喜劇 眼の前旅館

おもに短歌のブログ

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完璧な野宿

2015-05-31 | 連作



あんなにいた子供たちが一人になって河のほとりを歩いてるきみは



北極のすごいところをすべて挙げみちたりた気持ちの繁華街



横断歩道をむりにつなげて明け方の冬の地鎮祭の出口へと



電車の中が馬鹿な息でくもっていく夜の続きと朝の手前に



高いところから飴玉をわたすのも変わりやすい今日の天気よ



かんぺきに安全な野宿死ぬことはあらゆる靴紐がほどける



ひこうきは頭の上が好きだから飛ばせてあげる食事のさなかに



これは絵はがきですと地面に足で書く なんという雨の球場だろう



踏切をゆっくり渡ってみたくなる むこうの声の中の鳥たち



あばら家にセクハラ日本一にかがやく盾と五分咲きのゼラニウム



他人のディズニーランドが夜のはまなすを飾るのが見えたすぐ来てくれ



帽子ってあなたが買えば似合うから夜には街灯に照らされて



デパートをゆっくり星にあけわたす 星はどこにでもやってくる



とびはねる表紙のバッタうれしくてくるいそうだよあの子とあの子



鳥の群れになったつもりであるいてる夜、夜、夜とかぞえられつつ





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短歌のような

2013-01-20 | 短歌について
定型に身を預けて支えられて立っている言葉は(どんなに美しくても面白くても)短歌というジャンルが滅びればかたちを保っていることができないのでともに消えてしまう。
言葉が言葉で自らを支えて立っている歌は短歌が滅びても何らかのかたまりとしては触わることができるはずだし、その残ったかたまりからもう一度短歌(のような何か)が生まれ直すこともあるかもしれない。

その、生まれ直したのちの短歌(のような何か)を触っているようなつもりで歌をつくったり読んだりしていきたいものだと思う。
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自分bot

2013-01-12 | 短歌について
諸事情から現在ツイッターのアカウントを休止しているのだが、そのかわりというか留守番役として自分のbotをつくって置いた。
https://twitter.com/agtm_bot
現在の設定では、私の過去の短歌を二時間おきにランダムにつぶやくはずである。
自分の全短歌を登録して短歌的な分身にしてしまおうかと思ったが、登録できるツイートの上限が700で、現在600以上登録したがまだだいぶ未登録の歌がある。
どうやらなんらかのかたちで既発表の歌(のうち、現在確認できるもの)だけで1100首以上はあるらしいと分かってきた。
意外と多いのだ。
これまでの登録はほとんど「選」抜きで、題詠ブログの年度ごととか、連作ごとなどにカタマリでばんばん登録しているが、もう上限が近いのでそろそろ「選」をしなければならない。だがものすごいてきとうな歌と傑作が混じって偶然出てくるクジ引きのような感じは失わないようにしたい。はずれくじのような歌は大いに必要だ。次何が出てくるか楽しみで自分でもつい何度も見にいってしまう。
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少ない言葉

2012-12-31 | 短歌について
今年の私はなんと今日までなので何か言い残したいことを書いておこうと思う。
今年をふりかえるのではなくて来年のことをちょっと言っておきたい。
来年は何人かの自分にとって大事な歌人についてもう少し何か核心的なことが言えるようになりたいと思っている。
たとえば私は平岡直子の作品についてはほかの人々より少し多くのことがわかって言えるのではとひそかに信じているところがあるし、斉藤斎藤については個々の作品について言えることは多くないが、作家としての斉藤の仕組みなどにはほかの人たちに少なからぬヒントを与えられるくらいのことは言えるだろうと思い込んでいる。
だがたとえば第一歌集の出版が近いと噂される山崎聡子の作品については、早稲田短歌掲載の連作(「キンダーガーデン・シンドローム」)をほとんど奇跡的な傑作だと思い自分自身も深く影響を受けているのに、分析どころか未だまともにその魅力を伝える言葉さえ持たないままである。また、今年第一歌集『そのなかに心臓をつくって住みなさい』でその全身をあらわした瀬戸夏子については手さぐりでいくつかのことにふれてきてはいて、いずれも意味ある指摘を含むとは思いつつ核心的な部分にふれることをあらかじめ避けることで可能になっている及び腰の言葉になっていないという自信はない。点をつないで線とするにあたり見逃しているというより、見ぬ振りをし触れずにすませてきた点をあんなに残しているじゃないかとうしろめたささえおぼえる。
私は短歌のことを考えることなしには短歌をつくることができないので、今後もつくり続けるかぎり私に影響をあたえ続ける作者に言葉が向かうことを避けては通れない。言葉にできない、ということの幸福の先にあるものもなんらかの意味で幸福であると覚悟して言葉には血を流させねばなるまい。

