一寸の虫に五寸釘

だから一言余計なんだって・・・

年末のおまけ

2010-12-30 | ネタ

28日で御用納めしたつもりだったのですが、友人と忘年会で「1970年代しばり」カラオケをしていて、即興で歌った替え歌がウケたので調子に乗ってupします。

中島みゆき「化粧」から

化粧なんて どうでもいいと思ってきたけれど
せめて 今期だけでも きれいになりたい

今期は あたしは IPOするから
最後の最後に IPOするから

あたしが出した 伝票の束を返してよ
誰かと 二人で 読むのは やめてよ
放り出せない秘密を 胸に抱えたら
見慣れた夜道も 走って帰る

流れるな cash 準備金でとまれ
流れるな 裏帳簿 監査報告が出るまで

バカだね バカだね バカだね あたし
(おカネに)愛してほしいと 思ったなんて
バカだね バカだね バカのくせに
(おカネに)愛してもらえるつもりでいたなんて


化粧なんて どうでもいいと思ってきたけれど
来期死んでも いいから きれいになりたい
こんなことなら あいつに乗っときゃよかったと
最後の最後に あんたに 思われたい

流れるな cash 準備金でとまれ
流れるな 裏帳簿 監査報告が出るまで

バカだね バカだね バカだね あたし
(お金に)愛してほしいと 思ったなんて
バカだね バカだね バカのくせに
(お金に)愛してもらえるつもりでいたなんて


一同これが冗談で済むことをありがたく思った年の瀬でした。


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今年もお世話になりました

2010-12-28 | よしなしごと
仕事同様ブログも今日で御用納めにいたします。


今年も場末のブログをご訪問いただきありがとうございました。
ちょっとした気分転換のネタを提供できていたら幸いです。


今年はTwitterをはじめてみたものの、職場のIT環境や自分のワークスタイルとの関係で、自分にフィットした使いこなしかたを確立できずに今に至っております。

一方でブログとの棲み分けを考えて、ブログはちょっと長めのちゃんとしたことを書こうと思ったのですが、そのためかえって筆が重くなってしまいました。
突っ込んで書きたい気持ちとネタ元への配慮のバランスで中途半端なエントリが増えてしまったかもしれません。


「下手な考え休むに似たり」という今年の反省をもとに、来年は

  「あまり深く考えずに書く」

というコンセプトで行こうかと思ってます。
(今年だって考えてなかったじゃないか、というお叱りは甘んじて受けますm(_ _)m)



それやこれやで来年も適当にやっていきますので、よろしくお付き合いくださいますようよろしくお願い申し上げます。

叱咤激励もお待ちしております。



では皆様、よいお年を!


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『THIS IS IT』

2010-12-27 | キネマ
クリスマスの時期にはなんとなく昔が懐かしくなるものです。

マイケル・ジャクソンがソロ活動でメガヒットを連発していた頃ちょうど大学生だった身には、芸能ニュースで「奇行」ばかり報じられていたマイケルが痛ましい限りだったのですが、この映画では、彼は、演出、振り付け、編曲などにもすべてに目を配りながら、自らも50歳という年齢を感じさせないパフォーマンスをするまさに"King of PoP"であることを見事に伝えています。

懐かしいヒット曲の数々、そしてジャクソン・ファイブのメドレーから"I'll be there"のあたりで、涙腺が緩んでしまいました。

途中で気が付いたのですが、曲名紹介のテロップも歌詞も(当然訳詩も)字幕で一切出ないので映像と音楽に集中できます(サブ・メニューではあったのかもしれませんが)。
昔、レコード盤に附属の歌詞を読んで何度も聴いた曲は忘れないものですね。


マイケルはコンサートを待たずに急逝するのですが、50歳と言う年齢を考えたとき、観終わったあと急に素に戻ってビジネスと重ね合わせてしまいました。


たとえて言うならかなり大きくなった会社におけるオーナー社長主導のM&Aなどの一大ディール。

カリスマであり自らもプレイヤーとして優秀であるだけでなく細部まで目が届く社長がいて、社員も社長と仕事ができることを心から喜び、専門家スタッフもも最高のパフォーマンスを提供するためにベストを尽くす、というのであれば理想ですね。

ただ現実は、社長も年齢を重ね社業も拡大すると細部にまで眼が届かなくなり、でも気合だけは十分、かたや創業期には社長にものの言えた幹部や中間管理職がいなくなり社長の言うことが無批判に下まで降りてきて現場が混乱したり、社長お抱えのコンサルと社員の距離感があったり、成功報酬にインセンティブを持った「アドバイザー」がいたりして、社長にはいい情報しかあがらずに判断の間違いを正す機会もないまま「ディールを成立させること」だけが自己目的化することがままあります。

マイケルのコンサートも実際はいろいろ問題はあったんじゃなかったかと思うのですが、それでもやり遂げてしまうのが本当のカリスマなんでしょう。
そしてトップがカリスマにふさわしい能力を持っていなかったときの悲劇がまま起きるというのも現実であります。


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Merry Christmas !

