現代の虚無僧一路の日記

現代の世を虚無僧で生きる一路の日記。歴史、社会、時事問題を考える

横山勝也師の2人の師

2022-04-24 02:36:33 | 筝尺八演奏家

横山勝也先生、ありがとう。そして、さようなら。 | ポールキャスナー・コラム/薪ストーブのある暮らし

 

横山勝也氏の祖父も父も尺八家だった。氏は3代目だが、
福田蘭童と海童道祖という全く相反する強烈な個性の2人に
師事した。

「邦楽ジャーナル」1998.12月号と1999.1月号に、横山氏
が、2人の師について、述べている。

「福田蘭童は西洋音楽に傾倒して、フルート的な奏法を
追及していたから、ムラ息などは大嫌いだった。片や
海童道は精神的哲理を重んじ、前衛的な奏法を追究して
いたから、2人は尺八界の両極にあった。

しかし、福田蘭童師も、その生き方、従来の尺八奏法に
こだわらない自由な吹奏は、普化禅師の教えに通じる。
そして、海童道師も奇行が多く、ご自身“普化禅師の再来”
を意識していたのではないか」と。

「福田蘭童と海童道の2人の師。その目指す方向は全く
相反していたが、共に“普化禅師の生き様”に同じだった
のでは」と、横山氏は喝破している。

私の師堀井小二朗も福田蘭童と親しく、尺八を洋楽器の
ように改造し、フルートに追いつけ追い越せの方向を歩いた。
私は堀井小二朗師の9孔尺八を継承した手前、横山氏に
直接師事することはなかったが、海童は究極の憧れであり、
横山氏のレクチャーコンサートや研修会などで、道曲を
学んだのである。

そういえば、S38年だったか、TVドラマの『そろりと参ろう』は、
福田蘭童の原作監修だが、その内容は海童道に師事した
横山勝也の修行時代に重なるのだった。
全く相反するように見えるものが、実は大本で同根という
ことに興味を覚える。
福田蘭童[23007000344]の写真素材・イラスト素材|アマナイメージズ


海童道祖のこと つづき

2022-04-24 02:32:39 | 筝尺八演奏家

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海童道に直接会った人はほとんどいない。全く謎の存在だった。
私が海童道を知ったのは、NHK・FMで放送されたのを聞いてだ。
その時すでにレコードが出、そのレコードがテレビ、ラジオ
で使われ始めていた。「イレブンPM」という深夜の多少エッチ
な番組で、ストリップダンサーが裸でくねくね身をくねらせて
踊るバックに『産安』が流れたりしていた。

私が始めて海童道を見たのは、テレビでたまたま見たロックの
コンサートだった。信濃川の河川敷で3万人の若者を集めて
行われたロックの祭典。まだモノクロのフィルム映像だった。

ロックの強烈なビートに酔いしれる会場が、突然静まった。
太い孟宗竹を抱えて登場した海童道祖が、その竹に息を入れた
瞬間だった。今まで聞いたことのない竹の響きに3万人の
聴衆が息を呑み、固まったのだ。

一息で3万人を黙らせる。それこそ神のごとき業だった。
以来、私は海童道のとりこになったが、以来、海童道祖は、
公共の場には決して姿を現さなくなった。住所を調べても
一向にわからない。後で知ったのだが、なんと私の家から
歩いてもいける所に住んでいたのだった。灯台元暗しで
あった。

これも縁がなかったのだろう。もし家を訪ねたとしても、
まず会ってはいただけない。毎日毎日、日参して、本当に
習いたい!、一生続けるという意思を示さなければ、弟子には
してもらえないとのこと。結局、海童道の弟子は横山勝也氏
一人しかいないのだ。私など到底ダメだったろう。

とにかく奇行が多い。学生三曲で「海童道を聴く会」を開催し、
チケットは完売したが、当日、海童道は現れなかった。ドタ
キャンだ。そんな話は他でもたくさんある。フランスのTV局が
招聘したが、法竹(尺八)は一曲も吹かず、おならを自由自在に
鳴らしてみせただけ。おかげでそのディレクターがクビになった
とか。これぞまさに普化の再来なのだ。