私は短歌愛はもとよりあらゆる意味での愛にあふれているとはいいがたい人間だが、こうした作者たちが短歌という場所で世界にほとんど身を捧げ尽くしているかに見える瞬間には動揺とともに愛という言葉を思い浮かべずにおれないし、そのとき感応して自らの乏しい愛をふりしぼることをもってこたえずにはいられないと思う。
このような作者の作品の宿る場所としての短歌には、歌壇とか短歌界とかあるいはジャンルとしての短歌さえ視界から一掃したのちになお、そこにとどまるべき理由があるのだと思える。私が短歌とかかわりつづけるとすれば、短歌が豊かであるからでもまたほどよく貧しいからでもなく、短歌への愛があるからでもなく、短歌にしか語らせることのできない世界への愛をこうした作者において目撃したという記憶が新鮮であり続けるからにほかならない。
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足の踏み場、象の墓場

2012-12-27 | 既発表
かたちととのえながらゆうべの足音を靴にかさねてゆく雨通り


投げ上げた穴あき帽子! おめでとうの云える機械にふかく囲まれ


生まれてから一度もきみが終バスに乗ったことのない話をしよう


いいえわたしはホテルではなく牢屋です 赤いのは眼できみをみている


聞こえてるつもりのクラウン人形を洗ってた夢の中で唄って


砂の吹く中央通りにバスがなくだらりと腕にまきつけたバッグ


眉を順路のようにならべて三分間写真のように生まれ変わるよ


月光はわたしたちにとどく頃にはすりきれて泥棒になってる


勇気ある安コーヒーの迷路からとびだせホース! 散らかしながら


中里さんの塗り替えてくれたアパートに百年住むこの夕暮れから




(初出『朝日新聞』2011年4月26日夕刊「あるきだす言葉たち」)
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物語と短歌の間に

2012-11-16 | 既発表
 第一歌集『砂の降る教室』から八年、石川美南の美しい双児のような歌集『裏島』『離れ島』が刊行された。
『裏島』はストーリー性の高い連作として編まれた作品を中心に、『離れ島』は連作的な文脈から比較的自由な作品を中心に纏められている。前者を代表する作品が「大熊猫夜間歩行」であり、後者は「物語集」にその極限のかたちを現してみせる。この両極をそれぞれ抱える二つの「島」の上に石川美南は同時にいる。

  手品師の右手から出た万国旗がしづかに還りゆく左手よ 『裏島』
  捨ててきた左の腕が地を這つて雨の夜ドアをノックする話 『離れ島』

 石川美南は物語作家である。石川の連作にみられるのは歌人としての歌の構成意識ではない、あるいはそれを軽々と超えたものだ。また石川の一首は今ここを語る言葉が、つねにここにないどこかを語る最初の一行になろうと身を震わせている。そこであくまで二行目への踏み出しをこらえることで物語作家は歌人に踏み留まっている。連作で二行目三行目があとに続くかに見えたら、それは物語のありえたかもしれない別の一行目が語り直されているのである。
 物語の二行目をこらえる石川は当然ながら、作品に自閉した王国を築き上げることはない。物語作家が短歌とともに手に入れた武器である文語や旧かなは、彼女にとって物語の領土を現実から守る城塞ではなく、あくまでここにはない世界への異和と親和をさびしくつたえるためにある。

