一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

『180°SOUTH』

2011-01-31 | キネマ

真南に針路を取ってパタゴニアの大自然をめざそう。でもその最後の楽園でも環境破壊という現代の課題から逃れることはできない、というドキュメンタリー映画。

あらすじ・映画の背景はこういうもの。

趣味で自作していた登山用具の優れた機能が評判になり、サーファーやクライマー仲間を集めて工房を設立したイヴォン・シュイナードは、1968年のある日、友人のダグ・トンプキンスが南米大陸の南端部(参照)パタゴニアの山に登らないかと誘われた。
2週間後には二人は中古のヴァンと16ミリのカメラを手に入れ、サーフボードや登山道具を満載して南米を目指して旅立った。
帰国後二人はそれぞれ「patagonia」と「THE NORTH FACE」という小さな会社を設立することになる。

それから40年後、イヴォンとダグによる旅の記録映像を偶然見て衝撃を受けたアメリカの青年ジェフ・ジョンソンが、自分も彼らの旅を追体験しようとパタゴニアへ旅立った。
(詳細は公式サイト参照)


(以下ネタバレ注意)








映画はジェフ・ジョンソンの旅を追いながら、イヴォンとダグの記録映像や二人へのインタビューを交えて進みます。
そして40年の歳月を埋めるように、パタゴニアでイヴォンとジェフが合流し、山の頂を目指します。
しかし40年の歳月は、パタゴニアの大自然にあっても環境問題が切り離せないという現在も浮き彫りにします。

サーフィンやロッククライミングを楽しむことを人生の中心に置くジェフとその友人たちのライフスタイルと、旅の途中で知り合った人々との交流が前半の中心ですが、後半はパタゴニアの人びとの自然を守ろうという思い、そしてそれぞれの会社が世界を代表するアウトドア用具メーカーになった後70歳を過ぎてもアウトドア生活を楽しみながら環境保護に取り組むイヴォンとダグの生き方が描かれます。 


この手の映画はややもすると企業=環境破壊=悪という紋切り型の図式を強調して、「同好の士」に支持されればいいや、という風になりがちです。その結果逆にそれ以外の人からは「定職を持たずに経済活動もしないで海や山で遊んでばかりの連中が自然保護を叫んでいる」とこれまた紋切り型の批判を受けることになります。

ただこの作品は、イヴォンとダグの間での環境問題に対するスタンスの微妙な違いや、イースター島のモアイ像と環境破壊など企業以前の問題(人間の原罪?)も取り上げられていて、教条的になることを免れています。

何より、旅とアウトドアライフの魅力、そしてイヴォンとダグの人間的魅力が味わえるのがこの映画の醍醐味です。

インタビューでのジェフの言葉

前に進むのが進歩だとしても、前が崖だと気がついたときには、後ろを向いて歩くのも進歩なのではないか。

タイトルはパタゴニアに向けて真南に進路を取れ、とともに、このセリフも象徴しています。


面倒なことを考えないで旅と大自然を楽しみむこともできますし、環境問題だったり人生における仕事の意味やワークライフバランスの意味を考えながら観ることもできる映画です。



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グルーポン利用の心得

2011-01-30 | よしなしごと

グルーポンのおせち問題を契機に景品表示法をおさらいしてみる
のつづき。

グルーポンのサイトにこんな掲示がありました。
バードカフェ(横浜)「謹製おせち」に関するご報告 (2011年1月29日)

1. 表示と異なる食材が使用されていたことについて
(中略)
弊社では、外食文化研究所から書面をもって本件商品にかかる表示の正確性について確約をとっておりましたが、表示の内容と異なる食材が使用される結果となってしまいました。弊社が、本件商品の製造者ではないこともあり、弊社にて使用食材の仕入れ状況等を詳細に把握できず、事実確認に時間を要しました点、何卒ご理解いただければ幸いです。

2. 通常価格の表示が不適切であったことについて 弊社では、外食文化研究所から、通常価格が記載された申込画像の送付を受け、バードカフェ店頭において、常連客に同内容での本件商品の案内を行っている旨の回答を受けたこと等より、弊社サイトへの掲載時点では、本件商品がバードカフェ店頭において、販売実績があると判断しておりました。
しかしながら、「不当な価格表示についての景品表示法上の考え方」(平成12年 6月30日公正取引委員会、その後の改定も含みます)によると、通常価格として表示するためには、「最近相当期間にわたって」の販売実績が必要であるにもかかわらず、本件商品に通常価格として表示された価格での販売実績があるとは認められないおそれがあることが判明いたしました。

3. 今後の対策について 弊社は、本件商品の製造・販売者ではございませんが、本件商品の販売に関与した者としての社会的、道義的責任を重く受けとめております。

まあ、新しいビジネスなので、景品表示法は知りませんでした、加盟店の実情は知りませんでした、というのもご愛嬌としても、太字の「グルーポンは販売者でないから法的責任がない」といわんばかりなところがひっかかりました。(法的責任はないと匂わせてはいますが断言していないのが巧妙です)

そこで利用規約を見ると

第2条(サービスについて)
1.本サービスは、当社が、会員に対し、本サービスの参加加盟店が提供する商品・サービス(以下「加盟店サービス」といいます)の提供を受けることができるクーポンの販売を行うものです
2.会員は、本サービスを通じて購入したクーポンを本規約に従って参加加盟店に提示することにより、参加加盟店から加盟店サービスの提供を受けることができます
3.本サービスは、当社がクーポンを購入した会員に対して加盟店サービスを提供するものではありません。したがって、当社は、クーポンを購入した会員に対して、加盟店サービスを提供する義務を負いません

これを見ると、クーポンの購入者は金を払ったからといって商品を引き渡せとかサービスを提供しろとグルーポンに対して言う権利はないことになります。
では加盟店舗クーポン購入者に対して商品・サービスの提供義務を負うのはなぜかというと、加盟店はグルーポンに対し「購入者に商品・サービスを提供する」という契約上の義務を負っているのだと思います。
なので、購入者は誰に対しても権利を主張できないことになります。

ぐるナビなどのお店の割引クーポンと違って、グルーポンは購入者が実際に代金を払うのですから、これがビジネスとして成り立つためには、購入者がグルーポンを信用に足ると判断している(または、購入者が自分の権利について誤認している)ことが必要になります。

さらに規約を見ると、いろんな免責事項が書いてあります。

第14条(責任の限定)
1.(省略)
2.当社は、本サービスで会員が購入したクーポンについて、そのクーポンを使用できる参加加盟店がクーポンの有効期間中経営を継続していること、クーポンの有効期間中加盟店サービスを受けられること、加盟店サービスが会員の希望を満たすこと、有用であること等その他一切を保証しません。但し、有効期限が満了していないクーポンが参加加盟店の責に帰すべき事由により利用できなくなったと当社が判断した場合、当社は、会員に対しクーポン購入代金を返金することがあります。この場合、返金方法は当社指定の方法によるものとします。

ただし、これについてはよくある質問

Q.購入したクーポンのショップが閉店してしまった場合は?
A.ショップの閉店の場合は全額返金させていただきますのでご安心ください。

とあります。どっちが優先するのでしょうか?
多分グルーポンはいざとなったら規約が優先と主張するのでしょうから要注意ですね(購入者からはFAQも規約の一部を構成するという主張は成り立つでしょうけど面倒です)。

