一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『ハピネス』

2013-02-28 | 乱読日記
桐野夏生は、日常の不安感や焦燥感、イライラ感を会話と登場人物の思いの微妙なすれ違いで浮き彫りにするのが上手い。

今回はタワーマンションを舞台としたママ友の話。
モデルになったと思しきマンションに知り合いが住んでいるが、取材が行き届いていてリアリティがある。
他の作品に比べて毒気は少ないが、徐々に毒が身体に回っていくような怖さがある。
実際の「ママ友」もこんなもので、日々こういう日常を生きている人にはインパクトは少ないのかもしれないけど(そのことの是非はさておき)。


男女、年齢、置かれた状況によって受け取り方が異なる作品だと思う。
逆に言えば、どこの部分を受けとめようとするかによって意味合いが違ってくるのかもしれない。
姉の結婚を違う立場から切ったという見方もできるか。


終章は雑誌連載から単行本化にあたって新たに加筆したようだ。
確かにこれがないと名人の語りだけでインパクトが足りないので謎解きの要素も入れた「下げ」をつけて一つの作品にまとめたのだろうか。
その結果読者は最後に一定のカタルシスを得られるが、中途半端なまま放り出しても面白かったかも知れない。





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『日本の自殺』

2013-02-24 | 乱読日記

この本のやっかいなところは、読者それぞれの思う「正しい日本の姿」が異なっていても、声をそろえて「その通り、今の日本は問題だ!」と皆が言い出しそうなところ。
それはかえって本書が危惧する結果につながりかねないのではないか。

その意味で、著者が存命であれば、自由民主党の日本国憲法改正草案についての感想を聞きたいと思った。


本書の元は1975年に文芸春秋に掲載された論文。
昨年朝日新聞で取り上げられ話題になったのを受け出版されたもの。

解説によれば、当時は革新勢力による政権交代期待がメディアでも多数であった時代であり、発表時も議論を巻き起こしたらしい。
1975年といえばサイゴンが陥落しベトナム戦争が終わった年なので、そういう時代だったのだろう。


本書はトインビー、オルテガ・イ・ガゼットやローマ帝国の衰退をひきながら、日本が内部から崩壊しつつあることを警告している。  

諸文明の没落の歴史を辿っていくと、われわれは没落の過程で必ずといってよいほど不可避的に発生してくる文明の「自殺のイデオロギー」とでも呼ぶべきものに遭遇する。それは文明の「種」により、また時代によってさまざまな形をとってはいるが、それらに一貫して共通するものは極端な平等主義のイデオロギーであると言うことができる。この平等主義のイデオロギーは、共同体を解体させ、社会秩序を崩壊させ、大衆社会化状況を生み出しつつ全社会を恐るべき力で風化し、砂漠化しtげいくのである。

そして「戦後民主主義」という名の疑似民主主義のイデオロギーは現代日本の「自殺のイデオロギー」として機能している、と指摘する。

著者は疑似民主主義の特徴として次の6点をあげる。
1.独断的命題の無批判な受容
2.画一的、一元的、全体主義的性向
3.権利の一面的強調
4.批判と反対のみで建設的な提案能力に著しく欠ける
5.エリート否定、大衆迎合的性格
6.コスト的観点(すべての社会的、政治的問題の解決には何らかのコストが必要)の欠如  

真の民主主義の本質のひとつは、多元主義の承認である。ところが、疑似民主主義は本来、多元主義のための一時的かつきわめて限定された調整のための手段、便法として工夫された多数決を、一元主義、画一主義、全体主義のための武器に巧妙に転用するのである。


冒頭にふれた自民党の憲法改正草案に戻ると、方向性、国家観の是非(安全保障とか緊急事態宣言とか天皇とか)は脇に置くとしても、国民の権利・義務のところで多用される「公益及び公の秩序」というところが気になる。

「公益及び公の秩序」の定義がなされず、しかも憲法改正要件が緩和されると、大衆迎合的、かつ画一主義・全体主義的な政党が政権をとった時に、筆者のいうように日本の自殺は加速されないだろうか。

自民党が必ずそういう政策をとる、と言っているわけではない(そうでないことを祈る)。
一方、起草者は当然自民党なら「公益及び公の秩序」などについて適切な判断のもとに政府を運営できると思っているのだろう。