海童道祖

2022-04-24 02:30:51 | 筝尺八演奏家

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横山勝也氏の師である海童道祖は、私にとって究極の憧れだ。
昭和40年頃、NHK・FMで『産安』『息観』を聞いて、身震いを
覚えた。
「産むが安しと書いて『産安(さんあん)』。安産の祈りの曲と
云われています」という男性アナウンサーの解説も覚えている。

しかし、明暗流の系譜に『産安』や『息観』『手向』といった
曲は存在しない。「博多一朝軒の普門」という触れ込みだが、
「博多一朝軒の当主の娘磯一光さんは、不快の色を顔に出して
『あの人は一朝軒には何の関わりもありまっせん』と言って
おられた」と、虚無僧研究会機関誌『一音成仏』第3号(S57年)
に片田一徹氏が書いている。

そんなこんなで、どうも尺八界、明暗関係者からも“いんちき”
呼ばわれしていたようだ。そんな尺八界と絶縁して、海童道祖は
「尺八に非ず、法器だ」といい、普化の禅、古典本曲の真髄を、
前衛的超絶技巧で表現した。それは棒術で鍛えられた体と、
精神力で、他の尺八家には到底真似できない苦行の末の孤高の
世界であり、尺八界以外の人たちに支持され、「禅の音楽」と
して世界に広まっていった。

海童道の道曲は、本当に虚無僧が吹いた古典本曲なのか? と
問われれば“No!”だろう。彼ほどの天才は過去には存在し得な
かった。だから海童道の法竹は前衛・現代音楽なのだが、それが、
現代人が求める“精神世界”“メディテーション”“禅の心”に
マッチしたものとして受け入れられているのだ。

ところで、『邦楽ジャーナル』1999年3月号で、横山氏はこんな
ことを述べている。
「先生(海童道)の曲は、どんどん変化していった。全く別の曲かと
思えるほど変わっていった。僕(横山)は“昔の方が良かった”と
思うこともあって、抵抗もあった」と。そして横山氏は「伝統という
ものは自分の勝手で安易に変えてはいけないと思っている」と。

これは私にとっては意外だった。海童道祖の道曲を劇場用、
観賞用に高めたのが横山勝也氏だと思っていたからである。

海童道の中で、昨日と今日、10年前と今日、別の曲かと思えるほど
変化を遂げていったとは知らなかった。そして海童道の道曲は横山
勝也とその門下生によって、ようやく今日、一般尺八家の間でも もて
はやされるようになった。ここまでなるのに50年。

わが師堀井小二朗は、いみじくも言っていた。「真の芸術家は50年
先を生きている。そして音楽の賞味期限は100年だ」と。


海童道宗祖の著書 『神変者罷り通る』

2022-04-24 02:26:52 | 筝尺八演奏家

今や海外では大人気。外国人尺八家が教祖と仰ぐ「海童道宗祖」が、

昭和35年頃、本を出版していました。

『神変者罷り通る』という題。「東海出版」刊とありますから、名古屋の

出版社でしょうか。名古屋市の鶴舞図書館にありました。

驚くような内容です。

先代の市川猿之助、市川中車、市川段四郎といった歌舞伎役者や

山田五十鈴、香川京子等、当代一流の芸能人、大女優と親交があり、

「普化宗管長」の肩書で皇宮警察本部の講師も務めていたとのこと。

何の講師かはわかりませんが、皇宮警察署長の肝いりで、皇居内で

毎月一回、天下の名人、大会社の社長、斯界のおえら方が集って

「名人遊行会」が行われ、その常連メンバーになっていた。

皇宮警察署長からの指示で、海童が名古屋や大阪に出向いた時は

愛知県警や大阪府警のトップが駅まで出迎えるという扱いを受けていた。

ところが、そうした一流人と会う時、海童は わざとボロボロの

着物を着、それにゴミ箱からゴミをかき集めて着物に塗りたくって

乞食の格好で出向き、皆を驚かすという無法ぶり。

まさに普化か一休だ。

ところで「普化宗」などは仏教界の正史、法流では存在しないから

まったくのインチキ。尺八を「尺八に非ず法竹」といい、それを

吹くことを「吹定」というなどと、言葉でまやかし、人を煙に巻く。

まさに海童はペテン師。しかしそれがまかり通る。みな騙される。

今では外国人までが騙されている。その思考とパワーには驚かされる。

海童道祖 臨暮四題(南から北へ) PH-7520 | レコード買取

 


