一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

民主党300議席超

2009-08-31 | まつりごと
こうなってみると「勝ち過ぎ」とか言う声が出てきそうですが、選挙の結果なのでがんばってもらいましょう。


来年の参議院選挙までに「お、(意外と)しっかりしてるじゃないか」と思われれば細川内閣や村山内閣のように三日天下にはならずに済むだろうし、3~4年ふんばれば、自民党の従来の糧道も細るし、官僚も適応してくるでしょうから。

個人的にはマニフェストを金科玉条にして政策決定が硬直的になるよりは、現実的な政策運営を期待したいと思います。
まずは、妙な人を閣僚にしないことが大事ですね。


一方で自民党は落選した議員だけでなく議員がかかえていた秘書などの関係者が一斉に失業するわけですが、野に下ったときの身の処し方も将来に向けては大事だと思います。(企業などに陰に日向に面倒見ろ、と言ってくる人は多そうですけど・・・)


これからしばらくは、いろんな立場の人々に、懐の深さや辛抱強さ、視野の広さと先を読む力が求められると思います。


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『世襲議員のからくり』

2009-08-29 | 乱読日記
上杉隆氏の週刊文春の連載に加筆したもの。

世襲議員は政治活動において、資金面や後援会組織作りに関し、一般の候補と比べて極めて有利になるしくみがあることを指摘した本です。


かいつまんで言えば、

政治家個人の持つの政治資金管理団体間の寄付は非課税であり、親政治家の政治資金管理団体が子政治家の政治資金管理団体に無税で寄付をすることで、政治活動資金をそっくり「相続」できる。

また実質親政治家のみを支持する「政治団体」が支持対象を子政治家に変更すれば、その政治団体の資金は子政治家が(当然無税で)引き継ぐこともできる。

さらには、親政治家が党の支部長だったり党の支部に影響力を持っていると、党の支部からの資金(これはもともとは政党助成金という国費)を子政治家に有利に配分することもできる。

また、後援会組織(=地盤)も親のものを引き継げるため、政治活動においても有利であり、逆に、後援会組織が自らの利権維持のために、親政治家が引退・死亡した後に、同じ苗字の(時には同じ苗字であるというだけで)子政治家を担ぎ上げる、ということもある。

ということ。


カネの流れを分かりやすくしよう、ということで政治資金管理団体などの制度が導入されたわけですが、「本丸」はもう少し奥にあったわけです。


あわせて文芸春秋9月号(既に在庫はないかもしれませんが)の「鳩山由紀夫「個人資産86億円」のルーツ/佐野眞一&特別取材班」は各論としての鳩山一族(兄弟)の政治資金の原資についての分析も参考になると思います。

この文芸春秋には「自民党政治はいつ終わったのか/中曽根康弘×渡辺恒雄」という対談が載っていて、こちらもけっこう面白いです。


ちなみに、本書に、新人記者時代の渡辺恒雄が鳩山御殿に出入りして鳩山一郎に近づくために、他の記者たちとともに孫の由紀夫・邦夫の「馬」となって鳩山御殿の庭で四つんばいで競争していた、というエピソードがあります。



曽祖父で帝国議会最初の選挙に出馬し、衆議院議長までつとめた鳩山和夫以来4代にわたり政治家を続けてきた鳩山家と、オーナーでもないのにずっと「主筆」を維持し今や政界のフィクサーのナベツネ氏、良くも悪くも現在の日本の政治の象徴ではあります。




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昭和の事件、平成の事件。

2009-08-28 | よしなしごと

「酒井法子容疑者」に関する報道はよく連日ネタが尽きないものだと思いながら、反面「押尾学容疑者」の事件の報道が(こちらは人が死んでいるにもかかわらず)やけに少ない方が気になります。

改めて聞きかじりの知識で比較してみると、それぞれの事件は「昭和」と「平成」を象徴しているように思います。

昭和の「アイドル歌手」の最後を飾る時期にデビューした酒井法子と、バブル崩壊後にデビューした押尾学。

複雑な家庭事情を抱えた酒井法子と、帰国子女・サッカー留学という経歴の押尾学。
(「苦労」は昭和のキーワード)

「清純派」の酒井法子と「オレ様」度の高い押尾学。

御曹司と結婚した酒井法子と旬の芸能人と結婚した押尾学
(しかも旦那の実家は"Ski Shop JIRO"。「スキー」も昭和の流行ですね)

使った薬が酒井法子は覚せい剤という戦時中の「ヒロポン」の流れをくむ伝統的なものなのに対して、押尾学はMDMAという80年代後半から流行したもの。

酒井法子は「建設業者」に「箱根の別荘」にかくまわれていたのに対して、押尾学は「起業家」に「六本木ヒルズ」の部屋をあてがわれていた。

周辺の関係者も、サンミュージックの二代目社長とか知り合いの芸能人で、どちらかというとテレビに出たがる人が多いのに対し、押尾学の関係者(スポンサー・遊び仲間etc)と噂される人々はそもそもマスコミより自分の方が上だと思っているのか表に出てこない。

そう考えると、ワイドショーっていまだに昭和の価値観で描いたストーリーを伝えてるだけなのかもしれませんね。

当世風な押尾学の事件に切り込むには力量不足だったり下手をするとテレビ局としての限界が露呈すると自ら承知しているので、安心して話題にできる酒井容疑者に集中しているということなのかもしれません。

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岩手・三陸フリーきっぷの旅(その3)

