日々の吐露を綴って。。

私が生きてここにいる現実と向き合う、日々のつぶやきのブログです。
時折お気に入りの曲も紹介しています。

B099 大天使ザドキエル  ーボトル破損ー

2015年06月09日 16時14分31秒 | オーラ・ソーマ

B081のビンク/ピンクのボトルが終わり、いよいよB099ザドキエルのボトルに移行するぞ、とワクワクしながら戸棚から出そうと手を伸ばしたら、収めていた紙の箱がじっとりとしみていて、箱にカッティングされた窓から見えるビンには色味がなく、まさかと思いながら箱を開けてみると、見事にビンが割れていて、中身はからだった。。

 

けっこう何本も使ってきているけれど、割れてしまったのはこれが初めてである。

 

いつもこのボトルを1番目に選んでいたけれど、なかなか使いたい気が起きずに他のボトルばかり手に取っていたのだが、ようやく使う気持ちになって先月購入したばかり。

 

でも、なぜかこのペールオリーブグリーンの色が気持ちにしっくりこなくて、また他のボトルの色が気になっていたところだったのだ。

 

画像は、購入後すぐにブログ画像用に撮影していたもので、まさかこういう記事の形で紹介することになるとは思いもよらなかった。

 

まだ時期じゃなかったのか、浮気心のせいか、はたまたもう忘れていい、必要のないボトルと解釈するか。

 

起きている現象は「ボトルが割れた」ということだけであり、意味づけは自由にできる。


B081 無条件の愛

2015年02月07日 07時49分33秒 | オーラ・ソーマ

 

このボトルに移行してひと月、本当に子育てとは何か、ということにすっかり浸かっている自分に気がつく。


無条件の愛って何だ?、そもそも愛ってなんだ?、これが愛だというならそれが条件付きということだぞ、と。





行動娘が彼から著しい人権侵害を受けていたことが発覚してひと月と半。


親として思い付くセーフティーネットを張ってはみたものの、全く接点のない、肝心の親御さんとの連絡方法を考えあぐねていた。


警察も学校も、知り合いですら個人情報が云々などと言って容易には教えてもらえない。


人権侵害の相談員などに相談しても、所詮他人には他人事であり、モヤモヤを早く消化したいがために対策をせっついてくる。


娘に具体的な行動を聞き出そうにも、親といえども確信に触れることには口をつぐんでしまい、「どうも〇〇らしいです」でしか話を進められないジレンマに鬱々としていた、そんな矢先、ひょんなことで連絡先を入手することができた。


ずっと交流が途絶えていた友人が突然連絡してきて、彼女の娘さんが彼と同じ学校だったのを思いだして、彼女を信じて訳を話し、尋ねたらビンゴだったのだ。


まったく神の計らいとしか言いようがないタイミングだった。


親御さんに連絡をとり、きっと知らないことも多いであろうから、受けるダメージを気遣いながら伝えるのは、ボキャブラの少ない私には本当にしんどかった。


電話口の言葉と息づかいからでも、親御さんの落胆と失望感が伝わってくる。


もっとドッシリ構えて落ち着いて話せたらどんなにいいかと思いながら、声は震え、全身の毛穴がパクパクしているような、何かが皮膚の下を猛スピードで駆けめぐっているような、何とも言えない不快さを感じながら、でも伝えて進めていかなければならず。


かといって親が全てを尻拭いしていては子は育たず。


母業とは何ぞや、と考える今日この頃である。


母と遊んだ記憶も、楽しい会話をした記憶も殆どない、だから母業なんてできないとか、そんな言い訳は必要ない。


過去の生い立ちは関係ないのだ、百パーセント信じればできてしまう。


私たち親が急に死んでも、老死しても、どちらにせよ子どもたちより先に逝くわけで、残された子たちは自分で考え行動して生きていかなければならない、その自律性を養うサポートが親のつとめの根っこだと思っている。


これはお金で買えない、取って付けることもできない、与えるものでもない。


実際、その思いを絞りだすようにして毎日を過ごす。


その、必要だとおもうことをできるようにするために、何をしたいのかを考えて行動することを惜しんでいる時間はない。


B098 サンダルフォン

2014年10月24日 12時37分33秒 | オーラ・ソーマ

いい感じに色が抜けて、まるでB066のボトルのよう。

 

一番初めにボトルを使ったのはB024のショックボトル、そしてブルー系、ターコイズ系、グリーン系、パープル系ときて、ピンク系ボトルに移行しつつある。

 

生きるとは何か、教育とは何か、長女の思春期鬱や次女の子育てを通して、いろいろ考え行動してきた。

 

日頃の積み重ねがいかに実を結ぶか、この歳になって大人たちの言っていたことが身に染みるようになった。

 

流し台の洗い物を、日々片づけ終える、完了することは、ちゃんと「考え方」「指針」に通じているのだ、たかが家事の一つや二つと侮るなかれ、である。

 

日頃の行いがでるよ、とはよく言ったものだな、と思う。

 

先日、父が手術で入院すると聞き、次女とお見舞いへいってきた。

 