しかし、起草者は将来他の野党が政権をとった時にこの改正草案がどのように機能するか、を考えたことがあるのだろうか。
自民党は長年政権の座にあったとはいえ、今後もまた長期政権が続く保証は全くない。
しかも本書の著者に言わせれば、1975年の日本には大衆迎合型の疑似民主主義がはびこっていたし、その指摘は今でもかなりの部分妥当するように思われ、選挙のたびに振り子の振れ幅は大きくなる可能性がある。
となれば、近い将来大衆迎合型の政党(具体的な政党を指してはいないし自民党も該当するかもしれない)が政権をとることも考えられる。


憲法は「不磨の大典」である必要はないが、政権交代ごとに変えるものでもない。
少なくとも誰が政権をとったとしても安定的に機能するものである必要があると思う。
 
そういうものとしてこの改正案が相応なものと思うか、著者が存命であれば(解説によれば婀主たる執筆者は逝去されているらしい)、ぜひ意見を聞きたいと思った。


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文化庁長官

2013-02-17 | よしなしごと

 


昨日の『股間若衆』に昭和20年9月15日に文部省が発表した「新日本建設の教育方針」が引用されている。

文部省デハ、戦争終結ニ関スル大詔ノ御趣旨ヲ奉体シテ、世界平和ト人類ノ福祉ニ貢献スベキ新日本ノ建設ニ資スルガ為メ、従来ノ戦争遂行ノ要請ニ基ク教育施策ヲ一掃シテ、文化国家、道義国家建設ノ根基ニ培フ文教諸施策ノ実行ニ努メテヰル

しかしこれは

・・・斯ル決戦下ト雖モ、皇国芸術文化ヲ通ジ、特ニ美術ニ依ル一般国民ノ士気昂揚ヲ図リ、国民ノ戦時生活を明朗闊達ナラシムル・・・
(文部省戦時特別美術展覧会ニ就テ)

という「文化皇国」の上から張った「文化国家」のレッテルに過ぎない、と同書でも切って捨てられている。


それから70年近く経っても、官僚の頭の構造は変わらないようだ。
むしろ、上のプレゼンテーションは「文化皇国」に近い。

「クールジャパン」などと言っているが、日本が予算に縛られた公立の美術館中心の「文化行政」をやっているうちに、現代アートにおいては米国だけでなく、シンガポールや香港に情報発信やマーケットとしてアジアの中心の地位を固められつつあると聞く。

文化庁は文化は高尚だから「クールジャパン」などの商業主義は経産省に任せればいい、と言いそうだが、美術館がファンドレイジングして企画や収集品をするしくみが定着しない中で、乏しい予算の枠内でやりくりするために学芸員を契約社員にしてしまうというようなことも起きているとも聞く。
文化庁が握っている文化振興予算も元は税金であり、プレゼンのタイトルにある「一般の人」のお金が元で芸術家や芸術関係者の生活が成り立っているということを理解していないのではないか。


「叶わなくても一途に努力することの素晴らしさ」を説くのでなく、芸術家や関係者や一般の人の夢が叶うようなインフラを整備するのが役所の仕事だと思うのだが。

 

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『股間若衆』

2013-02-16 | 乱読日記

少し前に公園のダビデ像「下着をはかせて」…町民が苦情 というニュースがありました。


そこで






本書は、駅前などにおかれている男性彫刻の股間表現はなぜ曖昧模糊(モッコリ?)としているのだろう、と疑問に思った著者が、男性彫刻とその歴史を遡った快作(怪作)。

もとは雑誌『芸術新潮』に「股間若衆-日本近現代彫刻の男性裸体表現の研究」として世に出た論文とその続編「新股間若衆-日本近現代写真の男性裸体表現の研究」に、書き下ろしである「股間漏洩集」を加えた三部仕立てになっています。
この、古典を引用しつつ硬軟両様の表現を使い分けるところが芸術表現と股間の一物の関係をあらわしており、明治以降の性表現への官憲の取り締まりへの対応の暗喩にもなっています。(もっとも「股間漏洩集」は前の2作とのつながりがないと「和漢朗詠集」でなく単なる失禁を連想してしまいますが...)