2009-08-27 | うろうろ歩き

翌日は、1日3往復しかない岩泉線に乗り継ぐために昨日よりも更に早起きして、6時35分宮古発の列車に乗ります。

宮古駅につくと、駅の向こうに何やら巨大な煙突が。



駅員さんに聞くと、「ラサ工業」の工場の煙突だとのこと。

位置関係としてはこんな感じ

余談ですが、この「ラサ工業」という会社を調べてみたらけっこうトリビアな社名の由来でした。

当社の社名は、90年以上遡る明治40年(1907年)に何の変哲も ない南海の 無人島であったラサ島でリン鉱石を採掘したことに 由来します。 ラサ島 は、北緯24度27分57秒、東経131度11分23秒。 沖縄本島、那覇市から東 南約408Kmに位置し、周囲約4.5Km余り、珊瑚礁に囲まれ蛤に似た形を しており、 明治33年に日本の領土であることを正式に表明してからは、 公式には「沖大東島」と称されます。 一般には「ラサ島」という通称で呼ばれるこの島が、時代の 脚光を浴び るようになったのは、創業者であり、当時農商務省 肥料砿物調査所初代 所長を務めた恒藤規隆らの不屈の探検によるリン鉱石の発見から始まり ました。 以来、ラサ島は肥料の原料となるリン鉱石の国内唯一の産出地 として、 往時には2千人の在島者を数え、戦前の農業生産上の 重要な拠点となっ ていました。 現在は無人島ですが、わが国領海の 基点として、今も重要な位置を占め ています。
同社のサイトから)

現在は環境工作機械や工業薬品を製造する会社になっています。

昨日の釜石も江戸時代に発見された鉱山から官営製鉄所に発展し、民間企業となって戦後の高度成長を担ったわけですが、鉄道路線もそれらの工業資源の採掘・輸送を目的に敷設され、高度成長期が終わり円の価値が高まり輸入材料に押されるようになるとその生産地とともに鉄道も運命を共にする、ということを象徴するような昨日今日の行程であります。


さて、宮古駅から山田線を盛岡方面に4駅目の茂市駅で7時1分発の岩泉線に乗換え。


乗客は6名ほど。


岩泉線は国道340号線と川に沿って進みます。






山に差し掛かるにつれ、線路は林の中を走るところも多く、いい雰囲気が出てきます。



ただ、それぞれの駅の周りには集落があって、完全な過疎地というわけではありません。

途中駅で乗ってくる人も何人かいます。
岩泉には高校もあるので、生徒達も乗ってきます。



(「危険です」と言われても、1日に3本しかない列車だと駆け込みたくもなるでしょう。)




「秘境駅」として有名な押角駅




『鉄子の旅』(今回の行き先決定や旅程を組むのにも参考にしました。)でも取り上げられていましたが、駅の前後には列車からも人家がパラパラと見え、思ったほど「山の中の隔絶した駅」という感じではありませんでした。
確かに駅には道路が接道していなくて、木の橋で小川を渡ってたどりつく、というアプローチは、駅に降り立つと隔絶感を感じるかもしれません。
そして、押角駅を撮影する定番とも言える峠の上から駅を俯瞰した写真だと、ホントに森の中にポツンとある感じがします。(Google画像検索「押角駅」を参照。このアングルを見つけた人は確かにすばらしいと思います。)


押角駅を出ると、押角峠を抜けるために大小のトンネルをくぐります。



(この写真は今回の旅行で一番のお気に入り)



そして1時間弱で終点の岩泉駅に到着。


ここから龍泉洞まで3kmほど歩きます。
駅から龍泉洞に行こうという人は僕だけでした。
他に駅に降りた人は、町営バスや迎えの車に乗ってそれぞれの目的地に行く地元の人と輪行(自転車を列車に持ち込んで駅からツーリングに行く)の人、そして、乗ってきた列車でとんぼ返りをする「テツ」1名。

岩泉線自体は寂れていますが、岩泉町自体は日本3大鍾乳洞と言われる龍泉洞などの観光や、林業(山を見ると伐採が計画的に行われています。儲かっているかはわかりませんが。)、それに岩手短角牛の中でも高級と言われる岩泉短角牛の産地として元気なようです。

さすがに歩いてはいけなかったのですが、「道の駅いわいずみ」の近くにはふれあいランド岩泉というオートキャンプもできるキャンプ場や楽天イーグルス岩泉球場などもあり、けっこう楽しめそうです。
また、短角牛についてはやまけんの出張食い倒れ日記「岩手県のプレミアム短角牛生産地 岩泉に行ってきた!」をご参照。既に高級食材として人気のようです。





途中の田んぼで実った稲を眺めたりしつつ龍泉洞に到着。



こちらは国指定の天然記念物だけあって、きちんと駐車場やトイレ・周辺・休憩施設なども整備されています。

昨日の滝観洞と違い、遊歩道もきちんと整備されていて、ヘルメットなどは不要です。





今は、パナソニックとタイアップして、LED照明でライトアップされています。
(広告写真でも使われていますね)





ちょっと演出過剰の観が無きにしも非ず。



ここの見所は3箇所の地底湖。
特に第二湖は透明度41.5m、水深120mでエメラルドグリーンに輝いているので有名です。




ここはLEDの演出はなく、白色光だけで地底湖の自然の輝きを楽しめます。



せっかくなので、昼食は「短角牛のタタキ定食」




東京でも食べてみたいけど、高いんだろうなぁ・・・



龍泉洞からはJRバスで盛岡へ。

龍泉洞の観光客向けの直通バスだと思っていたら、路線バス。
実際途中で地元の人が7~8人乗り降りしました。

太平洋に面した小本から岩泉を通って盛岡まで通じる小本街道を走ります。
路線バスなので、国道から脇道(旧道)に入った集落のバス停をとおります。

途中けっこうな規模の集落があり、小学校や中学校もいくつかあります。

もともと小本街道は塩の道として三陸海岸と北上盆地を結ぶ主要な街道だったらしく、歴史的には鉄道よりも古いわけですし、今では牧場なども多く(畜産試験場があるくらい)、岩泉線から見る風景よりも活力があります。

物流や人の流れは時代によって変わるわけで、鉄道、特にローカル線だけを見ていてノスタルジーにひたっていると見落とすものもありますね。

また、早坂高原岩洞湖(がんどうこ)など、雰囲気のある場所もあります。
東京からは遠いけど、別の機会に来てみたいと心にメモ。

(この道路やダムなどの整備は小沢一郎の(父親の代からの?)功績と考えると、また別の切り口の話になりますが、それは別の機会に)



