世の中の二乗>75の二乗

話せば長くなる話をする。知っても特にならない話をする。

骨にかえる

2011年03月31日 20時28分18秒 | Weblog
毎年恒例になった健康診断にいってきた。
いつもの個人病院。
いつものおじいちゃん先生。
いつものおしっこ取りなど。
でも今年はレントゲンを撮るのにちょっといつもと違う感慨。
機械にぺったり肩までつけて、
あごをくぼみに置いて、
大きく息を吸ってそのまま少し待つ。
その間に、「ああこれが今話題の『胸部レントゲン一回分の被曝』かあ」と思う。
どうしようもなく思う。
痛くも痒くも害があるわけでないこともわかっていて、
なお、思う。
どこから出てるんだ、放射線のXは。
そのXが私の胸を透き通らせる。
肉をそいで骨にかえる。
骨になった私の胸はきっと月曜には「異常なし」と判断される。

2本立て

2011年03月26日 06時39分03秒 | Weblog
夢をみた。

卒業式だと思う。
私も生徒として並んでいる。
しかし、場所は昔住んでいた家の庭だ。
生徒の数も20人くらい。
でも卒業式で、私も卒業生である。
先生が、クイズを出す。
「殺虫剤の使い道には2つあります。どんなものでしょう。」
スプレー式の殺虫剤には虫を殺す、以外のもう一つの使い道があるという。
誰もわからない。
私はなんとなく答えを知っている気がして、はい、と手を上げて、
「消火器のかわりになる。」
という。
「正解!」
おおーというまわりの反応。
クイズを出した先生もびっくりのよう。
へえ、殺虫剤がねえ。
よくわかったねえ。などなど。
もう少し、「不正解の答え」が出てから言えばよかったかな、とあざといことを少し思う。
「正解者にはこれを差し上げます。」と渡されたのは
家庭用のプロパンガス1本(?)だった。
重そう。しかもこれをどうすれば?
急いで玄関から家の中に入る(何しろここは家の庭だ)。
暗い廊下の先の暗いキッチンに母がいる。
そうそう、こんな感じだった。と昔の家の中を思う。
母をちょっと来て、と呼んで、二人でばたばた廊下を進み、
「これ、もらった」と見せる。
母はあらら、みたいなことを言った。

※殺虫剤は消火器の代わりにはなりません。
 それどころか、火気に吹きつけると大変危険です。
 私の夢を鵜呑みにしてやらないで下さい。

もう一つ、夢をみた。

料亭のようなところで、振袖を着て食事をしている。
食べているのは、豆腐のような、おかゆのような、餅のようなもの。
白くて、ぐねっとして、木のスプーンですくって食べる。
「ここの名物なんだよ」と真向かいに座っている男の人が言う。
ここの料亭は有名店らしく、
店内は賑わっていて、たまに魯山人とかの大物も入店する。
格式の高いお店なので、
魯山人が入ってきてもと誰も「あ、魯山人だ!」と言わないけれど、
なんだかさわさわさわとあー、魯山人がきてるよー、というような
目配せの波が店の中を駆け巡る。
私が目で追うと、魯山人は黒っぽい羽織を来た男の人たちの集団の中にすすっと入り込んで見えなくなった。
で、さっきから左ナナメ奥の席に野際陽子がいる。
きっと野際陽子も豆腐のようなおかゆのような餅のようなものを食べている。
私は野際陽子のそばまで行って、
野際さんが今度出る2時間ドラマについてのインタビューをシュークリームをかじりながら答えている映像をどこかで見ましたよ、
その2時間ドラマがけっこうシリアスなものだったからそのギャップが面白かったですよ、と話しかける。

恐喝胡弓

2011年03月20日 20時20分09秒 | Weblog
ずるずると休日。
帰省した時に買った「名古屋コーチン白湯鍋スープ」というものに
野菜を入れてみゆみゆと食べる。
シメにこれも愛知で買ってきたきしめんを入れる。
みゆみゆと「これ、うどんだね」「うん、うどんだ」といいながら食べる。