明治以降、裸体表現をめぐって美術界と警察の「風俗紊乱」取り締まりとのせめぎあいが続いてくる中で、特に男性の裸体は突起物がある分、股間の表現が難しく、そのために様々な工夫(中には珍妙なものや涙ぐましいものもあります)がこらされてきました。

そして、芸術の裸体表現は展示会だけでなくやがて出版物へ掲載されるようになると、それが美術界の中だけの問題にとどまらず、社会問題となります。

ついに朝倉文夫の女性裸体像「時の流れ」を写真掲載した愛知新聞が新聞紙法違反に問われた裁判で、画期的な大審院判例が出ます。  

右夫人の局部に相当する部分には何物の之を隠蔽するものなき事原判決の如くなるも、之と同時に其部分は人の注視を促すに足るべき何物の描写せられたるものなきのみならず、右婦人の姿勢表情共に閲覧者をして羞恥厭悪の念を発起し道義上良心を攪乱せしむるに足るものあるを見ずして単に藝術美の表題を認識し得るに過ぎざるを以て、之を風俗を害する挿画なりと為すを得ず
(大審院 大正7年2月13日判決)

ここから「藝術製品の陰部にあたる部分は何も隠す必要はないが、特殊感情を集中させるような技巧をこらしてはならないという鉄則」が打ち立てられ、局部の表現の仕方、局部を構成するディテールが問題となり、しばらく前まで続いていた「陰毛の有無」基準ができたそうです(なんと今から95年前の基準なんですね)。  

たとえ如何なる藝術品といへども局部に陰毛や陰裂を描いたものは、局部の一点に観る人の特別な好奇心を集中して淫汚な感覚を唆るから、総合的に見て、すべて、これを猥せつとすることになったのであって、この標準は今日迄一貫して維持されて変らないのである
(馬屋原成男『日本文藝発禁史』(注:著者は当時の東京高等検察庁の検事だそうです))

今では桜田門の警視庁の入り口に、朝倉文夫の「競技前」という男性裸像参照が置かれているのは歴史の皮肉です。 (これについては、雑誌『薔薇族』初代編集長伊藤文学が警視庁に出頭したときのエピソードでも触れられています(伊藤文学のひとりごと))


また本書は、わいせつ表現問題だけでなく、芸術作品としても男性の裸体はいかに女性の裸体表現に比べて日陰の存在であったかについて、彫刻と写真表現を中心にその歴史を振り返っています。  

そして、戦後になり、彫刻は戦後復興のシンボルとして、多くの「股間若衆」が作成され駅前に置かれる一方で、写真の分野では、芸術写真自体戦前から女性ヌードに大きく遅れをとっていたうえに、戦後のアマチュア写真時代になると、男性のヌードは日陰の身になってしまうという対比は印象的です。

また、巻末におまけとしてある全国各地の小便小僧が、小さな一物を露出しながらも(することで?)市民に愛されているのを見ると(たとえば浜松町駅の小便小僧を参照)、禁忌の感覚の微妙さを一層感じます。


本書を読み終えたあなたは、街角に立つ股間若衆に温かい眼差しを送っている自分に気づくことでしょう。

 

 

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『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』

2013-02-11 | 乱読日記
本書は「ブラック企業」が極端な例で入社してしまったのが運が悪かった、というのではなく、今や経営戦略として一部の企業に定着しつつある社会的問題であると指摘するとともにそれへの対処法も語っています。


いわゆるブラック企業は、日本企業の「メンバーシップ制」という雇用形態--雇用契約が職務の限定のない企業のメンバーになるための契約であり、メンバーには長期雇用、年功賃金という恩恵を与える--(『日本の雇用と労働法』参照)への期待を逆手に取り、新卒を大量採用して極限まで使い尽くして辞めさせることで利益追求を戦略的に行っている、といいます。
特に、日本の労働法制では正社員を大量に解雇することはできないので、解雇せずに「自己都合退職」という形で辞めさせる技術を極端なまでに組織化していることが特徴とされます。

これらの企業は、健康を害した若者を社会に放り出すことで、社会保障だけでなく企業への若者の信頼を失わせるという面で社会全体に大きな損害を与えている、と説きます。

一方で、対処法も述べられていますが、それらの人的資源は限定的であり(本書で言及されているほど個人加盟のユニオンは常に労働者の利益を第一に考えているわけではないような事例もあるようですが、頼る人がそれだけ少ないというのは問題)、ブラック企業に働き、そこでの流儀にはまってしまっている人には難易度が高いように思います。

結局、就職=就社という考えを変える、というのが一番の方法とも思われますが、そうやって若者の側が企業を冷静な目で見るようになることが、正社員の過剰な優遇を改め、雇用の流動化につながることになるのかもしれません。


