ハナママゴンの雑記帳

ひとり上手で面倒臭がりで出不精だけれど旅行は好きな兼業主婦が、書きたいことを気ままに書かせていただいております。

ジェームズ・バルジャーくん殺害事件 ⑨ [デニーズ・ファーガスのその後]

2013-04-01 18:44:50 | 事件

「ジェームズは本当にかわいかったわ。豊かなブロンドの髪をして。いつも笑っていて、人を笑わせるのも好きだった。歩く代わりに、しょっちゅう駆け回っていたわ。マイケル・ジャクソンが好きで、踊りを真似ようとしていた。可笑しかったわ。

「あの日以来だって、辛い日々はたくさんあった。でもジェームズが連れ去られたあの日より悪い日なんてなかった。すでにカースティーを死産で失っていたのだから、『二度稲妻に打たれることはない』。赤ちゃんを二度も奪われるなんてこと、あり得ないと思った。

「あの日何が起こりつつあったのか、本当に理解してはいなかったと思う。感情が麻痺してしまっていて。そしてあの発見。想像すらできなかった。何が私たちに突きつけられようとしていたかなんて。

「ジェームズが二人の少年と一緒らしいとわかった時、それならジェームズは大丈夫だと安心したの。きっと車庫にでも隠されて、お菓子でも与えられているんだろうと。大丈夫、ジェームズは私の元に戻って来る。そう思ったわ。」

デニーズは、20年後の今日でさえ、あの日に関して『もしも・・・』を考えずにはいられないという。もしも支払いのためジェームズから目を離さなかったら。もしもあの店に入らなかったら。夫のラルフに責められるまでもなく、彼女は自分自身を激しく責めていた。「あの日、あの二人がジェームズの前に他の幼児を連れ去ろうとしたと聞いたとき、ようやく自分を責めることをやめられたの。もしジェームズでなかったら、誰かよその子供が被害者になっていたんだとわかったから。」

 

                                      

1993年12月。トンプソンとヴェナブルズが有罪判決を受けた翌月に、ジェームズの弟マイケルが誕生した。マイケルは、デニーズの生きる理由になった。

「あの時マイケルを身ごもらなかったら、多分私はもうこの世にいなかったと思う。 2月にジェームズを失い、12月にマイケルが生まれた。我が子を失くしたと思ったら、また抱けることになったの。マイケルが、生き続ける強さをくれた。マイケルのおかげで、死にたいほど暗く辛かった日々を耐えることができた。でもマイケルは、決してジェームズの代わりではないわ。誰もジェームズの代わりにはなれないし、マイケルはマイケルという別の一個人だもの。」

しかしマイケルが一歳の誕生日を迎える前に、両親は別居。二人は1995年に離婚した。「別居も離婚も、ラルフが申し出たことだった。彼には彼なりの理由があったのだし、受け入れるしかなかったわ。突然足元をすくわれて、また壁にぶち当たったような気分だったけれど、マイケルのために強くならなければならなかった。」

 

                                

マイケルが2歳のとき、デニーズは7歳年上の電気技師スチュアート・ファーガスと出会った。二人は1998年に結婚。「私たち、マイケルにはジェームズのことを隠さないことに決めたの。あの子がある年齢になったとき、向かい合って座らせてジェームズのことを一から説明するなんてことはしたくなかった。だからマイケルには、ジェームズに関して、マイケルの年齢にふさわしいと思えることを少しずつ話してきたの。」

マイケル(現在19歳)には、二人の異父弟(現在14歳のトマスと13歳のレオン)ができた。マイケルは物静かだが、ジェームズは腕白だった。デニーズによると、三人の息子のうちトマスが見かけも性格も、一番ジェームズを思い出させるという。居間にはジェームズの大きな肖像画が飾られ、家族の間では、ジェームズの名前を誰かが口にしない日はなく、ジェームズは今も、家族の一員だという。ジェームズに起こったことにより、デニーズは自分が過保護になったことを認める。自宅には防犯ライトはもちろん、最新式の赤外線防犯カメラが設置されている。また息子たちが外に出掛ける代わりに家で友達と過ごせるよう、デニーズとスチュアートは部屋を増築した。「息子たちに言ったの。『あなたを信用しないんじゃない。信用できないのは、他の人間たちなのよ』って。」

両親の離婚後も、マイケルは毎週土曜日にラルフと会った。しかしその習慣は、マイケルが13歳のときに変わった。マイケルは姓を、それまでの“バルジャー”から継父の“ファーガス”に変えることにしたのだ。デニーズは、家族でスペインに行くために皆のパスポートを申請しようとしていた。その時マイケルは、単純に両親や弟たちと同じ姓になりたいと思ったのだ。

「ホリデーから戻って以来、実父のラルフに会うことはほとんどなくなった。電話がかかってこなくなったんだ。ジェームズを失って本当に気の毒だと思うけれど、僕には彼と一緒にジェームズを悼む機会はなかった。今はスチュアートが僕の父だ。姓もファーガスになったし、スチュアートはいつも、僕のために側にいてくれた。」