2010-12-24 | よしなしごと


今年も拙ブログをご愛顧いただきありがとうございました。


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歳末法務事情

2010-12-23 | 法律・裁判・弁護士
昨日は地元の飲み屋に年末の挨拶がてら顔出しに。
最後の店で日も変わりかけたのでそろそろ帰ろうかというときに、地元在住の弁護士が登場。

年末になって手間ばかりかかる仕事が入ってとぶつぶつ。

(その1)

クライアントの会社の社長の娘(20代前半独身)が付き合っている相手の男(40台半ば)の妻から損害賠償請求を起こされた。
そりゃ自分の旦那に文句を言えよと僕などは個人的には思うのだが、判例では浮気の相手方に損害賠償責任が認められている。

相手が浮気をした場合に男は相手の女を責めるが女は浮気相手の女を責めるというが、日本の判例にしては珍しく女性目線。

ただ最近は、婚姻関係が破綻している場合は不法行為は成立しないという判例も出たとか。

ちょうど昨日はタレント大桃美代子(45)から、前夫のAPF通信社代表の山路徹氏(49)と「不倫していた」とツイッターでつぶやかれたタレント麻木久仁子(48)が22日、都内で会見を行った。なんてことがあったらしく、店のおかみさんや残った客と盛り上がる。
これだって、芸能人だからということもあるんだろうけど、本来は旦那のほうが釈明べきだと思うんだが。

裁判所も犬も食わない夫婦間の争いについて不法行為の成立(故意または過失により他人の権利を侵害したか否か)を判断しなければならないというのもお気の毒なことではあるし、弁護士としても(少なくともその人は)あまり関わりたくない分野。。
しかもこの妻は怒鳴り込み方も尋常でなく要求も巨額だそうで、示談交渉するにしろ訴訟で争うにしろ疲れることになりそうだとか。

ところでこの依頼を受けたとき、アシスタントに判例のリサーチを頼んだら、「前に調べたことあるんですよね」と即座に詳細な資料が出てきたとか。
彼は一度も頼んだことがないのに何でこんなの調べてたんだよ、とのど元まで出かかったが、怖くて聞けず、という笑えないオチまでついた。



(その2)

年末ぎりぎりになって、クライアント企業が東京地裁立川支部で訴訟を起こされた。
義務履行地だか不法行為の場所が多摩地区だったからだが、クライアントも弁護士も都心にいる。
嫌がらせか、とおもって原告の代理人の住所を見たら、これも都心の事務所。

民事訴訟の管轄は①被告の居住地、②義務履行地、③金銭支払の決済場所、④営業所に関する訴えの場合の当該営業所、⑤不法行為地、⑥不動産の所在地etc.なので東京で訴えればお互いに楽なのにと相手の弁護士に文句を言ったら、成りたての弁護士にボスが丸投げをしていたらしく「知りませんでした」という返事に脱力。
(これはビジネス実務法務3級程度の知識なので僕も知っているんだけど・・・)

今後こういう要領の悪い連中が相手方に立って手続き面での手間に付き合わされることを考えると(訴訟としては相手が間抜けなのは有利なのかもしれないが)暗くなる。



などと、一気に話すので、帰るきっかけを失い、結局1時過ぎまで付き合わされてしまいました(笑)


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映画『ノルウェイの森』を観ようかどうしようか

2010-12-19 | よしなしごと
映画が始まったので、本棚の奥から取り出して斜め読み。

そういえば、登場人物の一人小林緑が豊島区北大塚の本屋の娘という設定で、最初に読んだときもそこがひっかかった記憶があります。
「大塚駅の近く」都電を降りてからの道順からはどう考えても僕の生まれ育った家の近くなんですが、(当たり前の話ですが)1970年頃北大塚にあった本屋のどこにも該当しない(当時は立ち読みにそれほどうるさくなかったので、目をつけられない程度に近所の本屋をローテーションしていたのでその点については自信ありw)のです。
右に曲がる角のガソリンスタンドってどこだ、とか、で都電を降りて大通りを10分歩いたら北大塚を超えてしまうだろ、とかえらくわき道に入った覚えがあります。


映画の監督はトライ・アン・ユン監督。
『夏至』を観たことがありますが、静かな映像美を得意とする監督のようです。
(主人公の三姉妹が、料理に使うために鶏の羽をむしるシーンが妙にエロティシズムが漂っていて印象に残っています。)


主人公は登場人物や世の中との間に「薄皮一枚」の微妙な距離があり、そのために主人公の葛藤も綺麗な世界の中にい続けるように見えるので、小説を読んでいてもちょっといらついたりするんですが、映画も「悩みを抱えた男女のエロティックな関係」を綺麗な映像で無難にまとめたものにとどまってしまう恐れもあると思います(そのほうが興行的にはいいと思うけど)。

ラストシーンのレイコさんとの関係をどう描くのかが個人的にはポイントかと思います(そう考えると上の比喩は下品かもしれないけどある意味象徴的かもしれないなぁと思ったりして)。


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『職業としての政治』

2010-12-14 | 乱読日記

仙石官房長官の「暴力装置」発言を契機にマックス・ヴェーバー『職業としての政治』を読んでみました。

これは第一次世界大戦直後、ミュンヘンの学生集会でおこなった講演なので、当時の時代背景を映しているとともに文章論理展開がつながって長いものになっています。
そのため以下引用が長くなりますが、私が下手なまとめをするよりはいいかと。
(以下強調の太字は原文(訳文)のルビ、斜体は私です)  

