吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

曲名は大事なのだ・・・けれども・・・・

2021-11-10 | 思うこと
曲名は大事なのだ。
何故ならば題名によってその曲が聴いてもらえるのか、そうでないか、ということに影響を及ぼすことがあるから。

今度作った曲の題名は「やせ犬バラード」、「夕焼けのバラード」、「野良犬ブルース」という仮題がある。

今日、もうひとつの仮題を思いついた。
「ちんぴらブルース」という。

ちんぴらというのは街でうろついて悪さをする若者のことを指す。
どうしようもない輩と言えば、そうなのだけれども、ちんぴらにもちんぴらに成るだけの理由があってちんぴらになって居るのだと思うと、ちんぴらを一方的に悪く言えない。

しかし、この曲はアルトリコーダー、テナーリコーダー、ピアノ、そしてオプションとして打楽器の入る曲である。
様式としてはポピュラー音楽らしいものであるけれども、全ての声部においてクラシックまたはバロックの素養のある奏者でなければ演奏不可能であるほどの技術的水準が要求される。

やはり、野良犬とか、やせ犬、ちんぴら、などの言葉は演奏会のような場ではふさわしくないように思える。

もし、この曲が演奏されることがある場合にはきちんとした音楽的な訓練を受けて来た奏者がその任に当たることになるはずなので、ある程度の品格のようなものが題名にも必要なのでは、と思う。

明日の日本時間21時30分からユーチューブのライブ配信にてこの曲を発表する予定なのだけれども、その時までには題名も決めたい。

単純に「リコーダー二重奏とピアノのためのバラード」(オプション:打楽器)というようなものが良いのかもしれない。

書きながらもうひとつ思いついた。

「ろくでなしのバラード」というのはどうだろう。

でも、どこかにありそうな題名だ。

昔の録画で指揮者・作曲家のバーンスタインが言ってた。
「曲の題名というのは飾りみたいなものだ」

そうなのだろう。
単なる飾りに、あんまり凝ったものをつけすぎるのも良くないのかもしれない。

こんなことでいろいろ頭を使うのも、後になったら良い思い出になるのだろうか。
「わしもなあ・・・・・・昔はなあ・・・・・・題名なんぞにいろいろ凝ったりしておったもんじゃが・・・・・今となってはなあ・・・・ずずずずず(お茶をすする音)・・・・・昔のことは・・・・懐かしいもんじゃの・・・・・ふがふが(入れ歯がずれる音)・・・・・」みたいになるのだろうか。

やせ犬バラード(仮題)メモ11月9日

2021-11-09 | 音楽制作覚書
昨日は打楽器を録音してみたけれどダメな感じが結構残っている。
サンプリングしてオーディオデータをうまく並べてみたつもりだったが、すごくわざとらしい箇所が何カ所もある。

わざとらしい、というのは「小賢しい」(こざかしい)ということ。

音楽の場合、途中で1カ所でも「これ、小賢しい」と聴き手が感じてしまえば、その後に聴き続けてもらうことはほぼ不可能。

なのでこれはダメ。
ダメなものはダメ。
どんなに修正繰り返しても、根本的な態度が間違ってる時にはダメなものが良くなることはない。

良くなかった原因は多分、シンコペーションを多くやり過ぎた。
実際の演奏の場合には、例えばドラマーがフレーズとフレーズの継ぎ目に何かやる場合には変わったリズムや変わった音色が出てきて、それがうまい具合に新しい箇所のつなぎとして働く。

でも昨日はリズムに変化つけようとして、シンコペーションをのべつ幕なしにやってしまった。小賢しい。
フレーズの継ぎ目ではなく、フレーズの途中でそれをやり過ぎると変化はつくけれども、技巧だけが前面に出てくるような感じになってしまう。

それをやってしまった。
サンプリングでやっているわけだから、そのあたりのところはもっと冷静に計算しながらやるべきだった。

もうひとつ。
今使っているケルト地方の太鼓は湿気が多い日には太鼓の革がダブダブになってしまうので、ドライヤーで乾かしながらやる。
乾かし過ぎると甲高くて嫌な音になるし、湿気が多すぎるとダブダブな音。
その中間の加減が難しい。
サンプリングで考えなしに混ぜてしまったので、不自然に高い音と緩い音が出て来てしまった。それもすごく近い距離で。

耳のある聴き手にかかったらこんなのは一発でばれてしまう。
「あ、この打楽器、変。サンプリングでやってるな。その割にはまとまりがない。詰めが足りない」というような印象になる。