4.当社は、加盟店サービスの内容、その他クーポンに関する情報、取引状況、販売期間、価格、参加加盟店に関する情報その他の情報について、その正確性、精緻性、有用性、特定目的への適合性その他一切の事項について保証するものではありません。
(中略)
11.当社の会員に対する責任は、いかなる場合でも、当社が会員から現に受領したクーポンの販売代金を上限とし、また、当社は、会員の逸失利益、間接損害、特別損害又は弁護士費用に係る損害を賠償しないものとします。但し、本項は、当社に故意又は重大な過失がある場合には適用されないものとします。
12.本条は、会員に対する当社の本サービスに起因又は関連する責任の全てを規定したものであり、当社は、本条に規定されるもののほか、請求原因の如何を問わず賠償責任その他何らの責任も負いません。

まあ、このへんは争えば消費者契約法上は、無効とされそうな感じもしますが、規約として書くのはこの会社に限らずしばしば見られます。


前のエントリでは、景品表示法上の「販売者」にあたるんじゃないかと書きましたが、上の「ご報告」ではグルーポン自体は商品・サービスの提供義務を負わないので適用外だ、と主張しているのだと思います。

ただ、クーポン自体の「優良誤認表示」だ、という指摘は十分ありうると思いますし、あまりそこのところを争うと、法改正でクーポンの販売者にいろんな義務を負わされることになって、かえってやぶへびになる可能性が高くなると思います。

そう考えると、上の「ご報告」はちょっとディフェンシブ過ぎるような感じがします。

今後は、弊社サイトにおける表示をより正確かつ適切なものとするため、クーポンに関する商品及びサービスの提供会社に対して、当該商品及びサービスに関する情報の客観的な根拠の説明及び提出を求めることに努めるとともに、より一層の業務管理体制の強化を図ってまいります。

最後のこの文章も、グルーポン自体のチェック・審査体制については具体的に言及しておらず、あいかわらず「加盟店にちゃんとさせる」というスタンスが見受けられます。
新しい業態なので試行錯誤はあるわけで、非は非として認めたうえでビジネスの仕組みを洗練させていくほうが大事だと思うのですが、具体的な責任や義務を負わないようにという書き手(法務スタッフとか弁護士が書いたのかもしれませんね)の気持ちの方が伝わってくるのが残念です。



そんなわけで、グルーポンを使うとしても、新年を寿ぐとか勝負デートなどの大事なイベントには使わないほうが賢明だと思います。

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『芸術闘争論』

2011-01-27 | 乱読日記

「村上隆はオタクからはオタクのツボがわかっていないと評価されている」と東浩紀がどこかで書いていましたが、その一方で外国では日本の現代文化を体現しているところが評価されていて(僕が行ったときはMOMAの入り口のところにドンと作品が展示してあった)、しかし日本の美術界からは評価されていない、そんな孤独な立ち位置のにいる村上隆、が若いアーチスト(の卵)に向けて現代の芸術家はどうあるべきか、という考え方を熱く語った本です。


村上は、現代日本の美術教育・美術界の考え方が世界のアートシーンにあっていないので、日本からは世界的な現代美術家が出ない原因だと喝破します。

ひとつは「貧=芸術=正義」という美術界の考え方。
お金に関する拒否反応があり、現代美術の作品などに高額の金が支払われること自体が非難の対象になることが、芸術家の活動を狭めているといいます。

そして「自由=芸術=正義」という美大の教育のゆがみが、海外で評価されない原因だといいます。  

現代美術は自由人を必要としていない。必要なのは歴史の重層化であり、コンテクストの串刺しなのです。

さらに  美大予備校でのインスタントな基礎工事と外国の美術大学でのアイデンティティ発掘まで含めた議論し考える教育をあわせるのがベストではないか 。

作家が作品に専念できる環境を作るためのサポートが重要になっている(渉外、権利管理、プレス対応など従来の画廊ではカバーできなくなっている) 。

などの主張があふれるように続き、美術界の門外漢でも楽しく一気に読めます。


そして楽しく読める理由は、この現状認識と方法論は少しだけ角度を変えさえすれば他の業界にも十分応用が利くところにあるのではないかと思います。

本書で語られる状況は、世界で活躍しようとするスポーツ選手についてはけっこうそのまま当てはまると思います。
また、弁護士についても、社会正義の実現と収入の話、職業独占と周辺領域・外国の事務所との関係など、見方を広げるにも役立つかもしれません。  

そして何よりこの本は、これから社会人になる学生の人に、社会に出るということはどういうことかを考えるきっかけになる本として勧めたいと思います。 
また、既に就職したものの自分探しモードにはいってしまった人にもいい刺激になると思います。 

「自分のやりたいことを一生やって過ごしたい」「好きなことで食って行きたい」。・・・でも、30歳代、40歳代になって、まず、やりたいこと=社会に望まれていること」でないことに気づき、「好きなことで食っていく」ことの「好き」が時代とともに可変し続ける自分のいい加減さに驚き、そして、本質的な混乱と立ち向かわなければならなくなる。  

年齢を20プラスすれば、サラリーマンの末路にも当てはまりますね。
「趣味の蕎麦打ち」的な生き方への痛烈な批判でもあります。

僕のような"middle age crysis"の歳になった身にとっては、自分はどこまで流されずにやってきたかを反省し、今後後進を育て、自らもどう生きるべきかを考えさせられる本でもあります。  


PS
本書の帯「闘いもしないで。闘う僕のことを嘲っていたい人は嘲っていれば良い」は中島みゆきの「ファイト」を思い出してしまいましたw


          

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『不連続変化の時代-想定外危機への適応戦略』

2011-01-26 | 乱読日記

著者は国際政治のジャーナリストとしてタイム誌を経て、現在キッシンジャー・アソシエイツ社の戦略アドバイザーをしている人で、2009年の金融危機を受けて書かれた本。

金融危機に限らず、テロやパンデミックなどの、予想できないタイミングでしかも想定外の方法や規模で起こる危機に対して、危機の発生の態様から、なぜ従来の組織はうまく対応できずに被害を広げているか、そして対応の方向性はどうあるべきかを説いた本です。

乱暴に言ってしまうと『ブラックスワン』の系統にあたるのですが、本書は経済危機を乗り越えたブラジル企業からイスラエルの攻勢にもかかわらず逆に勢力を広げたヒズボラまで、著者の豊富な取材に基づいた対応の事例(成功例と、それ以上に多くの失敗例)の分析があります。

その対応策として著者が唱えるのが「ディープ・セキュリティ」。
これは「危機に立ち向かう/危険を排除する」というアプローチでなく

  • 危機の多くは単純な対応ができるものではなくシステムやネットワークのようなものであることを認識する
  • 脅威となりそうなものをすべて攻撃の対象にするのでなく(そうすれば相手はさらに危険になる)、自らが復元力を獲得できるように努める
  • 理解可能な範囲で間接的な「効果重視」のアプローチを忍耐強く行う

というものです。
これらについて実例をあげてわかりやすく説明しています。

他になるほど、と思ったフレーズをいくつか。

  • 結びつきが強くなればなるほど、われわれは弱くなる。
  • システムの大きな変化を誘発するものは、早く動く変数ではなく、遅く動く変数である。
  • このような激動の時代にあって、もっとも大きな影響力を持っているのは、内的な要因だ。
  • (複雑に絡み合った世界を分析し、深いところを見通す力をつけるためには)物事をあるがままに見るのをやめることだ。・・・それはいまそこにあるものを無視しろということではない。大事なのは、いまそこにあるものがこれからどうなるかわかるような見方をするということだ。

