昨日(12日)のブログ写真で、わが家のCDラックにのっているのは、ヒマラヤ・エベレスト周辺の地形模型です。
何ひとつとして、かなわなかったのですが、子どもの頃、なんとなく思っていた夢みたいなものに、エベレストに登りたいと南極越冬したいがありました。私らの子ども時代のトピックスだったわけです。
なお、エベレストは英語名で、中国語ではチョモランマ、ネパール語ではサガルマタです。
大人になって、エベレストや南極に、私の知人が行ったり、あるいは行った人が知人になったりして、夢を実現したいという、もっと固い意志があれば、実現できたかな、と思うのです。今ごろ思ってももう遅いのですが。
先人の指導・教育が大切だとか、子育ての教訓に繋がることかも知れません、というのは、ちょっとオーバーでしょうか。
人生をリセットし、自由を取り戻した時、まず考えたのがエベレストを見に行くことだったのです。伝統ある大学山岳部や先鋭的な社会人山岳クラブに所属したことがなく、仕事をやめてまで行動する勇気もなかった、ただの山好きでしたが、本好きと重なって、エベレスト登頂記は、ほとんどすべてを読んだと豪語したくなる(!)机上登頂者ではあったのです。
1ヶ月ほどの、ネパール放浪最後のクライマックスに、エベレストを見ようと、通称エベレスト街道を歩きました。ナムチェバールで初めてエベレストを遠望、そして登山隊の多くが、荷物と高地順応のため身体を整えるタンボジェまでいきました。ここでも、エベレストは遠望でしかありません。
しかし、まわりの峰より少しだけ高く、いぶし銀のエベレストがありました。日の出前、霜で真っ白な小屋の前に立つと、胸にきました。
10月末のここらは、午後2時すぎると急に冷えてきます。その中、加藤保男の追悼慰霊碑を訪ねました。1970年の日本隊初登頂の後、1973年秋に初登頂した栄光の加藤保男(大宮の人)です。1982年に厳冬期の世界初登頂を成功させ、帰路に帰らぬ人になったのです。 33歳でした。エベレストに向いているとはいえ碑には、心底寒々しいものを感じました。
私は、ここに立つのが目的であったわけではありません。翌朝、各国の連中が6000mあたりを目指して颯爽と登っていきます。私にその予定と準備がなく、独り引き返しました。まるで敗退のような、さびしさがつのる帰路となったのです。
【おまけ】
*今では、エベレスト登頂ツアーすらあるようです。6*歳でも登ったなんて報道がされます。送られてくるツアー会社のパンフレットを見ながら、エベレスト・ベース・キャンプまでは、行きたいな、まだ行けるかなと思ったりします。
*このブログを書きながら、書棚から加藤保男の本をひっぱり出してきました。見事な人生です。もう一度読んでみようかな、と思います。
*その中でも、加藤保男が遭難した“日本冬期エベレスト登山隊”の報告書の“薄さ”が、涙と感傷を誘います。成功していたら、ぐんと厚い報告書になったに違いないのです。