暇なので図書館で楽に読める本を大量に借りてくる。
私にとって楽に読める、というのは川上弘美とか、穂村弘とか。
穂村弘のエッセイの中に共感される言葉より、驚異を感じさせる言葉に魅力を感じる、というようなことが書いてあって、その例として引用されていた言葉に驚かされる。
山村暮鳥という人の言葉の並べ方。
「竊盗金魚
 強盗喇叭(らっぱ)
 恐喝胡弓
 賭博ねこ
 詐欺更紗
 瀆職天鵞絨(びらうど)
 姦淫林檎
 傷害雲雀(ひばり)
 殺人ちゆりつぷ
 堕胎陰影
 騒擾ゆき
 放火まるめろ
 誘拐かすてえら。」
明日はこれが載っているという「囈語」を探しに行ってみよう。

ポケットのどんぐり

2011年03月19日 08時11分17秒 | Weblog
18日金曜日。
職場復帰。
家庭保育ができる家はそれをお願いしているが、
おおむね子どもは来ている。
節電に心がけ、不要な灯りは消されている。
洗濯も回数を控えている。
今までは食事の後に口を拭くタオルがあって、
それを毎回洗っていたのだが、
タオルではなくて使い捨てのウェットティッシュを使うことになっていた。
これで乾燥機も使わずにすむ。
余震の揺れが怖いので3階でお昼寝はさせない。
1階に降りて寝る。
予測されない停電の危機があるので
子どものお迎えが始まる夕方には随時スタッフも帰るようにする。
土曜に予定されていた卒園式は中止。
その準備に追われずに済んだのはありがたいが、
こんどは急ピッチで新年度の準備。
停電の心配があるため、遅くまで残っての作業ができない。
なんとか保育時間に人員を出してやっている。
子供たちはここ一週間大事にされたせいだろう、
みんな甘えん坊になっていた。
なにかしら擦り寄ってきては絡みつく。
一週間ぶりに再会して、それがうっとおしいがいとおしい。
やはり少し精神的に不安定な子もいる。
今日のリトミックでは稀に見るノリの悪さ。
疲れのせいもあるのか、眠たそうな子が多い。
それかあとはみんな何かふわふわと妙に陽気。
家庭の反応もさまざま。
四国へ子どもを疎開させたというところ。
お母さんは2日に一回東京に帰って仕事するという。
飛行機通勤。それができる財力。
地震が来てもすぐ逃げれるように
パジャマではなく普段着で寝るようにさせたいというところ。
もうすぐ3歳の子供本人もその理由がわかっていた。
「うち、放射線に関してすごくナーバスになっているんです」といって
マスク、フード、手袋としっかり装備してお迎えにきたところ。
本当にこういうときにこそ人柄が出る。
みんなそれぞれ自分の判断でやっている。
私も自分の判断を持つことができた今はもう揺るがない。

今日、仕事着のポケットからどんぐりが出てきた。
11日の日、
子供たちと小学校へ避難して、体育館にいるとき、
一人の子がどこかから出して持っていたものだ。
きっといつかのお散歩のときにコートの中に入れてたのがそのままで、
このときポケットを探っていて見つけたのだ。
手にしたどんぐりを見つめて、こねくりまわしている。
この状況で、どんぐり、というのが妙におかしかったのを覚えている。
そのときは小さい子もいるのでそのどんぐりを私があずかってそれで仕事着のポケットに入れたのだった。
返し忘れていたなあと思った。
このまま返さずに持っていたいなあとも思った。

