい。
そう考えていることの方が、はるかにおおい.


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狂ったように書き殴るステップが
ときおり人を絶望させる
表現は狂っていないのに
正常に規格化された内側で
段差を上り下りしているだけだ

それでも狂ったように
文字を読みふけるのは
おそらく呼吸が狂っているからだろう

ゆっくりとしたステップで
せわしなく いそがしく くるくるまわれ


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内在する内臓の言葉と
外からやってくる記号の言葉に翻弄されて
僕は翼の意志を失ってゆく

内側でも外側でもない翼の寒気をずっと感じているのに
未来はいつまでたっても開かれず
扉を硬く堅く閉める死に神は笑い続ける

世界をあざ笑って
僕と共に嘘の表情を作り出す

記号から捏造された未来ばかりが鎌首をもたげる。

僕はここで、ひとりで明白に向かって踊る

遠い日差しが、見たこともない風景が
吐き気と共に射し込んで、
僕はどこよりも臆病な場所になる。

明日、翼がはばたく明日をおそれて
今日、今だけと僕は仲良くする。

怖い。
意志を伝えられず、
独りで死んでいくのがこわい。


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なぜ。
光は闇から闇へ伝わるのか。

ずっと遠い世界から景色は永い時間をかけて
一瞬で僕の心に映りこむ

遠い時間を超えて受け継がれる
あらたな命の可能性も
ただ、一瞬で灰になる

波動の光と粒子の光で
永い永い鼓動がきこえて
そしてまた
空を飛ぶような
走馬燈の声がきこえて
僕らは眠りにつく

ほんのわずかな口が開いて
全てが超越されて
光は闇へ取り込まれて
新しい命の今を繋ぐけど
何度でも鼓動の数だけ命は灰になる

少しの口が
すこしの時間をかんで
咀嚼された回数だけ
世界の鼓動が呼吸をかぞえるなら

声は
誰から誰に届くのだろう

ZEROを通過して
世界を裏返すように伝わるのなら
その短い波動は
ながくとおい時をつたえるから
声はかなしく散って逝く

100%の声が降り注ぐように
光は消えて闇になる

ただ闇雲に
かなしい声がこだますように
僕を、光に変えてください。
真空の世界から、排泄される光のように。


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悪意を批判する限り、意志をつらぬくことはできない。


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中学の時、いじめられていた。
小学の時、逆にいじめていた。
その時は、その事がとてもつらかったけれど、
それが特別僕を殺そうとはしなかったし、別にそのことで死のうともしなかった。
友達は居なかった
でも、特別寂しくもなかった
さびしいなんてこと、わからなくとも僕には僕の誇りがあったし
僕は望まれてこの世界に居るって、はっきりわかっていたから。

中学二年の時、作文を書いた。「人間の生きる目的」
中学三年の時、文章を書いた。「人間は生きるべきか死ぬべきか。」

人間の生きる目的は、風呂に入っているとき、急に思いついて
それ以来、気になって気になって仕方なかった。

それからしばらくして、読んだ漫画の中に
「決着をつけようじゃないか、人間は生きるべきか死ぬべきか」
そんな問いが書かれていた。

記憶は薄らいでいて、言葉はとてもあやふやな輪郭をたどるけれど、
それでも、一度として、その問いに答えられた人は居なかった。
そしてまた、僕も同じように、答えを濁したまま今を過ごしている

子供の頃、自分で考えて書いたことのなかには、
「人間の生きる目的が、わかっているなら行動すれば良い。
もしわからないのなら、とりあえず生きてみればいい、
いつかわかるかもしれないから。」
そのような事を書いた記憶がある。

多くの人が、問いに答える事よりも、
今をとりあえず生活する事を選んでいると思う。
生きることにも、死ぬことにも、問いに答えることにも、
曖昧に判断を濁したまま、それでもなんとかかんとか、やっていけるから。
だけど、必ず許されない時は来る。

僕は、身近なモノが、記憶が、人間が、人の形をした記憶が、刻まれた心が、
どうしようもない記憶が、掴み取ったと錯覚したモノが、あるはずだと信じたはずのものが、
全て消えていく世界の中で、
決して、生を、死を、自分を、世界を、全てを、許すことは出来ないと思った。
どんな他者の存在も、どんな美しい記憶も、光り輝く景色でさえも、
いつかは必ず消えてしまうこの世界を、僕はいちいち、許したりはしたくないと思った。

だから僕は、自分が生きる範囲を決めた。
自分が行動する範囲も、自分を許す範囲も、人を殺す範囲も、人を殺せない範囲でさえも。
きっとそれが、僕の世界の圧力であり、僕の閉じ込められている牢獄なのだと思う。
だけど、罪を決めたのも、僕を罰したのも僕自身なのだから、
僕は最後まで罪をあがなって生きると思う。
あとほんのわずかの時間の中で、30の大人にならないように、
失われた決意を無くさないように、ずっと僕は僕だけの自分を憶えていると思う。

例えそれが、呪われたよわっちい消し炭のような言い訳に似ていても、
僕は自分がやりたいことさえできれば、僕を許していけると思う。
そしてもし、僕が僕の問いに答えられないのなら、
僕は決して僕を許さないだろう。

死ねばいい。
最後には
人は、必ず、最後に死ねばいい。
自力で。なんとかして、無茶も不可能もぜんぶがむしゃらに押さえ込んで、
自分の力で死ねばいい。

どんなに強い暴力でさえも、それが外に向いている限り、全ては生の絶え間ない広がりにしかならない。
僕は超越する。
生も死も、全てを飲み込んで、全てを粉々に破壊する。

明日が来たっていい。
僕はもう、とうに永く生きすぎた。


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100%の記号化が、
100%の客観性が、
時間を超越する。

二次元平面上にしか閉じられた世界が無いのなら、
三次元の高さに開かれている僕には、
二次元を超越的に操作できる

三次元空間にしか閉じられた世界が無いのなら、
四次元時間に開かれている僕には、
三次元を超越的に操作できる。

大きく開かれ、小さく開かれていく世界の中で、
食べるという行為は、
その開かれた「口」によって、
その原始的な自分を開く行為によって、
大きさを、超越する。
宇宙丸かじり。
微生物丸かじり。
そして、光さえも。
食べるという行為は、咀嚼する時間の中で、
とても恐ろしい。
それは、開いたり閉じたりする、超越のトンネルなのだから。

記号化され、パズル化された最小単位の記憶を、
外科手術によって書き換える必要は無い。
フラッシュバックトキシンが、
僕らにとってのタイムマシンとなるだろう。
どんな体験も、捏造された記号の記憶を辿る
走馬燈という閉じられた主観がある限り、
僕らは現実を夢見るようにタイムマシンの中にいる。

よく噛んで食えよ。
この閉じられた、どうしようもない走馬燈を。


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女性は丸く主観的に世界を閉じてゆく
男性は真っ直ぐ客観的に世界を開いていく
しかし真っ直ぐに開ききった世界は死を呼び込む
世界は閉じなければ無秩序になってゆく
冒険の中で勝ち取った経験は
掴み取った死の一部は
自閉的な世界の中でこそ
生として繰り返されてゆく
生の代理であるあなたの中で
死の代理である僕がいるからこそ
閉じられた走馬燈は、生きている豊かな時間を獲得してゆく

ゆっくりと開かれ、ゆっくりと死ぬからこそ
生の痛みは引き延ばされてゆく
美しく散る花があるのなら
そこに時間は要らない。
一瞬で咲き乱れ
刹那に咲き狂い
華々しく散ってゆくべきであろう

短い生の中で
猛烈な痛みがあればよい
生は  さざなみの中に


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