まずは「暴力装置」について

国家とは、ある一定の領域の内部で--この「領域」という点が特徴なのだが--正当な物理的暴力装置の独占を(実効的に)要求する人間共同体である、と。国家以外のすべての団体や個人に対しては、国家の側で許容した範囲内でしか、物理的暴力行使の権利が認められないということ、つまり国家が暴力行使への「権利」の唯一の源泉とみなされているということ、これは確かに現代に特有の問題である。  

このように「自衛隊という軍事組織を「暴力装置」と呼ぶこと自体は(受け止める側への配慮を除けば)政治学・社会学的には間違ってはいないのですが、問われているのは国家がその独占している暴力装置をどのように行使するかなわけです。  

なので、仙石発言については言葉遣いを云々するのでなく、「暴力装置」を使う側(日本では「文民統制」といいますね)としての現政権がいかに政治権力を適切に行使しているかを本来問題にすべきだったのでしょう。  


官僚と政治家の違いについては、こう述べています。

官吏である以上、「憤りも偏見もなく」職務を執行すべきである。闘争は、指導者であれその部下であれ、およそ政治家である以上、不断にそして必然的におこなわざるをえない。しかし官吏はこれに巻き込まれてはならない。党派性、闘争、激情--つまり憤りと偏見--これは政治家の、そしてとりわけ政治的指導者の本領だからである。政治的指導者の行為は、官吏とはまったく別の、それこそ正反対の責任の原則の下に立っている。官吏にとっては、自分の上級官庁が、--自分の意見に反して--自分には間違っていると思われる命令に固執する場合、この命令を、命令者の責任において誠実かつ正確に--あたかもその命令が彼自身の信念に合致しているかのように--執行できることが名誉である。このような最高の意味における倫理的規律と自己否定がなければ、全機構が崩壊してしまうであろう。これに反して、政治指導者、したがって国政指導者の名誉は、自分の行為の責任をまさに完全に自分一人で負うところにあり、この責任を拒否したり転嫁したりすることはできないし許されない。官吏としてきわめて優れた人間は、政治家に向かない人間、とくに政治的な意味で無責任な人間であり、この政治的無責任という意味では道徳的に劣った政治家である。  