  壁や床くまなく水びたしにして湯浴みを終ふる夕暮れの王 『離れ島』
  口移しで分け与へたし王国のさみしい領土浅き領海

 この「王国」のさびしさは短歌という「島」の地形が物語にもたらすものだが、それは自画像を描こうとすれば「夕暮王」になってしまう指をもつ者のさびしさを裏側からなぞったものともいえるだろう。歌人と物語作家はコインの裏表のように一体でありながらすれ違っており、石川美南を名乗る存在は二人いる。〈二冊の第二歌集〉の刊行もそれを裏付けているし、「猛暑とサッカー」(『裏島』)の奇妙にすれ違う祖父と孫にこの〈二人〉の影を見ることも可能かもしれないが、詞書が歌と拮抗し、すれ違い、そして感動的な連繋さえみせる「大熊猫夜間歩行」こそ〈二人の石川美南〉を目に確かめるに絶好の大作といえよう。

  縞模様(はた檻模様)描かれゐる路面を今宵しげしげと踏む 『裏島』
  月がビルに隠されたなら遺憾なく発揮せよ迷子の才能を
  夏の夜のわれらうつくし目の下に隈をたたへてほほ笑みあへば

 現実のパンダ(リンリン)の死を踏まえ、死者であり動物であるという二重の意味で言葉から隔てられたこの存在の想像上の脱走を描く連作は、歌も詞書もそれぞれ言葉である自らを恥じるかのように禁欲的である。詞書は動物との間に目撃証言や監視カメラの映像といった間接性を挟み続けようとするし、歌は詞書に示される脱走劇にさらに隠喩的な距離を保つことをやめない。それはまるで、脱走した動物の道行きと交差する一点に明滅しただけの、ゆきずりの者の物語の一行目が歌としてならんだかのようだ。
 だからこそこの禁欲が破れる瞬間は感動的である。連作の掉尾の一首において、言葉はついに物語のためらい続けた本当の〈最初の一行〉を、その後の余白にむけて置き手紙のようにそっと差し出すことになるだろう。
 短歌連作でストーリーを語るという方法のひとつの極限を示す「大熊猫~」に対し、物語が短歌定型に凝縮されて姿を消した空間を集めたかのような「物語集」にはもはや一行目としてさえ「話」そのものは姿をみせることがない。

 「発車時刻を五分ほど過ぎてをりますが」車掌は語る悲恋の話 『離れ島』
  わたしなら必ず書いた、芳一よおまへの耳にぴつたりの話 
  諦めたそばから文字の色褪せて今はすつかり読めない話

 ここで歌が示すのは「話」の手前に架かる橋のみ、つまり物語の本文以前の表題か粗筋に似た言葉である。始まる前に終えることが短歌の物語に対する最大の敬意の示し方だと知る歌人が、ついにその一行目からも撤退したこれらの歌は、しかしほかのどの作品よりも濃厚に物語的である。短歌と物語の間で石川美南の世界は誠実にねじれ続ける。



(初出『歌壇』2011年12月号)
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天井に花をぶつけながら寝入る

2012-08-18 | 我妻俊樹全短歌
天井に花をぶつけながら寝入る一日(ついたち)になるきれいさっぱり  我妻俊樹


「天井に花をぶつけながら寝入る」ことと「一日になる」ことにははたしてどんな関係があるのだろうか。
「寝入る」のだから今が夜である可能性が高く、とすれば寝ている間に日付が変わる、ということが考えられる。
日付が変わると一日(朔日)になる眠りなのである。その眠りの前に、天井に花をぶつけているということである。
なぜそんな行為をしているのか。
そんなことをする理由が一首の中に見あたらなかった場合、理由は歌の外にあると考えるだろう。
「歌の外にある理由」には「現実に作者の経験又は見聞にそういう事実があった」も含まれる。
または「ただの思いつきをそのまま(歌の中に根拠を書き込むことなく)リリースした」ことが考えられる。
いずれにせよ、これらのケースでは読み手の想像の余地あるいは解釈の自由を保証する空間は、作者でもなければ作品の言葉でもなく、短歌定型が用意している。あるいは短歌という制度が用意しているといってもいいかもしれない。

事実であろうと思いつきであろうと、そこに描かれている光景が作品として成立しているかどうかは、作品の言葉の中に根拠が見出せねばならない。
つまり作中でなぜそんなことをしているかという理由は、必ず作品の中に書き込まれていなければならないのである。
それはその作品が「作品の外における事実(思いつき)である」と感じさせることを魅力とするものであっても同じだと思う。
もしなんの根拠も(作品それじたいの言葉には)与えないまま作中の光景を手渡す手段として作品が利用されるなら、それは作者によって作品がないがしろにされていることになる。
作品をないがしろにすることは、作者が作者という立場を放棄することだ。そして短歌はときに「作品」をないがしろにしても易々と成立しているようにみえるジャンルでもある。