ただ、こういう発想を平時の心構えとして持ち続けることはけっこう難しいですし、何か具体的なアクションとしてどうするか(と考えがちなこと自体がいけないのかもしれませんが)のイメージがわきにくいところが、やはり「事が起きてから右往左往する」原因なんだろうなとも思うところが僕の小市民たる所以であります。


余談ですが興味深いエピソードとしてこんなものもありました。
ソ連の崩壊についての研究した研究者が、当時権力の中枢にいた数百人の高級官僚にインタビューを行ない、ソ連の崩壊は民衆の力によるものではなくエリートたちが持っていた権力とゴルバチョフの誤算によるものだと結論付けたという研究。

民衆の力なら簡単に圧殺できた。しかしソ連は革命以来ノーメンクラトゥーラと呼ばれる軍人や大学教授、官僚が国の実務を支えて来たとともに既得権益も大きかった。ゴルバチョフが彼らの既得権益が改革に手をつけた結果、彼らは国家を存続させるよりなくしてしまったほうが自分たちの利益になると判断し、国の崩壊を食い止めるために動くことはなかったのが国家の崩壊を早めた原因と分析しています。

「驚くほど平和的に、そして急速に国家が消滅したのは、最終的にエリートたちの大半に見限られたからである」

日本の官僚の既得権というのは所詮「天下り」や「渡り」程度で「国営企業の支配権」のような派手なものではないのでここまで極端にはならないでしょう。
ただ、民主党政権(や他の政党も)「脱官僚」を進めるとしても、官僚は全部悪としいて切って捨てるという子供じみたことをしてしまうと、同様のことは起きかねない。

「脱官僚」を唱えるにあたっては、現在官僚が担っている実務をどうするか、またそのしくみに移行する際において現在の官僚(の少なくとも枢要なうちの半分くらい?)はを味方につけるような政策である必要はあるのではないかなどと想像をたくましくしてしまいました。
    



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こども園落着?

2011-01-25 | よしなしごと

こども園の続き。
どうやら方向が決まったようです。
(そもそも国会審議がどうなるかという問題はありますが)

幼保一体化:こども園一本化見送り 幼・保の存続容認、補助金優遇で誘導
(2011年1月25日 毎日新聞) 

幼稚園と保育所を13年度から「こども園」に移行させる「幼保一体化」に関し、政府は24日、すべての施設をこども園に一本化することを見送り、幼稚園と保育所の存続を認める案をまとめた。こども園と幼稚園、保育所の3種類の施設が併存することになるが、政府はこども園を補助金などで優遇し、事業者がこども園に移りやすくなるよう促す。移行期限の明示は見送った。

  

※ 図はこども園構想、保育所・幼稚園の一部存続へ(2011年1月25日 朝日新聞)から。  

一方で政府は、幼稚園に対する私学助成と保育所への保育所運営費をやめ「幼保一体給付」に一本化。さらに、こども園に対しては補助金を増額し、幼稚園や保育所がこども園に移るよう政策的に誘導する。ただ、補助金をどれだけ増額するかなど具体的な制度設計はこれから。幼稚園がどれだけこども園に移行し、待機児童受け入れの受け皿になるかは、現時点では不透明な要素が多い。  

政府はこのほか、3種類の施設について、利用者との契約方法についても統一を図る。現在、保育所は市区町村と契約して施設のあっせんを受けているが、幼稚園のように各施設に直接申し込む「直接契約」を原則とする。ただ、待機児童の多い地域や虐待を受けている子どもなど、受け入れ優先順位の決定が必要になる場合は、市区町村が調整する。

朝日によると

いまの補助金は、幼稚園が文部科学省、保育所が厚生労働省と分かれているが、13年度以降は国や自治体などで設ける一つの財布から、すべての子ども施設に補助金を出す。これにより財政面では「幼保一体化」が実現する。  

とのことですが、上の図によれば補助金の所管は一旦総務省に統合されるものの「こども家庭省」が新設されるようです。 

記事ではこども園の資格要件について触れていませんが、幼稚園教諭・保育士という資格と業務の独占が変わらないとすると、働く人の採用や保育所・幼稚園からの以降も進まない上に、資格試験や登録業務に従事する職員は温存されるので行政も効率化しないと思います。  

やはり官僚の「焼け太り」感が強い落着のような感じがします。

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こども園

2011-01-24 | よしなしごと

こども園移行後も、幼稚園・0~2歳保育所併存
(2011年1月24日 読売新聞)  

幼稚園と保育所を統合する幼保一体化を目指す政府は、2013年度から幼児教育と保育、子育て支援事業の三つを提供する施設として「こども園」を導入し、現行の大多数の保育所、幼稚園を10年ほどで「こども園」へ移行するよう誘導していく方針をまとめた。 
一方で、幼児教育だけを提供する幼稚園と、主に0~2歳児向け保育を行う保育所も併存させる。

個人的にはには切実な問題ではないのであまり関心がなかったのですが、「幼保一元化」がなぜ進まないのかというと、幼稚園と保育園の所管官庁が違う、というところに根源があるようです。 
幼稚園の所管は文部科学省で、根拠法令は学校教育法になります。
同法に 

第二十二条  幼稚園は、義務教育及びその後の教育の基礎を培うものとして、幼児を保育し、幼児の健やかな成長のために適当な環境を与えて、その心身の発達を助長することを目的とする。  

とあります。
一方、保育園の所管は厚生労働省で根拠法令は児童福祉法になります。

第一条  すべて国民は、児童が心身ともに健やかに生まれ、且つ、育成されるよう努めなければならない。
2  すべて児童は、ひとしくその生活を保障され、愛護されなければならない。

第二条  国及び地方公共団体は、児童の保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育成する責任を負う。

第二十四条  市町村は、保護者の労働又は疾病その他の政令で定める基準に従い条例で定める事由により、その監護すべき乳児、幼児又は第三十九条第二項に規定する児童の保育に欠けるところがある場合において、保護者から申込みがあつたときは、それらの児童を保育所において保育しなければならない。ただし、保育に対する需要の増大、児童の数の減少等やむを得ない事由があるときは、家庭的保育事業による保育を行うことその他の適切な保護をしなければならない。

つまり幼稚園は教育を行う場、保育所は保護者に代わって乳児又は幼児を保育する場、という位置づけになっています。
既に政府は認定こども園という制度を創設していますた。
こんな概念図


しかしこれがうまく利用されていないようです。

こども園創設へ 長浜市「幼稚園+保育園」先取り
(2011年1月24日 京都新聞)によると

認定こども園では、管轄が幼稚園の文部科学省と保育園の厚生労働省に分かれて事務が煩雑なうえ、職員資格も二つあることなどが課題とされる。

つまり上の図の「機能を付加」が結局「手続きと必要資格も付加」してしまっているようです。  
一方で  

市内で、保育園と長時部の待機児童は計78人(昨年10月現在)と多い。逆に、短時部と幼稚園の利用者は2008年度の1457人から本年度に1312人となるなど定員に満たず、減少が著しい。  

と、保育園は足りずに幼稚園は余っているという現状があるようです。 
認定こども園は、0~2歳児の「保育」は保育士しかできないとしても、保育所の3~5歳の担当を幼稚園教諭で代替できれば要員的に余裕が出ることになるという効果があるかと思いきや、上記認定こども園のサイトによると