ここの部分、特に誰が何に対して責任を負うかを整理すべきという視点は、民主党の「政治主導」、またはいわゆる「官僚支配」を議論する際に参考になりますね。

また、昨日今日話題になってる菅総理の「仮免許」発言などは「政治的な意味で無責任」以前の問題かと・・・  


そして、「暴力の行使」という特殊な手段が認められていることに、政治における倫理問題の難しさがある、と説きます。

 それでは、倫理と政治の本当の関係はどうなっているのか。時折り言われてきたように、この二つの間にはまったく関係がないのか。それとも逆に、政治的行為には、他のすべての行為の場合と同じ倫理が妥当すると見るのが正しいのか。この二つの主張の間には、よく、一方が正しいか、他方が正しいか、ようするに絶対的な二者択一の関係が存在すると信じられてきた。しかし、この世のある一つの倫理に基づいて立てられた掟は、恋愛、商売、家族、役所のどの関係についても、従って、細君、八百屋のおかみさん、息子、競争者、友人、被告の中の誰に対する関係についても内容的に同じだというのは果たして本当だろうか。政治が権力 --その背後には暴力が控えている--というきわめて特殊な手段を用いて運営されるという事実は、政治に対する倫理的要求にとって本当にどうでもよいことだろうか。
 [中略] 
 だがここで問題なのは手段である。高貴な究極の意図なら、彼らの攻撃する敵の方でも、主観的には完全な誠実さをもって、同じように主張している。まさに「剣をとる者は剣によって倒れる」であって、闘争はどこでおこなわれようと、しょせん闘争である。それでは--山上の垂訓の倫理ということになるのか。山上の垂訓--とは福音の絶対的倫理のことであるが--は、今日、この掟を好んで引用する人々の考えているより、もっと厳粛な問題である。それは笑いごとではないのである。科学における因果法則について、それは思うがままに停めて、自由に乗り降り出来るような辻馬車ではない、と言われてきたが、同じことは山上の垂訓についてもいえる。一切か無か。もし陳腐なものとは違った意味がそこから出てくるとすれば、これこそ垂訓の意味である。だからたとえば、富める若者は「この言葉を聞きて悲しみつつ去りぬ。大いなる資産を有(も)てる故なり」ということにもなったのである。福音の掟は無条件で曖昧さを許さない。汝の有(も)てるものを--そっくりそのまま--与えよ、である。それに対して政治家は言うであろう。福音の掟は、それが万人のよくなしうるところでない以上、社会的には無意味な要求である。だから課税、禁止的課税、没収--ようするに万人に対する強制と秩序が必要なのだ、と。しかし倫理的掟はそんなことを全く問題にしない。そこにこの掟の本質がある。つまりそこでは「汝のもう一つの頬も向けよ!」である。一体他人に殴る権利があるのか、こんなことは一切問わず、無条件に頬を向けるのである。これは聖人でもない限り屈辱の倫理である。人間は万事について、少なくとも意欲の上では聖人でなければならぬ、キリストのごとく、使途のごとく、聖フランチェスコのごとく生きねばならぬ。これが掟の意味である。これを貫きえたとき、この倫理は意味あるものとなり、〔屈辱ではなく〕品位の表現となる。そうでないときはである。なぜなら、無差別的な愛の倫理を貫いていけば、「悪しき者には抵抗(てむか)うな」となるが、政治家にはこれとは逆に、悪しき者には力もて抵抗(てむか)え、しからずんば汝は悪の支配の責めを負うにいたらん、という命題が妥当するからである。
 [中略]
ところが「結果」などおよそ問題にしないのが、この絶対的倫理である。
 ここに決定的な問題点がある。まずわらわれが銘記しなければならないのは、倫理的に方向づけられたすべての行為は、根本的に異なった二つの調停しがたく対立した準則の下に立ちうるということ、すなわち「心情的倫理的」に方向づけられている場合と、「責任倫理的」に方向づけられている場合があるということである。心情倫理は無責任で、責任倫理は心情欠くという意味ではない。もちろんそんなことを言っているのではない。しかし人が心情倫理の準則の下で行為する--宗教的に言えば「キリストは正しきをおこない、結果を神に委ね給う」--か、それとも、人は(予見しうる)結果の責任を負うべきだとする責任倫理の準則に従って行為するかは、底知れぬほど深い対立である。
 [中略] 
 しかしこれでまだ問題は終わっていない。この世のどんな倫理といえども次のような事実、すなわち、「善い」目的を達成するには、まず大抵は、道徳的に疑わしい手段、少なくとも危険な手段を用いなければならず、悪い副作用の可能性あるいは蓋然性まで覚悟してかからなければならないという事実、を回避するわけにはいかない。また、倫理的に善い目的は、どんな時に、どの程度まで、倫理的に危険な手段と副作用を「正当化」出来るかも、そこでは証明できない。
 [中略] 
 この目的による手段の正当化の問題にいたって、心情倫理も結局は挫折を免れないように思われる。実際、この心情倫理には--論理的につきつめれば--倫理的に危険な手段を用いる一切の行為を拒否するという道しか残されていない。論理上そうなのであって、もちろん現実の世界では、心情倫理家が突然、千年至福的預言者に早変わりするといった現象を、われわれは終始経験している。たとえば、今の今まで「暴力に対しても愛を」説いてきた人々が、次の瞬間には一転して暴力の行使--一切の暴力の絶滅状態をもたらすであろう最後の暴力の行使--を呼びかけるような場合がこれで、ドイツの将校が出撃のたびに、さあこれが最後の攻撃だ、これで勝利が来、ついで平和が来ると言ったのと似ている。心情倫理家はこの世の倫理的非合理性に耐えられない。彼は宇宙的=倫理的「合理主義者」である。諸君の中でドストエフスキーをご存知の方なら、この問題が適確に展開されている玲の大審問官の場面〔『カラマーゾフの兄弟』〕を覚えておられるであろう。心情倫理と責任倫理を妥協させることは不可能である。またかりに、われわれが目的は手段を神聖化するという原理一般をなんらかの形で認めたとしても、具体的にどのような目的が、どのような手段を神聖化できるか、を倫理的に決定することは不可能である。
 [中略]
人間団体に、正当な暴力行使という特殊な手段が握られているという事実、これが政治に関するすべての倫理問題をまさに特殊なものたらしめた条件なのである。
 人は誰でも、目的は何であれ、一度この手段と結託するや--政治家はすべてそうしている--この手段特有の結果に引き渡されてしまう。信仰の闘士--宗教上の闘士も、革命の闘士も--の場合は特にそうである。ここであえて現代を例にとって説明して見よう。暴力によってこの地上に絶対的正義を打ちたてようとする者は、部下という人間「装置」を必要とする。そのためには、この人間装置に、必要な内的・外的なプレミアム--あの世またはこの世の報償--を約束しなければならない。そうでないと機能しない。内的なプレミアムとは、現代の階級闘争という条件下では、憎悪と復讐欲、とりわけ怨恨と似非非倫理的な独善欲の満足、つまり敵を誹謗し異端者扱いしたいという彼らの欲求を満足させることである。一方、外的なプレミアムとは冒険、勝利、戦利品、権力、俸禄である。指導者が成功するかどうかは、ひとえにこの彼の装置が機能するかどうかにかかっている。従って指導者自身の動機ではなく、この装置の動機に、いいかえれば赤衛軍、スパイ、アジテーターなど、指導者が必要とする装置に、上に述べたようなプレミアムを永続的に与えることが出来るかどうかにかかっている。指導者がこのような活動の条件下で実際に何を達成出来るかは、彼の一存でいかず、その部下の倫理的に全く卑俗な行為動機によって最初から決まってしまっている。
 [中略]
--この点で丸めこまれるようなことがあってはならない、というのは、唯物論的な歴史解釈もまた、意のままに飛び乗れる辻馬車ではなく、革命の担い手の前で〔都合よく〕停まってはくれないからである。
 [中略]
 およそ政治をおこなおうとする者、特に職業としておこなおうとする者は、この倫理的パラドックスと、このパラドックスの圧力の下で自分自身がどうなりうるのかということに対する責任を、片時も忘れてはならない。  