掲出歌にもどると、これは恣意的にある光景をえがいて、その光景の解釈を読み手にあずけただけの前述した「作者が作品をないがしろにした」作品のようにも見える。
そうではないのだと積極的に主張することはさまざまな理由によりできないが、いちおうここでは「そうではない」可能性を一点だけ示しておきたい。
それは「一日(ついたち)」という音の中に聞き取れる「ついた」と「たち」がそれぞれ「着いた」と「touch」にずらされたとき、上句で花が天井へぶつけられている光景への反応として読み取れるというものである。
そのことで、ここで眠られようとしている眠りが「一日」を迎える夜のものであることが、歌の外での事実や思いつき以上の根拠を一首の中にかろうじて得られる可能性である。
いいかえれば「一日」を迎える夜の就眠前だからこそ、ここでは天井に花がぶつけられている、いわば「一日」の「ついた(着いた)」と「たち(touch)」を先取りしてそのような行為におよんでいるのだという可能性である。

私はこのようなばかげたものが初めからそこに住み着いていた可能性を作品の中に発見するときのために作品を読んでいるようなところがある。そういう態度は作歌にもあらわれていると思うけど、ここでは自作の読みにそれを意識化してみた。上で指摘したようなことを歌をつくりながら意識していたというわけではない。
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60日後…

2012-07-08 | 短歌について
60日間更新がないからと、勝手にテンプレート変えられたので直すためになんか書く。

今年も題詠ブログに参加してます、というのを書いてなかったので書く。去年まで使ってたとこがトラックバック機能を終了(するんだ終了)してしまったので、今年は違うところを使ってます。こちらです(ブログタイトルは「器物」)。

あと、少し前に出た短歌同人誌『率』創刊号の「自選歌5首への批評」にゲストで参加しています。



ブログの使い方だけど、一首評とかはツイッターではやりにくい(ような気がするけどどうなのか)のでレギュラー化してここでやったらいいかもしれない。レギュラー化にはなんかタイトルが必要だ。かっこいいタイトルがあったらおしえてください。採用された方の一首は必ず評させていただきます。あとこの一首を評してくれというのもありましたらぜひ。
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影と作者

2012-05-08 | 短歌について
いろいろなことが過ぎていくが、いろいろなことをいちいち書くには何かが手と頭から欠けており、ひとつも関係ないことを書くかもしれない。
ひとつだけ書くと平岡直子さんの連作タイトルがどれもものすごくいいですよね。「みじかい髪も長い髪も炎」なんてタイトル見ただけでこの人が今どれだけのところにいるかがほとんど風圧のように字面からつたえられてきてしまう。あれだけの作品を(たとえば同連作から挙げると〈心臓と心のあいだにいるはつかねずみがおもしろいほどすぐに死ぬ〉とか〈三越のライオン見つけられなくて悲しいだった 悲しいだった〉とか)出し続けてそこにこれだけ攻めてるタイトルをのせられるというのは、あれほどの作品やこれほどのタイトルそのもののすごさをたんに足しただけでは済まない驚くべきことなのだ。
そしてこれはほとんど妄想めいた想像による見立ての話になるけど、平岡さんはいわゆる天然の天才タイプみたいに言葉が変な重力を持って自律していくタイプとは違って、言葉の見せつける力はそのままつくり手が言葉にかけた体重そのものを方向までふくめてかなり忠実に反映しているように思えてしまう。だから天然タイプの人(もちろん技巧派の人はなおのこと)の言葉が崖からせり出すことが必ずしも作者の身に起きている光景だと思わなくていいようには、作品から作者の影を分けてとらえることはできないように感じられるし、しかも影以上のもの(たとえば私小説的な「歌人」の物語の読み取りをうながす細部など)を作品に描き込まないだけに、この影の立つ場所の地形を一首のうちに感知することが読み手にとって、物語的な共感の制度を挟まない、ほとんど自分の見ている夢のような手さぐりの切実さを帯びるというところがあると思う。
だから、いずれこの作者がどこか平凡な修辞的環境と折り合いをつけた「歌人」めいた表情の豊かさをまとう日がくるとすれば、そのときはほっと安堵するとともにひそかに祝福もしたいような、それともむしろそのときこそ「影」の居場所を失ったような不安が読み手もろとも夢を内側から動揺させるのではといった、複雑な想像を、この夢の地形にうながされることで読み手は身勝手にも巡らせてしまうのだった。