                                        

マイケルは19歳になった今も、夜友人と出掛けることはあまりない。たまに出掛けたときは、デニーズに頻繁にテキスト・メッセージを送り、自分の所在、誰と一緒か、帰宅は何時頃になるかを連絡する。「母を心配させたくないんだ。連絡した時間より少しでも遅れると、すごく申し訳なく思うよ。」デニーズは言う。「マイケルは『母さん、僕は大丈夫だからね。心配しないで。』とテキストしてくる。でも私は、彼が戻るまで心配で眠れないの。10分でも遅れると、パニックし始めるわ。」マイケルはこれまで、一人で自分が住む町の外に出たことがない。常に家族か親類の誰かと一緒だった。現在求職中の彼が仕事の面接に行く時は、デニーズかスチュアートが車で送り迎えする。自立の年齢に達しつつある若者にとっては息苦しい状況だが、マイケルは文句も言わずに受け入れている。

       二歳時のマイケル    と、ジェームズ  

「子供の頃は、不公平だと思ったこともあったよ。友達とそこの角を曲がった所にある店に行くことすら止められたからね。親に内緒で、自転車で近所を抜け出てみたいという誘惑に駆られたこともあった。」しかし、やらなかった。「もし母が知ったら、大騒ぎして探し回ることを知っていたからね。そんなことをしたら、母の心はどこかにすっ飛んじゃうんだ。ジェームズに起こったことが、また起こり得るって。だから口論したことはないよ。母を大好きだから、母に反発しようとは思わなかった。僕の母以上の母親なんていないからね。ジェームズの影になって成長したという思いはないし、何かが欠けていると感じたこともない。ただいつも、ジェームズはここに、僕らと一緒にいるべきだという思いがあった。だから母が過保護なのを理解し、受け入れられるんだ。

                                        

「僕には兄がいたのに、決して会うことも話をすることもないというのはものすごく残念だ。一緒に一杯やることも、普通兄弟が一緒にやるようなことも、決してできない。あの10歳の二人が幼かった兄にしたことを思うと、悔しくてたまらない。一生理解できないし、一生彼等を許すこともできない。でも憎しみや復讐の意図で自分を消耗させようとは思わない。過去ではなく将来を見つめて、自分の人生をしっかり生きたい。彼等と同じレベルに落ちたくないからね。

「ジェームズを知りはしないけれど、彼はいつも一緒だったよ。母は昔も今も、彼のことをよく話すから。事件のことじゃなくて、彼の短い生涯のうちの楽しい思い出をね。クリスマスには毎年、ジェームズの墓参りに行って、傍らの木にライトを飾りつけるんだ。てっぺんに星を飾るのは、いつも僕の役目。ジェームズと一緒に過ごせるその時を、毎年楽しみにしてるんだ。」

マイケルは、ジェームズのために正義を求める母親の闘いを、ずっと見てきた。そしてその闘いは、何度も何度も、水泡に帰してきた。「母が怒ったり取り乱したりするのを見るのは辛い。父は母より先に新聞をチェックして、母を辛くさせるような部分は塗りつぶすんだ。僕と、母と、父と、トマスと、レオンと。笑いに包まれて、幸せに暮らしてる。近しい家族って、こういうのをいうんだろうね。僕は絶対に、誰にも母を傷つけさせたりしない。」

 

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20年前のトンプソンとヴェナブルズの裁判と判決は、デニーズにとって終りではなく、幼い息子のため正義を求める闘いの始まりだった。トンプソンとヴェナブルズの仮釈放の阻止を、終身収監を求めて闘った。が、とうとうそれは叶わなかった。二人の釈放の際、デニーズは述べた。

「たったの8年で釈放というのは納得できない。欧州人権法廷は犯罪者の友達で被害者の敵ということを自ら証明した。それにも増して、成長した二人に対し、なおも続けて保護が与えられるというのが理解できない。ヴェナブルズとトンプソンは私と家族とジェームズの名前をさらしものにし、国中を引きずり回した。それに対して二人が受けるのは、巨額の公費を費やしての身元や住所の秘匿と手厚い保護で、犯罪被害者やその遺族に与えられる助けとは比べものにならない。釈放された二人は家族の元に戻れるけれど、その家族は9年前に、愛情やサポートをもっともっと子供たちに注いでいるべきだった。もし彼等がそうしていたら、ジェームズは今日も生きていたはずだわ。」デニーズはテレビのインタビュー番組で、こうも述べた。「私は二人を捜し出して復讐するつもりはないが、新聞かテレビのニュースである日二人が襲われたと知っても、同情はしないと思う。ただひとつ、ヴェナブルズかトンプソンと間違えられた無実の誰かが襲われることだけが気懸りだわ。」実際、釈放の際、二人に対して多くの報復の脅迫があった。“二人の新しい偽の身元と住所を突き止め、相応しい制裁を加えてやる”というものだった。