「卑俗なプレミアム」といえば、それを与えることにたけていたのが小沢氏だと思います。
ただ彼はそれによって何を達成しようとしていたのか(はたまたそういうものがあったのか)が今問われているのでしょう。  



「暴力装置」という仙石発言に対しても、言葉狩りをするのではなく、「ではあなたはその暴力装置(自衛隊以外も含む)を行使するにあたり、政治家として何を倫理的な準則にしているのか」とすかさず問う野党やマスコミがいればかっこよかったんですけどね。

 


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『SR サイタマノラッパー』

2010-12-12 | キネマ
映画も面白かった上に個人的にもツボにはまりました。

埼玉県の田舎町を舞台に、ラッパーを目指す冴えない若者たちの奮闘を描いた青春映画。レコード屋もライブハウスもない田舎町で結成されたヒップホップグループ“SHO-GUNG”の仲間たち。彼らは地元の先輩たちの協力を得て初ライブを実現させようとするが・・・という話。

インディーズ映画として内外の賞をとり、単館上映としても各地で人気を博しただけあって、脚本はきっちり作りこまれています。

良くも悪くもエミネムの"8mile"と構成は通じるところがあり(というかヒット作の文法をオーソドックスに踏んでいる)、さらにそこに90年代のデトロイトでなく2000年代の日本のをうまく表現しています。

ツボにはまったのが舞台になった「埼玉の田舎町」。
映画では埼玉県深谷市がモデルの「フクヤ市」が舞台になっています。
深谷といえば僕の子供のころは「深谷ネギ」ぐらいが有名なだけだったのですが、埼玉といっても群馬に近く、東京への通勤は距離的には厳しいところです(各駅停車の多くが手前の籠原止まりだし)。
埼玉でも「さいたま市」の人は埼玉都民が多いのですが、メンタリティはかなり違うと思います。

母親が深谷のもうちょっと手前の熊谷の出身なのですが(昔話にご興味の方はこちらのエントリ参照)
、熊谷でも「東京に出る」という距離感がありました。大宮の次の新幹線停車駅なので神奈川だと小田原くらいの距離感ですね(もっとも熊谷在住の叔父は40年間東京に通勤してましたが)。
しかも絵的な問題もあるのでしょうが、駅のロケは深谷市でも深谷駅より群馬寄りの岡部駅を使っていて、いい感じでローカル感が出てます。
なので、続編
『SRサイタマノラッパー2 女子ラッパー☆傷だらけのライム』が群馬が舞台になっているのもわかる感じ。

埼玉県といっても浦和や大宮は開けているので、正確には「北埼玉のラッパー」ですね。


埼玉と群馬の県境は岡部の次の本庄と言う駅なのですが、映画を観て、本庄にいる親戚(遠縁にあたるのですが面倒くさいので以下伯父といいます)を思い出しました。
最初に伯父に会ったのは、僕が小学生のころで、いきなり病院への見舞いでした。
なにしろ地回りのチンピラと喧嘩になって怪我をしたとか。
そんな感じで親戚筋としては困った存在なのですが、商才もあり、仕事も奥さんの家業の食品店を手伝う傍ら脇で小料理屋をやり繁盛させていました。また、芸達者で商工会のカラオケ大会では上位入賞の常連だと自慢してました。
伯父は酒を飲むと東京で一旗あげるという話をしていたのですが、結局東京に進出することはなく、地元でそこそこの成功とそこそこのくすぶりをしながら、今は隠居しています。


映画に話を戻すと、飲食店経営よりはるかにハードルの高いラッパーとしてビッグになろうという若者の話なので当然そんなにうまく話は進まないわけですが、そこの等身大の描き方がいろんなシーンでニヤリとさせられます。
超低予算映画で、セリフなど音がこもって聞き辛い部分はご愛敬でしょう。
役者も素人っぽい演技ですがそれがラストシーンの感動を倍加させています。



エンディングをみて、この映画は池袋のシネマ・ロサがスポンサーになっていたと気がつきました。監督が江古田の日大芸術学部の出身だからかでしょうが、思い入れのある映画館です(シネマ・ロサの思い出はこちら参照)。

そんなこんなでとても楽しめました。


あ、そういう思い入れがなくても面白いですよ。



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『ストーリーとしての競争戦略』

2010-12-08 | 乱読日記
今住んでいる街は床屋がほとんどない代わりに美容院が乱立しているということもあり、引っ越してからはオジサンながら美容院に通っているのですが、そこで気が付いたのは、同じカットにしても床屋は切った直後の収まりが一番パリッとしていていいが、美容院は髪が伸びた後の収まりも考えてカットしているので長持ちするということ(その結果、通う頻度も少なくてすむので安上がりだったりします)。