バスに1時間半ほどゆられると、盛岡のある北上盆地が見えてきます。





二時間強で盛岡駅に到着。

これであとは新幹線に乗るだけです。


1時間ほど余裕があったので、旅行の〆にぴょんぴょん舎駅前店で盛岡冷麺をいただきました。
(今や東京にも出店しているのですが、やはり盛岡冷麺の老舗ということで。)



 



 (おわり)

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岩手・三陸フリーきっぷの旅(その2)

2009-08-26 | うろうろ歩き

本八戸を早朝に出発し、八戸線で三陸海岸沿いに下ります。

しばらく行くと「鮫」という駅があります。

昨日の屋台村のおばちゃんの話では、昔(漁業中心の頃?)は鮫のほうが八戸より栄えていたが、だんだん八戸の方に中心が移って来たのだとか。

確かに漁港としては太平洋にすぐのいいところにあります。

そういえば昔、実家が鮫で風呂屋をやってる、という人がいたけど、これもおばちゃん曰く、「昔は町内にひとつ風呂屋があったからねぇ」ということで、それだけじゃわからんそうです。
港町だからね・・・


車窓からは、港の突端の小高い丘に神社が見えます。
 


蕪島神社といって、ウミネコの繁殖地として天然記念物の指定をうけているとか。
「島?」と思うと、列車が進むにつれ、こんな姿が見えます。

 


多分満潮時には島になるのでしょう。 


八戸線は本数も少なく、観光路線として売り込む気もなさそうなので、全体的にレトロな雰囲気がしてていいです。


こんな感じで貨物車両(郵便車?)を再利用した駅舎なんかもあったりします。 


途中で岩手県に入ります。

僕の乗っている列車にも、すれ違った列車にも制服姿の高校生が乗っていたんだけど、越境して通ってるのでしょうか(他県の県立高校への越境ってできるのかな?)



久慈駅で八戸線は終わり。

ここから第三セクターの三陸鉄道北リアス線になります。




いきなりベタなシャレで出迎えてくれるのがちょっと嬉しい。

こちらも、「9時6分久慈発に乗るんですが」などと親父ギャグで返したくなるものの、心のうちにとどめました。


でも、このカラーリングはちょっと工夫したほうがいいような。




車内にはいって最初はなんだか分からなかったのですが、席に座って下から見上げてはじめて「ホタテと網なんだ」と気がつきました。

そうとわかってみれば、風情があります。


何はともあれ、この路線は景色がご馳走。

リアス式海岸




 

とはいえ海岸線をずっと走れるわけではなく、トンネルも多いので、ずっとこんな景色というわけではありません。
ただ、名所になると列車を止めて、観光案内の車内アナウンスが流れるというサービスをしてくれます。さすが観光路線。

長いトンネルだと、中が涼しいので窓が曇ります。
これだけでもちょっとした納涼気分。






これは列車の再利用ながら用途不明。
水門の監視小屋?


列車は宮古から山田線にはいります。





申し訳ないが、知りませんでした。
海岸沿いにあればインパクトあってもと有名になっていたと思うので、ちょっと残念です。



シャッターを切り損ねてしまった「吉里吉里」駅。
井上ひさしの小説を知っている人も少なくなったかもしれません。

名前はここから取ったようですが、小説の舞台は山の方。


列車は釜石から南リアス線にはいって盛(さかり)まで行くのですが、僕はここで降りて釜石線に乗り換えます。





外見は地味ですが、中はこのとおり非常にきれいです。




ワンマン運転も可能なように、入り口に整理券発行機があります。
運賃表示板など、路線バスと同じシステムが取り入れられてます。

空調完備の代わりに窓が開かないのが写真撮影にはちょとマイナス。


釜石線は釜石から遠野を通って花巻までの路線。
だんだん山を登っていきます。





陸中大橋駅(ここは釜石鉱山の積み出し駅として栄えていたたそうです)を出ると、オメガ・ループと呼ばれるループ状のトンネルにかかります。


ホームの先がすぐトンネルの入り口です。

このトンネルは、仙人峠という難所をクリアするために掘られたもので、トンネルが「Ω」状に180度ぐるっと回っています。
(Google Mapだとこんな感じ
鉱山の積み出しから、東西をつなぐ交通にと鉄道の役割が変わっていったんですね。



そして、トンネルを出ると、はるか下に今来た線路が見えます。





このあといくつかトンネルを抜けると、次の駅「上有住」(かみありす)につきます。



(予告編の写真がここです)

降りたのは僕一人。(もともと乗客が8人くらいでしたが) 


ここには「滝観洞」(ろうかんどう)という奥に鍾乳洞の中の滝としては落差日本一(やけに細かいカテゴリですが)の滝があります。





昭和のテイスト。

ただ、観光名所としては有名らしく、自動車で何組か訪れる人がいました。


入り口でヘルメットと雨具の上着を貸してくれます。
運動靴でない人には長靴も貸してくれます。





洞内は通路が狭く、特に高さがないので腰をかがめて通らなければいけないところが多いので、ヘルメットは絶対に必要です。
気をつけていてもけっこう何度もぶつかりました。
また、洞内は上から水が落ちて来るうえに8℃と寒いので、雨具も必要です。
そして、下もけっこう滑りやすく、水たまりもあるので、長靴の貸し出しももっともです(トレッキングシューズを履いていても1回滑ってびびった)





通路もこんな感じでけっこう強引に作ってます。


中間地点くらいにある「小滝」。





表示に「(女滝)」とありますが、奥の滝は「男滝」とは言わないので、なんかメタフォリカルなネーミングなのでしょうか。
(こういうライティングがしてあって、私がストロボをたいたわけではありません。)



