現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

松平容保と照姫

2013-01-02 20:46:28 | 会津藩のこと
テレビ『白虎隊』では「藩主松平容保と姉照姫が兄妹の
なさぬ仲」だったとしている。ジェームス三木のドラマ
だから、話を面白くするためは見えみえ。

「照姫」の扱いには、今までのドラマはみな苦労している。
「姫様」というのだから「容保」の娘という扱いもあったが、
実は「容保」より3歳年上の出戻りであった。


そもそも、会津藩 第9代藩主「松平容保」は、美濃の
高須「松平義建」の第六子として、天保六年(1835)年
江戸四谷邸で生まれた。17歳で会津藩第8代藩主
「松平容敬(かたたか)」 の養子となった。
実は、8代「容敬」も美濃高須家から養子に来ており、
「容保」は「容敬」の甥になる。会津藩主は8代、9代
が美濃高須家から来ている。10代は、なんと徳川慶喜の
弟「喜徳」である。

照姫は、天保3年(1832)上総飯野藩2万石「保科正丕
(まさもと)の三女として生まれた。10歳の時、会津藩
8代藩主「松平容敬」の養女となった。この保科家は、
会津藩と親戚になる。本家筋なのだ。

照姫は、18歳で、備前中津10万石「奥平大膳大夫昌服」に
嫁いだが、五年後の安政元年(1854)23歳で離婚となり、
江戸の会津藩邸に戻った。

慶応四年(1868)正月、鳥羽・伏見の役で幕府軍は大敗し、
2月、会津藩邸の総引き揚げで、照姫は初めて会津入りした。

というわけで「容保」と「照姫」は、二人共先代「容敬」の
養子、養女で、血のつながらない姉弟。二人の接点は
会津籠城の時ぐらいである。ドラマのように「照姫」が
京都に行っていたという事実は無い。



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2 コメント

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Unknown (sasa)
2013-01-04 09:11:36
照姫は敏姫が亡くなった時哀悼の歌を詠んでいます。
書道、茶道、礼法、香道に通じ、ことに和歌や琴を好む聡明な女性で敏姫亡き後は會津松平家の奥向きを担っていたらしいです。 容保に和歌の指導もしていたとか。
容保が1862年に京都守護職を拝命し上洛が決まった時には、きてかへる頃さへゆかし都ぢの錦を君が袖にかさねてと詠んでいます。1862年には容保は京都で天覧の馬揃えに臨みま見事に指揮したその時の武者ぶりを写真に撮らせて江戸の照姫に送り、その歌も詠んでいます。京都には行っていませんが二人の接点は結構あったと思われます。肖像画を見る限り美貌で、歳も近く、血も繋がらない。実際の関係はともかく、心を寄せる事はあったのではないでしょうか。



Unknown (通りすがりで失礼します)
2013-01-21 20:33:35
「なさぬ仲」とは、「血のつながらない親子」の意味です。

子どもを産むことを「子を生す」と言います。産んでない、
血縁でない親子関係のことを「生さぬ仲」というのですよ。

「ただならぬ関係」?ということを言いたかったのでしたら
正しい日本語ではありませんよ~。

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