ちぢけたスポンジ

2011年03月17日 22時46分36秒 | Weblog
12日(土)夕方。
昨日の地震の後、自宅に戻りお風呂に入ってひと眠りしていると
父から電話。
「原発が爆発した。とりあえず一度帰っておいで」
急いでテレビをつける。1号機が爆発したらしい。
このときまだ爆発の映像なし。
情報なし。
とにかく、父の「帰っておいで」の電話にしたがって
急いで着替えを済ませ、必要そうなものをかき集めて自宅を出る。
このとき着替えも持たず、しかしなぜか年金手帳は持っていた。
午後5時半。
一番の心配は「東京駅まで着けるかどうか」。
昨日の交通網大混雑の後である。
「原発の爆発」に恐れをなした人たちが詰め掛けたりしていないだろうか。
祈るようにバスに乗り、祈るように中央線に乗る。
中央線、下りならともかく、上りはガラ空きといってもいいくらいだった。
新幹線の自由席券を買い、すぐ発車するのぞみに乗り込む。
動き出したときの安堵感。
周りを見渡すとのぞみの自由席はちょっと味わったことないような雰囲気。
ピリピリとも違う、ぐったりとも違う、
しかしなにか言いようのない不安感みたいなものが車内を埋め尽くしており、
さすがに立っている人はいないが空席は少ない。
昨日の今日である。
あと、どれだけの人が原発のことを気にかけての行動かはわからないが、
平日のこの時間にしては親子づれが多い。
誰もなにも言わない。静けさ。
私も冷静なつもりでピリピリしていたと思う。
ニュースなどの情報にかじりついたまま、名古屋へ。
駅に降り立ったとたん、同じ国とは思えなかった。
駅からして歩いてる人の雰囲気が違う。穏やか。
まるで私だけが焦っているばかもののよう。
まわりの空気に溶け込めないまま、在来線に乗り、実家の最寄り駅に。
タクシーに乗る。
何かしら人としゃべりたくてタクシーの運転手に
「こちら地震どうでしたか?」と聞く。
おじさんは一瞬、何を聞かれたかわからないみたいになって、
「あー、まあ多少揺れましたよ」と言った。
「最初、地震だって気づかなくってね、ゆっくりゆっくり揺れてたから、こりゃ、脳卒中の前触れかなと思ったね、それで、そしたら地震だったよ。」
私が東京から来たと言うと
「そうですか、私も弟が神奈川にいるもんでね」と言う。
ご無事でしたか、と言うと、「ああ、まあ。大丈夫だったみたいですよ。」とのこと。
降りるとき、もう一度「弟さん、無事でよかったですね」と言うと
そんな大げさな、という苦笑をされた。
やはり違う。受け止め方が。
実家へ帰り着く。午後9時すぎ。
父と対面。まあ、普通。
余りもののご飯を食べて、テレビを見る。
どこも地震地震。
11時すぎ、父の助言にうんざりしながら弟も名古屋入り。
お嫁さんは明日仕事あるので残ったという。
弟がいるというのではしゃげる。一緒にコーラなんぞ飲む。
母は台北に職員旅行中。穏やかな。

13日(日)
一日テレビを見続ける。
事態が治まればすぐに帰るつもりでいた。
その間、父が気を利かせてみたらし団子や、刺身を買ってきてくれる。
十分味わうがどこかうつろ。
月曜には仕事がある弟が昼に東京へ帰ることに。
父が用意した懐中電灯やランタンなど持っていく。
事態、治まらない。
夜9時過ぎ、母帰宅。
私がいることに驚く。
台湾へ行っていた間の日本のことを知る。
お土産のパイナップルケーキうまい。胡麻チョコ、烏龍茶チョコうまい。
故宮博物館がよかったとか、翡翠でできた白菜があったとかの話を聞くが、
気もそぞろ。
ニュースが気になる。
関東で計画停電なるものするらしい。
この、「らしい」の間に施設長に電話。
実家に帰っていること。月曜日は様子をみさせてほしい旨伝える。
ここでも、え、実家に?大げさな、というような反応。
計画停電のことも本社から特に通達なし、とのこと。
困るなあ、と言われ、胸が痛む。
やはり私だけばかもののよう。
だが、原発の収拾がついていないのと、体験したことのない計画停電にビビっているのは確実なので、私は私の身を最優先にする。
深夜、とんでもない量の地区が計画停電になることがわかる。
私の自宅も入る。
そのグループわけがややこしい。
しかもあと4時間とかで始まると言う。
メモをして、なんどもテレビと照会する。
明日には帰るつもりだから、その後のことが不安。眠れない。いや、3時間くらいは寝た。