ひとつだけ、が予想外に長くなったので今日はここまでとする。
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歌集『町』批評会の原稿

2012-04-04 | 鑑賞
去る3月31日に行われた歌集『町』批評会で基調発言をつとめたときの原稿を以下に掲載します。
歌集『町』は短歌同人誌『町』の五冊目として出されたものです。でも第五号ではなく歌集と名づけられていて、掲載歌は作者名がすべて伏せられています。
未読の方はこちらのページに購入方法がありますのでぜひ入手して下さい。短歌の現在から何かものを考えようという人には必読の一冊だと思いますので。

原稿は事前に少し削った部分や、しゃべりながら時間の都合でとばした歌なども含めたいちおう完全版ということになります。
言い換えればそのぶん冗長にもなってるし、単純に分量としてもかなりあります。こういう場でしゃべるのがはじめてだったので、緊張で頭が空白になってもそのまま読めば何とかかたちになるように、話し言葉風にくずしてそれっぽく書いてあるのでかえって読みにくいかもしれません。
そもそもこういう原稿は自分用のメモであって(家を出る直前まで書いてたノー推敲文)ほんらい人に見せるようなものじゃないと思いますが、いくら話し言葉風にしても結局ほぼそのまま読んでしまった結果、文字で読んだ方がまだわかりやすかったかな、という反省があるのでまあいろいろと文章の粗さとか割り引いて読んでもらえればということで、掲載します。おもにその場で聞いて下さった方の記憶の整理などの参考、および来れなかった方の想像の材料としてお使いいただければと思います。
それからブログという場の性質上、および私の能力の限界から引用歌の表記が(実際には縦書き、という点を除いても)必ずしも誌面どおり再現できていないことをご了承ください。




 ○



歌集「町」という五冊目の本を出して解散した同人誌「町」ですけれども。
私は短歌の同人誌というのは、この「町」第一号にはじめて触れたときから現在に至るまで、あまり多くを読んだことがありません。なので「町」という同人誌がほかと較べてどうなのか、ということを語る資格に欠けている人間なんですけども、評判を聞くかぎりにおいて、どうもほかの同人誌とは何か違うようだ、というのは伝わってくるわけです。もちろん、いい評判としてですね。

私が『町』に対して感じていたことをひと言で言えば『町』は町っぽいということです。
今二回「町」って言いましたけど、最初の『町』は固有名詞の、この同人誌の名前で、次に言ったのは一般名詞の「TOWN」のほうです。私は『町』というタイトルの本を手に取ると「TOWN」の町と一瞬区別がつかなくなるようなところがあるんですが、じっさいに本をめくっていくと、たしかに「TOWN」の町っぽいとどこか無意識に納得するところがこの同人誌『町』にはあって、やっぱり『町』は町っぽいんだ。ということで自分の中では済ませてしまっていたわけです。

そこをもうすこし具体的にしてみようと努力すると、私はそもそも道路のような短歌が好きだと思っているところがあって、つまり通り抜けるものですね。作者がそこに居座ったりしていなくて、つくったあとでその場を明け渡して風通しのいい、自由に通り抜けていい空間として残されているような。そういう歌がいいんだと思ってるということを、『町』の町っぽさについて考えながら気づいていったんです。『町』の人たちはみんな個性が違いますけど、どの作品も店員が話しかけてこない店みたいなところがあって、それが今いった道路っぽさということになるんですけど、そこは共通してるんじゃないかと思うんです。

で、解散ということで。そのことを知ったときは「えっ町が解散するの?」と、この場合の「町」は固有名詞と一般名詞が混じった感じですね。「町なのに解散するの?」みたいに思ってしまって。その最後の一冊が歌集、を名乗っているわけですが。
私は歌集というのがどういうものなのかもあまりよくわからなくて、ただ、一般に同人誌などの雑誌が「歌集」じゃないことは、そこに評論などの文章が収録されていたり、あるいは作品の載せ方として、企画を前面に出したものがあったりとか、そういうところで区別できるんだと思うんです。