3~5歳児については、幼稚園教諭免許と保育士資格の併有が望ましいが、学級担任には幼稚園教諭免許の保有者、長時間利用児への対応については保育士資格の保有者を原則としつつ、片方の資格しか有しない者を排除しないよう配慮  

と、結局要員はダブルキャストを求めるようで、結局保育士不足対策としての効果は限定的になりそうです。

しかも、京都新聞によると  

このため、国は新たな「こども園」創設に伴い両省の担当部署を一元化した子ども家庭省(仮称)を新設し、幼稚園教育要領と保育園保育指針の統合や資格の共通化などを検討している。  

結局統合のためには新しい省を作ることを考えているようです。
そのための冒頭の時間稼ぎというわけなのでしょう。 

しかし、この対応策は「省庁間を横断する業務は現状の省庁間の協力・調整では解決できない」ということを認めているわけで、「脱官僚」を標榜する民主党としては、あまりに知恵がないやりかただと思います(権益拡大を目論む官僚の作文に乗ったとしたらもっと間抜けですが)。  
さらに  

政府案ではさらに、2013年度以降はこうした幼稚園や保育所も含めたすべての就学前児童施設を新たに「こども施設」として指定。現在の幼稚園向け私学助成や保育所向け保育所運営費などの公的補助を一本化した「幼保一体給付」(仮称)から運営費の補助を行う方針だ。「こども園」への財政支援を上積みすることで、移行を促す。  

余っている幼稚園の公的補助を減らすくらいのインセンティブがないとダメだと思うんですが、幼稚園って何か政治力とかあるのでしょうか?   

こういうところをビシッとやれば(子供手当ての見直しも含めて)、消費税増税とかも支持を受けると思うんだけどなぁ・・・




余談ですが、学校教育法ではご丁寧にも幼稚園での教育内容を以下のように定めています。

第二十三条  幼稚園における教育は、前条に規定する目的を実現するため、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一  健康、安全で幸福な生活のために必要な基本的な習慣を養い、身体諸機能の調和的発達を図ること。
二  集団生活を通じて、喜んでこれに参加する態度を養うとともに家族や身近な人への信頼感を深め、自主、自律及び協同の精神並びに規範意識の芽生えを養うこと。
三  身近な社会生活、生命及び自然に対する興味を養い、それらに対する正しい理解と態度及び思考力の芽生えを養うこと。
四  日常の会話や、絵本、童話等に親しむことを通じて、言葉の使い方を正しく導くとともに、相手の話を理解しようとする態度を養うこと。
五  音楽、身体による表現、造形等に親しむことを通じて、豊かな感性と表現力の芽生えを養うこと。  

就学児童だけでなく自分を含めた大人もこれらの能力が涵養されているかというと甚だ疑問なような・・・

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『傍観者の時代』

2011-01-23 | 乱読日記

昨年『もしドラ』が流行したときに、そういえばドラッカーをちゃんと読んだことがないことを思い出しました。

どうも僕が社会人になった頃すでに「神様」扱いになっていて、しかも版権を持つダイイヤモンド社のあざとさもひっかかって、ひねくれ者としては敬遠していたというところです。

そこで、 最初に選んだのが、ドラッカーの自伝的著作である本書。

ドラッカーは20世紀初頭の衰退しつつあるウィーンの学者一家に生まれ、その後ドイツに留学、ナチスを逃れロンドンで就職し、その後アメリカに渡り経営学者になるなかで、その時々に会った人びとを通じて時代やドラッカーの人間観が描かれています。

激動期の時代とそこに登場する人々のドラマだけでも十分面白いのですが、ドラッカーの対象冷静で真摯な視線と自分の論説に対する誠実さを感じることができます。


印象的な部分は数多くあるのですが、いくつか紹介すると、アメリカからナチス・ドイツ下の新聞の編集長にあえて就任した(そして結局利用されてしまった)ジャーナリストに触れたあとの著者自身による解説のくだり

 ナチスの大量殺人者アイヒマンについての本で、ドイツ系アメリカ人の哲学者、故ハンナ・アーレント女史は、「悪の平凡さ」について書いた。だが、これほどに不適切な言葉はない。悪が平凡なことはありえない。往々にして平凡なのは、悪をなす者のほうである。
 アーレント女史は、悪をなす大悪人という幻想にとらわれている。しかし、現実にはマクベス夫人などほとんどいない。ほとんどの場合、悪をなすのは平凡な者である。悪がヘンシュやシェイファーを通じて行われるのは、悪が巨大であって、人間が小さな存在だからにすぎない。悪を「闇の帝王」とする一般の言い方のほうが正しい。

ハンナ・アーレントをするりといなすあたり、経験の重みと透徹した観察眼が感じられます。


つぎは、最初に就職したロンドンのフリードバーグ商会の共同経営者の「ヘンリーおじさん」の話。この人はアメリカの小売業で財をなした人で、いつも何かないかとかぎまわり、商売の改善につなげるような人でした。

 私が思うに、世の中には、いつまでもバッタのように個別の問題に取り組んでいる人がいる。一般化することができずに、コンセプトを把握することができないでいる。科学者にもいるし、ビジネスマンにもいる。
 ところが優れたビジネスマンは、優れた科学者や優れた芸術家と同じように、ヘンリーおじさんと同じ頭の動きをする。最も個別的、最も具体的なことから出発して、一般化に達する。

50年前の当時、人はまだあまりに経験志向だった。システム、原理、抽象化が必要とされていた。事実、私は当時、数論論理学と出合って一種の開放感を味わったことを覚えている。
 しかし、今日ではわれわれは、逆の意味で再びヘンリーおじさんを必要とするに至っている。今日ではあまりに多くの人が、検証抜きの定量化、形式だけの純粋モデル、仮定による論理に傾斜し、現実から遊離した抽象の追究に耽溺している。
 今日のわれわれは西洋における体系的思考の原点ともいうべきプラトンの教えを忘れている。まさにプラトンの言うように、論理の裏付けのない経験はおしゃべりであって、経験の裏付けのない論理は屁理屈にすぎないのである。

そして最後、印象深かったのが大恐慌下のアメリカ社会の様子。

 つまり経済だけを見るならば、不況は天災ではなかった。それはまさに常態としての新しい現実だった。しかし中心が崩れつつあったヨーロッパと違い、アメリカは中心がしっかりしていた。したがってアメリカの社会としては不況は天災だった。
 アメリカではコミュニティが健在だった。
(中略)
 しかし、コミュニティが大きな役割を果たすようになったということは、部族的なもの、郷党的なもの、地域的なものが強化されることを意味した。宗教、人種、文化の違いが強調され、互いの境界になるということだった。
(中略)
しかし不況が天災だったアメリカでは、金は最大の問題ではなかった。金持ちといえども貧乏に如理も保証の数が多少多いだけだった。
 そしてアメリカ人が天災として理解した不況においては、実業家であるか肉体労働者であるかよりも、イタリア系であるかポーランド系であるかが、『ニューヨーク・タイムズ』の発行人であるか七番街の行商人であるかよりもユダヤ人であるかないかのほうが重要な意味を持ったのだった。
(中略)

