えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

「無罪判決」確定まで

2011-05-30 | 日記
取り急ぎとは、いつぐらいまで許されるのだろうか?

先日の「無罪判決」から5日経過した今日も、空いた時間で、報告とお礼の電話をアドレス帳のあ行から順に掛け続けた。

メールで済む人には、メールでお礼のことばを送った。

「少し落ち着いた?忙しいと思ったので、遠慮してたの。本当は、電話しようか、手紙書こうかと毎日考えていたの。
 本当によかったね~」
受話器の向こうから明るい声が返って来る。

皆さんがわが事のように今回の判決を喜んでくれていることが、どなたからも伝わってきた。

やっぱり嬉しい。

お世話になってきた人、心配をおかけしてきた人、皆さんが本当に喜んでくださっているのだ。

しかし、まだ検察が控訴できる期間内だ。
なんとしても、控訴断念させ、判決を確定させなければ・・・。

昨日は、小雨が降る中、茨城の会の皆さんと水戸駅で「控訴断念を求める署名」のお願いをした。
マイクを持って、道行く人たちに声を掛けた。

「5月24日、夫たちは、水戸地裁土浦支部で行われた判決言い渡しで44年目にしてやっと「無罪判決」を得ることができました。しかし、これはまだ確定していません。検察の控訴断念をなんとしても勝ち取るために、どうぞ署名にご協力ください。
宜しくお願いします」

電話を掛けながら、「6月7日が控訴期限です。もうしばらくお見守りください」と最後にどなたにも言った。

まだ、夫たちの闘いは続いています・・・。


ショージとタカオ

2011-05-28 | 日記
新宿K'sシネマで上映中の「ショージとタカオ」。
上映後に夫が挨拶をするというので同行し、後半部分だけだが、改めて映画を観ることとなった。

無罪判決を得た後ということもあったせいだろうか?何だか、いろんな場面で、「ウルウル」してしまった。
新たな発見があり、新たな感動を覚えたのだ。

理不尽な拘束、社会からの隔絶を強いられ、二人は29年ぶりに仮釈放で戻って来る。
そして、何度裁判所に希望を打ち砕かれても、止めるわけにはいかない二人の闘い。
二人は、強力な弁護団とたくさんの支援者に支えられ、「生活者になり、活動家になり」やがて、悲願の裁判のやり直しに漕ぎ着ける。

めげない
あきらめない
立ち止まらない! 大切さを教えてくれる。

真剣に観入る観客、一生懸命アンケートを書いてくださる若者。
上映後、ロビーで井手監督や杉山さんや夫に声を掛けてきてくださる人たち…。
このような記録を残していただいた井手監督へ感謝しつつ、たくさんの人に観ていただきたい。改めてそう思った。

夫は、「無罪判決を得て体が軽くなっていくのを感じました」と、法廷内で感じた思いを皆さんに話していました。

そうだね・・・

2011-05-26 | 日記
夫には及ばないが、私の携帯にもお祝いメールや、留守番電話、着信記録がいくつもあった。
しばらく会えないでいた方からも連絡を頂き、本当に嬉しかった。

だけど・・・

法廷に入る前、支援者の方から
「疲れてる表情だよ」と言われ、自分では気付かず、
「そんなことはありませんよ」と笑って返したが、
午後になって、判決言い渡しの休憩時間にトイレの鏡で
自分の顔を見て
「たしかに・・・。何だろう?」と思っていた。

「テレビを観たけど、疲れているみたいだったね」と学生時代の友人に言われ、
元同僚からも
「何だかむくんで見えたよ」と言われた。

ある人は
「テレビだと顔が見た目より大きく映るんだね」と・・・・?

夫から
「あなたの記事も写真付で新聞に出ているよ」と言われて、慌てて見てみたら

あららー!?
なに?このまん丸顔!
これは私じゃないわ~・・・

だけど、昨日お墓参りや、地元の本当に心配をかけお世話になった方々のところにご挨拶に行ったあと、弁護団会議、ラジオ生出演のため東京に向かった夫と別れ、一人で水戸に帰った私は、さすがに「バタン・キュー」状態だった。

判決前から、気が張っていたのかな・・・
緊張してないつもりでも、そうはいかなかったのかな・・・


そしたら、「夫は大丈夫かな?」と思った。
本当は、お墓の前でも、自分の家でももっとゆっくりさせてあげたかったな・・・。
一人で思うことがいっぱいあるだろうな・・・と。


ラジオの生出演は、夜の10時から12時までの時間帯。
家で耳を傾けていたら、
まぁ~。元気いっぱい!
夫も杉山さんも、話す、話す!
心が軽くなって、嬉しさが爆発したような(大袈裟かな?)話し方だ。それに加え、夫は、相変わらず早口で・・・。
そこに、番組の担当の方2名が加わり、わいわい、がやがや(ごめんなさい!)。
時折、ほんわかと入ってくる井手監督の声にほっとしながら聴いた。