でもそれをいえば『町』の四号は作品だけが収録されていたので……やっぱりほんとのところはわからないんですが、この歌集『町』はたぶん同人誌『町』の中の企画であって、ただ、それを収めるはずの『町』五号がない。この、企画のページがむき出しで存在してることで、それを包む同人誌『町』がもうなくなってしまったのだということが示されてるのだと思いました。
逆にいうと、企画だけをむき出しにした本をつくってしまったので、雑誌としては終りにせざるをえなくなったのかなと、妄想みたいなことを考えてしまうんですけど。

今回だけ型が小さいですよね。何ていう型なのかわかりませんけど、今までずっと同じ大きさだったのが今回ひと回り小さくなってて。それはこれが本来のあるべき『町』の一部であって、これを包んでいた本体が消えてしまったことを示してるような気がします。

中身を見ますと、ここには作者名が示されずに歌が並んでるんだけど、その並び方は、ある歌の中のどこかの部分に反応して次の歌が置かれるような感じ、それははっきりひと目でわかるようなものだけじゃなくて、前の歌をまったく無視してるようにあらわれる歌もあるんだけど、たいてい何か関係が見つけられて、そのリレーのされ方は、歌の個性の違いから作者の入れ替わりがかなり露骨に感じとれることも含めて「交換日記的」だなと思いました。

で、これは本としてどのように読んでいったらいいのかといえば、やっぱりその歌から歌へと渡されていっているものをさがすような、そういう読み方で微妙な変化、それは個性の入れ替わりも含めたものですが、そこを見ていくような読み方がいいのかなと思いました。
ただ、そう気づいたのはついさっきなので、あまりそうは読めてなくて。これまでの『町』を読んでて、あるていど作者名の想像もできる状態で読んでたからどうしても頭が作者あてみたいなほうに向かってしまうんですよね。一首ごとの表情の変化というより、もともとの顔のつくりの違いみたいなのがつい気になってしまって、だから、一冊を通して見えてくる景色みたいなのはこれまでの『町』とあまり変わらないというか、これまでの『町』が何か乱丁の本みたいな不自然な折り畳まれ方をしてる、という以上のことを読むのはちょっと私は時間的に間に合わなかった感じです。

ただ、これは最後の本なのだから、今までのように半年後くらいに次が出るわけじゃないので、だから読むのに一年とか二年、あるいはもっと十年でも二十年でもかかっても全然いいわけです。同人誌の活動歴の中でいえば、いちばんほかのことにまぎれない位置に、いつまでもよく見える位置に置かれているわけなんで、その後にずっとつづく空白が、この本を読むための時間としてあけられてるとも言えるわけです。


あと、ここには作者名がないんだけど、短歌にはそもそも作品の要素として「タイトル」というものが欠けてるわけですよね。
私は作品っていうのは基本、タイトル/本文/作者名、という三つの要素からできてて、その三点がつくる三角形みたいに思ってるんだけど、短歌はもともと本文と作者名だけでできてるわけです。連作とか歌集のタイトルはあるけど、それは一首とは別な単位で読もうとしたときに見えるものであって、一首単位ではタイトルがない。そのぶん、作者名にかかる負担が大きいというところがあると思います。短歌が作者に所属してるように見えやすい理由は、そこにひとつあるかもと思ってて、タイトル/本文/作者名、という三点に囲まれた空間みたいなものが短歌には生じないから、読者は作者からなかなか離れがたいのかもしれないと思う。

ところがこの本には個々の歌の作者名が付されてないから、その一首ごとを「作品」として読もうとするときにどうしても欠落感があって、というのは「本文だけでできてる作品」ていうのは基本、ないと思うんですよ。もちろん魅力的な作品からタイトルや作者名を隠してしまってもそれは魅力的な何かなんですが、作品とはべつなものになると思う。


で、この本には個々の歌の作者名はないけど、うしろに『町』のいつもの同人によるあとがきが付いてて、だからこの集団の名前でもある『町』がこの本の作者名のようなもので、それは歌集『町』というタイトルと重なってるわけです。だからここに収録されてるすべての歌、つまり本文ですね、本文すべてとの関係をこの歌集『町』というタイトルが一手に引き受けてるんだけど、これは引き受けかねているというか、ちょっと負担が大きすぎるのかなという感じは何となくしました。すごい数の生徒をひとりで見てる先生というか。