14日(月)
帰るつもり。昨日の施設長との電話が響いている。
父と買出し。
電池やランタン、非常食など。
弟の家の分も買って、ダンボールに詰め、コンビニで送る。
関東への輸送は大丈夫なのかと思い「どれくらいに着きますか?」と聞いたら、
なぜわざわざ?という顔で「え?明日ですけど?」と言われる。
この温度差。
テレビでは三鷹や吉祥寺といった普段使う駅がえらいことになっている。
計画停電はしていないようだが、
この駅の混み方がこの先毎日続くとなるとかなり不安。
不安が募る中、
父がとってくれた新幹線の時間に間に合うように出ようとしていると、
3号機が爆発。
私の中で、こりゃだめだスイッチがぽちっと押される。
人生2度目。1度目はおなか痛くなって救急車を呼んだとき。
職場に電話。施設長に今日の子どもの登園状況、スタッフの出勤情報聞く。
自宅保育できる家庭には自宅でとお願いしている。
多少の遅れはあるがスタッフ、子どもとも職場にいる。
電気は停電の区域外なので通常通り。
「正規のスタッフじゃないので無理強いはできない。どうしたいかそちらで決めてください。」とのこと。
きついなあ、そんないい方しなくてもいいのになあとさみしかったが、
私はもうこりゃだめだスイッチが押されているのだ、
「もう一日だけ、様子を見させてください」とお願いする。
心がきりきりする。
その後、テレビを見続ける。
2つも爆発してしまった。
そして私は明日こそなんとしても戻って明後日には職場復帰しなければいけない。
テレビを見続ける。
父とスリランカカレーを食べる。
テレビを見続ける。
夜8時過ぎ。
次、施設長になる人から電話。
「今週はお休みでいいですよ。ご実家でゆっくりしてください。」とのこと。
こんなにほっとしたことはなかった。
丁寧な言葉遣いとこちらへの気づかい。普段と変わらぬ明るさとユーモア。
この判断をくれた次期施設長に感謝。
この人にはついていけると思った。
東京は物の買占めが進んでいるようなので、
足りないものがあればこちらから送る意志のあること伝える。
それも受け止めてもらえた。
安堵。
安堵。
そしてこれからとことん情報を集めることに徹しようと思う。
自分が納得できるだけの情報が集まれば一週間の期限を待たずに帰ろうとも。

15日(火)
当分の余裕ができてよく寝られるかと思ったが、
全くそんなことはない。やはり4時間くらい。
夜遅くまで予断を許さない状況を見続けてしまう。
朝は計画停電の始まる時間(6時20分)の前に起きて
今日は本当にやるのか、やるとしてどんな感じかを
テレビやツイッターで集めたいので起きることにしている。
原発はよくない。
2号機の破損が見つかる。
東京にいる友達2、3人と話す。
逃げるほどではないが、皆不安だという。
みゆみゆに頼まれた電池を送る。
昨日のコンビニ。
荷物を送りたいと言うと、
「関東とか東北は荷物の収集をしていないんですよねえ。東京と神奈川だけは集めるは集めるがどのくらいで着くかはなんとも言えませんよ。」
昨日とずいぶん違うじゃないか。
送る住所は東京なのであずかってもらうはもらう。
着の身着のまま、着替えも持たずに来たので、
そろそろ着替えたい。
来たときは一泊のつもりだったからしょうがないけど、
実家といっても家を出て10年くらいでもう既に私の着替えなんぞ置いてない。
弟の車を運転してイオンへ行く。
下着と靴下、ざくっと着れる長袖買う。
寿がきやでラーメン食べる。
なんて穏やかなイオン。
なんて穏やかな愛知。
地震直後から体験したこと、揺れたり、子ども連れて避難したり、小学校で一夜を明かしたり、
そして情報としてだけれどもっとひどいことを体験してる人がいるという現状。
この二つの世界が同時に存在することがどうもまだうまく飲み込めないみたいだ。
それを感じてだと思うけど、ここで、帰ってきてからいままで感じてきた温度差とかひずみのようなもののピークがくる。
頭がかっかと熱くて、頭がぼんやり、
気分が悪くなって、ふらふらする。
思えば地震起きてから今までまともな時間寝てないし、
安堵や周りとのギャップになかなか身体が追いつかないみたい。
事故を起こさないように帰って、とにかく布団に入って寝た。
テレビは見ないようにした。
情報を集めなければという危機感みたいなのに抗って、身体を休めさせることにした。
起きたら父が帰ってきていて、「寝てたの?」と聞かれたので
今日のこのことを拙い言葉で伝える。
きっと拙すぎたんだろう、一笑にふされる。
「毎日テレビ見て食っちゃ寝してるくせに」と言われて、きゅっと悲しくなる。
いつもはそんな言葉くらいには負けないのに。
弱っているんだなあとまた自覚する。
昨日、荷物を送った弟から届いたと電話あり。
愛知―東京はいつものように翌日に届いたよう。