入り口から800mほどいったところに、「洞内落差日本一」の「天の岩戸の滝」があります。




写真では分かりにくいのですが、上のずっと高い天蓋のようになっているところから落ちてくる滝は迫力があります。

携帯で動画を撮ってみました。画面は小さいですが雰囲気の一端は分かるかと思います。(最後に右にパンしたところに見える明かりが、ここに至る通路というかとても低い「隙間」のような場所です)





滝を出ると13時半頃。
帰りの列車は16時なので、それまで売店のおじさんたちと一緒にテレビで花巻東vs中京大中京の甲子園準決勝をテレビ観戦。

釜石線の終着駅が花巻なだけに応援に力も入ります。

テレビを見だしたときに、ちょうど花巻東がスクイズ失敗の併殺になってしまったところでした、菊池君も故障で、これでもかというくらい追加点をきっちり取ってくる中京大中京(8点差くらいからスクイズをしてきたのは圧巻)に大して一度も流れをつかめないまま負けてしまいました。

途中から仕事そっちのけで応援していた店の人たちはとても残念がっていました(まあ、もとからお客さんはパラパラという感じなので)。


上有住をあとにして、釜石を経由して宮古まで戻ります。


ちょうど地元の高校の下校時刻にあたったので、列車はけっこう混んできました。
(座席はいっぱいで、何人か立っている!)





釜石線は朝夕中心のダイヤなのですが、山田線は1時間に1本走っているペースです。

スケジュールを立てて動けば、これでも生活には十分だよなぁ。


夜は宮古泊。

これもホテルの人のお勧めの店に。

最初に生牡蠣
(ちょっとピンぼけ)




それにウニ定食



陰に隠れてますが、毛蟹とかにミソもあり、右手前はイクラです

ウニはこの迫力





いや、満腹満腹。

(その3に続く)





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岩手・三陸フリーきっぷの旅(その1)

2009-08-25 | うろうろ歩き

昨日の予告編(?)についで本編です。

今回お世話になったのがこれ


今回は
東北新幹線で八戸へ、八戸から八戸線→北リアス鉄道→山田線→釜石線→(もう一度宮古に戻って)→山田線→岩泉線→バスで盛岡→東北新幹線
というルートでした。

きっぷの二重線の部分はJRバスを表していて、これもフリーきっぷで乗れるのですが、バスに乗れることに気がついたので今回の旅程がやっと組めました。
(僕は「鉄道しか乗らない」とか駅泊するまで根性入ってないので・・・)


夕方の新幹線で八戸に。
八戸市の中心街は八戸線で2駅の本八戸にあるので、最終に間に合うように。

昔懐かしいディーゼル車です。


中は扇風機



落書きも時代を感じさせます。


電車(電気モーター)に比べると、内燃機関は低回転時のトルクが小さいので、どうしても発信時は苦しそうです。
小海線のハイブリッド・ディーゼルカーというのがどんなものなのか、興味がわきます。


とりあえず本八戸までたどりつくも、中心部はそこから徒歩で10分くらいのところにあり、街頭しか明かりのない暗い道を歩いて行くと(旅行者は八戸の駅前に宿を取るか、八戸からタクシーに乗るらしい)いきなり繁華街に出ます。

土曜ということもあり、けっこうにぎやか。
若い人が多いです。

ホテルの人のお勧めで、「みろく横丁」という、屋台(といっても固定の給排水設備がある)が20軒以上あるところに行きます。




ほや。
殻を割って身をそのまま出してくれます。



鯖を軽く燻製したもの。
これも美味。


日本酒は「菊駒」と「如空」をいただきました。
菊駒はすっきりと、如空はしっかりとしています。

ところで、銘柄の記憶が曖昧だったのでネットで調べてみると、実は菊駒と如空は因縁がったようです。


もともと、一方「菊駒」の商標と工場持つのは菊駒酒造店だったのですが、菊駒酒造店は酒造免許がなく、八戸酒類という会社が菊駒を製造・販売していました。で、による商標権をめぐる訴訟

どうしてこういうことになっていたかというと、八戸酒類は1944年、戦時下の企業整備令により三八地方(八戸市・三戸郡の総称)の造り酒屋を統合して設立され、五工場がそれぞれで「八鶴」「菊駒」「男山」などの銘柄を造ることとなり、その際、酒造権は八戸酒類に一本化。戦後、整備令が解除された後も、八戸酒類は統合したままの企業形態を維持していたのだそうです。

しかし近年になって、蔵元が八戸酒類からの独立分離を求める動きが起こり始め、菊駒酒造が商標権侵害の差し止めを求め、八戸酒類を提訴したのだそうです。

結局八戸酒類では「菊駒」銘柄で出荷できず五戸工場で造った酒を『如空』という銘柄に変更。一方で菊駒酒造店は、弘前市の白神酒造に「菊駒」を作らせているとか。
(以上、こちらこちら参照。)


なんか、市澤帆布みたいですね。


飲んでいるときはそんなこと知らずに両方とも美味しくいただきつつ、八戸の夜は更けていきました。



(話が脇道にそれて長くなってしまったので、続きは明日以降に。)

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岩手・三陸フリーきっぷ

2009-08-24 | うろうろ歩き

こんなところに来ています。
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もう一つの選挙

2009-08-22 | まつりごと

こういうニュースを見ると、民主党の(中の旧社会党の一派の)支持母体の一つである労働組合の頂点にある連合の会長の選定過程というのが、ほんとうに民主的なプロセスなのかと疑問に思ってしまいます。

次の連合会長に古賀事務局長を選任へ
(2009年8月21日(金)19:04 朝日新聞)

連合は21日、10月で2期4年の任期が満了する高木剛会長(65)の後任に、古賀伸明事務局長(57)を選任する方針を固めた。8月末に開かれる「役員推薦委員会」で推薦を決め、10月8、9日の定期大会で正式に選出する。  