 医学部に入りたいカトリックやユダヤの少年にとっては厳しい差別だった。逆に、 高校の校長になりたいカトリックやユダヤ人の教師、カトリックやユダヤ人の弁護士にとっては有利な差別だった。
 この部族主義は不況時代にピークに達した。コミュニティと所属が重視されたためだった。もちろんそれは悪習であり重大な害をもたらすおそれがあった。しかしそれはあくまでも単純な部族主義だった。そのため、不況時にアメリカ人の生活にしっかり根付いたかに見えて、一晩で忘れられる代物だった。

では今のアメリカはどうなんでしょう。
そして、日本で言われる「不況下の助け合い」や「格差」問題について示唆する部分もあるかもしれないなと。


とても面白い本でした。

   

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『怪帝ナポレオン三世 第二帝政全史』

2011-01-19 | 乱読日記

この本は前にも書いたように『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』の予習で読んだのですが、この本も相当面白かったです。わかりやすさからいったら格段にこっちのほうが上ですw

僕は、高校の世界史の授業がフランス革命以降はNHKの朝の連ドラの最終回のような端折り方だったこともあり、しかも共通一次(というのがあったんだよ、若い方々w)では選択しなかったので、フランスも第二帝政以降は相当あやふやな知識しか持っていません。

さらに、第二帝政については、著者曰く

第二帝政といえば、ナポレオンの甥というだけの単なるバカが陰謀と暴力によって権力を奪取し、強権によって支配を続けた暗黒の時代とされていた。

という評価だったそうで、実際そんなイメージがありました。  

確かに、普仏戦争で自ら戦地に赴いたあげくに敵に包囲されて降伏したという皇帝として前代未聞の振る舞いや、当時から有名だった好色ぶり(これは事実だったらしい)がイメージを規定してしまった部分もあるようですが、長らく続いたフランスの混乱に終止符を打ち、経済的発展をもたらし、第三共和制の反映を準備したという面での再評価は1980年代になってようやくされるようになってきたそうです。  

本書はそのナポレオン三世と第二帝政について再評価(「単なるバカ」ではなくその政策には歴史的意義があった)の視点からまとめた本です。  

『ブリュメール18日』ではクーデタに至るまでの政治過程、代表制の構造が語られていますが、本書で個人的に面白かったのは第二帝政下の経済発展の部分でした。  

フランス革命のときに大量に発行された国債が不換紙幣になってしまったことにこり、当時のブルジョアジーは自らの財産を金貨や銀貨として溜め込み、銀行券や株券のような投資にまわる資金は枯渇していたのが、第二帝政になると市場に流入するようになり、それに経済発展を重要視するサン・シモン主義に影響を受けた政策とあいまって、フランス経済は大きく発展します。  

新たに銀行の設立許可を受けたクレディ・モビリエが鉄道や他の産業資本に積極的に投資をし伝統的な銀行であったロスチャイルド銀行と覇権を争うところや、ロンドンの万国博に刺激を受けたナポレオン三世によってセーヌ県知事に任命されたオスマンのパリ大改造、そしてイギリスとの通商条約締結により発展する商業(「デパート」の誕生もこのとき)など、(当のナポレオン三世はあまり登場しないのですが)さまざまな登場人物によってフランス経済は活況を呈します。  

いってみればバブルだった(フランス国内の信用秩序の回復とともに米豪でゴールドラッシュが起きたことで金銀の価格が低下し過剰流動性が起きた)わけですが、やっぱりお金が回らないとだめだよなぁと、現下の経済を見ながらつくづく感じた次第です。  

そして、ロスチャイルド銀行の独占だった発券銀行に風穴を開けたクレディ・モビリエへの発券許可とか、フランスの工業界の反対を押し切っての通商条約締結など、現在にとっても示唆に富むところも多いです。 

またクレディ・モビリエを追い落とすためのロスチャイルド側の政府への働きかけや、クレディ・モビリエが崩壊に至るきっかけになったのが不動産不況に際し関係融資先の焦げ付きを隠したまま増資を強行したのをロスチャイルド側に暴露されたためだというあたりなども味わい深いです。  


「バカ」といわれた皇帝を戴いてすら国が急に元気になることもあるわけですから、日本もめげてばかりいてもしかたないのかもしれません。 
マルクス曰くの「二度目は笑劇」であるならば、今回の経済危機は何度目の茶番になるのかわかりませんが、笑劇なりに思いっきり演じることが大切だと元気付けてくれるような本でもあります。

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『日本の統治構造』

2011-01-18 | 乱読日記

たまたま著者の話を聞く機会があったので事前に読んだのですが、かなり面白かったです。
それもそのはずで本書で著者はサントリー学芸賞と吉野作造賞を受賞しています。

著者は戦後日本の統治構造の特徴を官僚内閣制と政府・与党二元体制として性格づけています。
これは民主党政権のいう脱「官僚主導」のような抽象的な話でなく

・官僚が政策の骨格を作る
・その際官僚は業界や地方自治体との補助金や機関委任事務を通じて社会応答性を確保するとともに各省間の総合調整を行う
・一方で自民党政権は与党の中でも政務調査会・総務会を通じて法案審議を行う
・官僚は与党も根回しの対象のひとつとして政策形成を行う
・自民党議員は党としてでなく個人として選挙を勝ち抜き、党内の会合を通じて勉強をし「族議員」になるというキャリアを積む。選挙では党としての具体的な政策を選挙民に問うことはない(中選挙区制においては特にそうだった)
・一定の当選回数を経た議員は大臣ポストにつくが、政府としての政策決定は官僚が骨格を作るので大臣としては乗っかっていれば良い
・その結果、頻繁な内閣改造とポストの派閥間のたらいまわし、論功行賞人事が可能になる
・その結果「省庁代表制」ともいうべき政策形成がなされる。これはきめ細かいが大きな枠組みを変える政策は生まれない仕組みである。

という構造として詳細に論じています。

本書が書かれた2007年の時点で、既に80年代からの政治・行政改革、選挙制度改革の流れから小泉改革にいたる中で政府・与党の二元体制が変質し、政権交代を伴う議院内閣制が実現するのではないかという展望をしています。

なので民主党への政権交代に触れていなくても、戦後日本政治、立法と行政の関係や議院内閣制について頭の整理ができる有意義な本だと思います。


で、著者である飯尾氏の講演。

政権交代は比較的早く実現することになったのですが、著者にしてみると民主党政権自体が政権交代の準備ができていないままに政権をとってしまったので、著者の理想とする「政権交代を伴う議院内閣制」にはまだまだ道は遠いという感を持っているようです。

飯尾氏は戦後の高度成長期との大きな違いとして、高度成長期は税収が拡大し財政に余裕があったし、欧米先進国の政策を輸入しモディファイすれば対応できたのに対し、現代の低成長下においては財政に制約があり、しかも日本が課題先進国になっているので政策を輸入するだけでは対応できないという現状認識を持っています。
このような状況下では、従来の延長上の利益配分をして皆がそこそこハッピーな政策を積み上げと調整で作ることはできず、何を得る代わりに何を負担するかというトレードオフを明確にした政策が必要になります。

そしてそのような政策決定をするためには、従来の「官僚内閣制、政府・与党の二元化」の枠組みに基づく「物事を大きく変えることができない」政策形成過程は有効でなく、政権交代を前提に争点を明確にして政党が選挙を争い、国民によって選ばれた政権という正統性を背景に政策を実施することが必要になります。