16日(水)
一日テレビやツイッター、ネットで情報集め。
放射能は出た。
これからはどの程度出たかだ。
モニタリングの情報、個人でガイガーカウンタ設置している人の記録、どの程度が危険で、今どの程度なのか。
東京の自宅付近の様子や通勤に使う路線情報、職場周辺も徹底的に調べた。
調べていくと今起きていることもわかってくる。
どんどん安心する。
東京に目立った混乱はない。
東京に放射能は危険レベルまではならない。
4号機で火災があった。
麻痺しているんだろうか、それくらいではもう動じない。
信用できる情報を自分でより分けながら集めていく。
自分で集めたものを自分で判断するとどんどん落ち着いていく。
今回のことで私は
自分が納得できるまでは決して意志を曲げない頑固者であることがわかった。
16日の夜、
ここにきて初めて私はこれからの生活への安心を得た。
情報を集めまくってようやく納得した。
みゆみゆに荷物届いたよう。
やはり、ちゃんと翌日には着く。

17日(木)
朝、両親に東京へ戻るつもりであると伝える。
安全であると判断した根拠を説明する。
両親の了承を得る。
帰る準備をする。
職場に電話をかけ、今日東京に戻る、明日出勤できる旨伝える。
もう私抜きのシフトが組まれていたようだが、
「ありがたい」とのこと。
こちらもそうやって思ってもらえてありがたい。
明日7時半から出勤することに。
がらがらの新幹線に乗る。
中央線に乗ったら、やっぱり愛知とは空気が違うのだった。
みんな疲れてうつむいている。
少し重苦しいこの空気。
帰ってきたなと思う。
よし、と思う。
これからひとりで生きていく。
近所のスーパーは品薄だが、不足はない。さすが東京。
近所のガソリンスタンドから家の前までそのもっと先まで永遠と順番待ちの車が並んでいる。
この光景はすごかった。
今回の帰省で母から教わったなますを作る。うどんを茹でる。帰京と明日からの奮起のためにビールを飲む。
食器を洗おうとしてつかんだスポンジが水分がとんで硬くちぢけていた。
何日も使わなかったものなあ。
留守にした時間と、その間に起こったさまざまなことを思う。
よし。
やるぞ。
まずは節電。
ヤシマ作戦。私は節電のこのネーミングは大好きだ。
なによりインパクト。
そしてこんな状況下でもちょっとゲーム感覚。
でもそれが逆にやる気を起こさせている。
ちょっと不謹慎で、ものすごくまじめ。
賛同する。
東京にいる限り、やる。