古賀事務局長は、96年に松下電器産業労働組合委員長になり、産業別労組・電機連合委員長を経て、05年10月から連合事務局長を2期つとめている。主要産別労組幹部らでつくる役員推薦委員会で高木会長(UIゼンセン同盟出身)の後任人事の検討を続けてきた。

労働組合の存在自体は重要だと思いますし、そこでの代表者専任のプロセスは組合員の意思が(少なくとも一定程度は)反映していると思うのですが、その上位団体の階段を上っていくうちに、間接代表の間接代表の間接代表みたいになってしまって、上の人たちだけで決めている、というようになっているのではないか、という懸念です。

「8月末に開かれる「役員推薦委員会」で推薦を決め、10月8、9日の定期大会で正式に選出する。」というものの、推薦委員会の前に推薦者が内定していているあたりは、中国の全人代とか経団連と似たような感じがします。
そして幹部が幹部(または組合組織)のためだけの組合運営を続けると、UAW(全米自動車労組)のように、肉をほしさに卵を産む鶏を殺してしまうようなことにもなりかねません。

自分達の国政運営を委ねる代表を選ぼう、というのが総選挙なのですが、連合に加盟している個々の労働組合の組合員にとって、連合会長は自分達の代表、という実感はどこまであるのでしょうか。


まあ、そうは言いながらも、個人的には、今回の選挙で民主党が一度政権を取ってみたほうがいいのではないかと思ってます。

というのは、マニフェストの優劣云々でなく、従来は自民党以外に政権を担える政党がない、という理由で現在の自民党が成り立っていた部分も大きいと思うので、政権の経験のない民主党でもそこそこの政権運営ができるということになるのではないかと思うからです。

今の議員をみると、当選しやすいという理由で立候補政党を選んでいる(これはじみんとうだけでなく前回や今回の民主党ブームのときに立候補した人なんかも含めて)、主義主張より「勝ち馬に乗る」判断が優先しているように思うので、この辺でそろそろ政権政党は批判票でなく政策で選ばれる、という方向に本気でなっていってもいいんじゃないかと。


 

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水分補給

2009-08-21 | まつりごと

はからずも熱中症対策の反面教師としてPR効果はあったと思います。

立ちくらみの与謝野氏「水を飲まず不注意だった」
(2009年8月20日(木)18:43 朝日新聞)

衆院選公示の18日、出陣式で立ちくらみをおこした自民前職で財務相の与謝野馨氏(70)=東京1区=が20日、東京都新宿区の事務所で記者会見し、「水を飲まなかった。自分の不注意で、医師からは水分と栄養をとっていればいいと言われた」などと説明した。

これからは街頭演説にペットボトルは欠かせませんね。
でも、石原都知事が「ミネラルウォーターでなく水道水を飲め!」って起こるかもしれません。(参考「東京水 安全でおいしい水プロジェクト」

確かに水道水のまずさは家庭側の配管(マンションの水槽から長い配管を毛輸したりすると特に)に原因があるようですから。
このへん、経済対策のはずが途中で役所の経常的支出や外郭団体にかじられてしまったり、受益者の範囲が曖昧なために必要なところに行き渡らなかったりするところと似ています。

次の内閣ではどなたが財務大臣になるかはわかりませんが、景気対策の「真水」は切らさないように願いたいものです。

 

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民主党の本気度

2009-08-20 | まつりごと
やっと総選挙が公示され、選挙運動ができることになりました(今までの「政治活動」とどう違うんだ、などという突っ込みはKYなんでしょうか)。


政権交代の追い風に乗っていると言われている民主党ですが、選挙区選挙で予想以上に勝利した場合、名簿下位にいる比例単独候補者も当選する可能性があります。
そのときに名簿下位だからといって員数合わせに適当な人を入れていると「なんでこんな奴が?」という批判を浴びることになりかねません。
郵政選挙の時のタイゾー君とか、前の民主党ブームの時の参院選のさくらパパとかは話題になりましたね。


今回民主党は大勝を予想して比例区の候補も多めに立てたようですが、いくら優勢とはいえ名簿下位だと当選の確率は低いわけで、現職の地方議員などが辞職をして立候補するにはリスクがあり、候補者集めには苦労したのではないかと思います。

結果、現職国会議員の秘書など「落選しても今まで通り面倒見てやるよ」という人が多いのではないか、またはひょっとしてやはりトンデモ君がまぎれこんでやしないかと民主党のホームベージを見たのですが(こちら)、なんと比例単独候補のプロフィールは表示されません。

それだけギリギリまで候補者集めに苦労したか、自薦他薦が殺到してもめたのでしょうか。
ちょっと段取りが悪いように思います。

一方で自民党は候補者全員のプロフィールやHPへのリンクも貼ってあります。

こちらは比例単独候補者を絞った(猪口氏のように名簿の順位が低いからと辞退した人もいますが)のでやりやすかったのかもしれません。


民主党が完勝する気なら、こういう所って大事なように思うのですが・・・
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『響きあう脳と身体』

2009-08-19 | 乱読日記

武術研究家の甲野善紀氏と脳科学者の茂木健一郎氏の対談本。

甲野善紀氏は講演も数多くしているためか話もなかなかわかりやすく、甲野氏の話を茂木氏が合いの手を入れながら引き出すという形で進行します。

脳が身体の使い方をどう生かし、またどう阻害しているか、それら協働したり相反したりするアタマとカラダにどのようにして向かい合えばいいのかということを中心にして話が進みますが、示唆に富む話が多いです。