病室の机に置いておけるように、三角柱のペン立てをボール紙で作り、写真やイラストで飾り付けしたものを、次女とあーでもない、こーでもないとアイデアだしながら作り終え、よほど次女は父の反応が楽しみだったようで、「私が渡すから!」と行く車中ずっと持っていた。

 

父はとても喜んでくれて、次女も「喜んでくれて、ありがと!」と満面の笑顔だった。

 

相手に喜んでもらえることの幸せな気持ちというものを、次女は着実に分かってきている。

 

その小さな積み重ねがやがて、お礼をする、相手を思いやる、そういった「感謝」というものに繋がっていくのだろう、と思う。

 

それを育まないと、「それが礼儀ってものよ」と言われてもピンとこない、感謝が湧かずに形式だけ会得するだけになってしまうだろう。

 

 

 

次にはB081のピンク/ピンク、「無条件の愛」のボトルが控えている。

 

もうずいぶん前から「愛って何だ?」の疑問を考え続けているけれど、いまだによくわからない。

 

 

 

 

 

 


オーラソーマ B24 → B90

2014年04月16日 12時00分11秒 | オーラ・ソーマ


B024のボトルが終わり、次はB045で始める予定だったけれど、なぜか気になって仕方なくて手にしたのが、B090のこのボトル。


下段が濃ゆい紫、上段はゴールドの、ちょっと奇抜な色の組み合わせで、普段ならまず手は出さないのに、多分内心で危険予知というか、何かに向き合わなくちゃならないだろう予感がしていたのは事実。


そしたら、なんていうタイミングというか、やっぱりめぐり合わせというか・・・娘の友人がどうも親から虐待を受けているかもしれないことがわかり、複雑な事情を抱えたその友人の意思をなにより尊重しながら、さっそく相談できそうな所に連絡をとり始めている。


何かあった時のセーフティネットは作っておいてやらにゃいかん。


親の意思や事情はまったくわからないから、実際どうなのかわからないし、どこまで手を出せるか、何ができるのか・・・そういう意味ではか「得体のしれない恐怖」でもある。



オーラ・ソーマ B044 → B024

2013年10月03日 13時28分54秒 | オーラ・ソーマ

 

久しぶりのオーラ・ソーマの話。


もうあと一、二回の使用でB044守護天使のボトルがやっとこさ終わるのだが、夏場は汗をかくので首周りはどうも塗る気がしなくて、洗面所に飾りっぱなしになっている。


このボトルの番号、4のぞろ目の数字は、私が目にする中で一番多く、このボトルも好みの色合いと数字にただならぬ縁のようなものを感じていた。


でも手元に来て使い始めてから、このボトルはただの綺麗系では終わらない、たくさんの気付きとハードな経験に、私にはかなりガッツリワークになるボトルだとわかってきて、「私にはまだ早い」などと理由をつけて一度途中で他にある使いたいボトルに変更し、棚上げしたりして(昨年十二月だった)、随分長い期間手元にあったもの。


思うような態度がとれない、言葉がでない、そうじゃないのにとわかっているけど身体は同じ反応をしてしまう、気にするほどドツボにはまるから、じゃあ今度は考えないようにしよう、しよう、・・・そうして結局はそこに執着している自分を知り、もう一歩踏み込んで自分に問い続けていって、でてきたのは「望んでいるある特定の状況しか受け入れたくない(他は危険だと捉えている)」、そこに執着していることで、何が起こるかわからない外界に対して、楽しむどころか身構えて、とっても肩に力が入っている自分を、このボトルでのワーク中みつけた。


解放しよう、しようとしても反って自分の考える恐れのとおり惨敗していた、もうずっとそのループだった。


そうして繰り返すうちに、いつもやっている合理的(と自分は思っている)行動路線のプラン変更をすることにした。


普段なかなかやらなかったことを一つ見出だして毎日やると決めて実行する、最初は夜に流し台の中を必ずカラにしてから寝るときめて、眠くても遅くなってもやって、達成感と自分を褒める喜びとホッコリ感をささやかながら味わうことを積み重ねていった。


いささか弛んだ口元の引き締めと滑舌トレーニングのために、早口言葉や外郎売りの文の音読を始めた。


ためになる、プラスになる、と思う「できること」を一つ二つ加えていった。


結果がどうなるかはわからないけど、できることをしていく。


そうしたほうがいいと考えること、望む結果を欲していた頃とは違う行動をし始めた。







そろそろ涼しくなってきたからボトルを使うのを再開しようか、どうしようかと思っていたら、他のボトルに目を奪われてしまった、それが24番「新たな可能性」。


やっぱりターコイズなんだな、ターコイズかブルー、ペールグリーンが好きで、それをベースにしたボトルをなぜ選んでいるのかは、意味を持たせるなら心と言葉に問題があるからで、自分でもそれはよく自覚している。


ちょうど今、長女の導き方のことで、自宅療養の日が増えるとなれば夫にも症状と状況を理解してもらい互いにサポートし合えるのが理想なのだが、頑として夫は自分の正を主張し「単なる怠けだ」「逆に俺の言うことを理解してくれよ」と突っぱねてしまい、俺はもう口をださないから勝手にやってくれということで話しは決裂してしまった。