背中の血脈

2011年03月12日 13時44分26秒 | Weblog
3月11日金曜のお昼寝明け、
3歳以上のクラスに入って着替えやおやつの準備をする。
くらくらっとして
スタッフが「あ、地震」と気づく。
すぐやむかと思ったら
その声が、パッと鋭く「地震です」とですます調に変わって、
それと同時くらいにくららんくららんくらいに大きく揺れる。
杉並区阿佐ヶ谷は震度5強。
すぐに子どもを集める。電気を消す。窓を開ける。
集めても揺れはおさまらず、より広い部屋の中心に移動させる。
この段階で子ども大泣き。
が、日頃の避難訓練の成果を発揮し、手を頭の上へもっていっている。えらい。
スタッフの指示で、お昼寝用の布団を子どもの上へかける。
おさまったかと思うとまた揺れる。
長く続く揺れが不気味だった。
子どもが泣きながら「やだね、こんなのきてほしくないね」と言い合っている。
こんなときでもおしゃべりはとまらない。女子のすごさを見る。
余震が来るたびに子どもの顔がさっとこわばる。
着替えが途中の子どもの着替えを済ませる。
落下して危なくならないように音楽コンポを下におろす。ポットを洗い場へ置く。
一階の下駄箱から子どもの靴をビニール袋へかき集めて持っていく。
エレベーターに「地震」の2文字。階段の壁紙に亀裂。
靴下、ジャンバー、帽子をかぶせ、靴を履かせる。
そのまま階段で降りて、中庭に集合。
しばし協議の後、近くの小学校へ避難することに。
4人乗りのベビーカー2台、2人乗りのベビーカー2台、避難用の押し車1台に
0歳1歳2歳を乗せ込んでいく。
外の道には人が出て来ていて、近くの建物が少し崩れたりしている。
そこでまた少し大きめの揺れがくる。
これがたぶん、3時15分くらい。
上には電線があるし、建物の近くは怖いので道の真ん中を
歩ける子と手を繋いで小学校へ向かう。
ベビーカー軍団を引き連れてぞろぞろと結構な緊急避難っぷり。
が、途中、けっこう平然と車が通ったり、自転車が通ったり、
店が普通に営業してる雰囲気だったりともろもろ街中との温度差に出くわす。
小学校に着くと、さすがに全校生徒が運動場に避難しており、
一角を使わせてもらって地べたに座る。
見る見るうちに子どものズボンが真っ白になり、地面に指でうねうねした線を書きだす。
その間も小さな揺れが続く。
校庭の登り棒がゆさゆさなっている。
避難している?様子見に来ている?早引けした?スーツの男の人などが通っていく。
保育所に戻ってとってきたブルーシートと、おやつが届く。
今日はサーターアンダギー。
みな幸せそうに食べる。
そのうちにお迎えが来だす。
これが4時くらい。
電話が全くつながらないため、保育所に避難先を張り紙していた。
私も弟や父や母にかけるがつながらない。
なぜかみゆみゆだけにはつながって、無事だということと部屋の物が落ちたりしたよというのを聞く。
お迎えのお父さんやお母さんは家の状況や大きな揺れの時のことなど
たっぷり話して帰る。
電車が動いていないこと、ガスが使えないことなどこの辺で知る。
暗くなってきて、雲行きもあやしくなり、寒さも出てきたので
小学校の先生に案内されるまま、体育館へ移動する。
5時くらい。
まだまだ多くの小学生と乳幼児が残っている。
体育館でマットを借りて、持ってきたお昼寝用の布団を敷き、
持ってきたバスタオルを毛布代わりにして座る。これで寒くはない。
この時点で、揺れもある程度おさまり、事態は収束に向かうだろうと予想された。
大きな揺れがきても小学校の体育館なら安全だろうし。
問題は子ども全員のお迎えが何時になったら終わるかで、
これは電車がとまっているので確実に長丁場になると思った。
私自身の帰宅もこの段階でけっこう諦めていた。
無理して歩いて帰るのも夜道は怖いし疲れるし、
じゃあここで一泊した方が安全安心、きっとご飯もでる。
そう踏ん切りをつけてなるべく体力を消耗しないように勤める。
むやみに携帯を使わないことにする。どうせつながらないし。
ニュースはラジオが体育館に持ち込まれているし、
他のスタッフがひっきりなしにワンセグや情報を見ているのでそれを見せてもらう。
その辺で千葉でガス爆発があったとか、東北の津波がすごい被害を出しているとかを知る。
そんなこと関係なしに子どもははしゃぎまくり。
今後の長丁場とか一切考えなしの行動。さすが。
赤ちゃんたちを横にさせているのを見て、こりゃあいい、と思い、
大して眠くないだろうけど横にさせる。
ごろごろしてた方が体力の消耗が少ない。
この間もぽつぽつとお迎えが来る。
小学生たちのほうもお迎えが来る。
小学生のほうは親が来るとマイクで子どもの名前を呼ばれる。
呼ばれた子は周りから「おおー」と小さな歓声を受ける。
まるでその子が英雄になったように。
そして下を向いて少しはにかみながら、
お母さんとは目を合わせずに体育館を出て行く。
6時くらい。
買出しに出たスタッフが戻り、子どもにパンやおにぎりを食べさせる。
おにぎりをちぎって渡し、丸パンを渡し、にこにこしながら食べているのを見ると、
変な話だけど、びっくりするくらいすごく安心したのだった。
子どもには食べさせなきゃいけないと思わせる何かがあるものなのか、
それは義務というか、使命感というか、
とにかく、目の前の子どもが食べ物を満足そうに食べいているということだけで保護者は安心するもんだなあと思った。
だから、戦時中とか、食料が足りないときっていうのは、
子どもに食べさせてやれない、そのことも辛いことの一つだったんじゃないかと思った。
アンパンマンのことが少しわかった気がする。
7時過ぎ、一度保育所に帰って着替えをすることに。
ついでに頼まれものの備品を取りに戻る。