だからこのタイトルとの関係で個々の歌を「作品」として読むのは、なかなかスムースにはできなくて、ある無秩序な、先生の機能してない教室みたいなところに飛び込んでいって、そこで個々の生徒と関係をつくろうとするような負担が、読者にかかるとは言えると思います。




いくつか個々の歌を読んでみたいんですが。
二十首選というコピーが配られてると思うんですが、この中からいくつか重要な歌というか、論じたくなる歌……ただほんとは同じ作者だろうなって思うべつの歌とあわせて読んでみたいというか、作家論的に読みたくなるところがどうしてもあって、そこをがまんするのは苦しいんですけど。
じゃあ一首目。


磨り硝子の面に光うつろわせ私はかつて道だったのだ(p9)

かつて道…今は道ではないということ。硝子はむこうが見えるのに行けない行き止まり、というふうにとらえると、かつて道だった、かつて道として続いていたところへ、今はもうそれが記憶として(すりガラスの景色のようにぼんやりと)望めるだけで、もう行くことができない、道ではなくなってる、ということじゃないかと思います。
かつて道だったものが今は道ではない、というのは悲しいことですね。
短歌が道のようなものであってほしい私には、道のことをうたった歌はすごく気になるので、これはまして「かつて道だった」なので、気になる歌です。

それから次は

今は一つの光となって「先生にいい子って思われたいんでしょ」(P29)

一種の倒置。「先生に~」はひとつの台詞、あるときだれかが口にした言葉の再現ととれる。そこには先生とこの台詞を語っている人、そしてこの歌じたいの話者(台詞を言われている者)の三者の関係がうつしとられている。
この三者の関係はなんかギスギスした、身を置くと痛いような関係だと思うんだけど、「今は一つの光となって」という、それとは対照的な現在を読んでから読むことで、その痛みにべつな痛み、ある甘い痛みのようなものも加わってきますよね。で、それは現在から過去に向けた視線が見出す痛みなんですが、時間的にはそこからまたぐるっと冒頭の「今」にもどってくる。そういう痛みと甘さの円環のようなものができてる、とてもせつない歌だと思います。


それから次は
これはすみません、太字になってる部分を再現するの忘れてしまって。
本のほうを見ていただくと正しい表記が分ります。


北極のように感極まった未来のなかで 陛下は
鉛筆をもどす シースルーゴンドラにたくさんの性交が貼りついている 笑顔が
夜空を持ちあげている 名前という名の天使
表面がプールなっているきみの星 目立つ傷のない
赤色の自動車とともに眠って 眠れないわたしに話しかけている
君と君のバースデイは2日ちがいで 遠慮をしないでほしい、let や make といった動詞をみていると 恐ろしい力ときみの力の貝合わせで
文節のあいだで持ちあがり 夢みること 及び 申し訳ありませんが 子供の日には開館しておりません
心して当日をむかえたら どうか わたしにも知らせてください
(p43)


これが一番、ほかのいくつかの歌とあわせて読みたい感じだったんだけど。
いちおう単独で見ますと、三行目に「名前という名の天使」、六行目に「君と君のバースデイ」とあります。
それを頭に置きつつ、七行目になるのかな、「恐ろしい力ときみの力の貝合わせで」とありますね。

貝合わせというのは、貝でやる神経衰弱みたいな遊びかな、そういう意味がたぶん元だと思うけど、ここは女性同士の性技のほうで取りました。つまりたとえば「光と陰」とか「天と地」みたいにコントラストを描きつつ一組になってるような、そういう言葉のペアとは対照的なものとして、同じ言葉を二つでペアをつくったり、あるいはいっけん意味がだぶってるような(名前という名の天使)言葉の使い方ですね。

そういうことがあったとき、その同じ言葉でも置かれてる位置は当然違うので、前と後だったり、そのことで何か、役割の違いのようなものが生じてくると思うんです。「名前という名の天使」だったら「名前」は固有名詞で「名」は一般名詞ですね。「君と君のバースデイ」のほうはそんなはっきりとはわからないけど、やっぱり、後の方の「君」は「君のバースデイ」までで前の「君」と併置されてるようにも見えるし、そういう微妙な光の当たり方の違いみたいなのが起きて、同じ言葉がべつな表情を見せる。そういう言葉の使い方が「貝合わせ」という言葉にふっと言い表されてる、そんな感じで読みました。