これから就職活動をしようという大学生には就職・就活を考えるいい機会になる本だと思います。

また、企業のオジサン管理職にとっては本書を批判的に見るだけではなく、知らず知らずのうちに「ブラック側」に落ちないようにという意味でも読んでおく価値はあると思います。





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『収奪の星 天然資源と貧困削減の経済学』

2013-02-03 | 乱読日記

タイトルからは天然資源の収奪が自然破壊と途上国の貧困をもたらしている告発本風ですが、原題の副題"How to Reconcile Prosperity with Nature"(成長と自然をいかに和解させるか)が本書の内容をより正確に伝えています。

著者は経済学の視点から自然資源のレント(超過収益)を産出国、産出国の政府と国民と企業、産出国以外の先進工業国・発展途上国、そして現在と将来の人々の間でどのように配分するのが合理的か、という分析から、天然資源を収奪に終わらせるのでなく途上国の成長と貧困削減につなげる方法を考察しています。

最貧国に必要なのは高度成長である。そしてこのことが、貧困の削減と自然の保存を対立させる結果を招いている。環境保護主義者は、経済成長と環境の持続可能性を両立させなければならないと主張する点で正しい。経済学者は、持続可能性とは必ずしも保存を意味しないと指摘した点で正しい。環境保護主義者が自然をそっくり保存することに固執するなら、世界の貧困との闘いにおいて、彼らはまちがった側につくことになる。

そして自然資産を持続可能な開発のために活用する方法について考察しますが、同時にその難しさ、それゆえに今まで実現できなかった理由も指摘します。

政府がここまでに三つの決定をうまく下してきたとしよう。第一に、地質調査を行って資源の存在を裏付ける十分な情報を収集し、資源発見の高い採掘権を入札にかけて高値で落札させた。(*1)第二に、自然資産の経済価値の大半を捕捉できるような税制を設計し(*2)、税収のかなりの割合を貯蓄しながらも、将来世代に対する義務は果たせると判断したうえでいくらか消費を増やした。(*3)そして第三に、国内インフラ投資のリターンは外国の無リスク資産のリターンよりはるかに高いことを理解し、それを活かせば将来世代に対する責任をより効率よく果たせると気づいた。(*4)となれば残る環はただ一つ。その国内投資を実行することである。

(注)
*1 これにより情報の非対称性や賄賂により企業に不当な安値で採掘権を与えるのを防ぐ。
*2 商品相場の変動リスクを企業と応分に負担する安定的な税制をつくることは、採掘権を取得した企業の安定的な経営と不正への誘因を減らし、国への安定的な税収をもたらす。
*3 持続的成長のためには、枯渇性資源からの収入は浪費してはならない。
*4 資源収入を国内投資にふりむけ、持続可能な収入につなげる必要がある。

しかし、この3つのハードルを乗り越えたとしても、そもそも公共投資の収益性の低さに加え、さらに政府支出に群がるロビー活動と汚職、未熟なプロジェクト推進体制、輸入資本財の高騰などっ国内投資にも多くの問題を抱えるため、資源保有途上国が持続的成長軌道に乗る処方箋を実現するのは困難を極めます。
そこでは途上国自身の統治構造や制度自体が問われることになります。
(「ナイジェリア無敵艦隊(Cement Armada)」のエピソードは笑うに笑えません)

本書の話は、漁業資源の問題や、最近ブームの小規模農家の礼賛や遺伝子組み換え作物禁止、バイオ燃料への異議などさらに広がります。


終章では著者の主張が運動論として語られています。
ナイーブになりすぎることなく、かつ希望を持ち続けて国際社会に働きかけていく姿勢は日本も大いに学ぶべきだと思います(そのまえに国際社会に顔を売ることが必要ですけど)。

 新興市場国は、富裕国の責任を言い募ることをいつまでも逃げ道にするわけにはいかない。富裕国と同じく、新興国市場でも政府に説明責任を果たさせなければならない。多くの新興市場国、とりわけ中国では、市民にそのような経験がほとんどない。だが、国境をやすやすと飛び越えてしまう技術の力を使えば、他国の経験から学ぶことができる。
 
 富裕国がかつてやったことをわれわれがやってなぜ悪いのか--新興市場国のこの主張がもはや通じないことを、私は本書で示そうと試みた。・・・安い自然が豊富にある時代は終わったのである。私たちは、自然が貴重になった時代の世界共通のルールを作る必要がある。

 


 

 

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