3人でなぜか急ぎながら保育所へ。
街の様子はあまり変わらない。
レストランとかも普通に営業している。ガスは?止まったんじゃなかったのか?
戻るついでに駅の様子を見に行くと、
駅のシャッターが閉まっている。
これはすごいインパクトだった。
ザ・非常事態という感じ。
バスは動いているみたいだけど、目眩がするような長蛇の列。
タクシーなんて一台も見かけない。みんな出払っているのだ。
帰って、そのことを伝えるとみんな驚いていた。
おそらくお父さんお母さんは仕事場から歩いてここまで来るしかなさそうである、
そうするとものすごく到着が遅くなる。
ということが徐々にスタッフの間にも浸透してくる。
東北に実家があるスタッフはメールや電話を何度も試みている。
いくつかの中継点を経て(品川の妹、千葉の伯母さん、実家)無事を確認したり、
ツイッターで情報を集めたりしている。
おおむねご家族無事のよう。
家族のいるスタッフは旦那さんと連絡が取れたり取れなかったり。
固定電話と固定電話ならつながるという状況。
8時くらい。
体育館から教室へ移動。
子どもの人数も減ってきているし、教室なら暖房がよく効くということから。
1の3の教室へ。
床にマットを引き、支給された毛布を上にかける。
他にも避難してきた親子や一人暮らしらしい人がいる。
テレビがついている。
休みなしに地震関連のこと。同じ映像が何度も流れる。
端にある日本列島がショッキングな色でパカパカ光っている。
「炊き出しやってます。ドライカレーです、インディカ米の」という、
プラスチックの入れ物にみっちり詰め込まれた黄色い米を渡される。
大人は「多い」だの、「辛すぎる」だの言っていたが、
大きい子どもは大事そうに食べていた。
たぶん子どものほうが気を使っていたのだ。
よっぽどえらいなあと思う。
ここでも子どもは横になり、大人はその近くで同じような情報を口伝えする。
東京タワーの先が地震で曲がったみたいだよ、と変な噂が流れる。
テレビの端に流れる「ディズニーランドは明日休み」の文字について、感想が飛び交う。
その合間、たまにお迎えが来る。
一人、「渋谷から走ってきました」というお父さん。
汗をだらだら流しながら、1歳の息子をおぶって帰っていった。
都心ではレンタカーを借りたり、自転車を買ったりする人が多くいたという。
「それで、自転車はもう売り切れていたのでハンズでこれ買ってきました」というお母さん。
手にはキックボードを持っていた。
六本木からこれに乗ってきたという。3歳の娘を抱いてこれで帰るという。
その後も遠くから歩いてきたお父さんやお母さんが到着。
みんな疲れているだろうに、満面の笑顔で入ってくる。
ヒーローのように出迎えられる。
6時間かけて歩いて1歳の息子を抱きかかえた瞬間腰が抜けてしまったお母さん。
おたくの息子さん、さっきテレビ見ながら指差して笑ってましたよ。
親と子のギャップがものすごい。
それでもめそめそしている子よりは
こういう状況でもあっけらかんとしていられる子の方がこちらも救われる。
家族のいるスタッフや迎えが来るスタッフが帰り、
何もしないでいる時間がどんどん過ぎる。
電気が消されて、3時くらいになってからのお迎えや、
「旦那と連絡が取れない」と言って帰宅するスタッフ、
まわりのざわざわした話し声や人の出入り、
たびたびくる弱い揺れ、
つけっぱなしのテレビの不穏な情報、
花粉と埃っぽい毛布によるくしゃみと鼻水、
そういうのに影響されて1時間おきくらいに弱く目覚めては弱く寝るの繰り返しで朝が来た。
朝6時。
子どもはあと一人になっていた。
残っているスタッフは私入れて5人。
炊き出しの炊き込みご飯を朝食にする。インスタントの味噌汁も飲む。
電車が動き始めたというのと、
明るくなったのというので、教室内の人たちがどんどん帰っていく。
赤ちゃんみたいに犬を抱っこしてきたお姉さん、
都心から歩いて帰る途中、阿佐ヶ谷で力尽きて一晩休んだサラリーマン、
みんな一礼と笑顔を向けて出て行った。
施設長ともう一人が荷物を保育所にもどして片づけや掃除をすることに。
あとの3人は子どもの面倒。
そのうち一人が栄養士さんで、その人指導の下、
子どもはなんと朝からバームクーヘンとみかんジュースを飲む権利を与えられる。
わあ、すごいやすごいや。
一気にテンションが上がって、教室中を走り回っていた。
本当に偶然だが、その教室は去年卒園した子の使っている部屋らしく、
その子が書いたヒヤシンスの絵とか、名前が書いてある机とかがあった。
こんなところで、こんなものが見れると思わなかったので、
うれしいというのと、少しうれしいと思ったのに罪悪感を覚える。
保護者から差し入れてもらった折り紙を嬉々として折っている最中、
最後の一人のお母さんがへろへろの顔で到着。
子どもの姿を見て涙ぐんでいる。
が、子ども、折り紙に夢中。
お母さんの姿を見ても「ああ来たの」とかなんとか言って
ハートを折る手をやめない。
すごい温度差。
でも最後までえらかったね。よく頑張りました。
手を振って別れる。
荷物を保育所にかたして、少しして帰る。
電車は混み混み。しかもゆっくり動く。
ぎゅう詰めになった状態で、
後ろのスーツのお兄さんの脈が背中にあたって感じ取れる。
どっどっどっどっどっどっ
血管の中を液が流れて、管が細くなったり太くなったりするのがわかる。
太くなった中を血液が通っていく感じもする。
それは流動、みたいなことで、
その流動、というのをこういうときの朝にこういう形で知れるのはなかなかおもしろいなあと思ったのだった。
バスに乗ったら、街並みは至って普通の土曜日で、
部屋に帰っても、呆気ないほど何も変化がなかった。