「海童道」宗祖のインタビュー記事

2022-04-24 02:25:03 | 筝尺八演奏家

1981年、ニューヨークで収録された「海童道」宗祖の
インタビュー記事が、Face-book にロシア語で掲載されて
いました。「goo翻訳」で翻訳してみましたが支離滅裂。
原文はものすごく長文ですが、言わんとしているところを
汲み取って、なんとかまとめてみました。でもチンプン
カンプンです。 

出典: http://www.komuso.com/people/people.pl?person=1222

 
彼の練習は午前3時30分に始まった。道祖老師は 年齢71歳。
彼は禅寺で 32年以上、伝統的な禅の修行を学び終了した。
「海童Watazumi」は、日本古来の言葉から来ている。
「Watazumiは「あなたの生命力を取ること(?)と、
健康で強くなるために訓練することを意味します。

呼気について。 呼気を締める代わりに、インスピレーションを
心配することです。

 次に「tsukami」- それは「手足の指」を指します。
指の移動度は非常に重要である。それだけではありません。
腰と足の指の動きに追従する必要があります。

ストレッチする(伸ばす )- 体の筋肉を動かすことは
非常に重要です。尺八を演奏する時、すべての小筋肉。
それは指の動きだけでなく 全身の動きが重要です。

リズム - 全身の動きとこの動きは、人それぞれに異なります。
心拍数は、平均的な人は、毎分約70拍である。体をはげしく
動かせば、心拍数は上がります。体の動きと心拍数の動きの
バランスをとる必要があります。

あなたは尺八を演奏する時、おそらく楽譜を読んでいるが、
それはよいことではありません。楽譜に依存し、書かれた音楽の
単純な再生をしないでください。


「呼吸の4種類」
最初に「強風」、「ラフ呼吸」それから「ソフト」と「弱い息」。
通常の呼吸は無意識であり、通常の肺の動きは強さと健康を
もたらすことはありません。

無意識から「意識的な呼吸」に移動する必要があります。
71歳の私は、呼吸を開発するための試みを50年以上行って
きました。

最初は「荒い息」
あなたの生命力の動き、楽器から出てくる動きは あなたの
個人的なパルスです。

「濃縮息」
濃縮息を始める前に、可能な限りあなたの体を動かす。
ボディを動かす多くの方法がありますが、すべての良い
わけではありません。

体の筋肉を動かし、次に吹く。これは祈りや宗教ではなく、
呼吸のバランスをとるためである。

深い呼吸を理解し、それを実践するためには、自然の竹を
使用しなければなりません。動物がたくさんいるような
竹林の中で遊ぶものです。

通常、私は長い尺八を使います。多くの呼吸を費やすが、
唯一のかすかな音を作ります。わずかな匂いの強い
サウンドを得て、このような大きな尺八で演奏し、
サウンドの品質を心配だけでなく、それが良いか悪い
鳴らすかどうかという事実について、必要がないように
近代的なツールが作られています。

その後、あなたは自由に音を変更することができます。
あなた自身の個人的な自由を持っている場合である。

それはあなたの人生と活力です。あなたの音で、
強さやあなたの仕事?を 投資する必要があるが、
そのすべてを投資する必要はありません。

いくつかの音楽や音を聞くと、彼女はあなたを愛している
ときは、サウンドがあなたのパルスとのバランスと
調和していることである。

音楽を作るため、宇宙の音の豊かさを反映した多くの音を
使用しようと、あなたが最終的な結果で取得するものです。

それは「あなた自身の音、自分の音」です!

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こうした理屈っぽい話が、ロシア人はお好きのようです。

 

海童道祖 Photos (9 of 12) | Last.fm


海童道祖はペテン師!????