(甲野)
 ・・・現代ではほとんど誤解されていますが、もともとの、日本の武術における型稽古の優れたところは、「つい動いてしまう」とか、「普通にやっていると動きやすい」動きをあえて不自由に制限することによって、日常から飛躍した、レベルの高い動きを、本人が発見できるように組まれていたと思うのです。
 しかし現在は、型って、ある形を真似して、それを反復練習することによって、その動きをスムーズに自動化していくためのものだと考えている人が多いんですね。・・・
 型稽古は、実は大変奥が深いんですよ。日常的な動きを完全に封じてしまうと稽古していく手がかりがありませんから、とりあえず型を真似する中で、うまく日常的な動きから断絶した世界をかいま見せ、そこへ飛躍させるように稽古する者を導くように構造化されている。つまり、「できること」をいかに否定して、次の段階に飛躍させるかという教育的な方法論が、一つの知恵として「型」に結実していたと思うのです。

仕事におけるOJTも「慣れさせる」だけではだめですし、実はトレーニングしている方も単に惰性に流れて「動きやすい動き」をしているだけで、それを「型」と言っているだけかもしれないなぁとちょっと自省。

(甲野)
・・・武術は、その起源は、「相手への対応」をどうするか、ということにつきます。・・・たとえば仕事をする中ではいろんな人に会うでしょうし、その中には論理的に片付くこともあれば、論理じゃないところでぱっと切り替えて対応しなければいけない場面も必ず出てきます。
 つまり話がこみいってきたときに、その人の何気ない態度を含めた対応いかんで状況ががらっと変わるということがあるわけです。特に謝罪のときなどはその人の、人としての力量が最も問われるときです。・・・いじけもせずに、ふてくされもせずに、率直にそのまま謝るというのは、よほどセンスがよくないとできない。

組織の中だけで偉くなると、このスキルはだんだん衰えますね。なので企業不祥事におけるトップの対応が問題になることが多いのでしょう。

その「楽しないでやっていける」ということがひとつの体力であり、その体力のもとになっているのが、枯れることのない探究心なんじゃないでしょうか。何かの趣味をやっていたけど飽きちゃったというのは、それがその人の根元的なところに結びついていなかったということなんだと思います。

ふと、勝間和代さんの「効率化しよう」「パフォーマンスを上げよう」という数多くの著作を出し続ける動機の根っこはこんなところにあるんじゃなかろうかと思いました。


でも、手応えがあるというのはダメだと私は思っているんですね。まあ、「手応え」という言葉をどういう意味で使うか、という問題もありますが、具体的な身体感覚で「手応え」と言ったとき、そういう手応えがある動きというのはある部分をすごく使っているということである場合が多いですから。むしろ手応えが感じられないような身体の使い方であればあるほど、技は有効だといえる。・・・汗水たらしてよいしょ、よいしょ、という感じの身体の使い方は、どう考えても局所的な、効率の悪いからだの使い方をしている、ということです。

先日2週間ぶりにスポーツジムに行ったところ、マシンジムで鍛えている筋肉は、屋久島で山登りやシーカヤックをしたときに使う筋肉は別のところなんだな、と改めて思いました。
山登りにしても素人が無駄の多い体の動かし方をしていたのでしょうが、普段鍛えている(=強い)部分を使って合理的な動きをする、ということもできたはず(かもしれない)です。
マシンジムで鍛えても、鍛えた筋肉の使い方を具体的な動作レベルに落とさないと意味がないなぁと実感しました。(ひょっとすると無駄ない動きをするときにすら使わない部分を鍛えているのかもしれません・・・)

 

 

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マイホームと借家の長短(あの世編)

2009-08-18 | よしなしごと

故人もこういうところで遺族に感謝されれば本望かもしれません。

故M・モンローの「上」隣の墓が競売に、2億円超の入札も
(2009年8月17日(月)18:55 ロイター)  

ロサンゼルスにある故マリリン・モンローさんの墓の上隣の区画がオークションサイトのイーベイに出品され、16日までに250万ドル(約2億4000万円)の入札があった。  

出品者はこの墓に眠る実業家だった男性の妻で、子どもたちのためにビバリーヒルズの家の住宅ローンを完済するのが目的。亡くなった夫は1954年に、野球選手でモンローさんの元夫のジョー・ディマジオ氏からこの墓を買い取ったという。

確かに寺社の敷地の一部を永代供養料を払って使用するというのでなく、区画された土地の所有権と考えれば、転売も自由ですね。

そうすると、墓地ごとに固定資産税とかかかるのでしょうか。
固定資産税を滞納すると差し押さえられちゃう?「墓地路線価」とかがあって、有名人の近くの区画は高かったりして、などとそれはそれでけっこう面倒なのかもしれません。
また、境界でもめたり、「お前のとこの墓石が越境してるぞ!」とかいう争いも起きるのでしょうかね。



でも考えてみれば、日本の「永代供養料」という仕組みの方が特殊なのかもしれません。
永代供養料の中身は墓地使用+お彼岸などの供養+通路の整備などの管理ということなんだと思いますが、墓地使用というのは「期限の定めのない墓地利用を目的とする使用貸借」だけど民法上は死者は契約当事者にはならないので、親族が契約当事者になって、そのために誰もお参りしなくなって親族とも連絡が取れなくなった無縁仏は契約終了ということになるのでしょうか。

また、「墓地の整備が悪い」とか、ちゃんと「(合同でも)供養してないじゃないか」となると寺側の債務不履行になるはずですが、永代供養契約の寺側の債務の内容ははっきりしていないですね。

そう考えるとこっちのほうがレアな存在かもしれません。

ところで消費者契約法では

第二条 この法律において「消費者」とは、個人(事業として又は事業のために契約の当事者となる場合におけるものを除く。)をいう。
2 この法律において「事業者」とは、法人その他の団体及び事業として又は事業のために契約の当事者となる場合における個人をいう。
3 この法律において「消費者契約」とは、消費者と事業者との間で締結される契約をいう。

とあるので、法人(=宗教法人との契約を含む)と個人の契約は営利目的でなくても消費者契約法の適用対象になるので、「永代供養契約」にも消費者契約法の適用があると思います。

そうすると、重要事項についての誤認や不利益事実の不告知は取り消しの対象になります。
たとえば「永代供養料っていってもお布施を払わないと合同供養もしないなんて効いてないぞ」などということですね。