終わって
「たのしかった!-」の電話があって

「もう少し話したかったなー」の夫の感想。


そうだね。こんな風に、楽しい時間が続いていいんだね・・・。
喜び、いっぱい、いっぱいの実感を味わって欲しいな・・・。


私はゆっくりさせてもらって、自宅で祝電や電話の応対、茨城の関係者への挨拶を続けよう。
二人で行きたいところがいっぱいあるんだけど・・・。
ひとまず、先方にはお電話で許していただこう・・・。

新しい朝

2011-05-26 | 日記
昨日、記者外見と祝勝パーティーの行われたホテルで、夫と「新しい朝」を迎えました。
夫は、本当にホッとしたのでしょう。二次会もそこそこにベッドに横になると、すぐに寝息をたてはじめました。そして、それは今までにないような爆睡状態に…。

私がかけた言葉は
「長い間お疲れ様でした」ということだけ。公の場で私の存在をあんなふうに言ってくれたのだから、本当はきちんと真正面に立って言わなければならなかったのだが、お祝いのメールや電話に対応する夫に、背中越しに言って終わってしまいました。
夫は、振り向いて笑ってくれましたが…。

迎えた朝は、気持ちよく晴れ、まるで夫と杉山さんの無罪判決を祝福するかのように、清々しいものでした。13階から見えた遠景の筑波山は、「ここから見守っていたよ」とでも言ってくれてるかのように、私達の眼前に馴染みの勇姿を見せてくれていました。

心が軽くなると、見えるもの、感じるもの全てがいつもと違うようです。

朝食を済ませ、私たちは、夫の両親に改めて報告するために、利根町の両親の眠るお墓に向かいました。

ありがとうございました!!!

2011-05-24 | 日記
やっとやっと夫と杉山さんが願い続けていた

「強盗殺人について被告人両名は無罪!」

という裁判長の声を聞くことができました。


2011年5月24日 午後1時半

長い長い43年7ヶ月という時間を要しました。
でも、夫も杉山さんも元気に闘って、元気で今日の判決日を迎えることができました。


弁護団の先生方、本当に、本当にありがとうございました。

守る会の皆さん、北海道から九州まで、全国からお力添えくださった日本国民救援会の会員の皆さん、
いつも温かなご支援本当にありがとうございました。

また、「布川事件」を授業、講義の場で取り上げてくださった先生方、聴いて下さった生徒、学生さんたち、また、すでに卒業され社会人となられた方たち、きっとおひとりおひとりが思いを抱いてお見守り下さっていたのではないでしょうか。本当にありがとうございました。

街頭宣伝でビラを受け取って読んでくださった皆さん、署名にご協力くださった皆さん、

「ああ、あの布川事件、とうとう無罪判決を得られたんだな」と報道を見て思っていてくださいますでしょうか・・・

最近、映画「ショージとタカオ」を観て布川事件を知ってくださった人たちも、この判決を一緒に喜んでいただけていることでしょう。

この闘いに関わられ、布川事件の勝利判決を願いつつも病に倒れ心を残しながら天国に旅立たれた弁護団の先生、守る会の諸先輩方、芸術部門、音楽部門でご協力下った方々、等々
今、直接お礼を述べることはできず残念ですが、
きっときっと天国で一緒に祝杯をあげてくださっていることでしょう。

ここで述べきれないほどの皆さんにお力添えを戴いて、布川事件の第二次再審は「再審無罪判決」の言い渡しを受けることができました。

誤判の原因究明、そしてこれからの誤判防止につながる内容、裁判所の責任などが今回の判決に少しも触れられてなかったことで、もやもやが残るものではありますが、それは、あらためて論じることとして

夫たちの喜びをこんなにたくさんの方たちが共有してくださっていることに、今、私は感動しています。

本当にありがとうございました!

今朝の朝日新聞記事

2011-05-18 | 日記
夫たちに
「無罪判決が出たら控訴しない」方針を検察側が決めたとあった。

判決まであと6日。
嬉しい記事なのに、ほかの新聞も同様に記事にしているかどうか確かめたい心境になった。
情報は、同じように出たのではないか。
きっと本当のことなのだろう。
なら、他紙はどのように書いているだろうか・・・と。
しかし、読売、毎日、茨城には出ていなかった。

改めて、朝日新聞の記事を読み返した。
嬉しかった。
でも、すぐに怒りを覚えた。

「上訴権は放棄せず、2週間の控訴期限が過ぎるのを待って自然に(無罪を)確定させる方向で検討している」

と、あったからだ。

夫たちにとって、一日、一時間、一分が大事な時間なのだ。
控訴しない方針を決めたのなら、一日も早く一時間でも早く、一分でも早く自由にしてくれるのが人の道ではないのだろうか?
控訴しない方針を出しながら、この2週間にこだわっているということは、えん罪を起こした責任も反省も、ひとかけらも感じていないということなのだ。