しかしながら、民主党のマニフェスト自体も未成熟なものですし、しかも、いきなり鳩山総理が辞任して党内の代表選挙で(国民に選ばれたわけでない)菅総理に代わるなど、「国民に選ばれた政権」という正統性を自ら崩していると批判します。

「リーダーは作るものでアホでも党として支えればいい」
「小選挙区制になって、個別の候補者がどんなにがんばっても党首がダメだとダメなんだからみんなで支えないといけない」
「政策実施には正統性を持った権力核が必要なのだから、トップがつまらないことでコロコロ替わってはダメ。」
「鳩山氏も菅氏も自民党政権時代の『政局』を念頭に置いた『一騎打ち』幻想から抜け出ていない。」

など歯に衣着せぬ話はなかなか面白かったです。

 

 

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『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(下)

2011-01-17 | 乱読日記

後編は、柄谷行人が語る『ブリュメール18日』はどう読まれるべきかについて。

前編では「解説」といいましたが、本の中では「解説」というキャプションはなく「表象と反復」というタイトルの独立した文章になっています。

柄谷は『ブリュメール18日』を『資本論』とともに現代において重要な意味のある著作としています。

1990年代の終わりに「共産主義体制」が崩壊し...民主主義(議会制)と自由主義的市場経済の世界化による楽天的な展望が語られたとき、マルクスの『資本論』や『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』といった著作は最もその意味をなくしてしまったかのように見えた。しかしこれらの著作が鈍い、だが強い光彩をはなちはじめたのはむしろそのときからである。以来われわれが目撃しているのは、世界的な経済の構造的不況と代表制の破綻である。そのことは「左翼」に対して特に希望を与えるものではない。そもそも『資本論』や『ブリュメール18日』という著作は少しも安易な希望を与えるものではない。それらが与えるのはわれわれを強いている現実的条件への透徹した「批判」であり、しかし、それのみが「われわれは何を希望することを許されるか」(カント)を開示するのである。
 
これらの著作が扱っているのは、一種の反復強迫の問題である。『資本論』は、たえまない差異化によって自己増殖しなければならない資本の反復強迫を原理的に解明しようとしている。『ブリュメール18日』は、近代の政治形態が解決できず、さらにそれを解決しようとすることが不可避的に招きよせてしまうそういった反復強迫をヴィヴィッドにとらえている。われわれは今なおそのような反復強迫のなかにある。


前編で触れた筑摩書房版の解説にあるような評価については

いうまでもなく『ブリュメール18日』は、フランスの政治状況をほぼ同時代的に分析したジャーナリスティックな作品である。しかし、われわれはマルクスが『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で理論的に分析したボナパルティズムと、歴史上のルイ・ボナパルトやフランス第二帝政とを区別しなければならない。このことは、イギリス経済史と『資本論』の関係に似ている。『資本論』にはたしかにイギリス経済史が材料として使われているが、それを離れて『資本論』は読みうるし読むべきである。

と整理しています。その意味では同時期の政治的主張である『共産党宣言』とも区別して、現代に対する示唆を読み取るべきということでしょう。


では、マルクスの言う反復強迫とは何か。

それは代表制に内在する問題点に根源を置きます。
本稿によればマルクス以前にもたとえばルソーは「主権は譲り渡されない、これと同じ理由によって主権は代表されえない。主権は本質上、一般意思の中に存する。しかも一般意思は決して代表されるものではない」「人民は代表者をもつや否や、もはや自由ではなくなる」と指摘しています。
この「代表するもの」と「代表されるもの」の関係が恣意性、すなわち実際の諸階級の人びとは、実際の諸階級から独立した政党や政治家の言説によってしか「階級」として認識されないことに第二共和政崩壊の原因があり、それは現在の代表制にも内在する問題だとします。

・・・マルクスがいう謎は、たんに「階級闘争」をいうだけでも明らかにはならない。代表制あるいは言説の機構が自立してあり、「階級」はそのような機構を通してしか意識化されないということ、さらに、このシステムには埋めようのない穴があるということ、そこに、ボナパルトを皇帝たらしめた謎がひそんでいるのである。

われわれは、ボナパルトの勝利のなかに、最初にあらわれた代表制の危機とその想像的止揚を見ることができる・この意味で、『ブリュメール18日』はその後において出現する政治的危機の本質的要素を先取りしている。しかしこのrepresentationの危機は、まさにrepresentationのシステムにおいてしか何事も生じえない事態のなかでのみ発生することに注意しなければならない。そこから出ようとすること、あるいいはそうした媒介性を超えて直接性を目指すこと自体が「表象」なのである。もちろん、あとで述べるように、この危機は、民主的代表制の開始とともにはじまっている。それは「王殺し」によって-それが象徴的なものであろうと-出現するのだが、そこに一つの埋めようのない穴があいており、それを埋めようとすることが、近代政治における「反復強迫」をもたらすのだ。

たしかにこの部分は卑近な例では現在の日本政治の「政権交代したのに民意が反映されていない感」にも通じるものがあります。

柄谷はさらに、この代表制の問題点を(当時イギリスの産業の圧力下にあったフランスの状況をふまえ)グローバルな資本主義と国民国家の対立に展開しますが、その問題はあるとしても同根としてつながるものなのかについてはいまひとつ消化できませんでした。


一冊で二度おいしいと考えるか、面倒くさいと考えるかはありますが、あえていまどき『ブリュメール18日』を読もうという人にとっては面白い構成の本だと思います。




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『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(上)

2011-01-16 | 乱読日記

 「歴史は繰り返す、ただし二回目は茶番」などとよく引用される元ネタのが冒頭にあるので有名な本です。
それでは、と数年前に読もうとして、当時安価な単行本が出ていなかったので筑摩書房版(2940円)を図書館で借りたものの、期間内に読了できずに挫折したものの今回はリベンジ。
購入可能なのに購入しなかった時点で既に気持ちが負けていたという反省と、今回は平凡社ライブラリーから文庫サイズで出たので再挑戦しました(価格は1575円と半額だったのも小市民的な動機付けにはなりましたw)。

例の冒頭の文章はこういうものです。

ヘーゲルはどこかで、すべての偉大な世界史的事実と世界史的人物はいわば二度現れる、と述べている。彼は高付け加えるのを忘れた。一度は偉大な悲劇として、もう一度はみじめな笑劇として、と。

本書の脚注によると、このヘーゲルの文章は『歴史哲学講義』の中からとったものだそうです。(岩波文庫版があるようですが、そこまでは遡りませんでしたw)

そもそも国家の大変革というものは、それが二度くりかえされるとき、いわば人びとに正しいものとして公認されるようになるのです。ナポレオンが二度敗北したり、ブルボン家が二度追放されたりしたのも、その例です。最初は単なる偶然ないし可能性と思えていたことが、くりかえされることによって、たしかな現実となるのです。


さて、冒頭の一文をクリアしたところで本書に取り組むわけですが、相変わらず読みにくいことこの上ない本です。

本書は1948年の2月革命でフランスに誕生した第二共和制と成立した政府の保守化、そしてルイ・ボナパルト(ナポレオン三世)の大統領選出と彼による1851年のクーデタによって第二共和政が崩壊するまでを描いてます。

一つは僕がそもそもこの時代の歴史についての知識が欠けているということもあるのですが、本書の文章自体が(当然のことですが)当時の読者を念頭に置いたものであり、またマルクス独特の比喩や皮肉を駆使していて、その当時の登場人物や事実関係を知らないと何を意図しているのかすらわからなくなってしまいます。
訳注は豊富についているのですが、背景の知識がないと実感がわきません。