今日の日

2011年03月08日 21時54分19秒 | Weblog
今日はミツバチの日なんだよ、
と5歳が言った。
そうか、確かに今日は3月8日だ。
かわいい、いいセンスの語呂だ。
子どもが言うとなおさらかわいい。
が、これは明らかにこの5歳が考えたわけではなかろう、と思って、
どこで知ったの?と聞いたら、
案の定「今日、シャキーンでやってた」と答えた。



やましいことをしている

2011年03月07日 21時27分28秒 | Weblog
すこし間があいた。
その間、やましい事をしている気分だった。
ここに書くことは誰からも指図されているわけではないのだけど、
遠くに暮らしている友達とかへ近況報告とかのつもりも少しあるし、
日々の書き留めないと忘れてしまうことを保存させるために書いているつもりもあって、
ここのところそういうのを書いていないので
なにも考えず、発見せず、無為に過ごしているようでやましいのだった。
本当はそうではないのだけど、思い返せないくらいささいなことがほとんどで、
そういうのこそメモっとかないと忘れるのに、めんどくさくてしなかった。
なのでたいていは忘れてしまった。

今年はベトナム旅行をする。
絶対。
宮部さんを一緒にいこうと誘ったら
金がなぁとか、韓国ならあたしちょっとわかるから行きてえとか言う。
韓国は韓国でハングルわかる人(宮部さん)と行くのはぐっと来るが、
いや、でも私はベトナムだ。
ベトナムに行くんだと正月に決心したじゃないかと考え直して
ベトナムに行くことにしている。
ホーチミンに一週間くらい。一人で。
よし行くぞ。やれ行くぞ。
そして次はチベットだ。
ポタラ宮に行くぞ。本物の五体投地を見るぞ。仏像見るぞ。

保坂和志「この人の閾」を読む。
なかなか渋い小説だった。
針でついたようなピンポイントの題材。
でも少なくとも私には経験のある感情が書かれている。
その落胆とも安心ともつかない複雑な感情の起伏がそれは見事に。
すげえ人だな、保坂さん。
もう少しこの人の話が読みたい。

見たい映画。
「シリアスマン」
コーエン兄弟だから。あと予告がおもしろそうだから。


「アンチクライスト」
あの監督だから。あとシャルロット・ゲンズブールだから。


「イリュージョニスト」
「べルヴィル・ランデブー」の監督だから。これは絶対おもしろい!


「ジャライノール」
絵がきれいそう。