2022-04-24 02:22:08 | 筝尺八演奏家

「邦楽ジャーナル」2017年12月号にクリストファー遥盟氏が寄稿。

「巨匠、その人と音楽」と題するシリーズの4「海童道祖」。

なんと、尺八家の多くが神とも仰ぎ、心酔する海童道祖のエピソード。

1992年アメリカの尺八収集家ダン・メイヤーズ氏から

「海童道祖に会わせて欲しい、そして通訳を」との依頼を受けた。

メイヤーズ氏は大金持ち、大金をはたいて海童から手書きの楽譜を

購入し、それを高く転売して儲ける魂胆。

海童は、まず「俺のことを老師と呼んでくれ」と。そして

「日本の尺八界で 本物は俺だけ。他は皆インチキ」とも。

海童は できるだけ楽譜を高く売りつけようとする。

商談が済んで、メイヤーズ氏が食事に誘うと、海童はしばらく

考えて、断ったあげく、めし代の 5,000を 要求した。

これにはクリスは、驚きあきれた。海童に抱いてきた崇高な

イメージとは真逆。うんざりして、帰り際に「あなたは、

自分のことしか考えないペテン師だ!」と言ってしまった。

海童は しばらく黙っていて、怒鳴り出すか、棒で叩かれるか

と思ったが、老師の顔に泉が湧き出るような笑いがジワジワと現れて、

「本当のことを言ったな。君は悟った。エライッ!」と。

「僕は思った、この人スゴイ」とクリスは結んでいる。

 

この話。なかなか面白い。私も海童道祖はペテン師だと思っている。

前衛哲理だの、ちんぷんかんぷんな訳のわからない言葉を並べ

立てて、多くの人をケムに巻き、ひとり悦に入っている。

しかし、そこが海童のスゴイところ。

まさに「普化」の再来じゃ。

海童道 WATAZUMIDŌ」20世紀が生んだ偉大な哲人、海童道祖老師。その深みを探究する復刻盤!2018年7月18日発売|otonano by  Sony Music Direct (Japan) Inc.


野村正峰作曲「胡かの歌」

2021-09-07 21:22:06 | 筝尺八演奏家

 

胡笳の歌<野村正峰 作曲>

襲音-かさねおと- 第2回邦楽演奏会 2020年3月14日 取手ウェルネスプラザ 一箏:布村聡子/二箏:稲垣佳代子/尺 八:大鹿乱山 CO...

youtube#video

 

 

尺八独奏『胡笳の歌(こかの歌:Koka no Uta)』(作曲:野村正峰)

漢詩 胡笳歌:岑參・岑参(cén shēn) 尺八:寄田真見乃(Mamino Yorita)/琴古流大師範 Shakuhachi solo...

youtube#video

 

 

 


再び、グレゴリオ聖歌「クレド」と「六段」

2021-07-19 09:19:31 | 筝尺八演奏家

グレゴリオ聖歌の『クレド』と『六段』が「全く同じ」とい皆川達夫氏の説に、私は「全く納得できない」。

You Tubeで「クレド」を検索してみた。いくつか聴くことができる。
楽譜もアップされているが、五線譜ではない「四線譜」だ。

http://www.youtube.com/watch?v=7YYK1GfsnWY&feature=fvwrel

http://www.youtube.com/watch?v=bR9NF905nJk&feature=related

http://www.youtube.com/watch?v=Yja0Tp_TCPA&feature=related

最初のメロデイは「ラソファ ミレドレ」。これに「六段」の「ラ-ソミミ-- ミレミ-レ シ♭ レミ」が合うとは、理解できない。 

「長さがピッタリ合う」と言うが、そもそも1600年頃の『六段』が今と同じとはいえない。『六段』の原型かと言われる琉球の『六段』は、雅楽と同じ「呂旋法」(ソラシドレミファ)であるし、八橋流の『六段』は、全部で「9段」に分かれているので、長さも違うのだ。

私としては、近世の「平調子」が、グレゴリオ聖歌から移入されたということは判る。では「平調子」とは なんぞや?

お箏(こと)の調弦の一つで「ミ ファ ラ シ ド」の「5音階」でとる。これは「都節」などとも言われ、「詩吟」の音階と同じ。

「詩吟」は「ミファラシド」の5音だけで吟じるが、では筝曲もそうかというと、違う。『六段』では、絃を左手で押して、半音、さらに1音上げた音が出てくる。結局「ミファソラシドレ」の7音階なのだ。さらに「ファ♯」も使われる。

これが、邦楽では革命的だった。それが「八橋検校」の創案とされてきたが、「いや、西洋音楽からの影響だった」というのなら 理解できる。

だが この説も、1614年生まれの「八橋」が成人した時にはすでに キリシタン弾圧の後である。隠れキリシタンが地下に潜伏して 聖歌を歌い継いでいたかもしれないが、それを聴くことができたかは 疑問なのである。


八橋検校はグレゴリオ聖歌を聴き得たか?

