吉嶺史晴のブログ

リコーダー奏者吉嶺史晴のブログです。演奏活動ならびに鹿児島市で音楽教室を運営しています。

アンコールの曲

2019-03-28 | 日常雑記
5月24日の演奏会アンコールの曲の楽譜を書いています。
一度ユーチューブにアップロードした曲を主旋律、ヴィオラ・ダ・ガンバ、チェンバロのために書き直しているところです。

書き直してひと段落しながら、まだマタイ受難曲のこと考えています。
楽曲それ自体のことや、共演者の皆さん、指揮のハイルマン先生、そして裏でささえてくださった智子先生、京子先生、スタッフの皆さん。
本当に沢山の方々のチカラがひとつになりました。

練習中、そして4回の本番を通していろいろありました。
ここではあまり細かく書けないのですが、それらも宝物になりました。

音楽的にはいくつかの発見がありました。

僕が今まで多分、小さな自分自身の周辺に起きて来た経験上から得た題目みたいなことがいくつか壊れました。

そのひとつは「どんなにテンポが遅くてもある程度の前進するチカラは保たれていなけれならない」というものです。

でもそれはもしかしたらちっぽけな思い込みだったのかもしれない。

例えば今回の公演を通じて、受難曲第2部でイエスが息をひきとった後に歌われるコラールがあるのですが、それは音量も極めて小さく、しかもテンポも遅いものでした。器楽はなし。

音楽が前進する最低限のチカラがそこにはなかったのでは、とハイルマン先生の演奏解釈に触れたときに僕はそう思いました。「これは音楽として成り立っていないのでは」と僕は思ってしまったのでした。

でもそれはそうあるべくしてそうなった必然性がハイルマン先生のなかにはあったのだろうと、今となっては思います。
で、あの時の舞台ではハイルマン先生の指揮のもとに歌う、という必然性がひとりひとりの歌い手のなかにあったからこそあのような表現が可能になりました。

最後の岡山公演ではそのコラールの一番最後の音は期せずして本当の純正三和音が成り立っていたように僕には聴こえました。
練習を通して、純正の三度を正確にとる、というようなことはさほど強調されていなかったとしたら、そこで起きた響きはひとつの奇跡のようなものだと僕には思えたのでした。

僕などが思うこと、書くことなどちっぽけなのですが、それでも書いておきたいです。

演奏の世界では「最先端」とか「周回遅れ」とか、いろいろな言葉でその演奏のクオリティが評価されます。学問的な成果を積極的に取り入れるという点において、いわゆる「ピリオド奏法」というものは一定の成功を収めました。

しかしそれはそれ、これはこれ。
これはこれ、それはそれ。

ピリオド楽器使っていても、ダメはものはダメだし、モダン楽器であっても良いものは良いです。
ロマンチックなヴィブラートつかってるからダメだとか、良いとか、そういうものではないです。
前進するチカラがあれば良いというものでもないし、だからと言って前進するチカラのない演奏はやっぱりダメです。

こういうこと書いたり、思ったりしている時点で自分自身を青臭いと思います。
でも、そういう人が居ても良いのではないか、とも思います。

最後の岡山公演は3月24日でした。まだ4日しかたっていません。
でももうずいぶん昔のことみたいに思えるのであります。

でもずいぶん昔のことの割りには僕のなかにその記憶がまだ昨日のことのように、あるいはたった今、終わったばかりのことのように、その記憶が残っているのであります。


余韻

2019-03-27 | 日常雑記
マタイ受難曲連続公演終わりました。
まだ余韻が残っています。職業的に音楽に携わって来ているのにこんなことは珍しいです。多分、初めてです。

標題音楽は絶対音楽より劣っている、とかヨーロッパは行き詰まっている、とか、そういう言説がどうでも良くなりました。

ハイルマン先生を通じてヨーロッパの音楽の底知れぬ大きさとか、くちはばったいですが宇宙がこうして動いている有様とか、人間のどうしようもなさ、とか、でもそれでもやっぱり人間って捨てたもんじゃないんだよ、とか、そういうこととか、僕の個人的なアイディアですが、会いたくても会えない人のこととか、いろいろな思いがいっきに沸いてきました。

その余韻がまだ残っています。

声楽に詳しい人によると大学生がマタイ受難曲全曲演奏成し遂げる、というのは普通は有り得ないような出来事らしいです。
とにかくその人に言わせると国際大音楽学科の声楽の水準は日本でも指折りのところにあるらしいです。