経営書を読んだり、コンサルタントとか研修の講師の話を聞いても、今ひとつしっくりこないことは良くありますが、それは内容が「床屋の仕上がり」つまりある状況下での最適解なんだけど、状況の違いや変化に対応できなかったり(=髪の毛が伸びたあとのことは考えていない)、ひどいときには実践しようとしたとたんにハードルにぶち当たってしまう(=翌日自分で髪型のセットを再現が出来ない)からで、そういう話を読んだり聞いたりするたびに「そんなにうまくはいかないぜ」という感想を持ってしまいます。

本書は今まで論じられてきた競争戦略は「ベストプラクティス」だったり「アクションリスト」だったり「テンプレート」だったりひどいときには「ワンフレーズ」だったりという「静止画」(=床屋の仕上がり)だったがそれは有効ではなく、ストーリー(=「動画」)になっている必要がある、といいます。

これは実感できるところで、社長が語る経営方針とかが、あまりに抽象的だったり、単なる数値目標だったり、戦略でなく事業環境の分析だったり、挙句の果てには気合を入れるだけだったりすると、聞く方は眠気をこらえるのに精一杯、ということになりがちです。
逆にそれぞれの持ち場で何をやればいいかがわかるような訓辞は求心力ややる気を生みます。

本書では、静止画の競争戦略は「戦略」ですらないことを語った上で、競争戦略は「動画」である必要性があること、そしてよくできたストーリーをつくるコツを語ります。
その中でひと通りの経営理論の(限界についての)著者流のおさらいもできるのもお得感があります。


著者は、多少自嘲気味に「話が長いけど最後まで読んでください」と繰り返していますが、けっこう楽しく読めるのでオススメの本です。


PS
話が長かったり、語り口も( )を多用したりすぐわき道にそれるたり、同類のにおいを感じる部分も好印象に寄与していることを付け加えておきます。


PS2
昔大塚に住んでいた頃通っていた床屋には、地元のその筋の幹部の方も常連でいらっしゃる(なので奥に個室があった-いろんな意味で隔離する必要があったんでしょう-)のですが、その中に2週間に一度パンチパーマを巻きに来るとても身だしなみにこだわる方がいてとても困ったそうです。

こんな経営者、もけっこういるかもしれませんね。


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飛蝗

2010-12-07 | よしなしごと

オーストラリアで75年ぶりにバッタが大発生 農作物への被害拡大、深刻な事態に

ビックコミックに連載されていて映画化もされた『墨攻』(参照)に、墨家の中の「虫部隊」の話が出てきます。
彼らは飛蝗(=バッタ、漢字変換するとちゃんと出ます)敵国の植物を食い荒らす武器として使います。
バッタは密集して育つと「孤独相」から「群生相」に変化し、集団で移動し普段は食べない植物まで食べるようになるという性質を利用してそれを兵器として使っているわけです。
(詳しくはこちら参照)

 

上が孤独相、下が群生相。
群生相は見るからに凶暴そうです(バッタにも群集心理のようなものがあるのでしょうか)。


これは現代でもテロで生物兵器として使われると、上のオーストラリアだけでなく、アメリカなど広大な平野で大規模農業を行なっている国には相当な被害を与えることができるのではないかと思います。

テロ組織としても開発・調達コストがかからなそうなので、ひそかに研究している組織はあるかもしれませんね。
ただ、検疫があるので陸続きのところでないと巣箱を持ち込むところが難しいかも。


ちなみに生物兵器禁止条約(BWC)で禁止されている「生物・毒素兵器」の定義は

  • 防疫の目的、身体防護の目的その他の平和的目的による正当化ができない種類及び量の微生物剤その他の生物剤又はこのような種類及び量の毒素
  • 微生物剤その他の生物剤又は毒素を敵対目的のために又は武力紛争において使用するために設計された兵器、装置又は運搬手段(原料又は製法の如何を問わない)

となっていて(参照)、ウイルスや細菌のようなものを念頭においているようなのでバッタは条約上禁止されていないように読めますけど、実際のところどうなんでしょうか?


日本もいっそのこと食糧自給をあきらめて、そのかわり「禁輸措置をとったらバッタ放つぞ」と核弾道ミサイルを積んだ原子力潜水艦の変わりにバッタを養殖する貨物船を主要国の沿岸部の公海上に航海させておくというのはどうでしょうか。
(「生物兵器」でなくても「侵略兵器」だから憲法上ダメか・・・)

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Wikileaks

2010-12-06 | よしなしごと

最初の報道以降はWikileaksの是非や代表者のJulian Assange氏の追跡がメインになりつつある感があるが、そもそもWikileaksに掲載された情報が正確だというのはどうやって確認されているのだろうかというのをずっと疑問に思っている。  

熱心に調べたわけではないのだが、Wikileaks自身がどうしているか、Wikileaks(やガーディアン紙の)の情報をそのまま報道しているマスコミについてはWikileaksの情報の正確性の裏をどうとったかがよくわからない。  

また、Wikileaksが入手した情報をどのような基準で選別しているのかもわからない。
入手した情報の中で公表することが価値があると判断したものだけを報道するのが本来のジャーナリズムの姿だと思うし、それゆえに報道の自由とか国民・市民の知る権利を守ろうということになるはず。  

たまたまガーディアン紙のウェブサイトに、Julian Assange answers your questionsという記事が12/3にupされていた。
Qがいまいちだったり、Aに回答をしていないもののあるので今ひとつはっきりしないが、Wikileaks自体は内部告発・非公開情報を集めて公開することに重きを置いている感じがする。(Websiteを見ればわかるのかも。)
このへんとか

Q: Who can make such critical decisons, but the US gov't? As far as we know your request for such help was rejected by the State department. Also is there an order in the release of cable or are they randomly selected?