2021-07-19 09:19:07 | 筝尺八演奏家

皆川達夫氏の「西洋音楽は、信長の頃、今想像する以上に日本に広まっていた」という説は、傾聴に値する。

 


天文18年(1549年)フランシスコ・デ・ザビエルが渡来し、キリスト教の布教に 賛美歌が重要な役割を果たしていたことは否めない。
2年後の天文20年(1551年)ザビエルは、山口の大内義隆に謁した折、「楽器」を献上している。

30年後の、天正7年(1579年)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日し、日本各地にセミナリョやコレジョを設立して、神学教育と音楽指導に力を入れた。少年たちは 毎日1時間の音楽訓練(声楽と器楽ともに)を受け、「オルガンで歌うこと、クラヴォ(鍵盤楽器)を弾くことを学び、すでに相当なる合唱隊があった。

天正9年(1581年)織田信長は 日本人少年たちが演奏するクラヴォやヴィオラ(弦楽器)を聞き、おおいに満足したという。
 
翌天正10年(1582年)ヨーロッパに向けて 4人の「天正遣欧使節」が派遣さ、彼らはヨーロッパ各地を訪問し、臆することなく己れらの演奏を披露した。ポルトガルのエーヴォラ大聖堂では、巨大なパイプ・オルガンを見事に弾きあげた。

天正18年(1590年)帰国した少年使節一行は、聚楽第で 関白秀吉に謁し、持参したリウト(リュート)、アルパ(ハープ)、ラベイカ(レベック、高音ヴァイオリン)、クラヴォを合奏しつつ歌っている。秀吉はひたすらに聞き入り、三度ほど くり返し演奏をさせ、その後一つひとつの楽器を手にとって 色々と尋ねた

やがて日本でも 洋楽器の製作が始まる。慶長6年(1601年)には竹管を備えた)オルガンや、種々の楽器が製作されたが、それらは日本(の諸聖堂における聖祭で大いに利用された。
宣教師ルイス・フロイスは「日本人はヨーロッパの諸楽器を上手に弾く」と報告している」。

というわけで、皆川氏は「日本人は、天平の昔、中国(唐)の音楽を取り入れたと同様に、天正年間、西洋の音楽は、日本国内に、今思う以上に広がっていた」と説く。

ところが、江戸幕府は、1613年からキリシタン弾圧に踏み切り、多くの伴天連やキリシタンを処刑し、追放した。

八橋検校が生まれたのは、高山右近らが処刑された翌年の1614年である。
生まれは、岩城(福島県の平)とされる。盲人であったため、琵琶や三味線を生業とし、20代の頃は摂津(神戸)に居た。その後江戸に下り、筑紫善導寺の僧・法水に師事して「筑紫箏」を学んだとされる。

「八橋は筑紫の善導寺で筑紫箏を学んだ」という説もあるが、八橋が筑紫に行ったという史料は無い。また、グレゴリオ聖歌を耳にすることができたか?。キリシタン禁制の世である。可能性は低いと言わざるをえない。



松代真田家と「小野お通」

2021-07-14 08:26:15 | 筝尺八演奏家

「松代」と言えば 「群発地震」で知られる所となった。                                                           それ以前は 「太平洋戦争末期に、大本営と皇居の移転先として大地下壕が掘られた所」として知られていた。結局終戦で移転することは無かった。                                        

先年、NHK大河ドラマで「真田丸」をやっていた。その真田家が江戸時代領主だった所。                                                  

「真田といえば 上田城で、真田幸村は 大阪の陣で討死にしたはず」と思われているが、実は幸村の兄「信之」は徳川方に付き、松代で幕末まで存続していたのでした。家名存続のため二股をかけたというわけだ。

                                               先年、虚無僧で行ってきた。江戸時代の「藩校」や「真田家」他、武家屋敷がそっくり当時のまま保存されていた。

私の関心事は、ここ松代の真田家に「八橋流筝曲」が伝承されていたこと。真田家の什器・宝物が大切に保存されてきた土地柄だからこそ、「八橋流」も伝承
されてきたのだと納得です。

そして、真田宝物館で出している機関誌『松代』の第3号に「小野お通」と題して「真田淑子」女史が詳述しており、それをいただいてきた。