ということで一休みして、講談社学術新書の『怪帝ナポレオン三世』を先に読みました(この本自体も面白かったのであとでレビューを書きます)。
するとやっと、読み進める気持ちがわいてきました。


本書では、もともとフランスで育ったわけでもなく、二月革命前には2度のクーデタまがいの事件を起こして逮捕されたりイギリスに逃げていたりと、二月革命当時は政治的基盤はゼロに近かったナポレオン三世が大統領になり、クーデタを成功させたかの政治過程を分析しています。

しかしその分析自体も、マルクスの考えが独特のレトリックで表現されているので、けっこうまた苦労します。

そこで、と編集者も思ったのか、今回読んだ平凡社版は、巻末に柄谷行人の40ページにのぼる解説がついています。
当代きっての「マルクス読み」を通してみると、この本の主張と現代政治にも示唆となるところが鮮やかに浮き彫りになり、もう一度本文を読見直してみようという気分になります。


でも、最初の読後感はちょっと違って、階級闘争という構造的な視点からだけの見方には違和感を覚えました。
特に、多分に状況が味方したり結果オーライもあったのでしょうが、ナポレオン3世自身の政治的な読みとポジションの取り方の巧みさ(そのへんは『怪帝ナポレオン三世』に詳しい)も評価する必要があるように思います。


筑摩書房版(悔しかったので一応図書館でもう一度借りてきたw)の解説にはこうあります。

マルクスはすでに1950年、二月革命の発端から1850年11月初めまでの状況を雑誌論文で分析し(これをまとめたものが『フランスにおける階級闘争』)、大統領と議会がやがて妥協することにより、(当時話題になっていた)クーデタが回避される一方、民衆に対する弾圧が徹底し、最終的に新たな革命段階が到来するものと予想していた。彼はそこで、革命直前(1848年2月)に刊行した『共産党宣言』で展開したばかりの階級闘争理論を、革命が後退し、反動化が進んでいく事態の説明にどうにか生かそうと努め、そうした状況を、逆行を通じた革命の前進と解釈したのだった。だが全階級の支持を得てルイ・ボナパルトが大統領に当選していたのだから、階級闘争は、少なくともマルクスから見ればすでに変調を来していたわけであり、このような解釈の有効性は、彼自身にとっても疑わしくなりはじめていたにちがいない。さらに予想に反してクーデタが起こり、しかもこれが重ねて全階級の賛同を得るに至って、マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で、ついに階級闘争が消えてしまった事態を認めざるを得なくなるのである。階級闘争を骨子にした『共産党宣言』の視点からすれば、これでは何とも具合が悪い。そこで彼は、革命がまず議会権力を完成しこれを転覆して、仕事の半分を成し遂げた今、残るのは、執行権力(大統領、政府)を最も単純な形に還元し、これを孤立させて、ここに破壊力を集中することだという展望を示す。
(中略)
『ブリュメール18日』は、したがって、二月革命と第二共和政の分析と革命の展望の点で興味深いだけではない。歴史の進展の中で予想外の要素が発現して、自分が構築した理論が脅かされる事態となり、これと対峙することを余儀なくされた著者の格闘の記録としても読めるのだ。

僕としては、こっちのほうが理解しやすいです。


ただ、柄谷行人は、『ブリュメール18日』はつぎのように読むべきだ、と語ります。

その意味では、本書は『ブリュメール18日』本文と柄谷行人の読み方の二部構成になっているといえます。

なので柄谷行人の「読み方」については、エントリも別立てにすることにします。
(つづく) 




こちらが柄谷行人の解説付きの平凡社ライブラリー




下が筑摩書房版、これには経済学批判要綱「序説」「資本制生産に先行する諸形態」/経済学批判「序言」/資本論第一巻初版第一章もあわせて収録されています。

 

この本は、当時の経緯を比較的詳しく書いてあるとともに、読み物としても面白いです。

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【再掲】グルーポンのおせち問題を契機に景品表示法をおさらいしてみる

2011-01-14 | 法律・裁判・弁護士

1/7のエントリが途中で切れてしまっていたので(...みたいなさん、ご指摘ありがとうございます)加筆して再掲します。
その後の動きはあまりフォローしていないですし、当初の気合がなくなって尻切れトンボのエントリになってしまっているかもしれませんのであらかじめお詫びしておきます。

*************************
 
遅ればせながらグルーポン・外食文化研究所(バードカフェ)のおせち問題について。 

グルーポンはお詫びをサイトに載せていますが、ちょっとピントが外れているような気がします。  


バードカフェ「謹製おせち」についてのお詫びとご報告  

3.原因および問題認識について  
本クーポンによりお客様がご購入された当該商品の提供元について、その品質管理、製造管理、配送管理などにおいて、十分適切であることを見極め切れませんでした。  
ご購入者様からのご苦情、お問い合わせなどに対応する窓口が弊社ホームページ経由のメールのみであったため、事態の把握と対応にタイムラグを生じさせてしまいました。  

4.今後の対策について  
クーポン商品の提供会社に対する事前審査を厳格化いたします。  
クーポンご購入者様からの専用お問い合わせ窓口を設置いたします。  
お客様、加盟店舗様に一層安心して弊社サイト「GROUPON」をご利用頂けるよう、社内教育の更なる拡充並びに業務管理体制の強化を図ってまいります。


ちゃんと出品者を管理しなかったのがいけない、というのはその通りですが、管理責任だけとも読めます。 
商品の品質についてはそうなのかもしれませんが、グルーポンのサイトには  


「横浜の人気レストラン厳選食材を使ったお節33品・3段・7寸(4人分)」(定価2万1000円)を、半額の1万500円で販売するとして、商品の見本写真を掲載。  


していたようです(参照)。  
そうなると、「半額」という広告表示が景品表示法で禁止されている二重価格表示の問題になるのではないかと思います。  

景品表示法第4条第1項ではつぎのように規定しています。  


事業者は,自己の供給する商品又は役務の取引について,次の各号に掲げる表示をしてはならない。 
1 (略)  
2 商品又は役務の価格その他の取引条件について,実際のもの又は当該事業者と競争関係にある他の事業者に係るものよりも取引の相手方に著しく有利であると一般消費者に誤認されるため,不当に顧客を誘引し,公正な競争を阻害するおそれがあると認められる表示


この規定については公正取引委員会から不当な価格表示についての景品表示法上の考え方というガイドラインが出されていますので、以下それを見ていきます。  


2 本考え方の適用範囲 
(1) 本考え方の対象となる価格表示本考え方は,製造業者,卸売業者,小売業者,通信販売業者,輸入代理店,サービス業者等,事業者の事業形態を問わず,事業者が,一般消費者に対して商品又は役務を供給する際に行う価格表示のすべてを対象としている。  


僕はグルーポンは利用したことはないのですが、グルーポンのサイトの「使い方」をみると、クーポンを販売して料金を徴収する主体はグルーポンのようなので、グルーポン上の価格表示についてはグルーポン自体も景表法の適用対象になると思われます。  