A: The cables we have release correspond to stories released by our main stream media partners and ourselves. They have been redacted by the journalists working on the stories, as these people must know the material well in order to write about it. The redactions are then reviewed by at least one other journalist or editor, and we review samples supplied by the other organisations to make sure the process is working.  

そうすると"our main stream media partners"の役目が重要になる。 
そこでそのまま報道したガーディアンとアメリカ政府に公表の是非の確認を取った(うえで独自に判断した)NYTの違いというのが出てくるのだろう。  


一方、日本のテレビなどは「ガーディアン紙によると」と、完全に二次(三次)伝達者モードなのが気になる。 
そんなことでWikileaksの是非とか「知る権利」を議論しても説得力があまりない。  


尖閣ビデオ問題のときもテレビ各局が繰り返し「国家機密」の映像を流すのは違和感があった。 
どうせやるなら、カットされた映像(抵抗をどう排除して逮捕した部分とか)を探し出すくらいのことはして欲しかった。 


検証するほどの調査能力がないのかもしれないが、情報を取り次いで配信するコストが安くなった現在、生き残るには調査・分析能力を磨かないと難しいと思うのだが。

それに、「孫引き」が万が一間違っていたときに、名誉毀損の民事訴訟においては「配信の抗弁」が当然には認められないというのがロス疑惑報道のときの最高裁の判断だったと思うので、生き残る前に躓かないためにも大事だと思う 。

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エビの尻尾切り?

2010-12-05 | よしなしごと
週末のテレビは市川海老蔵の事件でもちきりですが、実際には何が起こったのかということと本人の酒癖の悪さに関する証言のオンパレードになってます。

逆に言えば、TV局も個人のトラブルという線でまとめようとしているようです(「市川団十郎は気の毒」とか)。

ネットで見ると海老蔵本人も「俺は人間国宝になる男で国から2億円もらえる」というのが口癖だったとか(実際は人間国宝になっても年間200万円の助成金程度らしいですけど)。
そこから、歌舞伎は興行がほぼ松竹だけがやっていて、歌舞伎役者のほとんどは専属契約をしていたり、端役や裏方は松竹の社員なことや、襲名にあたっても世襲(または一族が引き継ぐ)のがほとんどのようですが、それでも国の重要無形文化財に指定されていて、人間国宝も多数出ているというブラックボックス感や利権の匂いに踏み込んでもよさそうですが、マスコミは「梨園」で片付けているのが多いですね。

このへん一連の相撲界の問題でも「国技でありながら」などといきり立った割には、部屋制度や親方株問題とかタニマチや相撲茶屋などには踏み込まずに、一部個人の不正・非行問題としてなんとなく収まった感じと似ています。

結局マスコミとしても、興行の世界とは共存共栄なので、現状のしくみを根底からひっくり返すような問題提起はできないのでしょう。

国技・重要無形文化財と興行の独占・世襲問題は単に「悪」というだけではなく、たとえば能、狂言、文楽などの従事する人が極めて少ない伝統芸能をどうするか、世襲でもしなければ後継が育たない(「5歳で初舞台」とか)のではないかという考え方もあります。
一方で、後継者育成への公的補助と世襲・家元制度が合わさると利権になりがちな部分もあります。

突っ込んでしまうとそのへんのややこしいところに対してスタンスを明確にしなければいけないから「個人の不祥事」として眼をつぶっているところもあるのかもしれませんけど、本当はそのへんをもっと議論すべきなんでしょうね。
これは文化助成の見直しとか事業仕分けにもからんでくる話だし。



世襲と言えば政治家もそうで、後援会の利権や政治団体の資金を無税で承継するために、ボンクラでもいいから世襲候補を立てる(たとえばバンソウコウ大臣なんていましたよね)というような力学が働くようで、これについては以前取り上げた上杉隆『世襲議員のからくり』のなかで詳しく説明されています。

ただ、議員の世襲の問題も、「問題だ」以上のつっこみがされてないのが現状ですね。



問題をより深く考えるためには、お世継ぎの皆様のよりいっそうの乱行・愚行が必要なのかもしれません。

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『レオニー』

2010-12-02 | キネマ
せこばいさんにコメント欄で教えてもらった『レオニー』を週末観てきました。

彫刻家イサムノグチの母親、レオニー・ギルモアの波乱に富む生涯を描いた映画です。
このブログを始めたあたりからイサム・ノグチに凝りだしていて、機会があれば美術館などを訪れています(たとえばこちら)。

母親のレオニーについてもドウス昌代『イサム・ノグチ―宿命の越境者』で詳しく取り上げられているので、時代背景を考えるとイサムノグチ以上にタフな人生を送った女性として印象に残っていました。

