glimi

生きること:過去と未来とエスペラントと

追われることのない日々

2017-02-14 08:38:19 | エスペラント
 毎日同じような日々を過ごしています。本を読みエスペラント文に訳してゆく、頭が疲れて回らなくなるまでそれを続けています。子どもの頃学校は嫌い、勉強は嫌い友達はいないという生活でした。楽しみは本を読むことと文を書くことのみ。今、子どものころと同じような生活をしています。
 子ども返り?もしかして・・・などと思ったりします。もし、これが自分に課されたことだとしたら幸せです。

 訳し終えたら次はという計画はないのです。でもなぜか、時間がある時にこれをしてい置くことが自分の義務のように思えます。
 追われることはないですが、体力・気力・知力が少しでも残っているうちにやり遂げようと自分に言い聞かせています。
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6 コメント

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子供時代の気質って、脈々と繋がっているものですね。 (案山子)
2017-02-14 14:45:10
私も、今の自分が、小学校、中学校時代に通じるものを感じます。
glimiさんは、謙遜していらっしゃるのだろうと思いますが、私は、その頃は、学校の勉強で苦痛を感じたことがありませんでした。昔のことですから、勉強を親からも強いられたこともなく、でも良い評価はもらえるという、恵まれていましたね。だから、その分、社会にお返しできたらいいなあと、あとしばらくは、そんなスタンスです。
エスペラントがglimiさんの支柱になっているのですね。お互い健康で、今の日々が続きますように。
自由が好き! (glimi)
2017-02-14 20:32:38
押しつけられるのが嫌い、自由が好きだったのです。もしかしたら単なるわがままかもしれません。今だったら特別支援学級に送られていたかもれません。

 母には世間体が悪いとガタガタ云われましたが、父には学校へ行けと云われたことがないのは幸せだったのでしょう。勉強しないと損そするのは自分だとは言われましたが。
 戦後の混乱の中で教師もどう教えたらよいか迷っていた時期でしたから、自分で考える時間が持てたことは幸運だったかなと思います。

 弱音を吐かず終着点までお互いに頑張りましょう!
みんなそれぞれなのですね。 (案山子)
2017-02-15 07:59:08
学校へ行くことが自由を奪われているなんて考えたこともありませんでした。いつも遊んでいた近所の2歳年上の女の子が小学校に入学するのが、羨ましかった記憶があります。笑 自分も早く行きたかったのでしょう。
好奇心旺盛だったような気がします。これまで知らなかったことが理解できること、新しく知ることが大好きでした。
なんだか今と一緒だな~と思ってにんまり。
子供のころはいろんなお友達の家に遊びに行かせてもらいました。家父長色が濃い我が家には友達を呼びませんでした。そんな記憶があってか、今は来てもらう側をやろうと心しているところがあります。
引越し (glimi)
2017-02-15 08:57:38
入学式が4月5日だったでしょうか、引越しが3月31日でしたので入学式はなし!
 兄姉たちは小学・中学・高校と別れてそれぞれに自分たちで転入手続きをしました。私は5月10日前後、引越し荷物が片付いてから、学校に行きました。
 がっかりしましたね。私の入学予定の学校はプール付で、2階は柔道や剣道のできる畳の大道場が鳥などの剥製が置いてある教室とかもある町の学校だったのです。
 山の崖下に立っている田舎の学校は校庭はほとんどなく、遊具は滑り台とブランコ二つ。廊下は朽ちていて洋服の接ぎのように板が打ちつけてあって凸凹、トイレも怖かったですね。その上、知り合いは一人もおらず、受け持ちは産休。隣の教室に移動させられ一つの椅子に二人座ることになるけれど、行く当てもなし。何しろ土地の者でありませんから・・・。口を開くと言葉が違うといじめられるし、先生から指示があるまで立っているというさまでした。
あまりよいイメージが残っていないのですね。 (案山子)
2017-02-15 12:57:13
私からみると、啓蒙家のご両親に育てられた文化的な家庭というイメージですけれどね。
glimiさんの小学校入学頃(もちろん私は生まれていません)は、父がまだシベリヤ抑留中で生死不明でした。
31年入学の私の小学校も、中学校も、今思えば、なんという粗末な、というありさまでしたよ。3つ年上の人たちは午前、午後の複式学級だったのに比べると、体育科も校庭も隣接する高校に貸してもらいながら、でしたけれど、初めからそんなものだと思っているので、当時は不都合なのだとも思っていませんでした。中学は建設中で、1部分だけ(9室)出来上がったところで勉強していました。音楽室も当然なくて、机もなく普通の椅子だけ。ぼんやりなのか、できるまでの我慢だと。全部完成したのは卒業式の日でした。中学の校庭も工事現場の一角と屋上。でも、その時に学んだ地理や世界史は今も役立っていますよ。
先生に恵まれたのでしょうね。
あっ、つけたしです。
兄がglimiさんと同年齢ぐらいなのですが、兄の話によると、戦地から帰ってきたばかりの先生なので、男子たちは何かあるとビンタされた、と言っていました。
民主主義が根を下ろそうとしていたばかりだったからでしょう。

凄い時代 (glimi)
2017-02-15 14:33:35
1946年、田舎の汽車は薪を焚いて走っていました。坂道で動けなくなると乗客が下車して押したそうです。兄たちの経験です。
 引越しするのに夜になっても汽車がない。乗り換え駅で立ち往生。やっと来た無蓋の貨車に我が家の荷物が載っていました。その貨車に乗り込み、煙と火の粉をかぶり、寒風の中を目的地に着きました。大変な時代でした。

 汽車にぶら下がる東南アジアの人の暮らしを見ていても驚かなし、手を貸したいと思っても気の毒だと同情はしません。それはそんな経験のせいかもしれません。

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