ふつう言葉と言葉がつなげられる、関係させられるとき、どこか男女の性器結合的な表情を見せやすいと思うんです。ここではそうじゃないかたちが示されて、試されていて(この本の中には同様の歌がいくつかあって、同じ作者かなと思うんですが)、そこに自己言及的に「貝合わせ」という言葉が出てきてる、そんなことを思いました。



火刑絶えて久しく麺屋〈一蘭〉の行列になら
ぶ人々に雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪そんなにぼうっとつったってないでね
えにいさん、よあけのゆきはもえるごみかな
(p48)



これは好きですね。
雪という文字が降る雪をかたどり、二首の間を埋めるその量が時間や空間を読者に経験させる感じ。ドラマチックです。短歌をつかってつくるドラマチックな表現として、なにか、一回限りのかたちみたいなものが発見されて、つかわれてるという気がしました。


『町』は第一号がすごく魅力的な困惑を読者にあたえる、ふりまくことでスタートしてて、その困惑がその後の『町』に読者をひきとめる魔法みたいになっていたように思うんです。対するこの歌集の困惑は、第一号のようにこっちの胸ぐらを掴んでくるような魅力ではないんだけど、何か放り出されてしまったような困惑ですよね。

第一号でその場に引き止められて、それから次々と変わる景色を見せられてきて、最後にその場に置き去りにされてしまったような。だから第一号とこの歌集『町』は、『町』というひとつの体験を挟んで、困惑と困惑なんだけどなにかちょっとずれのある、そういう始まりと終りの体験になっていると思います。





歌集『町』二十首選(我妻俊樹)

磨り硝子の面に光うつろわせ私はかつて道だったのだ (p9)
かみなりを口に含んで 家具と春と夕焼けをつるす わたしとドアに (p13)
魂や心を売った人としか話したくない/夏になると人形や家も家出する (p15)
駐車場にむかうと心がひとつずつ死ぬ。変態。いい子にしてたらね。 (p17)
川底の泥をすくって孤高なるシンガー・ソングライター、遭難 (p21)
うん いいよ さっき流した トイレットペーパーがまた 浮かんできてる (p25)
音楽から叱っても賢いうさぎ 最晩年と最晩年に (p28)
今は一つの光となって「先生にいい子って思われたいんでしょ」 (P29)
きらきらと輝いている街路樹の片手で覆い隠せる範囲 (P34)
もみじ葉を銀河のように散りばめて一瞬の秋に立ち尽くす庭 (P35)
夢に血の雨が降る金星として歩いてくるあのふとい足は (P38)
そういえばこれくらいの小さな地球儀をあなたはいつか怖いと言った (P42)

北極のように感極まった未来のなかで 陛下は
鉛筆をもどす シースルーゴンドラにたくさんの性交が貼りついている 笑顔が
夜空を持ちあげている 名前という名の天使
表面がプールなっているきみの星 目立つ傷のない
赤色の自動車とともに眠って 眠れないわたしに話しかけている
君と君のバースデイは2日ちがいで 遠慮をしないでほしい、let や make といった動詞をみていると 恐ろしい力ときみの力の貝合わせで
文節のあいだで持ちあがり 夢みること 及び 申し訳ありませんが 子供の日には開館しておりません
心して当日をむかえたら どうか わたしにも知らせてください(p43)

はまぐりを水に沈めてしばらくは二月が君の住む窓である (p45)
新月がまた新月になったとき裏返すべきカセットテープ (p46)
ちからあるうさぎとねむるあめのひに心のようなおつりを よいしょ (p47)
人差し指 解雇しますと両親に告げる夢より覚めてそれから (p47)

火刑絶えて久しく麺屋〈一蘭〉の行列になら
ぶ人々に雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪雪
雪雪雪そんなにぼうっとつったってないでね
えにいさん、よあけのゆきはもえるごみかな (p48)

20年前の明かりが手を広げおとずれる廊下で蝉が寝ている (p68)
東京とあなたが言って東京のあらゆる本は薄目を開けた (p71)
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