なので今日もう一度やってみよう。
小賢しくなるくらいだったら、下手な奏者が一生懸命にやってるほうが100倍も良い。
縦の線やニュアンスがどうあっても。

今進めているのは録音が最終型なわけだから、むしろ、そういう「ずれ」とか「勢い」とかそういうものが出るようにするのが良いはず。
綺麗にまとまってしまうのは当たり前過ぎるから。


やせ犬バラード(仮題)11月8日メモ

2021-11-08 | 音楽制作覚書
自分で自分を信じながら進む、なんてその辺によくある安手のスピリチュアル系の売り文句みたいだ。

でも、作りながら、その途中で作っているものの一時的または表面的な聴こえ方にげんなりしてしまうことはあるから、安手のスピリチュアルだろうが、何がろうが、進むべき時には進むしかないのだ。

作り手が制作の途中で、げんなりしようが、どんな気持ちになろうが、聴いてくれる人にはそんなことは関係ないのだ。
結果として良い音楽が出来ればそれだけで良い。

さっき、ふたつのリコーダー声部とピアノはだいたい録音できたので打楽器(ケルト地方のボードラン)を重ねてみたら、全然ダメだった。

ヘッドホンから聴こえて来るリコーダーとピアノと一緒に打楽器の音だけ録ってゆくのだけれども、ものすごく自己満足なリズムになってしまった。
縦の線は合っていないし、強弱やその他のニュアンスもダメだった。

生徒さんのレッスンの際には「ダメ」なんて言葉は使わないようにしているけれど、自分の音楽制作に関しては別なのだ。
ダメなものはダメだ。

ダメはものはダメなんだからそれはどうにかして良い方向に持ってゆかなければいつまでたってもそのままなのだ。

打楽器が下手だ、ということもある。

でも、それ以上に打楽器を甘くみていたのが良くない。

打楽器なんてそれこそ、ものすごい経験と訓練を経て来た奏者だけがちゃんとしたリズムを叩き出せるようになるようなもので、僕みたいなのが即席で適当にやって出来るはずはない。
今度の曲は単純なところがあるから、単純なリズムこそ難しい。

今度の打楽器は大幅に方針を転換しようかと思う。
部分的な材料だけ録って、あとはそれをコンピューター上でつなぎあわせたオーディオデータを並べる。
要はサンプリング。

少し時間がかかるけれども、生の打楽器を何回も間違えながら繰り返し、録りなおすよりはこっちのほうが速く進む。

やせ犬バラード(仮題)メモ11月7日

2021-11-07 | 音楽制作覚書
書いている曲が未来、誰かに演奏してもらえるような曲になるかどうか、ということは作り手自身にはそれについて何らかの影響力を持つことは出来ない。
このことをよくわきまえるのが良い。
何らかの原因でなかなか演奏してもらえないようなことになっても、それはもうそれで良いのだ。

でも、これから録音するものや楽譜の質については作り手がエネルギー注ぎ込めるところだからそこはしっかりやること。

作り手としての自分自身がどんなに頑張っても仕方ないことについては、もう、それは本当にどうしようもないのだ。

人には生まれつきの環境みたいなものがある。
それぞれの人によって大きく異なる。
恵まれた人もそうでない人も居る。

多分、同じ作り手から生まれてゆく曲であっても、その時の状況によっては多少なりともそのような違いが出るのでは。

仮にそういうものがあったとしても、作り手自身はそこまでは制御することは出来ないのだ。

昔の偉い人はそういうものを「他力本願」と言った。
だとしたら、これ、なかなか今にも通じる在り方では。

だって、他力に頼る前の段階までは全部、自分でやるしかないわけだから。
それこそが作り手の技量の見せ所なわけだから。

やせ犬バラード(仮題)メモ11月6日

2021-11-06 | 音楽制作覚書
金曜日と土曜日は大学の授業とレッスンで費やさなければいけないのであまり進まなかった。
隙間の時間のなかで進めながら、今5分20秒地点まで来た。
題名も仮題ではなく、ちゃんとしたものにしなければ。

作り手の思いがどうあろうと、聴いてくれる人が感じてもらえるかどうか、ということが大事なわけで、あまり凝った題名もどうかと思う。簡単で覚えてもらいやすい題があれば、もうそれで良いや。