今後少子化が進むとけっこう問題になってくるかもしれませんね。




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NHKスペシャル ドラマ「気骨の判決」

2009-08-17 | よしなしごと
戦時中の翼賛選挙を無効とした大審院の裁判官を主人公にしたドラマでした。
「監査法人」と同じNHK名古屋の製作ですが、NHK名古屋はドラマのスタッフが充実しているのでしょうか。


ただ、残念ながら、法務大臣や大審院長が判事にこんなに露骨に圧力をかけるのかよ、とか、大審院判事だったら移動は車だろうとか、ちょっと主人公の吉田判事を「庶民感覚を持った正義漢」に仕立て上げすぎな感じがして、あらすじ以上の共感はできませんでした。
(NHKなのでしっかり時代考証はしているので僕の思い込みかもしれませんけど。)


この番組は、終戦記念日をターゲットに製作したものだと思いますが、総選挙に当たったために、結果的には「一票の格差」についての最高裁のスタンスを想起させる結果になったかもしれません。

一票の格差については「一人一票実現国民会議」という団体が「各界の有識者」を中心に設立されたと新聞に出ていました。

新聞に写真が載っていた(おそらく主導的な立場にいる)方もかなりキャラクターが濃いですし、発起人のメンバーも、個性豊かというかなんというか微妙な集合体になっています。

僕も一票の格差については是正すべきだと思いますし、最高裁の「事情判決」ももはや妥当ではないと思いますが、この面々に「国民会議」を名乗られるのも、正直ちょっと抵抗があります。


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『同日同刻―太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日』

2009-08-16 | 乱読日記

山田風太郎の本。

戦争当時医学生であった本人の日記をまとめた『戦中派不戦日記』『戦中派虫けら日記』はボリュームがあったのでまずはこちらから。

サブタイトルのとおり、開戦の昭和16年12月8日と終戦までの昭和20年8月1日から20日までの間に、日本や米英で起こった出来事を、著書やエッセイ、記録などを丹念に整理して時系列でまとめたものです。 素材の選択と整理の仕方が非常に上手く、そのときのそれぞれの立場の人々の考えや行動を活写しています。

開戦の日は、日本中のほとんどの人が高揚感に包まれていたことが鮮やかに描きだされます。
特に作家に日記を数多く引用して、終戦時(そして暗黙裡に戦後の発言とも)と対比させる作者の視線は冷徹でもあります。
(話がそれますが、そのなかで谷崎潤一郎は一貫して自身の著作とどういう美味しいものを食べたかを中心に日記を書き連ねていて印象的です。)

最後の15日間は、広島に原爆が投下された8月6日と、ソ連参戦・長崎への原爆投下・終戦の「ご聖断」が下った御前会議(会議は深夜にわたり、「ご聖断」は翌日2時30分だったそうです)があった8月9日が白眉です。
ちょうどこの日、徳川夢声が日記に書いたつぎの句が印象的に引用されています。

日の盛り鍋に焼かるる胡瓜あり



そして8月10日から15日までの間は、「ご聖断」が徐々に新聞記者や軍関係者から一般人にまで伝わり、また海外放送で意向を伝えたことから米軍の前線までにも伝わった中で、降伏条件の細部をめぐっての調整が続きます。
戦争は止めるまでにも手続がかかるわけで、その間も前線での戦闘や空襲は続き、犠牲者が出ます。
このへんは個人的にも残念だったところです(参照)。


終戦の詔勅が出てからの特に軍人の身の処し方・振る舞いについてはいろいろなところで語られていますが、考えさせられたのがつぎの二人。

大分の第五航空艦隊司令長官の宇垣纏は、自ら爆撃機に乗り沖縄の米軍に特攻をかけます(結果3機は不時着、6機は撃墜)。

あとに残された宇垣中将の「抱夢征空」と書かれた色紙には、「海軍大将宇垣纏」と署名してあった。戦死すれば当然一階級昇進するはずだという気持だったのであろう。

このように作者にも皮肉を言われていますが、そもそも戦闘終結の命令が下ったにもかかわらずそれを無視して特攻をかけたものが、軍隊の慣例に基づいて処遇されると当然に思っているところが、日本軍の上級将校に共通する精神構造だったのかもしれません。

宇垣中将が飛行場に行くと、5機と指示していたのに「長官が特攻をかけられるというのに、たった5機で出すという法がありますか。私の隊は前機でお供します」という爆撃隊長の言で9機が離陸の準備をしていたそうです。
自発的に「お供します」といった人はいいとして、そもそも戦争が終結した後に特攻するのに自分以外の部下にも命令しているこち自体勘違いもはなはだしいです。


でも、考えてみれば、現在の組織においても、独断や専横をする人ほど、自分は組織のためにやっているのだから、独断(ルール違反)を理由に処分されるはずがない(うまく行ったら当然二厚遇されるはずだ)と思い込んでいる人が多いし、組織の側も甘い対応をすることがまま見られるので、これは日本軍に限ったことではないかもしれません。


もう一人は陸軍第六航空軍司令官の菅原道大中将。

 しかし、みずから特攻隊を叱咤して送り出しながら最後に至って死に場所を捨てた指揮官もあった。
 福岡にある陸軍第六航空軍司令部にも、第百一特攻隊員がおしかけた。
「お願いに参りました。今から特攻に出してください」
「行軍に降伏はない。戦陣訓はどうなりますか」
「菅原軍司令官閣下は、特攻出撃のたびに、後に続く者を信じてゆけ、といわれたではありませんか」
(中略)
 ついに午後八時、鈴木大佐は軍司令官室に入っていった。
「軍司令官閣下も御決心なさるべきかと思います。重爆一機、爆装して出撃の準備をいたしました。鈴木もお供をいたします」
 菅原道大中将は当惑した表情になり、やがて陰々といった。
「死ぬばかりが責任を果たすことではない。また玉音を拝聴した上は、余はもう一人の兵も殺すわけにはゆかない」