つぎに「二重価格表示」とは何かですが  


第4 二重価格表示について
1 二重価格表示についての基本的考え方  
(1) 同一ではない商品の価格を比較対照価格に用いて表示を行う場合 

ア 同一ではない商品の価格との二重価格表示が行われる場合には,販売価格と比較対照価格との価格差については,商品の品質等の違いも反映されているため,二重価格表示で示された価格差のみをもって販売価格の安さを評価することが難しく,一般消費者に販売価格が安いとの誤認を与え,不当表示に該当するおそれがある。  
 なお,同一ではない商品との二重価格表示であっても,一の事業者が実際に販売している二つの異なる商品について現在の販売価格を比較することは,通常,景品表示法上問題となるものではない。  

イ 商品の同一性は,銘柄,品質,規格等からみて同一とみられるか否かにより判断される。   

(2) 比較対照価格に用いる価格について実際と異なる表示やあいまいな表示を行う場合  

 二重価格表示が行われる場合には,比較対照価格として,過去の販売価格,希望小売価格,競争事業者の販売価格等多様なものが用いられている。  
 これらの比較対照価格については,事実に基づいて表示する必要があり,比較対照価格に用いる価格が虚偽のものである場合には,一般消費者に販売価格が安いとの誤認を与え,不当表示に該当するおそれがある。  
 また,過去の販売価格や競争事業者の販売価格等でそれ自体は根拠のある価格を比較対照価格に用いる場合でも,当該価格がどのような内容の価格であるかを正確に表示する必要があり,比較対照価格に用いる価格についてあいまいな表示を行う場合には,一般消費者に販売価格が安いとの誤認を与え,不当表示に該当するおそれがある。


要するに、比較がきちんと可能で、比較対照となる販売価格が事実であることが求められています。 
そして、具体例としてこのように解説されています。

2 過去の販売価格等を比較対照価格とする二重価格表示について 
(1) 基本的考え方 
ア 過去の販売価格を比較対照価格とする二重価格表示 
(ア) 景品表示法上の考え方 
a(省略) 
b 過去の販売価格を比較対照価格とする二重価格表示が行われる場合に,比較対照価格がどのような価格であるか具体的に表示されていないときは,一般消費者は,通常,同一の商品が当該価格でセール前の相当期間販売されており,セール期間中において販売価格が当該値下げ分だけ安くなっていると認識するものと考えられる。
 このため,過去の販売価格を比較対照価格とする二重価格表示を行う場合に,同一の商品について最近相当期間にわたって販売されていた価格とはいえない価格を比較対照価格に用いるときは,当該価格がいつの時点でどの程度の期間販売されていた価格であるか等その内容を正確に表示しない限り,一般消費者に販売価格が安いとの誤認を与え,不当表示に該当するおそれがある。

ところが、グルーポンまるで残飯なおせちの外食文化研究所水口社長にインタビューしてみましたによると

-グルーポン側からは、反響の規模がどのくらいになるか等アドバイスはなかったのでしょうか?

水口氏
グルーポンからは一切そのようなアドバイスはありませんでした。
おせち料理の販売自体グルーポン上でも初の試みで、
グルーポンへおせちの販売をしたいとお願いしたところ、
かなり乗り気で対応して頂き、私共も反響に浮足立ってしまった事が大きな反省点です。
(太字筆者)

と、そもそもおせち料理の販売自体が初めてだったようです。

そうだとすると、定価21,000円ってなんだったんだという話になります。
また、景品表示法上も「比較対照すべき過去の販売価格」自体がない(ちなみにガイドライン上は「過去の販売価格」二週間以上の販売実績がないといけない)ので完全にアウトのように思われます。

しかも、このインタビューがグルーポン側も外食文化研究所がおせちを売るのが初めてというのを承知していたとのことです。

そもそも共同購入サイトは「定価の○割引」というのがウリにもかかわらず、その定価が根拠がないというのはビジネスの信頼性に関わると思うのですが、そのへん反応が鈍いように思います。

このあたり、中古バイクの買取オークションにおけるバイク王と系列会社の談合(擬似入札)と同根だと思うんですけど、両者ともに「これはまずい!」という真剣な反応が見られないのは多少のクレームはおいといても消費者の支持がある(または「値段で釣れる奴はいくらでもいる」)という自信なんでしょうか。




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『ヤギと男と男と壁と』

2011-01-13 | キネマ
予告編をアメリカの映画ランキング番組かどこかで見てジョージ・クルーニー, ユアン・マクレガー, ケヴィン・スペイシー(と山羊)というキャスティングだけでも見ようと思ったのですが、TVCMでお笑いタレントが「僕がタイトルをつけました」とかってやっていたので、へそ曲がりとしては見る気をなくしていた映画。


超能力部隊の存在を小耳に挟んだジャーナリスト(ユアン・マクレガー)が、偶然知り合った元隊員とともにイラク戦争で活躍する部隊の謎を暴きに行くという、実在した(らしい)米軍の超能力部隊を題材にしたコメディです。

超能力を持った兵士が「ジェダイの戦士」と言われて、そのジェダイ計画をユアン・マクレガーがフムフムと聞くというなど悪ふざけ炸裂で、ほとんどオヤジギャグのようなセリフまで、登場人物が皆真剣なだけに笑えます(僕の見落とした部分も数多いかと)。

UFO研究伝説のある空軍基地エリア51など、米軍って本当にそういうことをやりそうだ、という印象を背景に、そして「生身の超能力者」を兵士にするとどういうことが起きるかを妙なリアリティをもって描くことで、反戦というよりむしろ軍隊組織への批判になっています。

派手な立ち回りもなく、今ひとつしまらないまま話は進むのですが、ジェダイの人生だってそんなもんさ、という肩の力の抜けたところが味わいの映画でもあります。








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春日電機元社長逮捕―やっぱり事前に洩れるんですね

2011-01-12 | よしなしごと
今日の午前10時過ぎから
「春日電機元社長逮捕へ」
から
「春日電機元社長逮捕」
と矢継ぎ早にニュースが出ました。
やはりこういう情報は事前に漏れるんですね。それとも警察再度からリークするんでしょうか?

元社長の篠原猛氏はいろんなところに顔を出しているので、警察としては「資金の流れの全容の解明」から芋蔓を狙っているのでしょうか。
昨年10月の強制捜査から結構時間が空いたのは、立件に時間がかかったのか、いろいろ出てきたのかどっちなんでしょうか?
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春日電機(の元社長)に動きが?

2011-01-12 | よしなしごと

10日のアクセス数が跳ね上がっていて、何かと思ったらほとんどが「春日電機」でも検索でした。

検索されてから自分で調べるのも間抜けなのですがググッてみても、昨年12月10日の TweetBuzz - 「春日電機前社長宅など強制調査」 News i - TBSの動画 ...

春日電機前社長宅など強制調査 東証2部に上場していた産業機器メーカー「春日電機」の前の社長が、社長を務めていた別の会社の内部情報をもとにインサイダー取引を行った疑いが強まり、証券取引等監視委員会は10日、関係先の強制調査を行いました。 証券取引法違反の疑いで強制調査を受けたのは、「春日電機」の前の社長の自宅など関係先数か所です。 関係者によりますと、前の社長ら3人は4年前、自分が社長を務めていた情報システム会社の内部情報などをもとに、この会社を含む複数の会社の株を売買してインサイダー取引を行った疑いがもた・・・

というくらいしかヒットしません。

このブログでは昨年10月に警視庁が特別背任で家宅捜索したまでしかフォローしていないのですが、このときも新聞発表の2日前にアクセスが急増しているので、また何かあるのかもしれません。

何かあるといっても、春日電機でなく元社長の篠原氏の方でしょうけど。

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