デニーズ自身も、仮釈放後の二人の所在を突き止めることを望んだ。「二人に対して、何もするつもりはないわ。でも二人が現在どこにいてどんな外観をしているかを知ることができれば、安心できるし有利な立場になれるような気がするの。」

二人の釈放後の、2004年。デニーズは、匿名の“善き支援者”から手紙を受け取った。そこには、ロバート・トンプソンの現在の身元、住所、日常生活のパターンなどの情報があった。デニーズは何度かその地に足を運び、9月に、とうとうトンプソンを見ることができた。最後に彼を見たのはその11年前の裁判所の被告席にいた時だったが、『彼』だとすぐにわかったという。「ものすごいショックだったわ。すぐ近くで彼を見たのは。私の幼いジェームズを殺した人間。彼の前に駆け寄って、『どうして私の子を殺したの!』と叫びたかった。なのに体は、石になったようだった――嫌悪感で麻痺して。距離にして6mほどしかなかったわ。あれが彼であったことに、間違いはない。私の一部は、車から飛び出して彼を殴ってやりたかった。でも体が、麻痺したように、動かなかった。彼は通りを歩いて行って、角を曲がって見えなくなったわ。」

 デニーズは、ヴェナブルズの児童わいせつ画像/映像所持および流布容疑の裁判を傍聴した。ヴェナブルズが2008年に喧嘩でも麻薬所持でも再収監されなかったことを知ったときは、驚きと怒りを露わにした。彼女は「ヴェナブルズが『仮釈放の条件』を破ったにもかかわらず再収監されなかったことに、驚きと懸念を感じる。」とのコメントを発表した。

 

                     

デニーズは、ジェームズの正義のための闘いにのみ心血を注いできたのではない。多くのチャリティー・イベントに参加した。

一昨年には、『ジェームズ・バルジャー・メモリアル基金』を設立。これは、遺児や、いじめや犯罪の被害に遭った子供を保護し、その家族をサポートするためのチャリティーだ。しかしデニーズは、良い行いや人助けをした子供に報奨を与えることもしたいと考えている。「耳に入ってくるのはいつも、悪い子供のことばかり。良い子にご褒美を与えるというポジティブなことを、ジェームズの名前でしたいと思ったの。子供たちがホリデーを過ごすための『ジェームズ・バルジャー・ハウス』を創立することが、このチャリティーの大きな目標よ。」

                   

                     チャリティーの基金集めのため、5kmマラソンに参加したデニーズと家族

                    

 

「もしあの二人がジェームズにしたことを常に考えていたら、私の一部は死んでしまい、あの二人に殺されたことになる。そんなことはさせられない。私には、まだ私を必要とする三人の息子がいるのだから。

「実は一度、子供たちのより良い未来のため、オーストラリアに移住することも考えたの。でもできなかった。私はきっと 一週間ももたずにまたこっちに戻りたいと思ったに違いないから。私のルーツはここにあって、周囲が信じられないほどサポートしてくれているの。今日に至ってもね。もちろん闘いに疲れて、すべてを投げ出したくなる日もある。でも地元の人々にこんなに支援を受けているんだからと、思い直すの。多くの人が手紙を寄越して、頑張って闘い続けるよう励ましてくれる。今やめたら、ジェームズだけでなく支援してくれている人々まで失望させてしまうわ。過去20年間の闘いも、無駄になってしまう。」

デニーズは、犯罪者よりも被害者の保護に重点を置くべきだと主張する。「彼等のような犯罪者を保護するのをやめて、私たちのような被害者を保護するべきだわ。私たちの方が、保護を必要としているのだから。彼等は望んだものをすべて与えられてきた。なぜいつも、片側ばかりなの?なぜいつも犯罪者側で、被害者側は無視されるの?」今年の初めにヴェナブルズが仮釈放を申請したため、今年中のいつか、ヴェナブルズの『再』仮釈放がふたたび審査されることになる。そのため彼女は、仮釈放委員会に提出する意見書の準備をしている。「私の考えでは、あの二人は決して釈放されるべきではなかった。釈放されたヴェナブルズが罪を犯した今、彼は釈放されるべきではないわ。私は彼が、今なお社会への脅威であると信じる。ジェームズのため正義を。私たちが望むのはそれだけ。ジェームズのために闘うべきことがあるなら、私は必ずそこにいるわ。ジェームズは私の子。私が頑張らなかったら、他の誰がそれをしてくれるというの?あと20年かかるというなら、それで結構。」

 

                ジェームズの20回目の命日に、近所の小学校での『ジェームズのためのバルーン・リリース』に招待されたデニーズとスチュアート

                    

 

「事件への関心は、(20年後の)今もなお高いの。その理由は、今になってさえ、二人の10歳の少年があんなことをできたということが誰にも信じられないからだと私は思う。それに人々は、今後どうなるのかも知りたいのでしょうね。

「まだまだやることはたくさんある。私はジェームズの正義のために、闘いつづけるわ。」

≪敬称略≫

≪ につづく ≫

 

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