夫の主張も考え方も、それは確かに夫が実際生きてきて導きだした真実で正なのだから、否定する気はもうとうない。


だけど、はたしてそれが娘にも当てはまるのかは疑問で、夫をすでに脅威に感じて竦み上がっている娘には、生きる指針になるどころか生きることへの絶望感を抱くだけで、全くもって響いていない。


社会はそんなに甘くない、苦しくて辛いことばかりで、それが紛れもない現実だ、なんて叩き込まれた子供が、どうして将来に夢を抱けようか、そんな苦しみの世界に進まなければならなくてどうして生きることを楽しめようか。


確かに社会にでれば学生の時以上に本当に色んなことがあるし、辛いと感じる出来事はかなり多い、逆に夢や希望溢れる社会だと無責任なことも言う気はない。


どう感じて生きるかは個々の在り方で随分違うものなのだ、と私は思う。


状況、体調、いまの娘にとってベストな導きは何なのか、娘が自分自身を活かすことを自分で考えて行動できるように、私はただそれだけを思い行うだけ。


ボトルメッセージの通り、「新しい可能性」を目指して、私は進んでいる。


B044 → B0063 (オーラソーマ)

2012年12月05日 22時29分00秒 | オーラ・ソーマ

チャレンジギフトの一文にある「自分の存在自体に自棄的で、神を疑っている」、これは私の中にも確実にある。


ボトルはスロートチャクラの関わる044がまだ残っているが、胸の一帯の痺れや鉛が張り付いたような不快感がとれず、ハートチャクラの関わる063へ移行してひと月が経つ。





異質、不和の元、役立たず、そういった「確信」を持っているから、無意識なとき・不意なときにそういう私を表現しては苦々しさを感じている。


信念のとおりに表現できている、だからそれでもう完璧なのに、何故苦々しいのだろう?


それらの信念の底を覗いていくと、「私を理解してほしい」「救い上げてほしい」「認めてほしい」「あなたはそのままがいいと言ってほしい」…という数々の欲求が抑圧されて押し込められている。


私なんか要らない人間だ、役立たずだ、と思っただけで涙が次々と溢れ出るのは何故だろう?


過去の自分の実績が証明しているからだ、過去を忘れて新しい自分を作る? 仮の自分を作って「これが本当の自分だ」と自信を持って言えるのか?、と主張する声を疑ってみる。


今と違う行動をとることは、仮面を被ることと同じになるのだろうか?


毎時毎日の選択の積み重ねで今の私がいる、それはどういうことかを何度も自分に問うてみる。


経験は瞬時に過去になり、過去の産物が自分を造るのではなく、目の前の選択が自分を造る。


今の私、それはシャドウが構築してきたかもしれないが、それも私自身であり、私自身が構築してきた、そう認めたとき「では自分はどう生きたいか」と自分に問うようになる。


占いや統計学が気にならなくなる。


どう生きるのが正解かとかが気にならなくなる。


守護天使 B044のボトル

2012年06月29日 05時19分09秒 | オーラ・ソーマ
オーラソーマの話題です。


以前から44や444のぞろ目を、他ナンバーの何よりもよく目撃して、何らかのメッセージがあるなぁと思っていたのですが、私の場合、落ち込んでいるときや怒り・世間からの疎外感・切り離されていると感じているときに大方4のぞろ目を見るので、「ああ、そうだった、そんな考え方は気をつけなきゃね」「自分独りじゃない、そうだったね」と自分に独り言で言っていたりしています。


最近手にして使い始めたイクイリブリアムのボトルもB044(ペールブルー/ペールバイオレット)で、本当はもうひとつのグリーン系ボトルB063を先に使う予定だったのに、ちょっとしたアクシデントがあってなかなか手元にやって来なくて、「私が先よ」とばかりに来たのがそのB044ボトルで、これもちょっと不思議な縁で繋がっているなぁと感じる所以です。


「ワンネス」「みんなつながっている」、スピ界では鉄則ですし、皆さんブログでそう発信していらっしゃるんですが、私は幼少期からこの逆の感覚を当たり前に体験してきているので、あまりピンとこない(笑)。


誰かと時間を共有していて心地好いと感じることがしばしばあっても、人の輪の中にいるのは居心地悪い、ただ、都会の人混みの中にいると落ち着くのはなぜだろう、と思っていたとき、とあるテレビの番組の中で、名前は忘れましたが作家さんの誰かが、「隠れ家的なお店?、なぜ都会で隠れ家を探すんでしょうね、隠れたいってもう充分人混みに隠れているじゃないですか」と話していたのが、とても強く印象に残っています。


昔の私、表向きはよく都心に外出して颯爽と闊歩してたけれど、実は人混みを隠れみのにして孤独をカモフラージュしていただけだったんじゃないだろうか。。


孤独は悪いものじゃない。


孤独も自分の内にあることを受容して、隠したり恥じたりする必要がないんだということ。




ボトルと一緒に信念の洗い出しと選択のし直し・解放をしていると、色々でてきます。