声楽の詳しいことはよくわからないのですが、僕にとってはやっぱり、生きているというのは良いものなんだよな、ということが自分の内側から沸いて来て、それが不思議なのであります。

生きていると、格好悪いことも多いです。へんな音だしてしまったり、とか、口では偉そうなこと言うくせに、自分では出来なかったり、とか、いろいろあります。

個人的なことで恐縮なのですが、僕の音楽人生は2019年3月のマタイ受難曲でビフォア、アフターみたいになりました。
うまく表現できれば良いのですが。

追伸:
受難曲のなかにはいろいろな登場人物が出てきます。
一番どうしようもない奴はユダです。
イエスを役人どもに売り渡してしまった奴です。
でも僕自身はこういう奴に共感できる部分があって(何故ならば僕もどうしようもないところが多々あるので)、そのあたりのところも他人事とは思えないところがありました。

音楽的に見てみると対位法書法の宝庫です。それだけではなくイエスが十字架にはりつけられる場面(アルトのレシタティーボ)では20世紀を思わせる無調的な音の動きが連続します。これはおそるべきことです。

マタイ受難曲と過ごすことの出来たこの時間のこと多分、ず~っと忘れないと思うのであります。
有難うございました。


東京は

2019-03-25 | weblog
今回2泊しただけなのですが東京はやはり活気があって良いです。
神戸と岡山ではあまり時間がなかったのですが、東京ではほんの少しだけゆっくり出来る時間があって、浜松町あたりで美味しいものを食べられて良かったでした。

次の東京での演奏は東京リコーダー音楽祭2019です。
8月24日の午後の公演で新作を発表する予定です。
https://tokyo-recorder.com/

今のアイディアは以前書いた「ララバイ」に前奏曲を書き加えてひとつの作品にするというものです。
阿修羅が乱暴狼藉の限りを尽くして、銀河鉄道999のメーテルみたいな観音様に出会って改心して平和の世界に辿り着くという筋書きです。

平和の世界の部分はもう出来上がっているので、そこに到達するまでの迷いの世界を無伴奏テナーリコーダーで表現するという点が課題です。

すでに出来上がっている部分をそのまま使うと得てして、つぎはぎだらけのみっともない曲になり勝ちなので、そのあたりのところをどうするのか、というところを考えています。

その前には5月に加治屋町教会で演奏会がありますので、そちらの準備も始まります。

マタイ受難曲公演終了しました

2019-03-25 | weblog

J.S.バッハ作曲マタイ受難曲全曲演奏会、鹿児島、東京、神戸、岡山の4公演全て終了しました。
各地で高い評価をいただき演奏者としては嬉しい限りです。
声楽に詳しい知人の話によると大学生、大学院生の水準でマタイ受難曲の全曲演奏を成し遂げるというのは画期的なことであるとのことでした。

写真は東京公演の第一生命ホールで休憩時間に調弦しているところです。



新鮮味、あるいは必然性のない「現代奏法」のようなもの

2019-03-22 | 音楽制作覚書
作り手にとって新鮮味のない「現代奏法」というようなものの存在。

たとえば必然性のないところに書いてあるフラッタータンギングや重音奏法などなど。

こういうようなものはそこにあれば、あるほど、聴き手を「しらけさせる」。

ということは???

考えかたとしては・・・・・必然性があれば、いわゆる「現代奏法」はそこにあっても良いというか必要。

ということはさらに考えを進めるならば、そのようなものを曲のなかに盛り込むためには、そのようなものが必要とされる必然性を内包している様式で曲を書くことが必要。

明日から

2019-03-19 | 日常雑記
明日から東京、神戸、岡山へのマタイ受難曲演奏会に行って参ります。
お昼頃の飛行機で鹿児島から羽田空港に飛びます。

午後、都内ですこしだけ用事をかたづけて宿泊先に向かいます。

この間、2019年が始まったと思ったらもう3月も後半、4月になります。
今年は年が明けてからずっとマタイ受難曲に明け暮れていたようでした。

ここまであわせの練習が3回、そして鹿児島公演があっただけで、共演者の方々と一緒になる機会はさほど多くないのですが、ヴィオラ・ダ・ガンバの2曲のソロと通奏低音と楽譜の分析などで頭のなかがず~っとマタイ受難曲です。

