えん罪・布川事件 国賠を求めてたたかう夫の傍で

えん罪を晴らし、普通の一市民に戻った夫。二度と冤罪が繰り返されないようにと、新たな闘いに挑む夫との日々を綴ります・・・。

最高裁は何をしているのか

2009-11-18 | 日記
決定を今日か、明日か、と夫はもちろん私も同じ思いで待っている。

早ければ、7月には出るかもしれない。
でも、出ない。
8月は裁判官も夏休みに入ってしまうから、次は9月だ。
そう思ったけれど、9月も出ない・・・。
10月も出ない。
11月、今度こそ!

ずっとずっとそんな思いで毎日、毎日落ち着かない日々を重ねている。

だけど、だけど日々不信感が募って来る。
最高裁は、何をもって「決定日」を決めるのか?!
無実のものが「再審無罪」を一日も早く勝ち得たい、と思う気持ちにどう応えようとしているのか・・・
これ以上、何に時間を費やそうとしているのか!

せめて、せめて決定日の告知を!
そうしたら、こんな時間の過ごし方をしなくてもいいのに・・・。

最高裁は、もっと再審請求人である当事者に対して、優しくあるべきだと思うのだが・・・

 えん罪は国家の誤りです。
 それを改めずいたずらに放置し続けるのは、国家の犯罪です!

雨の打ちつける地面に伏しながら

2009-11-18 | 日記
何年前の祭りだったろうか・・・

夫と地元徳満寺の地蔵市に行った折り、露店の花屋さんにもらった菊苗を庭に植えたら、
毎年咲いて私たちを楽しませてくれるのだが、ことしも季節が来て花を咲かせた。
でも、夫の家に久しぶりに行った私の目に入ったのは、風雨に打たれて地面に伏して咲いている姿だった。

丈が長くなりすぎたことも原因なのだが、とにかく起こして、ひもで縛った。
地面に伏したその花は、土がいっぱいついていた。
花の向きも曲がったままだ。
私ははさみで切って、洗って土を落とし花瓶に挿した。
もっと丁寧に育ててあげたら、父と母が作るように大輪になるのだろうか・・・
そんなことを考えながら、花に見入った。

見入れば見入るほど、きれいな品種で好きになった。

水戸支部総会

2009-11-18 | 日記
 間もなく茨城県本部の大会が開かれます。
水戸支部も、1年間の活動を総括し、県本部議案に基づいた新しい年の方針を決め、また代議員の選出をします。

 水戸支部は大きな前進がありました。
昨年12月には、松川事件現地調査にバスツアーを取り組み、今年もまた、10月に「松川事件60周年記念集会」に参加する取り組みを成功させたことです。
事前に、映画「松川事件」を一般市民にも呼びかけて上映し、また、バスの中でも「日本泥棒物語」を鑑賞したり、事前の知識を得ながら、現地を歩き、当事者のお話を直接伺い、当時の資料を見学したりという、大変有意義な経験を重ね、あらためて松川事件から学ぶもの、松川運動から引き継いでいかなければならないものを感じました。

 布川・守る会と一緒に新聞意見広告運動や、有識者アピール運動にも取り組みました。

・・・・それでも・・・
「仲間を増やす」ことには、なかなか結びつかない反省がありました。
そこで、運動や裁判闘争から救援会の必要性を感じ、それ以来、拡大、継続した活動を30年以上も続けている「笠間支部」に学ぼうと、笠間・本多事件の本多覚さんの話を聞く時間もとって学びました。

桜川

2009-11-08 | 日記
 偕楽園の近くの桜山周辺から千波湖の北側を流れ、水戸駅の南側を通って那珂川に合流する桜川は、ちょうど散歩コースを東に歩くとそのまま見ることが出来る。
その合流点を越えて、桜川を左手に、右手に常磐線を見ながら上流にさかのぼって歩くと、数種の水鳥にあう。
つい写真を撮りたくてカメラを向けると、やはり私はまだ新座者で警戒心を呼ぶらしく、ばたばたと羽音を立てて飛び立ってしまう。
この前も、あまりに近くにゴイサギがいたのだが、案の定驚かせてしまったようだった。
 カモ?もファミリーで固まって泳いでいた。
近くに釣り人がいても驚いた様子がないのに、私には警戒するようだ。
もう少し顔馴染みになる必要があるのかな・・・