最近作っているのはポピュラー音楽の様式なので、こういうものあまり好きじゃない人からは全然見向きもされないタイプの音楽だと思う。

でもそれは良いことにしよう。

皆、それぞれ好きなタイプがあったり、そうじゃないタイプがあったりするからそれは良いのだ。

でも、作り続けるなかで自分なりにわかることもある。
そのなかのひとつ。
世の中には「芸術的」な装いをしているけれど、あんまり芸術的じゃない音楽もある。

そうじゃなくて、ポピュラー音楽的だったり商業的な装いだけれども、耳コピーしてみたり分析してみると、ものすごい精緻な技の施されている音楽もあって、そういうものは少なくとも作曲技法上は芸術的であると言わざるを得ない。

明日はとりあえず仮録音を最後まで終わらせて、録音の最終型に至るまでの準備を終わらせたい。
残りはもうそんなにないから、明日の内にいいところまで進めるのではないかと思う。

書きながら題名、思いついた!

「夕焼けのバラード」なんてどうだろうか。
なんだかどこにでもありそうな題名だな。もうすでに誰かが作ってるかも。
でも題名には著作権は適用されないから、人の作品の題であってもそれは問題ないみたいだ。

問題は作品それ自体。

もしかしたら、大多数のリコーダー愛好家の皆さんからはあまり好かれないタイプの曲かもしれない。
でも、それはもう仕方がない。
そんなこと心配するヒマがあったらそのエネルギーを作るエネルギーにしよう。

2001年に日本に帰って来てからもう20年もたってしまった。
あっと言う間だった。
多分、これからはもっと時間が速く過ぎてゆくのかも。

誰にも演奏されない曲書いても意味ない、
歴史に残らない曲なんか書いても作曲者としての存在意義がない、
なんて、そんな考え方もある。

授業の時やレッスンの時にはそういう風に言わなくてはいけないこともある。

でも、そんな綺麗事みたいなことだけで曲が書けるくらいだったら世話ないのだ。
そんなこと、知ったこっちゃないのだ。


やせ犬バラード(仮題)メモ11月3日no2

2021-11-03 | 音楽制作覚書
再現部の直前に来るドミナントペダルの部分は8小節という寸法だったのだけれども、16小節に拡大することにした。
ピアノでペダルを奏しながらアルトリコーダーとテナーリコーダーで5度のカノンを展開する。

これだけだと対位法の宿題みたいだけれども、これを実際どの程度まで音楽として聴くに耐え得るものに仕上げることが出来るのかどうか。

ここまで作った分を前半の8小節にして後半の8小節を書き足せばこの箇所はとりあえずひと段落する。

前進あるのみ。

やせ犬バラード(仮題)メモ11月3日

2021-11-02 | 音楽制作覚書
仮の録音は今4分20秒地点。
そんなに長い曲にはなりそうじゃないから、その点は良い。

今日とりかかるのは再現部の直前にあるドミナントペダルの部分と再現部。
もし行けそうだったらコーダまで書いて録音。

仮録音する際にいつも、気を付けたいことがある。

「仮録音だから適当で良いや」なんて思って音質や演奏の質についていい加減な態度でやっつけてしまうと、作品それ自体もいい加減に聴こえてしまう。
その結果、「何だ、これ。つまらん曲」みたいに感じてしまいかねない。

この時点で楽曲としての質と、音質・演奏の質という違いが自分で区別できなくなってしまい、どちらもダメだ、と思い込んでしまう。

これ、制作する時点ですごく気を付けなければいけない。

仮録音はあくまでも仮録音。
本質はそこではなく、あくまでも楽譜の側にあることをいつも忘れないこと。

ドミナントペダル、これ適当に書こうとすると本当に適当にただ、音が並んでいるだけでもなんとなくそれらしく聴こえてしまう。
でも、これやってしまうと作曲作品としては失敗する。
即興演奏の記録のような体裁をとればそれは大丈夫だけれど、作曲としては失敗。

つまり、作曲作品としては「聴いて面白い」だけではダメなのだ。
「分析しても面白い」という側面がどこかになければいけない。

でもJ.S.バッハみたいな対位法の技術が僕にあるわけではないから、おのずから限界はある。
でもその限界のなかでギリギリそこまでやろうとするのか、それこそ適当に終わらせてしまうのか、ということは違う。

そしてその違いは結果として実際の音に現れて来る。

ここを乗り越えたら、あとは再現部があって、短いコーダ。
少しずつ最終型が近くなって来た!