思えば多くの方々に助けられています。
少しでも恩返しできたら嬉しいです。

演奏で恩返しできる機会が与えられているのは演奏者としては幸せです。

でも歳とったり、何かの事情で演奏できなくなる日も来るのは避けられないから、今だけ、ほんの短い時間だけしかないのだと思います。

東京と、神戸と岡山で演奏したらもう、この曲を演奏できる日はもうずっと来ないかもしれないとも思います。

鹿児島公演の後で「副科の楽器にしては上出来でした」という言葉をある人からもらいました。
悔しかったです。
言葉をもらえるのは嬉しかったけれど、悔しかったです。

でも僕みたいなのがこんなこと言っても言わなくてもマタイ受難曲の素晴らしさは変わりません。

日付が変わるまであと少し時間があるのでもうちょっとだけ練習して、今日はひと段落です。

ひと段落

2019-03-18 | 日常雑記
マタイ受難曲鹿児島公演が終わってひと段落です。
次は東京、神戸、岡山です。

水曜日の飛行機で鹿児島を出発して次の木曜日から公演が始まります。
今回のマタイ受難曲は全曲演奏です。
私は第2部から参加します。

鹿児島公演では修正するべき点も見つかったのでその点は良かったです。

どうしてもガット弦が狂ってくることがあるのですが、そのような際には曲と曲の間を狙ってほんの数秒くらいで狙いを定めて調弦するという技も必要になって来ます。

コラールを全体で演奏しながら全体の音にまぎれこんで狂っている弦とそうでない弦を見分ける技など。。。

低音側の3本はスチール弦なので最初に良く調弦されていれば狂って来ることは少ないですが、なんらかの原因でペグが徐々に緩んでくることもあるようなので、ガット弦を調弦する時よりも強くペグを押し込みながら回す必要があるなど、細かい点がいろいろあります。

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今日は練習の合間に今回のマタイ受難曲のプログラム(4公演共通)を読んでみました。
読んでいるだけでなんだかちょっと胸が熱くなって来てしまって困りました。

ヴィオラ・ダ・ガンバのソロ2曲めは「来たれ、甘き十字架よ」というアリアで、イエスがゴルゴタというところに十字架を背負いながら歩いてゆく場面です。

水曜日にはもう鹿児島から東京に移動するので練習できるのは今日と明日だけです。

例によってチカラを入れたり抜いたりしながら音を出す練習を続けています。
自分で「ガリガリ~」、「スカスカ~」、「タップリ~」なんていう弾き方の名前をつけてみました。

「ガリガリ~」は右手に余計なチカラが入っていて圧力がかかりすぎている音
「スカスカ~」は余計なチカラが入っているのだけれど、圧力が足りなくて中身のない音
「タップリ~」は余計なチカラが抜けて圧力もちょうどの良い音

まるで楽器を始めたばかりの初心者の練習みたいなので、さすがにバッハの曲でこういうことをやるわけにもゆかず、単純な音階練習や分散和音の練習を続けています。

明後日は東京に移動してその後からマタイ受難曲公演、東京、神戸、岡山はじまります。

昨日は

2019-03-16 | 日常雑記
昨日はマタイ受難曲の鹿児島公演でした。
全体としては良い出来だったようです。
御来場の方々から高い評価いただきました。

私自身のヴィオラ・ダ・ガンバは反省点を踏まえてより良いものになるようここ数日で最後の練習をしたいと思います。

演奏会の曲を繰り返し練習するというよりはちょっとこここでほんの少しだけ基本に戻ってみます。
拍を決めて「ぎゅ~っ、ふわ~っ」(2拍ずつのパターン)、「ぎゅっ、ふわっ」(1拍ずつのパターン)で脱力の練習などなど。

時々、弱音が出そうで困ります。
演奏の際、うまく脱力できるおまじない、みたいなものがどこかにないだろうか???
そんなこと半分、本気で考えたりしそうです。

普段の建前として「演奏に関する事は演奏で解決しなきゃダメ」なんて自分に言い聞かせているつもりだったのですが、まだまだです。

おまじないで良い演奏できるんだったらこの世の中は良い演奏者だらけで溢れているはずです。

格調高いJ.S.バッハの音楽を私ごときのヴィオラ・ダ・ガンバ練習曲にしてしまうのはあまりにも恐れ多いことなので、今日と明日はメカニックな音階と分散和音で「ぎゅ~っ、ふわ~っ」の練習します。

ただの音階練習は格調高くないのでラクです。

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昔のこと思い出しました。

「自分を他人として見てみること」。つまり自分自身が必要以上にしんどくならないように自分を自分で助けること。

そんなこと教えてもらったことがありました。

モダンオーケストラの中で調弦する(技術的な事柄)