太平洋へ

2009-11-08 | 日記
散歩コースの堤防に立って
西へ行けば那珂川の上流へ、東に歩けば太平洋へと続く川面が見える。
途中の表示は「太平洋まで9キロメートル」とある。
それでも、秋にはもっと上流まで鮭の遡上があり、地元漁協の人たちの忙しくなる時期らしい。

 きょうの川面もきれいだった・・・

今度はおばあちゃん?!

2009-11-07 | 日記
 父の診察が午前中で終わり、お昼前に自宅へ戻ることが出来た。
母が言葉少なに昼食の準備をしてくれ、一緒に食べたが元気が無かった。
食欲もない様子だった。
父の診察の報告で、
体調がいいので、内科の次の診察が1週間後ではなく2週間後になったこと、泌尿器科の治療はもう『卒業』したことなどをはしゃぐように話す私たちに
「よかったね」と言うだけでそれだけで精一杯のようだった。
「どうしたの?具合が悪いの?」と聞くと
「少し熱っぽいんだ・・・」と母。

「熱?!何度あるの?測ってみたの?」と聞いたら、測ってないと言うではないか。
測ったら、37度8分あった。
「寝たほうがいいよ」と言うと「そうだな・・・」と言って、風邪薬を飲んですぐに寝込んでしまった。
余程辛かったのだろう。普通だったら、「大丈夫だよ」と娘の私にまで空元気のところを見せる母だけに.目の前の母の姿は今までに無く辛そうに見えた。
3時頃には、38度になっていた。まさか「新型インフルエンザ?」と私は不安になったが、母は
「ただの風邪だから寝てれば大丈夫」と言った。
母の状態も心配だが、同時に父のことも心配になった。
咳をしている母と同じ部屋に寝たのでは、父にうつってしまう。父こそ、これまでとは違って少しの風邪もひかせる訳には行かないのだ。
母にはマスクをするように言い、父には、母が元気になるまで別の部屋で寝たほうがいいと言ったが、
父は
「大丈夫だ!じいちゃんがうつしちゃったんだ。病院で風邪を引いて、薬をもらって治ったんだけどあれとおんなじ風邪だ」と言ってあまり気にしていない様子。
父も、母も「これまでとは違う」状況をちっとも解っていないと思い、とても心配になった。

 夜になっても、「何も食べたくない」という母はずっと部屋で寝たままだった。
父と夕食を一緒にとり、明朝の味噌汁を準備し、朝ごはんのことを伝え、帰る前に母に声をかけたが「ありがとな」と返って来ただけだった。

 昨日は、久々(毎月第1金曜日が定例宣伝だったが雨で中止が続いていたため)の水戸駅宣伝の予定が入っていたが、
母の様子と父の夕食が心配で、宣伝を申し訳ないと思いつつも休ませていただいた。
家に「ごん」(愛猫)がいるため、泊まる事ができず夜になって家路に着いたが、母のダウンに正直と惑うばかりの自分が不甲斐なく思えてならなかった。

 大阪に行っている夫に両親のことを報告すると
「これからのこと、真剣に考えなくては」とメールで返ってきた。
それと・・・
「じいちゃんは、ひとりでご飯食べられるのか?」と・・・。

 結局心配で今日も利根町へ行くのを予定変更して実家へ行った。
「ばあちゃん、今朝も起きてこないわ・・・」と、夫の心配どおり、
「今朝は味噌汁をあっためて、レンジの使い方がわからなかったから冷たい納豆ご飯を食べたんだ」と父が言った。
そして
「お昼、作ってくれるのか?」と。
「そのつもりで来たよ」と私。

 お昼に煮込みうどんを作り、母には、すりおろしたりんごと一緒にベッドにもって行き、そこで食べてもらった。
いきなり顔をみせたので驚いたようだったが、「いくらかよくなった気がする」と言って、全部食べてくれた。