著者には否定的に書かれていますし、終戦時までの菅原中将の言行や考えがわからないので、発言が責任感からきたのか、怯惰から来たのはわかりませんが、「玉音を拝聴した上は、余はもう一人の兵も殺すわけにはゆかない」というのは、正しい判断だと思います。
この発言自体を否定してしまうと、ではどうすればよかったのか、ということになってしまいます。

確かに司令官としての自分個人の責任は示す、というやり方はあったかもしれませんし、部隊に特攻を命ぜられた時点で、身を処しかたかを考えておくべきだったかもしれませんが。

特攻の発案者でフィリピンで多数の特攻隊を送り出した、大西滝次郎海軍軍令部次長は、8月16日未明に割腹自殺をしたことがこれと対比された言及されていますが、一方で本書でも8月10日の天皇の「ご聖断」が軍部に伝わった部分で

この日、大西軍令部次長は、富岡作戦部長に「天皇といえども時に暗愚の場合なきにしもあらず」とさけんだ。

ということなので、自殺自体も必ずしも特攻隊員に対する責任感はなく、自分の思いが遂げられなかったことへの絶望がまさっていたようにも思います。



敗戦、という究極の状況で人間がどのような行動をしたか(そして、自分ならどうしただろうか)について考えさせられる本です。


 

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『ノモンハンの夏』

2009-08-15 | 乱読日記

屋久島で昼食に入った店で書棚にあった郷土史をパラパラとめくってました。
集落ごとの「出征兵士一覧」まで書いてあり、その中には関東軍に配属されノモンハン事件を生き延びた人の手記などもあり、国家の動員力のすごさをあらためて感じました。

ということで、帰ってきてから半藤一利氏の『ノモンハンの夏』を一気読み。

ノモンハン事件は、満州国とソ連・モンゴルの国境紛争に端を発したものが、それぞれ師団単位の戦力をつぎ込む大規模な戦闘に発展し、日本軍がロシア軍に惨敗して多数の犠牲者を出した事件(双方宣戦布告をしていないので「戦争」ではない)です。

日本軍は出動人員15,975人中の損耗(戦死傷病)率76%と第二次世界大戦を通じても最大級の苛酷な戦闘でした。(ちなみにガダルカナル会戦の死傷率は34%だそうです)


紛争終結後、スターリンに日本軍について問われたソ連のジューコフ将軍の

「日本軍の下士官は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」

というセリフも有名です。


本書はその「高級将校の無能」に焦点をあてています。

英米との決定的な対決を避けようとする外務省や海軍(や天皇)に対して、対ソ戦争を主眼に置き、独伊との三国同盟の締結を主張する陸軍の立場が、参謀本部の関東軍暴走を止めなかった。
日露戦争の敗戦を教訓に徹底的な装備の近代化と戦術の見直しを行ったソ連軍に対し、日本軍は日露戦争の勝利におごり、そこからの教訓を生かさなかった。
その結果、ソ連軍の戦力や戦術、補給能力を把握せずに戦闘に突入し、緒戦から終始劣勢のまま勝ち目のない戦闘を続けた。
そもそも陸軍への評価制度が「撤退」に関して非常に厳しくなっており、上官ほど前進・攻撃命令を下すインセンティブが働いていた。
参謀本部も関東軍の参謀も陸軍大学卒のエリートであり、年次の上下や同期の遠慮などもあり戦線の建て直しや終結も後手に回った。

というあたりを厳しく明らかにします。
(さらに事件を主導した関東軍参謀辻政信中佐の特異な性格とその暴走を許した関東軍作戦課長の服部大佐などについては個人的にも厳しく指弾してもいます。)


終戦の日の前後にかけて、戦争の特集がなされていますが、その多くが戦争の悲惨さや、なぜ戦争に突き進んだのか、なぜ負けたのか、ということをテーマにしています。
ただここで一度

どうすればあの戦争に勝てたのか

ということを検証して見る必要はないでしょうか。

結果的にはみると「勝てっこなかった」ということは明らかなように思いますが、そうであったとしても

・戦争の目的はなんだったのか
・その目的の達成はどのようにして可能だと判断したのか
・そのために戦闘と・外交努力をどのようにミックスして行動しようとしたのか
・その分析は正しかったのか
・分析が誤っていたとしたら、どのようにすればよかったのか
・何をやっても「八方塞り」だったとしても、そこで戦争に打って出る目的は何か。
→上に戻る

というあたりを、冷静に再検証してみる必要があると思います。

結局軍事力というのは、国家と国民の平和と安全と繁栄を維持するための一つの経営資源なわけで、それは外交や経済力とあわせて使わないと意味がないし、そこを「軍部の暴走」のせいにだけにしてしまうといけないと思います(一部の悪い人間がどうした、というのではなく「統帥権の独立」「天皇を輔弼する」という軍隊の性格・国家の統治体制の設計自体が歪みがあったわけですから)。

そうやって考えていうと、自衛隊の位置づけとか文民統制のあり方とか給油活動とか外交(特に対米対中)とか経済政策(米国債購入とかFTAとか)の議論にも示唆になるところがあるように思います。




(*) 陸軍が日露戦争の戦史を編纂していたとき、高級指揮官の少なからぬものが次のような指摘をしていたそうですが、それは戦史には載らず、戦術や教則にも生かされませんでした。

「日本兵は戦争においては実はあまり精神力が強くない特性を持っている。しかし、このことを戦史に書き残すことは弊害がある。ゆえに戦史はきれい事のみを書きしるし、精神力の強かった面を強調し、その事を将来軍隊教育にあって強く要求することが肝要である」

結局その「きれいごと」を自らも信じ込み、「必勝の敢闘精神」ですべて補えると思い込んだ結果が大きな悲劇を招いたわけです。
(これは企業や個人にも言えますね、自戒、自戒)


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