2019-03-16 | ヴィオラ・ダ・ガンバ
モダンオーケストラの中でひとりヴィオラ・ダ・ガンバ奏者が他の奏者と同じような時間のなかで調弦するのは私の経験上、不可能です。あまりにも時間が短すぎます。

通常、オーボエ奏者が基準になる「ラ」の音を出して、それをコンサートマスターが受け取り、全員が各自の楽器の調子を合わせるという運びになりますが、これはほんの数十秒、長くとも1分ほどで終わってしまいます。

この時間のなかだけでヴィオラ・ダ・ガンバを調弦してしまうのは少なくとも私の技術では不可能ということがわかりました。

ということは、この時間は「調弦をする時間jではなく「あらかじめ調弦してあったものの確認をする時間」ということになります。

自分の家で練習をする際にはまわりが静かな環境なのでゆっくり時間をかけながら、それぞれの弦の第2倍音、第3倍音などを使いながら入念に調弦することができますが、舞台上の短い時間で、しかも周囲に音が鳴っている状態ではこのような方法は全く使えません。

普段は音叉1本で調弦することも可能ですが、このような状況では電子的なチューナーの助けを借りることもやむを得ない、というのが今のところの実感です。

休憩時間に舞台上で調弦する時間が与えられている場合、その舞台上が後半と同じような照明なのか、どうか、ということもチェックする必要があります。

休憩中は舞台上が暗く、後半で本番用の照明が当たる場合に、照明がきたらその時から急激に楽器にあたる熱が増えて、弦が下がって来る可能性があります。

例えばJ.S.バッハ「マタイ受難曲」のような曲の場合にはコラールやレシタティーボのなかにまぎれてガンバの調弦の具合をチェックする必要が出てくる場合もあります。この場合には全体の音響に影響を与えないほどの極めて小さな音量で行います。

どのような場合にしてもある程度、長い時間舞台に居る場合には弦が下がって来ることがおおいに有り得るという想定のもと、わざと高く調弦しておくことが必要とも言えます。

経験上、5セント~8セントほど高く調弦しておくと良いようです。

楽器のペグと弦の状態にも要注意です。ペグと弦の調子によっては調弦の際にぴったりに調弦できていたとしても2、3分ほどかけてゆっくりピッチが下がってくることがあります。

やむを得ず低音の側にスチール弦を使う場合には、張力との関係上、ガットの時よりもペグの回転により敏感に反応してしまうので、どうしてもぴったりの高さにあわせるのは難しくなります。

かと言ってヴィオラ・ダ・ガンバにモダンチェロのようなアジャスターをとりつけてしまうのも考え物です。

補足:
ガット弦は狂いやすい、という固定概念のようなものがありますが、その時の会場の温度、湿度、舞台上の照明の具合など、それらの状況によってはさほど狂いません。

ガンバにスチール弦を張るというのはピッチの安定性という点からみるとガット弦の場合よりも安定しているように思えますが、少しのペグの回転だけで急にピッチが上がったり下がったりしてしまうので、このような点からみるとガット弦のほうが調弦作業自体はラクです。

またスチール弦の場合だと張力が強くなるせいか、ガット弦の場合よりも、調弦の際により強くペグを押し込む動作が必要になります。このような点からもスチール弦をただしく調弦するのは難しいということがわかります。

様々な状況から、スチール弦だからということで調弦が安定していると一概に信じ込むことは危険です。

明日は

2019-03-14 | 日常雑記

明日はマタイ受難曲の鹿児島公演です。
ずいぶん先のことだと思っていたのでが時がたつのは早く感じます。
この間、御正月だと思っていたらもう春になりました。

明日はヴィオラ・ダ・ガンバを弾きます。ずっとリコーダーを演奏して来たのでまさかヴィオラ・ダ・ガンバでマタイ受難曲の演奏に参加できるとは思ったことがなかったので嬉しい驚きです。

昨日はKKBの夕方の放送を見ました。
若者たちが世界に向かって飛び立とうとしているところをみて胸が熱くなりました。
日常の雑事に追われているとそんな気持ち忘れそうになります。

マタイ受難曲のあわせの練習は全部で3回ありました。
お昼の12時半から休憩をはさみながら夜9時まで続きました。
合唱やソリストの方々はそれ以前から入念な練習をずっと続けてこられたのだと思います。

鹿児島公演が終わったら東京、神戸、岡山と続きます。
東京公演の前日に飛行機で鹿児島をたちます。

東京が終わったら陸路で神戸、岡山にゆきます。

演奏旅行が終わったらまた日常が始まります。

もうそろそろ桜の季節になります。