 父はあったか~い煮込みうどんをいつもより多く?食べて、午後からはライガーに乗って「仕事してくる」と出かけていった。
午前中は、母のことを何だかんだと言っていたが結局心配で出かけられなかったようだ。
 
 母も熱が下がったからと、夕方には起きることができた。でも、まだまだ辛そうだった・・・。

 夕食用におでんを作った。大根は畑から取ってきてたくさんいれた。父の好きないわしのつみれもいれた。
これなら、温め返しをしながら父にも母にも食べてもらえると・・・。
おでんを作りながら、思った。こんなとき、どうしてあげることが一番いいのか、両親の好きな食べ物のことも何にも知らない自分が情けなく思えた。
高校入学と同時に家を出て自炊生活をするようになり、学生生活は寮生活だったし
就職してもずっと家を出たままだった。
「そういえば私って15歳までしか一緒に生活してなかったんだな。自分が大人になって、大人の目で両親の生活をちゃんと見てこなかったな・・・」そんな後悔が走った。

 それにしても、父は思った以上に元気で、代わって母がダウンする状況に
どんなことがあっても
夫の裁判が一日も早く「いい結果」で終われるように・・・。
それまで両親には元気でいてもらわなければ、と強く思いながら帰途についた。


 今日は、夫は奈良県でお世話になっている。
留守中だけど、明日、利根町へ行って来よう・・・。

初めての外来受診日

2009-11-06 | 日記
今日は、父が退院して、初めての外来受診日だった。
朝、8時半の予約時間に合わせ父を迎えに行き、病院へ。
内科と併せ、今回はこれまで通院を重ねてきた泌尿器科の予約も9時半に予約変更をお願いしておいた。

 外来の待ち時間はいつものことながらやはり長い。その長い時間を感じ始めたころに、父の名前が呼ばれ、主治医のK医師とは1週間ぶりの対面だった。

 父は、家に帰って病院にいるときよりずっと元気にいること、処方された薬による副作用もほとんどないことなどを告げた。
血液検査の数値を見ながら、K医師は
「分かりました。じゃ、このまま様子を見ていきましょう。
今日の状態なら、次の診察日を来週ではなく、2週間後でもいいでしょう。でも、無理をしないで少しでも変わったことがあったら、いつでも(病院へ)来て下さいね」
「そのときはお世話になります。いつ来ても先生が診てくれるんですね」とすっかりK医師に信頼を置いて笑いながら言う父に
「はい、診させていただきます」とにこやかに答えるK医師。
診察時間は短かったが、父は
「よかった~。来週来なくていいって言ったぞ」と安堵して、「さあ、次はあっちだな」
そう言いながら、泌尿器科の外来にさっさと向かって行った。

 泌尿器科は、これまでお世話になったN先生が退職され、後任の先生で、父はもちろん私も初対面だった。
若い新任の医師は、すでにK医師から父の情報が行っていたこともあり、カルテをめくりながら
「ずーっと異常ない状態が続いていますから、一旦治療を止めてみましょう。内科の治療を優先しましょう。それでこちらは問題ないと思いますよ」と言った。
「そうですか。長く通いましたからね。」と父が言うと、

「そうですね。泌尿器科はこの辺で『卒業』ということにしましょう!」

「『卒業』ですか。よかったー」
父の言葉で、診察室が笑いに変わった。

でも・・・
「娘さんに話があります」と私だけが診察室に残された。
父の検査結果の全てを承知しているらしい先生は、
「とにかく内科の治療を優先してください。こちらの治療は止めても問題ないと思います」
と仰った。
私は「お世話になりました。ありがとうございました」と、先生と、長くお世話になったE看護師たちにお礼を言って診察室を出た・・・。

 父は、家に帰る途中も
「よかったな~。あの注射、いやだったんだ。痛かったんだ~。もうしなくていいんだな。これからは内科だけでいいんだな」と言った。
ホルモン療法で続けてきた注射だったが、やはりそこからの解放感なのだろう。
でも、
「あの注射が今まで癌に効いていたんだろう?内科では、やんないのか?
 前立腺癌に効いたんなら、直腸癌には効かないのか?」と言った。

私は、直腸癌にホルモン療法はないことを告げなければならなかった・・・。