その波乱万丈ぶりは、まったく予備知識なしで映画見ると「作りすぎの話」に思えてしまいそうなので、興味がある方は公式サイトなどをご覧いただくといいかと思います。

俳優陣では、夫の野口米次郎を中村獅童が好演。明治時代の日本人の男でしかもアメリカで一旗上げるようなエゴの強い身勝手な野心家という役が良くも悪くもはまり役です。
レオニー役のエミリー・モーティマーも、レオニーの意志の強さや頑固さ(それも年をとって逆境を経るたびに強くなる)を好演しています。

 
ただ、残念なのが、2時間12分という長尺にかかわらず詰め込みすぎの感があること。
本人が波乱万丈の人生を送ったうえに、イサムノグチの子供時代に関するエピソード、それに当時の時代背景を盛り込んだ結果、筋をたどる方に力が入り、ストーリーにメリハリが欠けてしまったように思います。

あと細かいことを言うと、原田美枝子演じる津田梅子は岩倉使節団に随行して7歳のときに渡米し、米国人の家庭で育ったため英語が母国語同然になってしまって日本語のほうが不自由だったはずなので、ここは日本人顔で英語ネイティブな役者を持ってきたほうが良かったんじゃないでしょうか。



そうはいっても、明治時代にこういう人生を送っていた人々がいたということ自体インパクトのある映画なので、観て損はないと思います。


欲を言えば何回かのシリーズ物のテレビドラマになれば、個々のエピソードももっと深堀りが出来たんじゃないかなと思うので、映画がヒットしてドラマ化のスポンサーが付くことに期待したいと思います。

 





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いちごはどうする

2010-12-01 | M&A

前回のエントリに関連して。

FCレジデンシャル投資法人の投資主は、今回解散請求をしてきたエス・ジェイ・キャピタルが23%を保有しているのですが、筆頭投資主は29%を持っているいちごアセットです。
いちごアセットはFCレジデンシャル投資法人や運用会社ファンドクリエーション不動産投信と提携をしたうえで投資法人の第三者割当増資を受けて45%を握ろうとしたところ(参照)、エス・ジェイ・キャピタルの増資差し止め仮処分にあって断念したまま現在に至っています。  

そのいちごアセットですが、別のリートで動きが。 

いちごグループホールディングス株式会社:ジャパン・オフィス・アドバイザーズ株式会社の全株式取得(子会社化)に関するお知らせ  

ジャパン・オフィス投資法人の運用会社であるジャパン・オフィスアドバイザーズ株式会社の全株式をいちごトラスト(ケイマン籍のSPCでいちごアセットマネジメント・インターナショナル・PTE.Ltd=シンガポール籍の投資運用会社に投資一任)から取得したという取引、つまりいちごトラストの投資家が保有している運用会社の株式を買ったということのようです。 

ちなみに、いちごアセットはこちらのリートの投資口の30%(+いちごアセットマネジメント・インターナショナルが10%)を保有しています。  

当社グループは、日本における長期投資に特化した資産運用グループであるいちごグループの中核企業として、不動産を中心とした資産運用分野におけるエクセレンスを目指しております。本件 M&A の実施により、今後REIT 事業に参入し、私募ファンド、REIT、PM(プロパティマネジメント)、 BM(ビルマネジメント)、その他不動産サービス機能をグループ内に有する不動産運用グループとして、確固たるブランド構築を目指してまいります。  

というのが本気なら、FCレジデンシャル投資法人の運用会社についても触手を伸ばしてオフィス系と住宅系の2つを持つ気なのかもしれません。 

当初のFCレジリートとの提携では、親会社のファンド・クリエーション・グループには第三者割当で5%を保有させたものの運用会社は渡さずというファンクリに有利なディールだったのですが、今回の解散請求に対し「運用会社の株(の全部か過半)を渡すなら反対してやる」というようなことを言ってくるとか。 
ただそうなるとリート運用会社からの収益が大半であろうファンド・クリエーション・グループ本体が持たなくなってしまうので、ファンクリ側としてはウンと言いにくいかもしれません。 
となると親会社の時価総額も15億なので、TOBでもかけて親会社ごとまとめて買ってしまって、「投資法人も立て直すからエス・ジェイ・キャピタルさん焦らず待っててね」、という展開もあるかもしれません。  

まあ、このへんは僕の妄想なので、いちごアセットが何を狙っているか次第なんですが。

逆に「ジャパンオフィスがあればFCはいらない」といって解散に賛成してしまう可能性も十分あると思います。  



ちなみに上のリリースで 

本件は、第1号案件であるタカラビルメン株式会社に続く、第2号案件となります。

とありますが、これは今年3月、いちごアセットの社名がアセットマネジャーズの頃のディールです。
タカラビルメンは、昭和56年創業の龍ヶ崎に本社がある会社(参照)で、平成18年にワイズテーブルコーポレーションの子会社になったものを買ったのですが、ワイズテーブルコーポレーション自体XEXやサルバトーレ・クオモをやってる飲食業なので(参照)、そもそもワイズが何でこの会社を買って、それをいちごに転売したかは本件とは別に興味があります。
(なので「不動産事業への戦略的な投資」も眉唾かもしれませんし。)

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