先ずは、24日、水戸地裁土浦支部から「無罪判決」をいただこう。
胸を張って法廷に臨もう。
43年7ヶ月、無実を訴え続けてきた夫の「その瞬間」を見守ろう・・・。

そして、
その翌日からは、
水戸地検へ「すぐにも上訴権の放棄を!」と訴えに行こう。

上訴権放棄の表明がなかったら、控訴期限の切れる6月7日まで、わたしの闘いも続きます。

選択肢

2011-05-18 | 日記
「検査の結果、転移は認められません。
 ただ、片方の腎臓は大部分がガンに侵されていてほとんど機能していません。
 これからの治療ですが、腎臓ガンには、抗がん剤も放射線もあまり効果が望めません。
 新しい薬を使った治療法もありますが、それでも効果は3~4割ぐらい。その上、副作用が強く出ます。
 後は、手術ですが年齢を考えますと・・・」


選択肢がない中で、母は手術を希望している・・・。
唯一、「それしかない」から・・・。

本当にそれしかないのだろうか・・・。
医師は、年齢だけで手術の適応を判断しているのだろうか・・・。

医師の説明、父の意見、兄の意見、夫の考え、
そして
母の希望

改めて思い返している・・・







気分転換

2011-05-12 | 日記
髪を切りました。
何だか「ころころ」で、また夫に「どんぐりあたま」と言われそう・・・

顔のエステをしました。
これは・・・
あまり効果を感じない・・・。
もったいなかったかな?
でも、肩こりも解消し、リフレッシュできたから、よし!としよう・・・

後悔しないように・・・

2011-05-12 | 日記
夫に母の話をしたら、

「お袋の時と同じだ。我慢して言わないんだよな。それで、お袋は手遅れだったんだ・・・」

確かに、母も我慢強い人だ。
だけど、そうさせてしまった原因に心当たりがあるから辛いのだ・・・。
夫もきっと同じ思いがあるのだろう・・・。

「俺の方は大丈夫だから、最優先でお母さんに出来ることをしてやりなさい」

夫の言葉が嬉しかった・・・。


そんなこんなで落ち込んでいた私が、検査のために再度病院へ行くため、一昨日実家に泊りに行ったら、びっくりするほど母が「普通」に動いていた!
「大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。お腹は痛くないよ。腰が痛いのは同じだけど・・・」とけろっとして言った(・・・ように見えた)

腰痛、腎臓からの出血、それによる貧血、排尿困難のためにウロバッグを装着していて、いろんな困難があるはずなのに・・・。


昨日、朝、八時前に家を出たのに、待ち時間の長い検査を終えて帰宅したのは午後になってしまった。
明らかに疲労感があるはずなのに、
「もう大丈夫だよ。帰りな。いろいろ忙しいんだろう?遅くなっちゃって悪かったな」と母が言った。
父が
「大変でも、最後まで面倒みてくれな。
 あー、あの時、もっとやってあげたかったな、なんて後悔しないようにじゅーぶん看てくれな、大変だろうけど。死んでから後悔しても遅いからな」と、
冗談いっぱいで笑いながら言った。
「そうだね。できることはじゅーぶんするつもりでいるから。そのために、仕事辞めたんだから。よかったねー、私が近くにいて」
と、私も笑いながら言葉を返した。
父と母の思いをひしひしと感じながら・・・。

父の病状もあまりよくなく、加えて母の現状。
判決も伸びていたことから、予定していた両親と夫と私の四人での初めての旅行は、しばらくお預けになりそうですが、
先ずは二人の体調回復のためにできるかぎりのことをすること、24日の判決を間にはさみながらになるが、やっていこうと思う。

嘘であって欲しいが・・・

2011-05-12 | 日記
これって現実?って思うことが続いていて、かなり精神的ダメージを受けている・・・。

先日の交通事故もそうだけど、今度は母に腎臓がんの宣告だ・・・。
それも
「ここまでなる前に兆候はあった筈・・・」と医師が口にするくらい進行しているらしい・・・。


嘘でしょう?
この前一緒に田植えをしたじゃない!?

あ~、それでも・・・

思い当たることはいくつもあった。
なのに・・・
後悔が脳裏を走った・・・。


一日遅れの母の日のプレゼントを持って偶然行った朝・・・
トイレでお腹が痛いと苦しんでいる母がそこにいた・・・。



私は、すぐに母を車に乗せて診療所へ。
そこでの医師の言葉は、
「紹介状を書くので、今日のうちに総合病院へ行くように」だった。

あいにく私の元勤務先だった病院の担当ドクターは、手術に入ってしまっている。午前中だったら診られたけれど・・・とのことで、
県立中央病院へ行くことになった。

・・・・・

救急センターで、検査と処置が行われ、母と父と3人で説明を受けた。
だけど、いきなり「腫瘍の大きさがんの告知」が先にあり、覚悟がなかったわけでもないが私はかなり動揺していた。
なんだか肝心なことは何も聞いてない不安を感じながら、その夜、東京の兄に連絡をしていた。改めて、検査をして、今後の治療方針が示されると思うからと。

実家を七時ごろ出たが、まっすぐ自宅に帰る気になれなくて、東京から九時過ぎに水戸駅に着く夫を北口駐車場で待った。
夫の判決日を直前にした大事な時にという思いと、長い間心配をかけ続けたこと、やっと一緒に時間を過ごせるようになったこの時期まで本当によく頑張ってくれた…という思いが複雑に入り混じってこみ上げるものを感じながら・・・。